東亜競技大会と関係なく盛り上がる十五年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)242
東亜競技大会と関係なく盛り上がる十五年春
 紀元二千六百年奉祝東亜競技東京大会開催(正式には「東亜競技大会」であるが、会場が東京と大阪で開催ということで、新聞には東亜競技東京大会とある)を書き立てているが、市民の関心は低く人気がなかった。それに対し、大相撲夏場所早慶戦東京競馬場などは、満員の盛況が記されている。官製のイベントでも大勢の市民が訪れていたので、東亜競技大会は、オリンピックを再現するものとして、大勢の人々の関心が集まると高を括っていたように感じる。
 新聞は、日本選手の活躍を報じているが、学生野球より盛り上がりがなく、記録や成績も精彩を欠くものであった。最も人気があると思われた野球でさえ観客は少なく、「盛況」と報道された試合でも、実際には「七分の入り」と惨めなものであった。大会を評価する客観的な数字はほとんどなく、参加国が5(日本、満洲国、新生中華民国、比律賓、布哇)、参加者が日本(326人)を含めて732人の掲載があるだけ。競技の観客数についての記載は無く、いかに魅力がなかったかを示したものと推測される。
 昭和十五年までは、東京市に関する統計資料(「東京市統計年表」「警視庁統計書」等)はあるが、十六年以後の資料を見ることができない。各統計の昭和十五年は、賃金、職工数、芸能観客数、映画観客数など、何れもそれまでの最高値を示している。全国の統計書などを見ると、翌年までは増えているものもあるが、それ以降は減少しているものと推測される。太平洋戦争を境に市民の活動は衰退したのであろうか。
 気になる統計としては、自殺者および未遂者数がある。自殺者のピークは昭和十一年、最少は十五年である。昭和に入り、自殺者数は増加の一途で、十年に前年より一時的に減るものの、翌年には減った分を加えた以上に増え、二千人を超えた。以後は減少に転じ、十五年は千人余と半数近く減少した。何故、昭和十一年ころがピークか。そして、十五年が最も少なくなったか。

 自殺は、経済的な困窮によるケースが多いが、東京市の賃金指数はずっと増えている。昭和の不況は、ニューヨーク株式市場の大暴落から始まり、その影響が昭和五年頃から出ている。翌年には、生活苦を受けて「救済法」が成立している。確かに、東京市内の不況は、労働運動の活発化、労働争議の激化、失業者が溢れ、欠食児童が問題となった。この頃に自殺が増えるのでは考えたが、自殺数の増加はそれ以降も続いている。

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昭和十五年(1940年)四月、メータクの深夜営業禁止⑮、レジャー自粛なんのその、花見や行楽に家族連れで賑わう。
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4月6日a 日比谷公園で、中国新国民政府成立慶祝に行く大使・阿部大将の壮行会が開催され十万人参加
  7日ro 銀座の人出の凄さ、歩けない程なり
  8日A 花の日曜「帝都の人出は実に二百万を突破」
  8日A 軍馬の市中行進「沿道の人出は二十万以上」
  10日a 六大学野球「革新リーグ開幕」
  11日a 富士館等「宮本武蔵」他連日満員御礼
  16日ro 日劇の「蛇姫様」を見る、大満員
  21日Y 後楽園で「愛馬の夕」に四万人の合唱
  24日y 靖国神社春の臨時大祭「三万遺族集結」
  25日ro 「招魂社のお祭りで大変な人出である」
  28日A 靖国神社臨時大祭に意義深い催し物とりどりのパノラマ
  30日A 緑陰に綴る人出記録二百万、新宿駅が四十万、上野駅二十万、東京駅十万、京成電車二十万、東武五十二万、小田急十二万、他の私鉄も十万程度

 花見時、鉄道省の「自粛ブレーキ」など聞くわけがなく、七日の日曜は家族連れがドッと繰り出した。混雑は迷子数に比例するものと見られ、上野は動物園と花見で80余人、次いで浅草公園が六区を含めて50人、愛馬行進のあった銀座が7人、日比谷公園が6人などが続いた。
 市内の交通事情は悪化している。十八日、ロッパは「夜などバスや電車の停留所は黒山の人だかりである。自動車も段々ガソリンをとりあげられるらしい」と、暗澹たる気持ちになった。『東京温泉』『ロッパと将軍』等を演じている有楽座、七日頃までは入りが良かったが、以後週末に満員になる程度。
 二十三日の靖国神社春の臨時大祭からも人出があり、二十九日は、シーズン最高の人出「どっと二百万」人であった。市内では浅草公園が最も多く「五十万人近く」、神宮外苑「十万」、上野動物園は5万人も入場、50人の迷子があった。郊外へ向かう電車はどこも「殺人的な混雑に終始した」。

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昭和十五年(1940年)五月、外米六割混入米配給③、市民レジャーは四月に続いて盛況。
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5月3日a 相変わらずの「奉公日」、熱海や伊東は平日より千人も降客増加、温泉客奇怪な新記録
  5日a 日比谷映画劇場「美しき争い」満員御礼
  7日ro 歌舞伎座「十円八十銭という高い入場料が反っていゝのか大満員、補助も出ている」
  9日A 大相撲夏場所「今暁二時に爆発 初取組の喊声前夜のうちに鮨詰め
  10日A 国技館初日から沸騰 
  13日A 第六回日本体操大会、明治神宮外苑競技場「一万八千名」参加
  23日y 「代々木に結集した若人九万余」勅語奉読式
  27日Y 後楽園で「光と音の海戦 三万」の眼を奪う
  28日a 海軍記念日 陸戦隊の行進 歓呼の嵐を浴びる
  28日Y 春の栄光・巨人へ、大リーグ閉幕
  31日A 「過ぎるぞ遊興 奉公日も終業繰上げも空振り」「税額十四割に飛上がる」

 市民は、レジャーを自粛していない。「奉公日」に温泉宿が繁昌している荷風の五日の日記にも、「本日一日例の興亜何とやらと称する禁欲日にて、市中の飲食店休業す。芸者も休みなり。女子供この日を書入れとなし市外の連込茶屋また温泉宿へ行くもの夥しく」とある。
 大相撲夏場所は野球より人気があるようだ。ロッパも「相撲が人気で大分そっちへ取られているらしい」と、十五日の日記にある。なお、この場所の後半は、双葉山の休場など興味を殺がれたがそれでも千秋楽まで盛況であった。

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昭和十五年(1940年)六月、マッチ・砂糖の配給統制⑤、紀元二千六百年奉祝東亜競技東京大会開催⑤、府議会議員選挙⑩、勝鬨橋開通⑭、レジャー気運は落ち込んでいないが東亜競技東京大会は不人気。
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6月2日A 奉公日、街頭争覇戦もなく、芸妓や女給の同伴外出もなく「まず上乗の奉公日」
  2日a 早慶戦、内野席は七時半、外野席は十時に一万五千枚が売れ、開門忽ち内外野殆ど満員
  3日Y 東京競馬場の第九回ダービー、第一日は日曜日とあって六万人の熱狂、馬券売上三万八千円
  3日A 銀座の早慶延長戦 七十名を留置 奉公日翌日の醜態
  6日A 明治神宮競技場で東亜競技東京大会入場式
  10日A 東亜競技東京大会最終日、始まって以来の入り
  16日y 日枝神社、自粛夏祭
  22日t 撞球場や麻雀屋に代わりピンポン屋激増
  23日a 修学旅行禁制、訓練も二泊以内の強化通牒
  28日a 邦楽座「民族の祭典」満員御礼
  29日a 井之頭・芝・大塚、井戸水でプール開き

 この月から、マッチと砂糖の切符制を実施。この切符制とは、家庭毎に切符が配給され、入手後三日から十日の間に購入でき、期間を過ぎれば切符があっても品物を入手することはできない。切符制は、配給制度として品数を増し、配給毎に並ぶという耐久生活が定着することになる。
 生活が悪化するなか、五日から、紀元二千六百年奉祝「東亜競技大会」がはじまった。参加国は、満州国中華民国汪政権)、フィリピン、ハワイ、それに在留外国人等が加わったものの。参加者は、日本の326人を含めて732人であった。政府は、東亜競技大会をオリンピックに変わるものと開催したが、ベルリンオリンピックの参加国49、参加選手4069人に比べると、その規模はもちろん、大会の盛大さなどまったく比較にもならなかった。
 大会競技の成績は、「日本軍辛勝す(野球)」A⑦、「日本全勝(レスリング)」A⑧、「日本優勝(ヨット)」A⑩と新聞の見出しにあるとおり、日本の独壇場であった。ベルリンオリンピックを知っている選手は、「東亜競技大会」の盛り上がりのなさを痛感したのだろう。競技は全体的に精彩を欠き、世界新記録などはもちろん、世界が注目するような試合は皆無であった。
  では、市民は競技場にどのくらい出かけたか。入場式の記事は、「専門学校生徒千五百名による紀元二千六百年頌歌の合唱」や「二千六百羽の鳩」と妙な数値は報道されるが、肝心な観衆数ついては全く触れていない。競技場の写真を見ると大半が学生、ベルリンオリンピックのような華やかな雰囲気は微塵もない。競技のなかで最も人気のある野球さえ、「盛況」と報道されているが実際には「七分の入り」(都)らしい、他の競技がいかに観客が少なかったかがわかる。
 市内の遊技場にも変化が現れ、一時繁盛したコリント・ゲーム屋は全滅し、撞球場や麻雀屋も厳重な取締にあって減る傾向のあるなか、卓球場が激増している。