江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)266
空襲に麻痺し始める昭和二十年四月
四月の東京は連日のように敵機襲来、空襲があり、米軍が沖縄本島に上陸するニュースが市民にも伝わる。人々は、もっと危機感を持って良いと思うのだが。ドイツの敗戦状況も入っているのに、我が身のことと考えず、困窮生活に甘んじている。東京は首都としての機能が麻痺しかけ始めているが、我慢を続けている。
靖国神社春の臨時大祭は催されるにも関わらず、遺族の招待取り止めている。もう、遺族の招待が出来る状況ではなくなっているのであろう。
古川ロッパは、昭和二十年四月二日の東京新聞に次の意見を掲載している。「われらチンドン屋、古川緑波。こうなってから、実に、こうなってから、われらの滑稽芝居は、娯楽本来の姿に立ち返ることを許された。もはや、国策を説く教訓の書は、要求されずに、お子様の喜ぶポンチ絵本を、提供することを許されたのである。かくて、われらアチャラカ芝居、と蔑称され、低級喜劇(もっとも高級と呼ばれたことも一度ある。それは高級娯楽追放の日だ) と嘲称されたところの、われらポンチ絵本は、今こそ都民の前に、本来の姿で、まみえることが出来るのだ--」とある。 ───────────────────────────────────────────────
昭和二十年(1945年)・四月、米軍が沖縄本島に上陸①、小磯内閣総辞職⑦、数日おきに空襲がある中、映画や演劇を求める市民は少なからずいた。
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4月11日A 釘付けになった疎開輸送 いつまで続く、駅への日参と行列
13日A 上野都美術館で「大東亜戦争作戦記録畫」十一日から展示
16日A 焼けた銭湯で露天風呂の企て
26日A 靖国神社春の臨時大祭、遺族の招待取り止め
一日から、劇場の入場料に二倍の税がかかり、入場料2円の芝居は6円払わないと見れない。それでも、映画や演劇を求める市民が少なからずいる。新聞には、当時市民がどのような状況であったか、窺い知ることが出来ない。偏りがあるかもしれないが、古川ロッパの日記から見ることにする。
ロッパの日記、四月一日「ブーと鳴ってゐる、午前七時。B29らしき、ブーンブーンといふ唸りがきこえ始めた。いかんなと思ってると、ドカーンといふ、よりは寧ろザザーッといふやうな音響、自身の如く、ゆらゆらゆらっとした。こんな地響き初めてである。七時四十分、解除。」
二日の日記「九時、又プーウ。寝衣のまま、カバン掲げて壕に入る。ブーンブーンの唸り遠くなる。間もなく解除だろう。新聞を見れば、敵は沖縄本島へ上陸開始とある。そして、噂によれば、敵は九州と四国へ上陸するだらうから、それを迎えて、はじめて引き寄せ戦術の実を挙げるのだといふ話、実に心配なことである。・・・」
三日の日記「・・・プーウ、来たな、時は十二時半、ラジオ『敵数機は』いかん、起きて壕に入る。今夜の敵は、時限爆弾を用ゐるらしく、敵機通過の後、ドゞドゞーンといふ爆発の音、その長いこと五六秒、何とも言へない不安。・・・火の手を見る、渋谷より近いな、新宿か。その他、所沢方面と神田方面に二個所と火が見える。空襲警報解除のサイレン。間もなく警報も解除。四時半だ。・・・」
五日の日記「昨日は新聞も来なかった、今日は来た。・・・十二時すぎ、プーウーと鳴りにけり。一機の偵察で、間もなく解除となる。で、一時半頃か、開演の頃、突っかけ悪し、・・・四月に入ってからも芝居してることの宣伝が、まるでしてないので、無理もない。・・・」
七日の日記「・・・立川辺の上空でB29が、ひらひらと落ちて行く、銀色の翼美しく、実に壮観であった。尚庭で見てると、ラヂオロケーターをくらます為であらう。錫箔のやうなもの、ピカピカ光り乍ら、空に漂ってゐたが、やがて、家の近くへ落ちた、人々集まり、奪い合ひである。・・・」
八日の日記「東横千秋楽・・・一時半すぎ、プーと鳴っても客は出て行かなそうで、それじゃあ、やろうと始める。・・・」と、連日の警報に馴れてしまったのか。
十二日の日記「・・・東中野駅、ホームに立ってゐると、『来襲』となり、電車は立往生で動かなくなっちまった。ホームの人々は皆外へ出されちまったが、・・・立川方面と、板橋方面の両方に、爆弾の音や、高射砲の音しきり。・・・」
十二日から浅草で、焼け残った電気館と帝国館が無料興行をはじめると満員。十三・四日に再び大空襲、東京の山の手方面が焼かれた。
ロッパの日記、十三日「・・・空襲警報が鳴ったので、壕へ入る。・・・ドドーン、シャシャシャズドーン、あれは爆弾、あれはと音をきゝ分けてゐると、上空には入れ代り立ち代りB29らしい音。そのうち、パパパと、電気消ゆ。龕燈を点けて、心細い。大庭が来て、火事が凄いと言ふ。壕から出ようにも、空でブーン 言ってるので恐くて出られない。つひに、すぐ近くが燃え出した様子。大庭があはて、飛び込んで来て、『こりやいけません、助かったら奇跡です』と言ふ。出て見ると、外は桃色に明るく、互に顔がハッキリ分かる。よし、と二階へ、もう、靴脱いでる余裕もなく、・・・燃えている燃えている、盛な火事だ。目白の山は日に包まれてゐる。・・・まだ空 には時々、敵機らしい音のする中を、壕から出て、出発した。僕・大庭松井と残った。神棚から、大神宮の御札を外して懐中する。小トランクに、抽斗のものを少し詰めた。さあ、これでもう焼けるなら焼けろだ。何とも言へない悲壮な、その悲の字が除れて、壮となり、何時の間にか快の一字が加はって、壮快な気持。ゲートル、鉄兜、そして懐には大神宮様がゐらっしゃる。・・・蒲団背負ったり、飯を焚く鍋のやうなものを持ったりした人々、焼けた方から逃げて来る人々。その中を、とっとと歩いて行く。浜田の家へ着くと、壕の中に、皆ゐるときいて、入る。・・・又、敵機来、ドー ン、ザゞザゞツといふ音。すぐ近くらしい、出てみると、かなり近いところ、日本閣の手前、国民学校の裏へ落ちたらしく、新な火がメラメラと来た。全く四方火に包まれてゐる。・・・家へ引帰すと、桜山の方の火が、ひどくなって、火の子が庭へふりかゝる。火たゝきで消して歩く。・・・家へ帰る、近くへ落ちた爆弾のあふりを食ったゝめか、家中、埃だらけ。神棚も壁土がバラバラ。掃除して、五時二十分前。床の中へ入り、ラヂオ(停電でも 二階のは、蓄電池だから大丈夫) を、五時のをきかうと思 ってゝねむくなり、寝てしまった。」 ロッパの日記、十五日「・・・焼跡を見ながら行きたいと言ひ、先づ高田馬場へ出て貰って吃驚、駅附近は全部やられてゐる。新宿の方へ廻る。大久保附近又ひどし、戸山ヶ原の陸軍技術本部やられてゐる。塩町交叉点の一角又やられ、四谷見附のあたりは、一望の焼野となり果てた。火は見附を越えて双葉女学校を焼いてゐる。町へ出ると安泰である。車は、竹橋へ出て、丸の内から、日本橋。白木屋の附近もひどい。変り果てたる東京の姿である。深川を通る、この辺りは、もはや無である。やがて月島の豊洲、海軍施設本部へ近づく。・・・」
帝国館は十九日から有料興行を開始。「東京新聞の芸能欄を見ると、小屋(劇場)が昔と比べて十分の一ぐらいになっている。それでも、東京の罹災から考えると、随分と沢山ある。不思議に焼けてないと思われるところがある」と、高見順は日記に書いている。空襲が続き、東京は焼け野が原、生活を建て直そうとする市民は食べるだけでなく、娯楽も求めていた。
清沢洌は十二日、「どこに行っても戦争は、いつ終わるだろうかという点に話題が向けられて行っている」。十七日には「毎日、デマが盛んに飛ぶ・・・これは恐慌時代、不秩序時代の一歩手前だ・・・沖縄の戦争は、ほとんど絶望的であるのは何人にも明瞭だが、新聞は、まだ『神機』をいっている」と。さらに、二十日「沖縄戦が景気がいいというので各方面の楽観説続出。株もグッと高い。沖縄の敵が無条件降伏したという説を僕も聞き・・・中にはアメリカが講和を申込んだというのもある。民衆がいかに無知であるかが分る。新聞を鵜呑みにしている証拠だ」と。そして、空襲後を見れば想像に絶する被害、「しかし注意すべきことは、焼け出された人々が案外平気であることだ」と、二十一日の日記に書いている。
ロッパの日記、二十四日「七時半頃か、ラヂオのブザーがきこえる・・・敵数目標では、寝てゐられない。八時半頃には、空襲警報が出た。鈴木氏鉄兜で来られ、・・・独逸は、市中へ侵入され、メチャメチャらしい。さうなると、こっちへ兵力を向けて来るだろうから、ますますいかん、といふ話。そのうち、爆弾の音がし出す、壕へ入る。高射砲盛に撃つ。ところが、あっけないほどの間に、空襲解除。」
ロッパの日記、三十日「五時半に起こされ、・・・千葉駅に着くと、空襲警報ですと言ふ、駅員が敵は数編隊だと言って歩く。・・・九時近くに銚子行きの汽車が入ったので乗る。鎧戸を閉めさせられたまゝ、干潟駅着。十一時半頃である。下りてきくと、今解除になったところだと言ふ。やれやれ。軍のバスに乗り、鹿取航空基地へ。・・・格納庫である。急造舞台、マイクも悪く、やりにくい。大庭の司会から始まる。一時。・・・聴衆約二・三千名。三時半頃終る。・・・干潟駅、大した混雑だ。帰宅九時頃。