戦況を知らぬ市民のレジャー・昭和十七年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)250
戦況を知らぬ市民のレジャー・昭和十七年春
 太平洋戦争に突入して四ヶ月、四月十八日土曜日、「ドゥーリトル空襲」と呼ばれるアメリカ軍の攻撃を受けた。政府・軍部は、連戦連勝を国民に伝えていたのに、首都である東京が空襲された。ところが、新聞は被害「無し」と、しらを切ったのに、実際は死者が出ていた。市民の大半は、何事もなかったと信じ、安心していたようだ。報道関係者には、死者がいたことを知っていた人がいたと思われるが、書くことはできなかったのだろう。国民が不安を抱くような言動を慎まなければならないという忖度もあったかもしれない。
 五月二十八日の朝日新聞は、「日本海バルチック艦隊を捕捉殲滅したあの日の歓声は・・・」と、海軍記念日を書き立てている。見出しは、「仰ぐ軍艦旗・けふ輝く記念日」、銀座街頭を行進する陸戦隊の写真あり。「歩武高く陸戦隊行進 歓呼で迎ふ市民 けふの帝都海軍一色」と続く。
 勇ましい見出しがあるものの、「・・・道行く人の顔は大きな希望に明るく映えてゐるが、今日の戦果の陰に咲き護国の華と散つた英霊に捧げる国民の誠は、九段の神域に踵を接する敬虔な市民の人波となって・・・参拜者が終日絶えなかった・・・」も記されている。
 また、外相演説も載せられ「大勢は米英に非 反撃の拳に備えよ」との見出しで、正当性を展開している。その他にも、戦争は中国とも続いていることから、「金華で肉薄戦展開」と猛攻撃の戦果が記されている。
 戦争は、五月ビルママンダレー占領までは良かった。しかし、六月のミッドウェー海戦の大敗北から、戦況は悪化の一途をたどることになる新聞などの報道は、四月の空襲あたりから、正しい戦況は国民に伝えらておらず、国民に勝ち続けていると思わせた。太平洋戦争開戦から六ヶ月も経っていないのに、この時点から泥沼の戦いにのめり込んでいく。
 敗戦後の二十一世紀だから、何とでも言えることだが、愚かな戦争を続けることになる。国内の経済は、軍需優先。それも兵器製造を中心の生産体制は、産業基盤の形成をも無視して増産に増産を重ねた。そのため、工作機械の改良や生産性の向上がないどころか、原料不足も加わって、軍需産業自体も行きづまりはじめた。民需産業を犠牲にするため、生活用品の不足は、日に日に追って深刻化。また、農具や肥料、労働力まで削減され、食料生産にも支障が出てきた。
 市民のレジャーは、新聞にあまり報道されなくなり、人出が少なくなっているようだ。祭りも催し日数を削られたり、制限や制約が強化されている。
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昭和十七年(1942年)四月、初めて空襲される⑱、第二十一回総選挙(30)、春の行楽は天候不順もあって人出は前年に比べ激減か。
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4月8日Y 帝国劇場新国劇織田信長」他満員御礼
  9日A 日比谷公園で合同海軍葬 一般市民群衆十数万
  11日ro 「たわむれに石田に買わせた馬券当り」
  26日ro 靖国神社遺族招待、客は相変らずつまらん
  26日a 靖国神社臨時大祭 一般参拝者に賑わう
  26日A 六大学野球リーグ開幕

 ついに、レジャー関連それも花見の記事がなくなる。三日晴れ、市内の人出は多かったものと思われ、ロッパの有楽座は『若サクラ散りぬ』『新婚歌日記』など、昼夜共大満員。以後十七日まで満員が続いた。十八日、初めての空襲。昼過ぎ空襲警報発令、有楽座「流石に客は三分の一なり」。それでも、舞台が進むにつれて、客はほとんどいっぱいになる。二十一日、「始まって間もなく又々警戒警報発令、一時間余で解除」。二十三日も「大入大満員、又警戒警報約三十分ありし由、何うも物騒なり」。二十九日の千秋楽まで、ほぼ満員が続いた。

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昭和十七年(1942年)五月、ビルママンダレー占領①、戦勝イベントは続くが市民のレジャー気運は冷めている。
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5月6日y 多摩川園で端午の節句
  11日A 大相撲夏場所初日 満員の盛況
  11日A 日本体操大会 外苑競技場に一万四千の参加代表の行進
  15日a 神田祭 五日間が三日間に
  17日Y 井之頭文化公園「動物の放し飼い」開園
  22日Y 海軍の三展覧会好評、渋谷東横・上野松阪屋・新宿三越
  24日Y 日本野球春の陣、巨人の制覇決まる
  25日A 十五日間大入りを続けて千秋楽
  26日Y 後楽園で大海軍を讃える会、七万余の聴衆
  28日a 海軍記念日 陸戦隊行進 歓呼で迎う市民

 市民は緒戦の勝利に酔わされ、戦勝イベントに参加している。神田祭でさえ五日間が三日間に短縮されたように、市民レジャーの制限が進むためか、相撲だけは大盛況。十八日の八日目は、十時に満員札止め。相撲内容は必ずしも見応えのある勝負がなくても、十五日間も大入りが続いた。ほかに、六大学や職業野球が行われているものの観客は少なそう。

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昭和十七年(1942年)六月、ミッドウェー海戦で敗北⑤、安芸海と照国が横綱免許⑦、中旬以降雨が続きレジャー気運は沈滞。
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6月2日a 鮎解禁の初日、失望の太公望
  11日a 大劇「マレーの虎」他十五日まで日延べ
  19日ro 「渋谷へ出て、車を下り、夜店で煙火や玩具を買って帰宅」
  21日Y 六大学リーグ戦早大が慶応に先勝
  24日a 歌舞伎座「夜討我虎」他大好評
  30日A 支那事変五周年記念行事、日本橋高島屋で「MC20展覧会」など催し物続く

 誤った戦況が伝えられはじめたのは、六日の朝刊A、「ミッドウェーの戦果燦・海空死闘の全貌 先陣切って隊長機まず自爆」からである。十六日Aには、「ミッドウェーの戦果拡大 わが戦果を世界に厳示」と、あたかも日本軍の勝利を印象づけている。さすがに、戦勝祝賀の行事は企画されなかった。
 レジャー関連の記事は、「失明勇士の慰安の潮干狩り」17A、「安くなる映画館」(七月上旬から一~二割 日劇1円・封切80銭)21a、「錬成旅行は宜しい 各学校の夏休」22A位である。劇場や映画館の広告もあるが、紙面を割くことができず一行のみが多い。スポーツも同様で、早慶戦の賑わいすら不明。
 市内盛り場の状況をロッパの日記から見てみよう。十五日、「麻布へ。一笑軒のぞいたら休業。しょうがない、銀座へ。本屋をのぞく、本もなし資生堂へ入ったが、鮑の料理ときいて逃げ出し、結局楽亭で支那料理、これもひどい・・・ヘンなものばかり飲まして、大ボリにボられる」。二十七日、「何処でも、バアてものゝ品下り、たゞ酒があれば客は来るという光景、その客種の質の悪いこと・・・生ビールしかないのでボリようがない」と。二十八日、「支那グリル一番に入る、食えたもんじゃない。若松でみつ豆食う、うすく甘し、女給どものサービスの悪さに腹が立つ」。ロッパの個人的な評価であるが、以前に比べて悪くなっていることは確かであろう。