レジャー自粛は進むが人出は減らない十四年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)239
レジャー自粛は進むが人出は減らない十四年夏
 軍需景気で「温泉、花街、百貨店 千客万来の盛況」y7/⑥、前年より三割も増加している。生活物資が不足しているにもかかわらず、異常な景気である。さらに、「何事ぞ?この数字 消費節約の声を裏切る」、醒めよ、軍需ナリ金」あるが、ほとんど効果ないようで、業を煮やしている。このような市民への締めつけは、エスカレートするが、当面は鼬ごっこである。それでも、まだ遊ぶ余地があったと見えて、人出は減らない。
 市民レジャーは、九月に「興亜奉公日」ができ帝都歓楽街の自粛がはじまったように、さらに強い自粛が求められた。市内のイベントは徐々に戦時色を強め、市民の遊ぼうとする気持ちを押さえ込もうとした。新聞も八月以降からはレジャー関係の記事を減少させた。しかし、江東方面など軍需工場のある地域では、人々のレジャー気運は高く、景気がよい。自粛が叫ばれる中、映画をはじめとする興行は前年に優る著しい観客を集めた。
 八月に平沼内閣が総辞職し、阿部陸軍大将の内閣が誕生するに至り、軍部独裁の基盤が成立した。軍部が政治の実権を握っても中国での戦いは好転せず、五月にはじまったノモンハン事変では1万数千人の死傷者を出して敗退しているが、市民には知らせず。また、七月に日米通商条約破棄を通牒され、天津の英仏租界問題の決裂など外交面でも行き詰まった。
 国内の産業は、八月から石炭や電力不足で動力危機に見舞われ、加えて米の減収が追い打ちをかけた。九月に価格停止令、軍需インフレを押さえ込もうとしたが、品不足とヤミ価格を発生させた。市民の不平や不満の声は、一切なかったのかも、何故か不明。

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昭和十四年(1939年)七月、日比谷公会堂で第二回反英市民大会を開催、十万人の大行進(31)、アメリカが日米通称条約破棄通告(26)、夏に向かってのレジャーがはじまる
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7月3日Y 国技館で大東亜博覧会開く、一万の入場者
  3日A 事変二周年記念して、産業戦士銃後奉公大行進二万、軍楽高く帝都を行進
  8日A 事変二周年記念日、多彩な催し、「浅草も人まばら 享楽街管制の夜」
  9日ka 四万六千日の鬼灯市を看る
  10日A 夏を迎えた日曜日、東京駅から湘南方面へ臨時電車32本、新宿から二十八万人、江ノ島方面が多い
  15日a 電気館等「男一匹」他満員御礼
  16日y 富士館・帝都座等「清水港」他満員御礼
  17日Y 「海へ山へ、どっと百五十万人」
  19日A 防空訓練第一日、十六万の警防団員等出動
  31日Y 「海へ山へ百万人、暑さの峠、人の洪水」

 満州事変二周年記念日の浅草は、「浅草も人まばら 享楽街管制の夜」とある。映画などの興行はなかったが、荷風の日記には「昨夜公園の飲食店はいずこも混雑甚しく十時過ぎても客の出入耐えやらず。酒を飲むものも多かりしと云う」とある。
 九日の日曜は暑く、市内のプールは芋を洗う賑わい、海の便りは「逗子晴、鵠沼晴」で家族連れがどっと出かける「海水浴デー」であった。十六日はさらに多く出かけ、房総の海へ「人出五十五万」、湘南と合わせて「百万以上」。富士山はじまって以来の大賑わいで「三万五千」の登山者など、「今夏第一の記録」であった。三十日も海水浴の人出、軍需工場地帯の江東方面から房総へと向って、「ドッと」繰り出した。 

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昭和十四年(1939年)八月、市が隣組回覧板十万枚を配布⑮、平沼内閣総辞職(28)、陸軍大将阿部内閣誕生(30)、ノモンハンの戦況やヨーロッパの状況が伝わらない市民は例年のように遊ぼうとした
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8月2日a 国民心身鍛練運動 靖国神社に早朝五時半に一万五千人参加
  12日a 日本劇場エノケン森の石松」他満員御礼
  12日ro 鎌倉海岸に座員とともに行く・・人多く俗悪でつまらない
  13日ka 国木田独歩の小説販売禁止。またハムレット上演禁止となりしと云う
  17日A 学生一切の運動競技 休日以外は禁止
  18日A 井の頭公園で興亜青少年訓練大会健児七千、二十一日まで
  20日y 江東劇場エノケン森の石松」他満員御礼
  27日A 欧州の状況を鑑み「慌し軽井沢」外人約一千人が続々引上げ
  28日Y 後楽園球場の「大リーグ戦夏の陣閉幕」

 第二次世界大戦を察知した外国人が避暑地から引き上げた記事以外、夏のレジャー記事なし新聞は、市民の海水浴や登山には、ほとんど触れていない。レジャーを楽しんでいることを伏せるだけでなく、学生のスポーツまで休日以外禁止する文部次官通牒が出された。
 月半ばになって涼しくなり、市内には人出が多かったのであろう。二十九日の荷風の日記に、「銀座通人出おびただし旧七月十五夜の月のよし」。また、三十一日「日本劇場に入る。番組は活動写真と舞踏一幕となり。午後二時頃なるに殆空席なきほどの大入なり」とある。ロッパの有楽座は、「マリウス」「歌う弥次喜多」などが二日の初日から三十日千秋楽まで満員であった。
 新聞に「敵戦車軍に手榴弾 壮烈・藤田少佐の戦死」A⑲とあるが、勝っているのか負けているのかわからない。政府は、外交判断できなくなっていた。「英に一辺の誠意なし」a⑳の判断も独りよがり、独ソ不可侵条約の的確な意味を国民に伝えられなくなっている。