空襲下のレジャー昭和十九年十一月十二月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)262
空襲下のレジャー昭和十九年十一月十二月
 十一月に入っても、新聞の記事は政府や軍部の都合の良いものだけ、当時の状況を古川ロッパの日記から紹介したい。
 十一月六日、「今朝の新聞で昨日の東京空襲は、B29一機襲来、投弾せずとのことでホッとした。・・・高飯村といふ土地の小学校へ着く。教室をぶっこ抜いた会場で、マイクなし、子供ばっかりの千人ばかりの前で、『歌ふロッパ』抜粋版をやる。・・・牛乳やビスケットが出たのはよかったが、肝腎の食事は、期待に反して、芋々々の芋ばかり。食事後、校庭で、東京からの疎開児童たちと一緒に写真を撮る。東京の子供たちが、一目で見分けられた。やっぱりいゝかほしてゐる。が、一緒に写真を撮っても、かなしさうに、なつかしさうに手や足をつかむのだ。こっちも涙を催した。親のところへ帰りたからう、疎開児童に東京の人の姿を見せることは罪だ。
 十五日、「・・・庭の防空壕の水をかいだすので、町会からポンプを借りて、ガチャンガチャンやってゐる。・・・戦争を、こんなに身近にしみじみと感じるのは、全く近頃のことである。今迄の何年間かは、戦争とわれ/\の間には、何の位かのへだゝりがあった。それが、今日は、もはや隣りの出来事となり、家内の出来事となってゐる。」
 二十四日、B29が111機襲来した。北多摩郡武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所、江戸川  区、荏原区、品川区、杉並区、保谷町、小金井町、久留米村、東京港などが、東京での初空襲(サン・アントニオ1号作戦)に見舞われ、死者は224人。以後アメリカ軍は十一月三十日、芝区、麻布区日本橋区葛飾区を空襲する。とうとう十一月には東京が戦場となった。
 ロッパの日記によれば、二十六日「ラヂオ、レイテ湾の戦果を告げるが、東京来襲のB29は、撃墜七機では心細い。・・・ラヂオ『敵機帝都上空にあるも空襲警報発令までは高射砲を発射せず以上』何のこったか・・・」とある。翌日は「一時近く空襲警報。国民服、ゲートル、鉄兜で座布団かぶり、一人庭の水漬け防空壕へ入る・・・ラヂオでは今日も損害軽微と言ってゐる・・・」とある。
 二十七日、ロッパは、東宝現代劇を見に東横映画劇場へ行った。芝居を「見てゝも今にもブーウと来るんぢゃないかという気がするし、芝居てものも、この当分は辛いな」。
 三十日、「帝都には敵は一機も入れない、鉄壁の陣だと誇っていた軍は、何をしてゐるのだ。ラヂオは『帝都上空』といふのに馴れてしまったのではないか。此の惨害を、何うして呉れる。レイテ湾の戦果を感謝する一方、都民は皆、軍を恨んでゐるのに違ひない。
 今朝は、新聞も来ず、郵便も来ない、人生にかういふ日を、かう度々迎へるものか。ラヂオは、今晩B29二十機位の編隊、波状攻撃で、帝都上空高々度より盲爆、数ヶ所に火災、と伝へたのみ。一機も落とせないのか。かくて東京は何うなる?
 十二月に入って、空襲は本格的に始まる。ロッパの日記は、又聞きもあるので信頼性が高いとは言えないものの、市民の心情を伝えるものでもあろう。
十二月三日、「・・・東京は今日午後又々空襲があり、七十機来たとの報に、慄然とす。七時のニュース・・・今日二時-三時、敵機来襲七十機、爆弾と焼夷弾を落とした。これを迎撃して、その十五機を撃墜せり、わが方の損害、例によって軽微とのみ。・・・」
 五日、「朝刊に、敵機十五機撃墜の戦果に、更に五機を加へ、その他三十機に損害を与へたニュース、こんなことで、ひるむ敵でもあるまい、心配は依然たり。」
 七日、「昨日の午後一時偵察機に来り、今晩は三四機が来て、焼夷弾を落し、一ヶ所に火災を生じたとのみ、先づ大したことはないやうなので少し落ち着く。」
 八日、「・・・きけば、今月七・八・九の三日間、興行物は休みを命じられた由。敵に嘲はれる、いやな政治だ。」
 十九日、「ニュースによると、今夜のは少数機来焼夷弾を落し、火災を起さしめたるも、すぐ消したといふことで、間もなく解除。」
 二十五日、「隣組から垣根・塀を取り外せといふ話が出たときいた。近隣と往来出来るやうにしろと言ふのが目的らしい。空襲時の容易には違ひなかろうが、庭などへどんどん他人が入って来たりする生活というものは、考えたゞけで、ぞっとする。日本人は何うしてかう忠義顔をすることにばかり走るのか、何卒、もう忠義なことは分かったから、自分のことだけもっとちゃんとして呉れないか。」
 二十七日、「九時のニュースは、今日の敵機中四十一機を撃墜したと伝えた。やったな、と喜んでいる九時十五分頃、ブーウと又来ました。来たぞ!・・・十時二十分頃、解除となった。」
 二十八日、「昼すぎだったか、ドドンといきなり高射砲の音がした、警報も出ないから、まさかと思ってたら、表から入って来たものが、今B29が上空に悠々と飛んでゐたと言ふ。呆れた。
 二十九日、「・・・皆顔合せれば、たちまち空襲の話、もはや闇も食もない。・・・今日より東横の正月公演前売開始、中々成績よく、行列なりし由。喜んでいる。」
 三十日、「・・・今暁の空襲で、柳橋辺りに焼夷弾落ち、火災大分ひどかった話をきく、実に、悲しい話ばかりで、やりきれない。・・・先日、新兵器による-無人機的空襲-敵本土襲撃の話をきいたが、さてはそれがほんとうだったか、と嬉しい。・・・菊田の話では、陸軍記念日のモットーは、今年は『撃ちし止まむ』であったが、来年はぐっと趣きが変わり、『明朗敢闘』となる由。又今日、海軍さんの意見でも、一月中位に、もっと娯楽は明朗なるべしといふ方針になるだらうと、いふことであった。」
 三十一日、「『では今年の放送を終ります。良年を迎へ下さい』。然し、間もなく『東部軍情報/\』と始まった。敵は京浜地区に侵入、と言ってる間に、ブルーンブルーンといふやうなB29の唸り、カン/\と退避の半鐘。高射砲ドン/\と響く。・・・ラヂオは、新年の祝詞のやうなことを喋ってゐる。それにダブって、ブーンブーンと飛行機の音だ。何たる大晦日、何たるお正月。・・・」

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昭和十九年(1944年)十一月、B29東京を夜間空襲(29)、一億憤激米英撃摧運動を受けてか、市民は空襲警報覚悟でレジャーを楽しむ。
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11月2A 浅草松竹「親分子分」他、新劇物大好評
 8日A 日比谷公会堂「神風特別攻撃隊比島沖海戦」本日特別公開
 11日Y 後楽園にて大相撲秋場所初日、観衆七千余
 20日A 秋場所八日目、初めての満員御礼
 20日A 雑炊食堂を二十四日で廃止、都民食堂に看板替え、420軒、1日55万食
 30日A 煙草一人7本で正月用も特配、酒類値上げ

 一日午後、空襲警報発令、B29が1機東京初来襲。空襲警報が解除されぬまま二日となる。五日にもB29が1機来襲。十日から後楽園で大相撲秋場所がはじまった。空襲警報を覚悟しての観衆は七千余もいた。十八日は休業。翌日、八日目は秋場所初めての満員御礼。

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昭和十九年(1944年)・十二月、七日から三日間学校は休校⑦、空襲警報が日常化するなか、正月公演の前売は中々成績よし。
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12月16日A 日没後の「遮光」は厳禁
  18日Y 餅入り小包の取り扱い中止
  18日Y 映画・演劇昼だけ、正午開館三回興行六時終了
  24日Y 壽ぐ御誕辰、御慶色溢る大内山、朝より都立中等学校生徒等行進

 東京は、空襲警報が日常化している。そのような状況下、「十万坪の錬成地」A②と豊島園の広告がある。日没後の「遮光」は厳禁と、夜間の活動は完全に制限されてしまった。十七日は浅草歳の市であるが催されたであろうか、荷風は、北風が寒く一日外出をしなかった。三十一日の新聞Aでは、エノケンの『天晴れ一心太助』の映画広告が目につく。