江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)286
オリンピックの代用品、東亜競技大会
「東亜競技大会」を知っている人、どのくらいるでしょうか。激動の太平洋戦争の最中、東京と大阪で開催された。敗戦とともに、忘れられてしまった、オリンピックの代用品である。
大衆がオリンピックに関心を持ったのは、1928年の第9回アムステルダム大会頃からだろう。この大会から馬術競技に騎兵将校の出場が命じられ、日本の国威発揚の場として政府も力を入れ始めた。そして、三段跳びの織田幹雄、水泳では鶴田義行が優勝し日本初の金メダルをもたらし注目を集めた。
さらに1932年、第10回ロサンゼルスオリンピック大会では、日本の水泳や陸上が期待以上の成果を発揮し、その「実感放送」がラジオから流された。ちなみに、「実感放送」とは、スタジアムで競技を観戦したアナウンサーが結果を確認し、その競技の経緯をまるで実況しているように現地の放送スタジオから伝えるものである。したがって、放送される競技はまるでドラマのように展開し、競技を知らない人にとってもわかりやすく、誰もが興味を持って聞くことができた。
そして、次のオリンピック、ロサンゼルス大会に参加した日本選手は、前回の43人の三倍以上にあたる131人で、金メダルを7個も獲得するという華々しい成果を得た。中でも水泳は、水泳王国のアメリカを圧倒し、6種目中5種目を制覇し、なかでも、日本が不利とみられていた100メートル背泳にいっては、金、銀、銅のメダルを独占するという快挙。また、陸上競技でも、お家芸と呼ばれるようになる三段跳びで南部忠平は世界新記録で優勝、棒高跳びでも西田修正が銀メダルを獲得した。馬術では陸軍中尉の西竹一男爵が優勝する。このような日本選手の大活躍があって、オリンピックは大衆に注目されるようになった。
ちょうどその頃、日本は満州問題で国際世論の反発を買い孤立していたが、ロサンゼルスオリンピック大会への参加は、アメリカをはじめとする対日感情の融和に貢献した。また、オリンピックは、世界列強の中で国家の実力や国威を示す絶好な機会であることを、政府は改めて認識した。
1936年、オリンピックの東京市開催がほぼ決まった直後、ドイツでの第11回オリンピック大会には、179人の選手を含む249人をベルリンへ送った。このベルリンオリンピックは、アウトバーンを初めとするオリンピック関連施設の整備、大会を劇的に展開させる組織力の強化という、ナチスの戦争に向かっての物心両面にわたる準備行為でもあった。
オリンピック期間中は毎日、新聞が何面にもわたって掲載し、ラジオも中継によって日本人の活躍を放送し、いやが上にもオリンピック熱を高めた。特に、「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」という歴史に残る名アナウンス(?)は、大衆を興奮させ、日本人が勝つことを楽しむというムードを浸透させた。ここでも、各スポーツ競技毎に、勝者の国の国旗を掲揚し、国歌を歌うというスタイルを作ったナチスの企みは効果的だった。そのため、ドイツ政府や軍部が期待した、スポーツを観賞することで国民を国粋主義的に導くという意図は、まんまと成功した。
ベルリンオリンピックは、「オリンピックは参加することに意義がある」というオリンピックの提唱者であるクーベルタンの当初の目的を歪めていた。そのため、オリンピックに興奮した大半の日本人にとって、「オリンピック精神とは何か」とか「オリンピックはスポーツの祭典」というような理論は二の次であった。というより、当時の大衆とっては、「スポーツとは何か」いうことすら、まだ十分に浸透していなかった。さらに言えば、オリンピック開催は、紀元二千六百年記念事業として考えられ、当初からオリンピック精神とは別の視点から注目されてしまった。したがって、オリンピック中止を本当に残念に思ったのは、少数のスポーツ関係者だけであろう。オリンピック返上が決まった頃は、国民の生活が日に日に圧迫されており、オリンピックを実施するだけのゆとりが失われていた。
にもかかわらず、政府はオリンピックに変わるものとして「東亜競技大会」を昭和十五年六月に開催した。
東京大会は、明治神宮外苑(開会式、閉会式、陸上競技、自転車、サッカー、ラグビー、ホッケー、バスケ、バレー等)、明治神宮野球場(野球)、日本青年館(レスリング)、田園コート(テニス)、神田共立講堂(卓球)、日比谷公園(ソフトテニス)、横浜~小湊(ヨット)、片瀬~小田原(自転車ロード)などである。
関西大会は橿原神宮外苑(開会式、閉会式、ソフトテニス、バスケ、陸上競技、ハンドボール、バレー)、建国会館 (卓球)、甲子園(自転車、テニス、野球)、甲子園国際クラブ(テニス)、甲子園球場(野球)、南甲子園(サッカー) 、甲子園浜(ヨット)、花園競技場(ラグビー、ホッケー)、真田山公園(競泳、馬術)などである。
日程は、東京大会が六月五日から九日、関西大会が六月十三日から十六日にわたって催された。
大会の様子は、六日付の新聞によると「外苑に飜る国旗5旒」(東朝)とのように、満州国、中華民国(汪政権)、フィリピン、ハワイ、それに在留外国人等が加わったものの、日本の326人を含めて732人でしかなかった。ベルリンオリンピックは参加国49、参加選手4069人であるから五分の一、その規模はもちろん、大会の盛り上がりなどまったく比較にもならなかった。
それも、当時最も人気のあった野球は、勝つことが当然であったためか、学生野球の選手が中心であった。そのため、当時活躍していた川上哲治、沢村栄治、鶴岡一人などの人気プレーヤーは加わっていない。それでも、最も人気のある競技であったことは事実である。
「東亜競技大会」の競技成績は、新聞の見出し「日本軍辛勝す(野球)」「日本全勝(卓球)」「日本優勢(自転車)」(東朝)とあるように、日本が大半を占めるいう独壇場の大会であった。しかし、ベルリンオリンピックを知っている選手たちは、「東亜競技大会」がどの程度のレベルかを身をもって感じていたはずである。そのためか、競技は全体的に精彩を欠いており、世界新記録など世界が注目するような記録は皆無であった。そして、「東亜競技大会」の記事は、国内のスポーツ記事と同程度の大きさで、写真も少なかった。
また、観客数もかなり少なかったのだろう、「1500名の合唱や2600羽のハト」(東朝)と妙な数値は報道されるものの、肝心な観衆の人数ついては全く触れていない。競技場の写真を見ると、大半が学生で、ベルリンオリンピックのような華やかな雰囲気は微塵も見られない。競技のなかで最も人気のある野球にしても、「盛況」と報道されているが実際には「七分の入り」(都)ということから、他の競技がいかに盛り上がらなかったかがわかる。ベルリンオリンピックに比べるとあまりにも貧弱な競技場、その上数少ない観客や応援、国を代表した選手も、オリンピックのような気迫をもって競技をすることができなかったようだ。したがって、大衆は、「東亜競技大会」を観戦に出かけようなどという気持ちにならなかったのだろう、ほとんど関心を示さなかったようだ。
つまり、「東亜競技大会」は、選手にとっても国民にしても、オリンピックに代わるものとはならなかったし、政府にいたっては、ナチスのように戦争準備に利用するということもできなかった。もしオリンピック計画が当初からなければ、紀元二千六百年記念奉祝という一連の行事として、「東亜競技大会」は実行されただろうか。おそらく実施されなかったに違いない。