レジャー自粛でも盛り上がる昭和十三年の夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)235
レジャー自粛でも盛り上がる昭和十三年の夏
 オリンピックが始まれば、日本国中で盛り上がることは確かであろうが、昭和十三年(1938年)7月15日の閣議で、オリンピック辞退を正式に決定した。東京でオリンピックを開催しようとする動きは、昭和四年(1929年)頃から始まった。昭和六年の東京市議会でオリンピックを招致が決まり、開催へ向けて本格的に動き出した。東京オリンピック開催の狙いは、昭和十五年が紀元2600年にあたり、その記念行事としてクローズアップさせた。成功させることで、国威発揚、オリンピックを日本を世界に示す絶好の機会とするなども理由として挙げられていた。招致活動は功を奏して、昭和十一年のベルリン・オリンピックの際に第12回オリンピックの開催地に東京が決定した。
 しかし、盧溝橋事件(昭和十二年)以後の日本と中国の軍事的な衝突から、日中戦争は激化した。中国との戦争は、日本に対する国際的な批判が高まり、また国内においても、経済事情の悪化による物資の不足など、オリンピックを開催することが困難になった。そのため、「オリンピック大会中止」は、国内外からの相次ぐ大会返上の呼びかけに呼応するものであった。
 なお、昭和十三年当時の新聞記事から推測して、当時、世論のオリンピックへの期待や盛り上がりは感じられない。特に、軍部はオリンピックに、物資や兵士を取られ、戦力の低下を誘因することから、東京大会の返上は不可避であった。
 さらに、七月には、ソ連の国境付近で関東軍ソ連軍を国境侵犯を理由に攻撃を仕掛けた。ところが、二週間程の激戦を展開したが、ソ連の機械化部隊に叩かれ惨敗した。その真相は国民には伝えず、都合の悪い情報を知らせないという体質がさらに浸透していった。国民の生活状況の劣化は、「統制犯罪摘発に・・・処分もスピード化」y9.29でわかるように物資の統制が強化され、「外勤警官 休憩を廃止 人出不足に備へ戦時体制」「平警官給料日繰上」y9.29などと警察官までも締めつけの対象にされた。
 レジャーにおいても、七月の恒例隅田川川開きも自粛対象となり、「デパート福引売出しいかん」Y⑩、十月からは休日や閉店時刻などを規定する「商店法」(午後十時閉店)が実施される。

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昭和十三年(1938年)七月、東京オリンピック中止決定⑮、沙草峰で日ソ軍衝突(29)、長雨があがると市民のレジャー気運は高まり、川開きがなくなっても市内外に人出
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7月2日A 富士館日活系「人生劇場」満員御礼
  4日a 雨中の一万余銃後の歩武、靖国神社から皇居前へ
  5日Y 八日ぶり、街の灯だ、盛り場は夜店と散歩で漸く生色
  7日Y 支那事変一周年記念大会、後楽園に四万人
  10日Y 「デパート福引売出しいかん」
  16日ka 盂蘭盆にて公園の人出おびただし
  17日a 富士館日活系「闇の影法師」他満員御礼
  17日a 下駄履きスフの藪入り、六区や丸ノ内などの活動街に小僧さんたち氾濫
  17日Y 職業野球春の大リーグ戦閉幕
  18日Y 国技館の「危機の世界一周展」五万人を突破
  25日A 土用第一日曜 富士山は一万五千を突破の新記録、「海にもドッと繰り出したが」
  27日ro 有楽座「今日も大満員、『父帰る』」
 
 前月の二十八日から降りはじめた雨は四日の午後まで続き、床上浸水1万八千余戸。そのような状況の中でも「銃後の歩武」は「一万余」人動員して行われた。市民は水害の後始末に追われたが、一段落したのであろう。雨があがると、盛り場には夜店が並び、散歩の人が出た。
 十日は、「夜もふけわたるまで鬼灯市にぎやかなれば・・・公園内外の飲食店夜十二時限り閉店の厳命下りし由。また百貨店其他中元売出しの広告を禁ぜられしと云う。いよいよ天保改革当時の如き世とはなれり」。十二日は「この夜草市にて月よし」、と荷風は日記に記している。
 「万国博覧会遂に延期」「オリンピック大会中止」の見出しa⑮。正式には十五日の商工大臣声明で、「所期の成果を挙げ難き慮なしとせぬので政府は慎重考慮の結果、此の際博覧会の開催を延期し、支那事変の見据付きたる際更めて適当な時期に」と延期を通告。一方、昭和七年に招致が決まったオリンピックは、「現下時局は挙国一致物心両面に亘り総動員を断行し、聖戦の目的達成に邁進しつつある国内情勢に鑑み、之が開催を止むるを適当なり」と、東京市から東京大会返上声明が出された。オリンピックは返上なのに、一方の万国博覧会が事実上中止であったにもかかわらず延期とした。その理由は、万博延期の場合「抽選は続行するが払戻しはせぬ」a⑨と先手が打たれ、前売券が560万円も発売されておりそのうち60万円をすでに使っていたため、中止の発表ができなかったものと思われる。
 「スポーツを大衆の手へ還元」a⑨、そのためには体協が「用具なしの運動を奨励」した。しかし、本当は物資不足のためで、オリンピック競技場の建設どころか、「優勝旗やメダルの製造禁止」A⑨となった。また、警視庁の目の敵にされているダンスは、十日から婦人客の入場厳禁、男性は入場に際し住所・氏名・職業・年齢の記帳が義務づけられた。そのため翌日のダンスホールは「“女人禁制”に入場半減」A⑪。さらに、掟を破ると「“女禁”破り、教習所に廃業の厳罰」a⑫が下った。
 藪入りで賑わった翌日、「日曜日の人出盛なり。吾妻橋下より荷足船に灯をつけ納涼を勧むるものあり」と、浅草公園の夜を散歩した荷風は記している。市民のレジャー気運は、必ずしも落ち込んでいない。次の日曜も、台風が近づいているのに湘南方面の臨時列車8本はほとんど満員、上野・両国から海岸行きの電車は「三万人」乗車、月島・羽田・浦安・谷津・稲毛などは家族連れで相変わらずの賑わいであった。

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昭和十三年(1938年)八月、羽田上空で民間機衝突し市街地に墜落、死傷者130人(24)、レジャー自粛で避暑滞在客は減ったが日帰り客は増える勢い
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8月1日ro 鎌倉海岸で座員の慰労会
  4日A 「時局と涼しさ 海も山も四、五割減」、前月の千葉県下の避暑客四万八千で前年より一万七千減、軽井沢は一千減少の四千、富士山登山は一万人減の三万四千
  7日a 浅草電気館等「妻の魂」他満員感謝
  7日a 日本劇場「エノケンのびっくり長兵衛」他満員御礼
  8日A 海へ四十万人、この夏最高の人出
  11日a 浅草電気館等「妻の魂」他日延べ
  14日ro 公演中に三回も出征の呼び出し放送「此のところ又ひどく出征が多いらしい」
  15日Y 「水の受難日 土用波恨し」
  22日A 名残の海へ、山へ人々がドッと繰出す、東京駅から逗子・鎌倉へ二万、新宿駅は二十五万人、上野駅は七、八万、両国駅から約六万
  24日A 日本劇場「綴方教室」他連日満員御礼
  29日Y 「危機の世界一周展」開門前に国技館を二重
                                                
 新聞は時局を鑑み、避暑の自粛を浸透させようとしている。しかし、七日の日曜日は、省線も私鉄もどの電車も午前中は全部満員。人気の湘南地方へは、品川駅から15・6万人、東京駅から約4万5千人、小田急線で江ノ島へ2万5千人。京浜電車も逗子や金沢八景へ、この数年来に見ない人出。外房内房へも、両国駅から午前中5万4千人。京成電車も浦安や谷津・稲毛方面へこれに劣らぬ乗客があった。
 この夏の鉄道利用の避暑客は前年より一、二割多く、滞在客が減ったが日帰りがそれ以上に増えたためらしい。百貨店・運動具店の避暑用品の売行きは、前年より二、三割減。水着の高級品が悪かったのに対し、軽便な登山用品が出たのは「経費をかけずに鍛練忘れずといった処」Aと、新聞は結論付けている。
 荷風は、「軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言いながら戦地には盛に娼婦を送り出さんとす軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし」と八日の日記に書いている。学生のタクシー利用を制限、六大学リーグの「選手は電車で球場へ」Aなどと、市民感情を巧みに操作しながら、じわじわと市民レジャーへの締めつけが進む。

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昭和十三年(1938年)九月、二十年ぶりに大型台風来襲、江東一帯浸水①、天候不順や防空演習などでレジャー気運は沈滞ぎみ
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9月4日a 浅草電気館等「歌姫懺悔」他満員御礼
  5日Y 職業野球大リーグ戦、巨人戦で後楽園球場は内外野あふれる盛況
  11日a 六大学「自粛リーグ戦」開幕、内外野満員近く
  20日A 帝国劇場等「暗黒街の顔役」連日超満員
  24日a 日本劇場エンタツアチャコ金語楼水戸黄門漫遊記」連日満員御礼
  29日y 神宮外苑競技場のユーゲント歓迎式に六千
  29日y 「不用品交換即売会」商工奨励館に入場者三万人、売上げ一万円

 一日、二十年ぶりの大荒れ台風襲来。市民のレジャー気運が回復する間もなく防空演習。十二日から16日まで東京宝塚劇場・有楽座は公演時間変更の知らせA⑫。ロッパは、有楽座の「入りひどし・・・そこらの青年団みたいなのが昼間の時間潰しに入っている」と、さらに、演じるのが「憂鬱になる」、市内の「町々は何となく物々しい」と十二日の日記に書いている。
 十七日、「補助も完売。灯管でおそえられていた気持ちがワッと反発してよく笑う」と、ロッパは有楽座の盛況ぶりを見ている。灯火管制が終わると、映画・演劇の入りはよくなったが、月末の土日はまた雨で行楽だけでなく興行も人出が落ちた。