江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)265
アチャラカ結構となる昭和二十年三月
三月九日の夜、東京へは334機のB29による大空襲で、死者約10万人、焼失家屋23万戸にのぼった。罹災した市民は、田舎へ帰ろうと上野駅を目指し、また焼跡の後片付けなどに追われた。翌日の十日、ロッパは劇場に出かけると、「何と、客が大分立ってる」と。結局、役者が集まらないこともあって三時に中止を決定し、払戻しをするとある。
同日、陸軍記念日を期して、陸軍軍楽隊必勝演奏大会行進が行われた。翌日の新聞には「“不屈の意気 讃えて響く軍楽”一昨夜の凄烈な戦いが明けた後、都民の不屈の闘魂を象徴する如く、軍楽隊は堂々の進撃を続ける・・・たくましい調子に励まされて後片付けに働く罹災者も闘志を振るいおこす。どこか縁故者のもとに行くであろうリヤカーに布団と一緒に乗った子供、ゆうべの火傷を巻いた包帯の手を高くあげて万歳を叫ぶ・・・」Aと、空々しく書かれている。また、同紙面には、「戦ひはこれから 家は焼くとも・挫けぬ罹災者」の見出しがある。さらに「消防陣 気力が武器 火點へ必死の放列」の見出しもある。
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昭和二十年(1945年)・三月、東京大空襲9万3千人死傷⑨、硫黄島守備隊全滅⑰、東京大空襲の翌日にも劇場に訪れる市民が多数いる。
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3月2日A 神田一ツ橋共立講堂で勤労学徒激励大演奏会、三日正午より
6日A 「足止め」さらに拡大、けふ公布「勤労動員」
10日A 未だに幅利かす「闇」に蠢く“閉店開業"
11日A 陸軍記念日、陸軍軍楽隊必勝演奏大会行進
14日A 煙草一人三本 今月下旬の次回から
15日A 「学校閉鎖」は行なわず「授業停止」で動員強化
19日Y 「あすから急行廃止」国鉄
23日A 「どうする疎開荷物 手一杯の輸送陣」
30日A 焼跡には大農耕地、都の方針
空襲の恐怖は、ロッパの三月二日の日記は「・・・此の二三日、空襲なし、うんと又貯めといて来るんぢゃないかと皆ビクビクものだ。・・・」と、大空襲を予見するようである。
四日の日記は「プーウと朝来た、時計見ると七時半、いかん、艦載機時間だ。サンデーモーニング・ポストとおいでなったか!ラヂオきいてると、B29の編隊続く。間もなく空襲警報鳴る。いかん、それッと壕へ入る。敵編隊京浜地区へ。頭上ブウンの音、今にもドカンと落しはしまいかと、気が気ではない高射砲のひヾきと、爆弾であらうか、地ひヾき--いやな、物を引きずるやうな音、約二時間。十時近く、東南方海上へ去ったといふので、壕から出て、朝食。・・・」と、生きた心地がしない時間が続いたようだ。
空襲情報が気になるのだろう、六日の日記にも「・・・渋谷駅を下りると、プーウーと来た。気味が悪い、・・・情報をきくと敵は一機で、大したこともないらしいので・・・」と、記している。
九日は、東横映画劇場公演(『突貫駅長』『歌と兵隊』)初日で、日記には「・・・見た目満員である。・・・ハネ六時十何分。渋谷駅へ出ると、大変な人、三台目の電車で押し潰されさうになり乍ら。・・・何時か、時計を見るのも面倒、プーウーと来る。ラヂオをきくと、敵一機、続いて二機--大したことはなさゝうなので、うとうとし乍らきいてゐた。その三機の他に、南方海上より三目標とかがあると、その一機が関東地区へ入ったとか言っていると、ブーンブーンと音がして、ダダッダダッと高射砲の音、それ危い、女房子供を壕へやり・・・空襲解除のプーが鳴る、そこへ鈴木さんから呼びに来られて、行く。三階のバルコンから眺めて、唖然とする。一望火の海だ、北風が強く吹いてゐる中を炎々と燃えてゐる。神田・上野から丸の内・新宿方面ベタ一面の火である。こりゃあ大変だ、下町は無くなったぞ。三時警戒警報も解除されたが、家のあたりも火の反射で明るく風は益々吹いて、火事は何処迄拡がるか分からない。・・・神風が逆に吹くか。神の怒りは、日本の上にか。・・・」と、ロッパは、戦争の成り行きをまだ諦めてはいなかったと推測する。
軍の報道は、空襲の事実をひた隠しにしていたことについて、ロッパの十日の日記に「・・・内務省の三階、防空総本部といふのへ行く、課長小幡氏、昨夜の災害を極力小さいやうに発表したいらしく、罹災者罹災者と言ふのを全国にひろめることが困るやうな様子、・・・此の災害をもみ消す(消せると思ってる愚かしさよ)ことが目的で、罹災者といふ言葉を使われるのが恐いといふのが本音らしい。・・・田町の方へかけて、まだ火がめらめらと燃えてゐる。さう言えば、今日きいたところでは、江東劇場は焼けてしまったさうだし、浅草六区も全滅の由、九段坂上も皆灰燼の由。・・・」と、被災地は惨憺たる状況であった。
そのような惨事の状況下では、興行をするか否かは迷うものである。ロッパは十二日の日記に「・・・所管署もやって呉れといふ意向になったから、・・・三時半、ヘンテコな返り初日の幕開く。客が、兎に角一杯なのに驚く。・・・」と、東横映画劇場の興行が行なわれた。
十四日の日記では「座へ出ると、・・・一回目、入りいゝが、満員とは行かぬが七分。・・・二回目、入り又よろし、八分位であらうか。・・・明日は、大編隊来襲と言ふ。短波でサイパンから、又、宣伝ビラを機上から散布し、十五日には残ってる渋谷・新宿をやるから、といふ予告をしたと言ってゐる。・・・」と、不安を綴っている。
公演を続けるも、十七日の日記は「・・・二時近く、ブーと鳴った。ラヂオをきく。『敵B29編隊』いけない、洋服を着て、空襲除けのネクタイ締める。子供たちも寝てゐるのを起こされて壕に入る。風は強いし、不安である。・・・九時出る、電車大混雑、座に出ると、今日も亦、とても十時半には開かない、・・・今日は客も悪からう、と思って出てみると、割にいゝ。六七分か。・・・ブーウと鳴り渡り、幕は下りた。舞台へ出てゝのブーは、これが初めて、何のことだ、三十分も経たずに解除。・・・」とある。
十九日は月曜日であるが大入り満員。その日、ロッパを訪ねてきた女性が「千葉へ買出しに行き、物を運ばんとしているところを、捕まり、殴られた」のを聞き、野蛮なと憤慨した。大空襲で家を失い、大勢の人が疎開をしているこの頃も、買出しをする人はかなりいた。
清沢洌は、二十日日記に「敵は盛んに宣伝ビラをまくようだ。これに対して、ただ聞くな、見るな、話すなと三猿主義をとっている」と批判。二十一日「どの新聞も流言蜚語が盛んになったこと、その原因が政府が事態を発表しないことからきていることを書くようになった」と。三十一日「近頃の電話は、どこへかけても通ぜず。電話は受けつけず。交通機関は半麻痺状態だ」と書いている。
東京への空襲が激しく続くことからであろうか、ロッパは二十四日の日記に「・・・座へ近づく、渋谷の駅から道の家々は皆、丸に疎の字のマークをつけられてゐる、今月一杯位で立ち退けといふ強制疎開である。此の辺は、東横だけ残ることになるらしい。・・・」と、強制疎開について記している。
ロッパの日記二十九日には「・・・内務省より、マイクの使用も差支えなし、歌手の服装もおかまいなし、何でもいゝ明朗闊達にやれといふ命令があった。然らば、せめて『あなたと呼べば』あたりの日本のジャズソングを歌ってもいゝかと、お伺いを立てさせてゐる。アトラクションも停止されてゐたのが、今回復活となった。・・・」と、締めつけが緩んでいる。
三十・三十一日、ロッパは、相変わらず混雑する地獄の省線に乗って、大満員の東横映画劇場へ出かけた。また、「日劇が、こうなってから開くことになった、映画でなく、劇場として開くのだと言う。映画の方も、もう何をやってもいゝ、アチャラカ結構と言って来た」と日記に書いている。