インフレで異常に盛り上がる昭和十五年冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)241
インフレで異常に盛り上がる昭和十五年冬
 この年は紀元二千六百年、奉祝行事の予定され、正月から明るい祝賀ムードが漂っていたようだ。正月の人出は史上最高らしく、市内はもとより箱根の温泉地まで、それも三が日以降七日過ぎまで賑わった。耐久生活を強いられているにも関わらず、なぜ出掛けられたのであろうか。それは、インフレで賃金が上昇、労働者(職工)の増加による可処分所得の増加によるものであろうか。
 贅沢をしようにも、売っていない、商品がないのである。限られた選択肢、レジャーについても同様、映画・演劇、相撲などに限定されている。そのため、出歩いて良い官製イベントを求めて市民は殺到している。「宮城前遙拝者六十万」、陸軍始観兵式「精鋭一万五千、市民の群れは式場の外囲に数万」、建国祭「街頭に奉祝の人出数百万」など、来年から遊べなくなることを予測しているようで、事あるごとに出歩き騒いでいる。
 市民の出歩きを抑えようと、節電を目的とする規制を強化している。夜間の行動を制限する「節電節分」、さらには花見臨時列車の中止と、「遊興十一時と共に 演劇も十時まで」とする。永井荷風の日記には、「夜十時過には六区の往来暗淡として人影なし」、「十時を過ぎしばかりなるに暗淡たる銀座通には夜店もなく歩行の人影も途絶えたり」と、繁華街でも夜間の人出が少なくなったことを記している。
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昭和十五年(1940年)一月、阿部内閣総辞職⑭、後楽園球場で炭焼きが始まる 正月の人出は多く市民のレジャー気運は高い
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1月2日A 元日の人出二百万人、明治神宮百二十二万、宮城前遙拝者六十万、靖国神社十万
  2日ka 浅草公園の人出去年よりも多きが如し
  5日T 東京の映画館は物凄い初春景気
  5日Y 三箇日の東鉄の乗降客は七百一万人
  6日Y 国技館の拳闘に一万七千人、売上げ約三万円
  9日a 陸軍始観兵式、精鋭一万五千、市民の群れは式場の外囲に数万
  11日A 「深夜に沸きたつ 丑満の前相撲 春場所昨夕五時に開門」桟敷は九時に満員
  17日a 電気館等「近藤勇」他満員御礼
  26日y 連日前夜開場の新記録、最高潮の千秋楽
  27日y 飲食店減り、芸妓屋繁昌、軍需景気を語る享楽街統計
  28日A 「日本調も採入れて いざや国民服 出来上った男子四種」
  29日ro 千秋楽、静岡大火同情マチネー、三浦環も出演、二千三百円を静岡に送る

 元日、古川ロッパ明治神宮から靖国神社へと初詣に廻ったように、市内は初詣の人々で溢れていた。代々木駅の乗降客が53万、渋谷24万、代々木16万、新宿11万、上野10万、東京4万と、前年と打って変わった。市外に向かう人も多く、成田山の初詣は「三十万人」(賽銭二十五万円)、前年の三割増。箱根や湯河原の温泉街も超満員、七草を過ぎても予約で一杯。
 正月の人出は、七日を過ぎても続いていた、ロッパの有楽座は、『ロッパと兵隊』『新婚太平記』などが受けており、八日以降も満員が続いている。大相撲は、場所前から部屋を覗く人が押し寄せ、初日はその前日から開場した。二日目は、団体が入り、前売りで満員・札止め。また、九年ぶりに断行した東西制は、東軍に軍配、千秋楽も大入りの盛況であった。
 市民のレジャー気運は高いが、お腹に力の入らない人が多いらしく、ロッパは七日の日記に「米が七分搗きになってから快便でない」と。また、三十一日新聞Aにも「腸を損なう患者が殖えた 七分搗米病か?」という記事がある。

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昭和十五年(1940年)二月、市内銭湯七銭に値上げ⑩、市内の夜間の人出が減少する。
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2月5日A 節電節分 お昼の豆撒き 
  11日A 建国祭、靖国神社など七会場に、市内官公商・郷軍・男女青年団・学校・町会・婦人会・労働団体等が参列、式典後「二十五万」の大行進。代々木練兵場では帝都六十五校「四万五千」の若人武装奉祝式
  15日a 浅草松竹座「伝説ニッポン」あきれた・ぼういず他満員御礼
  18日A 有楽座「国定忠治」他満員御礼日延べ
  20日ro 日劇のロッパ青春部隊の千秋楽・・中々よく入っている

 夜間に人が動くと電力を消費することから、追儺式は日中に移された。池上本門寺には力士の姿もなく、味気なく、参集する人も減っている。荷風は十日の日記に、「夜十時過には六区の往来暗淡として人影なし」、十八日にも「十時を過ぎしばかりなるに暗淡たる銀座通には夜店もなく歩行の人影も途絶えたり」と、繁華街でも夜間の人出が少なくなったことを記している。
 十一日、紀元二千六百年紀元節、建国祭陸上式典、日比谷公園の神宮揺拝式や紀元節奉祝会、国技館で奉納相撲など多彩な催しが行われた。その日は、宮城の奉祝記帳所に並ぶ人は午前一時頃から訪れ、終日にわたって「街頭に奉祝の人出数百万」で賑わった。荷風は「祭日なので市中の雑遝を恐れて終日家にいた」。

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昭和十五年(1940年)三月、池袋に武蔵野デパート開業⑭、芸能人16名に改名を指示(28)、レジャー自粛が叫ばれるなか、市民のレジャー気運は結構高い。
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3月3日y 浅草東宝花月劇場「吉本ショウ」満員御礼
  4日A 「春が来た」人出、新宿駅の乗降客二十八万、上野駅十七万、動物園三万、地下鉄三十万で賑わう
  6日a 「遊興十一時と共に 演劇も十時まで」来月から
  11日A 「陸軍記念日 帝都に豪華の催し」、戸山学校軍楽隊の行進、銀座は沿道いっぱいに人と旗の波
  18日A 日曜の人出「ざっと百二十万」、新宿駅の乗降客三十五万、上野駅十二万、京成電車十五万、東武二十万、西武十一万、京浜二十万、帝都電鉄六万など
  22日Y 渦巻く行楽部隊「人出はザッと百五十万」
  23日a 「軍需景気で煽るな 花見に頭痛の種」
  30日ro これは時勢なのか、此の店が因業なのか、お酒飲まぬ客おことわり、一人の客、子供連れの客おことわり、実に変だ。東宝名人会をのぞく此んなところも一杯だ
 
 節句の第一日曜は、靖国神社参拝、明治神宮から井之頭公園までの学童強歩など、多摩川べりなど市内周辺に行楽の人が出た。市内には人が出ているようで十日の陸軍記念日も賑わう。
 十八日、彼岸前でまだ寒さが残っていたが、行楽に繰り出す人は「ざっと百二十万」。上野動物園は、約3万5千人の入場。二十二日はさらに多くの人出、この人出に「軍事景気で煽るな 花見に頭痛の種」とレジャー自粛、「十五戒」の訴え。その中には、なんと「各家庭で成可く一家揃って外出しないやうに注意を與へること等々」と、禁止事項を並べた。さらに、東京鉄道局では、その年の花見臨時列車は中止を決定。