市民の動揺を抑える昭和二十年五月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)267
市民の動揺を抑える昭和二十年五月
 七日にドイツが無条件降伏。これまでレジャーを押さえ込んできた新聞が、これまでの方針を変更した報道。戦災や疎開で人々が浮足立っているため、閉鎖した大劇場で低料金の大衆興行、休止映画館の全面復活、上映時間の制限撤廃などを示す。一刻も早く市民の落着きを取りもどそうとしているようだ。
 二十五日、二十六日と渋谷や青山などの山の手が大空襲となった。以後、東京には大規模な空襲はないが、と言うより主要な市街の大半が燃やされてしまったからだろう。これまでの対米戦や大陸での戦況、世界情勢を客観的に判断すれば、もう日本軍の勝利など考えられないはずである。軍部の一部を除いて、戦争継続の意欲は絶たれたと言ってよいのであろう。
 五月は、これまでの流れが変わり始める兆しがあり、その動向を察知し方向転換に動き始めたようだ。まず必要なのは、人々の動揺を防ぐことで、その意味でも娯楽・レジャーの効果が期待される。

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昭和二十年(1945年)・五月、ドイツ無条件降伏⑦、B29約250機による大空襲(24)、市民に落着きを取り戻さすためレジャーの締めつけが緩和する。
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 五月に入ると、浅草では電気館、常盤館、千代田館、木馬演芸場など14館が開館。ロッパは二日新橋演舞場で芝居を見ている。『義経千本桜』を一等4円50銭に税9円も払い、客席に入ると雨天というのに八九分の入りであった。
 新聞は、戦果について書き立てているが、読者は軍が瀕死の状況にあるとは感じないだろう。市民生活に関する記事が皆無のような中、五日付Aの朝刊には、一般疎開は当分中止。「『味噌』『醤油』配給はどうなる」とある。人々の動揺を静めるためと推測されるが、不安が浸透しつつあることを政府も軍も認めているからであろう。
 古川ロッパの日記七日は、「・・・有楽町迄。邦楽座、四円いくら出して入ったが大満員で、監事室へ入れて貰ふ。明朗新劇座といふ、妙な寄せ集め劇団、初めて見るが、何より此処の客の、低級とも田舎者とも、何ともつかぬ空気に呆れる、・・・」
 ロッパの日記八日「・・・ブーと来る。敵はp51小型機の編隊が京浜地区へ入った、と言ふ間に、ドドーン撃ち出した。十二時すぎから、一時頃迄続き、漸く解除。然し、慣れってものは全く恐ろしい。皆、何事もなかったやう。」
 十二日付の朝日新聞A見出しに「生活に潤いと落ち着きを・・・殖える映画封切館」とある。「日毎に戦場の姿を描き出す帝都に踏み止まり断乎職場を護り抜く勤労都民の生活が、戦災や疎開がめぐつてともすれば浮足立ち、寸時も絶やされない平気補給の流れを堰止めるやうなあつてはならない、変貌する都民生活に一刻も早く落着きをとり戻して、戦争一本に徹する不退転の態勢を確立したいといふ町村警視総監の抱負を実現するため、警視庁では決戦生活の刷新をとりあげ特に帝都の食生活と慰楽について再検討を加えてゐたが、乏しい中にも裕りと潤ひをといふ方針でこのほど次のやうな措置を決定、着々と実施することになつた。」としている。
 そして「大食堂を外食者に 工員食堂には料理人を配置」 「殖える映画封切館 罹災銭湯の復活も認める」との見出し。市民が浮足立っていることから、これまでの上からの命令ではなく、市民の要望に耳を傾けようとしている様子が伺える。
 十五日付の新聞Aに、大相撲夏場所関連の記事がある。相撲は、明治神宮への奉納で、無料公開を目論んでいるが、誰を入れるか。
 ロッパの日記十七日、「・・・公会堂(日比谷公会堂)へ行くと、大変な人だかり。かういうものに、飢えてゐるのだ。映画主題歌大会。第一部は、奥山彩子・宮下晴子・志村道夫、豊島珠江の四人が、三曲宛歌う。豊島珠江は、此の前も、乳の見えやような衣裳を着てゐたが、今日は背中まる出し、露出狂なのか。それで若い客はワーワー喜ぶ。」と。
 十九日付には、敵機が去り、空襲警報が解除され、日比谷公園の野外音楽会には何千という人々が嬉々として訪れた。ところが、音楽会をやるのかやらぬのかという説明すらなく、一枚の貼紙さえないまま放置された。ほどなく、集まったの人々は、がっかりして引き返しはじめた。
 二十日付の朝日新聞は、「ドイツ国民は敗戦に呻 ナチス思想を叩き出す弾圧」とある。また同じ紙面に、「涙の溢れる瞳から 大きな微笑 特攻隊を見送る大和撫子」とある。この記事が、どのような意図で載せているか困惑する。
 二十二日付には、「皇国の安危は正に 学徒の双肩に在り」とある。この頃の新聞には、負けている様子は記されず、戦果だけが取り上げられ、それも特攻による成果が多くを占めている。
 レジャー関連の記事が無い中で、二十五日に「奉納大相撲」の初日の取り組みが載っている。
 戦況の悪化を記す記事に、二十七日付で、「昨暁、B29約二百五十機 帝都を無差別爆撃」がある。その様子は、ロッパの日記二十八日、仙台駅「・・・罹災者らしいのが多勢下りて来る。その一人を捕まへて、星が『赤坂乃木坂あたりは』ときくと『ありませんよ、皆』と淡り言はれて、うわーと参る。『渋谷が一ばんひどくて、死人も沢山出た」ときいて、その近くの浪江輝子泣き出し、鼻血を出す。一等も満々員、トランクへ腰掛ける。軍人さんが『麹町は大分ひどいです。東郷坂も、番町幼稚園も』と言ふ。・・・二時間の汽車、石越といふえきで下車。鉱山(細倉鉱山)からのトラックが一台廻ってゐて、それへ三十人が乗るのだから、大変だ。僕は運転手台である。約一時間といふのだから相当である。・・・」と、慰問先でも東京の空襲を心配していた。
 三十日付の朝日新聞には、「B29五百機、P51百機 横浜市を白昼暴爆」とある。人々の動揺を静めようと、三十一日付には「空襲下、揺るがぬ備蓄 食料不安なし 末端の配給にも筋金」との記事が載せられている。