レジャー自粛で盛り上がりを欠く十三年の春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)234
レジャー自粛で盛り上がりを欠く十三年の春
 国家総動員法が公布された。「国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及物的資源を統制運用する」とある、政府や軍部が必要と判断すれば、何でも国民に要求できると言うこと。その責任は、政府や軍部が負うのではなく、国民が背負うことになる。
 この当時は、戦争に負けることなど思っていないのだが、不安を感じる人はいなかったのだろうか。民主国家であるとしていた日本、他国から見れば独裁国家とされてもいたしかたないだろう。現代でも世界を見渡せば同様な国があり、日本人は過去の日本が行なった事実に触れることなく批判している気がしてならない。
 独裁国家に陥った国民を救う手だてを、日本が国家として考えたことがあるであろうか。批判するだけでは解決しない、わが国も再び同じ轍を踏まないとは限らない。
 昭和十三年の東京の市民レジャーは戦況の変化に影響され、膠着した四月からは陰りが見られた。新聞はレジャー自粛を受け、話題を行楽活動より靖国神社臨時大祭のような記事に力を入れ、世論操作をしている。以前から行なっていたことではあるが、さらに露骨になる。
 公衆浴場であれば、男女混浴は問題があろうが、市内50余のプールでの男女混泳を禁止。何を考えているのであろうか。このような訳のわからない事を、国民に強いることを行いながら、政府や軍は国民からの批判を潰し、絶対的な権力を強化していくのである。永井荷風は、「軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言いながら戦地には盛に娼婦を送り出さんとす軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし」と八月八日の日記に書いている。
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昭和十三年(1938年)四月、国家総動員法公布①、小石川後楽園開園③、ビール2銭値上げ⑥、暴風雨で江東一帯床上浸水5千戸⑭、花見や行楽の自粛で、市民レジャーは盛り上がりを欠く
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4月1日a 富士館等日活系「忠臣蔵」大好評満員御礼
  3日a 帝国館等松竹系「出発」他満員感謝
  11日y 「春 第一の豪華デー お花見部隊百五十万人」京成電車が四十五万人
  11日A 銀座八丁「柳まつり」やめて銃後運動
  11日Y 多摩川園「戦捷つゝじに酔う三万五千人」
  17日a 電気館等「母の魂」他満員御礼
  17日ro 日比谷あたり、好晴なので人出多し
  17日a 六大学リーグ戦開幕
  20日ro 有楽座「喧嘩親爺」他二から二十日頃まで満員
  25日a 靖国神社臨時大祭
  27日A 「篝火縫って廿万」靖国神社の賑わい
  30日y 職業野球大リーグ戦開幕、後楽園に二万の観衆
  
 九日の広告欄Aには花見だけでも「桃・満開 二子玉川」「桜・満開 多摩川園 玉川遊園 洗足池畔」「桜満開 三里塚」「園内桜満開 豊島園」「さくら満開 花月園 六郷土手 衣笠公園」「花は 小金井堤へ」「桜満開 稲田堤」「京王閣 園内の桜」「桜・桃満開 向ヶ丘遊園地」「荒川堤の桜」「飛鳥山の桜」「井ノ頭池畔の桜」「高井戸の桜」「大宮八幡の桜」などがある。その他、ハイキング・開帳・競馬・潮干狩・摘み草・舟遊び・釣りなどの遊覧案内が続く。四月の市民レジャーは、十日の日曜がピークのようだ。
 新聞はレジャー自粛を受け、話題を行楽活動より靖国神社臨時大祭の記事に力を入れている。行楽の賑わいは新聞にないだけでなく、例年よりかなり減少したものと思われる。その代わりというわけではないが、映画が観客を集めている。なかでも、「オーケストラの少女」は記録的な大当たりa⑬で日本劇場や日比谷映画劇場で連日満員が続き、八週間も続映している。

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昭和十三年(1938年)五月、ガソリン配給統制①、徐州陥落(21)、近衛内閣改造(26)、相撲の人気は頂点に達しているが、映画や演劇に陰りが出はじめた
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5月1日ro 豊島園でロッパ一座の運動会
  2日a 第四回体操大会関東大会、外苑競技場に二万余の観衆
  5日a 日本劇場等「藤十郎の恋」満員御礼
  10日t 市内50余のプールでの男女混泳を禁止
  10日A 二千円、万国博入場券初の抽選
  12日A 非常時故娯楽場は槍玉、映画館等新設禁止
  12日a 大相撲夏場所初日、前日の朝から詰めかけ夜十時開場
  24日a 大相撲夏場所、後半双葉山連勝で五連続優勝などで沸騰し大入りを続け千秋楽
  28日a 海軍記念日帝都大行進
  30日A 上野の戦争美術展、18日間で約6万人
  30日Y 多摩川園で軍国デー「轟く三万人の大合唱」

 一日、市内の人出は、外苑競技場に「二万余の観衆」、国防博覧会や動物園など相当賑わっている。相撲の人気は頂点に達し、初日前日の夜から開場する羽目になった。二日目は「不明朗な値上げ」で客足は落ちたが、双葉山の連勝を見ようと後半は再び大入り。双葉山は通算66連勝で五連続優勝を飾った。
 なお、レジャーは非常時ということで、締めつけが進むなか「歌舞伎劇・凋落の悶え」A(22)という記事。支那事変以来、劇場は「未曽有の不振時代に陥り」、「非常時演劇改革の問題を投げかけている」と。その対策は「安い芝居」の原則に立ち戻ること、と結んでいる。また、四月から支那事変特別税で入場税の増収が見込まれたが、四月分は「入場税期待外れ」A(26)であった。市民レジャーは、演劇だけでなく映画にも陰りが出はじめた。

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昭和十三年(1938年)六月、木炭自動車デモ行進⑩、東京地方に六十年来の豪雨(27)、長雨にレジャー自粛で市内の人出はめっきり減少
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6月1日A 鮎、解禁の朝を待つ、多摩川縁の太公望
  3日t オリンピック入場料、大衆席は1円と2円
  5日T 大日本相撲選士権大会、双葉山「輝く二連覇」
  5日A 早慶一回戦開門八時、午前五時以前は外苑入場禁止
  6日a 国際劇場「日本むすめ」他満員御礼
  9日a 帝国劇場等「舞踏会の手帖」他日延べ
  15日a 日本劇場「エノケンの突貫サーカス」満員御礼
  17日A 有楽座「戦国の密使」他満員御礼
  19日ka 午の日の縁日を見る

 七日頃から二十七日まで雨の連続、晴れたのは三日間。新聞は、鄭州から漢口への進軍など中国での戦果を連日のように伝え、報の途切れる時は大学野球などのスポーツを掲載している。梅雨ということもあるが、市民のレジャー気運は湿りがちであった。
 そんな市民の気持ちを晴らせてくれたのは、エノケン。浅草を基盤にして活躍していたエノケンが松竹から東宝へと移籍によって、初めての日本劇場公演が実現した。その人気は、劇場の周囲を観客が五重に取り巻くような大入りの記録を作った。なお前年、松竹から東宝へ移籍した林長二郎(長谷川一夫)が顔をカミソリで切られたことから、エノケンは転社の完了するまで慶応病院に入院していた。