上野動物園に見る庶民のレジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)287
上野動物園に見る庶民のレジャー
 上野動物園のある上野公園は、東京市民最大の憩いの場であった。市内の行楽状況は、必ずといって良いほど上野公園や上野動物園(以下動物園)とともに取り上げられた。特に動物園は、入園者数が数えられていることから、人出のバロメータとなり、迷子の人数まで新聞に掲載された。また、動物園が時局の変化に対応していった経緯からは、戦争がレジャーに与える影響も見えてくる。
 動物園は、昭和二年(1927)に大改造が始まり、開園五十年記念祭が行われた六年には、大半が新しい動物舎になった。それまでの動物舎は、太くて頑丈な檻で作られていたが、新しいのは無柵放養式という、野性の環境によく似た背景で「より良く見せる」ように変わった。七年に開設したサル山は、その好例で、日本初の山水画風の動物舎である。
 入園者数は、不景気を反映してか、六年まではあまり増加しなかった。七年には、モモイロペリカンの繁殖に成功、エチオピア皇帝から贈られたライオンに2頭の子供の誕生もあって、入園者数は150万人(正確には七年度、以下同様)を超えた。以後、八年に念願のキリンを番いで2万5千円という高値で入手九年にシマハイエナ、マレーグマが贈られ、十年にシャムよりメスのゾウ(後に有名となる「花子」)、十一年にはシャムからクロヒョウのメス一頭が贈られ、さらに人気を集めた。
 なお、このクロヒョウは同年(1936)、脱出し猛獣の捕り物劇として新聞を賑わせた。「やっと生け捕り成功、東都の恐怖終幕」(七月二十六日付東朝)、「息詰まる戦慄十三時間にして、幸いに一人も怪我人も出さず、帝都の猛獣狩りも無事幕」とある。十一年は二・二六事件阿部定事件などが起き、クロヒョウ脱出事件も、世間を騒がす事件の一つに数えられた。この話題もあってか、入園者数は216万人、開園以来初めて200万人を超えた。
 動物園もこの頃から、次第に戦時色を反映するようになる。十二年七月、盧溝橋事件直後の十一日にキリンの「高男」が生まれると、新聞は麒麟児誕生」を戦勝の吉兆とこじつけ、にぎにぎしく取り上げた。また、同年の秋恒例の動物祭では、それまでの「動物慰霊祭」が「支那事変軍用動物慰霊祭」と銘打たれ、以後は毎年の軍用動物の慰霊祭を行うようになった。
 昭和十三年、花見や行楽の自粛が叫ばれるが、動物園は、傷夷軍人の入園が無料になり、入園者数は250万人を超えた。十四年、恒例の十二支にちなんだ「ウサギ展」では、軍用毛皮に関する展示が目立った。同年、当時の支那派遣軍司令官寺内大将より贈られた軍功動物、モウコウマ、シマウマ、ロバ(「盧溝橋」という名前の)、ラバ、フタコブラクダなどが宮中への献上という形で届く。また、中支戦線からは、飛行機でハリネズミ(当時珍しかった)が寄贈された。また、この年の七月、防空演習という形で、「空襲によって檻が破壊されて猛獣が逃げだした」という想定で、猛獣の捕獲訓練が行われた。
 花見の賑わいを宣伝するような記事はなくなってたが、十四年の花見時には一日6万人が動物園に訪れる日もあった。また、十五年の四月の入園者数は、50万人を超えている。戦時下で行楽活動が著しく制限される中、戦争遂行に功績あると認められ、花見時の夜間開園が廃止される程度で、市内の数少ない憩いの場となった。そのためか、十五年に300万人を突破、翌十六年は324万人、十七年には327万人と戦前の最高記録を打ち立てている。

 


十六年になると、ガソリン不足からトラックが使えず、代わりに園内の飼料運搬用に寄贈された軍功動物のウマを使うようになる。飼料が減っていく中、同じ種が複数いる動物を「整理」するとして、ヒマラヤグマ、ニホンツキノワグマ、ヤギなどが猛獣のエサとなった。また、動物園の職員も、応召によって入隊するものが多くなった。
 太平洋戦争が始まると、マレー方面の進攻先から、十七年のオオトカゲを皮切りにニルガイ、カンムリヅル、シマウマなどが贈られた。このトカゲとは別にコモドオオトカゲという世界的に貴重な動物も届いたが、到着後室内の暖房が十分でなかったために、翌年あいついで死亡した。
 また、十七年には、中支派遣軍第6884部隊からマスコットのヒョウの子が動物園に送られた。その後日、世話をしていた兵隊とヒョウの子が対面、新聞に取り上げられ、『豹と兵隊』という本まで出版された。他にも、蒙古連合自治政府から、フタコブラクダ、カンヨウ(寒羊、ヒツジの仲間)、モウコイヌなどが到着。このような贈り物が届くたびに、新聞は「銃後の国民」へと派手に書きたてた。そのため、動物園は明るい話題を提供する行楽地として多くの市民が訪れた。
 しかし、十八年(1943)に入ると、動物園も入園者数は208万人と激減。それでも、花見時の四月には、40万人程度が訪れたと思われる。減少したのは、レジャー自粛もあるが、空襲時の逃亡を恐れたライオンやヒョウなど猛獣処分による動物の減少も無視できない。多くの動物が毒殺だけでなく、撲殺や絞殺も行われた。中でも、インドゾウのメス2頭の処分された時のエピソードは、すでにご存じの向きも多いと思うのでここでは書かないが、悲しい最後であった。
 新聞は処分された動物たちを「時局捨身動物」と呼び、それに対し全国から数多くの手紙が寄せられた。むろん、時代が時代なので批判めいたものはなく,動物がかわいそうだとか、自分が殉国動物の仇を打ちたいなどといった内容がほとんどであった。処分後も、キリンの一家やスイギュウ、オットセイなどは残り、動物園は開園を続けた。
 さすがに、十九年の入園者は57万人、さらに激減。この数値から、市民の行楽活動も激減、買い出しや家庭菜園など食べることに直結する活動に移ったものと思われる。動物園では、八月に主なき後のゾウ室に棺5百個(その後4千個に増えたが、最終目標は一万という膨大な数字であった)が保管された。
 二十年(1945)、空襲はいよいよ激しくなり、三月初旬までにここで扱った死者は2千人ほど。しかし、三月九日~十日にかけての東京大空襲では、動物園も4日間の閉園して、山のような死体の処理が行われた。七月に入ると、わずかながら入っていた厨芥の納入も途絶え、動物園は廃園寸前の状態まで追い込まれた。そしてついに、八月十五日の終戦を迎えた。


  戦後、九月に入ると職員が戻り、十一日には早くも米兵70余名(入園料無料)が見物に訪れた。猛獣たちが姿を消し、目玉といえばサルやキリン、ラクダにエミューといった寂しい動物園であったが、市民の心を和ませるには十分効果があった。二十年四~八月の五ヵ月間の入園者数が45,817人(八月は5,957人)であったのが、九月には17,035人、十月26,063人、十一月41,490人と、入園者は確実に増えていった。