オリンピックで沸き上がる十一年夏の市民

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)227
オリンピックに沸き上がる十一年夏の市民     
 二・二六事件の翌日に出された戒厳令が七月十八日に解除されると、防空演習が実施された。八月には軍部支配を助長する「国策の基準」を決定した。国策の基準とは、広田内閣が五相会議(首相・外務・大蔵・陸軍・海軍)で定められたもので、陸軍と海軍の「南守北進論」と「北守南進論」を採用した。つまり「南北併進」、東南アジア・ソ連の双方へ進出することを国策とした。これで、日本が総力戦に備えた高度国防体制を確立し、戦争への道を歩み始めることになる。また、「北支処理要綱」を定め、陸軍の方針の華北五省を中国から切り離し、日本の勢力下に置くことを政府の政策として決定した。
 八月一日から第十一回オリンピック競技大会がドイツのベルリンで始まった。まず四日、走り幅跳びの田島選手が三位入賞、初の日章旗が揚がった。六日には、同じく田島直人三段跳で金メダルを獲得、これで一気に、ベルリン・オリンピックに沸いた。さらに九日、マラソン孫基禎が優勝した。そして、十一日、前畑秀子が200m平泳ぎで女性初の金メダルを獲得した。この試合はラジオ中継され、放送したNHKのアナウンサー河西三省よる絶叫、「前畑がんばれ! 」は、日本オリンピック史の伝説となっている。沸きに沸いたベルリン・オリンピックは、十六日に終わり、金メダル6個、銀メダル4個、銅メダル11個の成果を獲得し、世界で七位であった。
 国民、市民に高揚感があり、不景気の様相は消えたようだ。市内には人出があるものの、天候不順、目ぼしいイベントがなかったことから、映画などを除き市民レジャーは盛り上がりに欠けた。
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昭和十一年(1936年)七月、陸軍軍法会議で2.26事件の判決⑤、東京・横浜・川崎三市連合防空演習開始⑳、上野動物園の黒豹脱出(25)、梅雨空が続き、一部の興行を除いて市民レジャーは低調
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7月2日y 早大球場で職業野球選手権大会、大隅候の始球式、すし詰め一万のスタンド
  5日a 浅草電気館等「破れ合羽」他満員御礼
  16日a 浅草電気館等「大地の愛」他満員御礼
  16日a 麻布松竹等「入婿合戦」他満員御礼
  16日a 帝国劇場館等「極楽浪人天国」他満員御礼
  16日y 藪入り「水と山の遠出が流行」谷津海水浴場も大賑わい、正午の入場者一万を突破
  17日y 涼を求めて国技館の「日本アルプス」に殺到
  19日Y 川開き「一目千両・人出八十五万」
  20日y 海水浴客満載の京成電車追突
  24日a 日本劇場「エノケンの千万長者」連日満員
                                                
 三日、荷風は、伝法院裏門外より池のほとりに並んだ露店を覗き、「人の殊更多く集るものは八ツ目鰻のつけ焼きと姓名判断の冊子得るところなり」と記している。「銀座八丁を泳ぐ夜涼み姿」A⑫と、市内には人出があったのだろう。そのため、ロッパは、十五日の藪入りの入りに期待していたが、「お盆は丸の内じゃいかんかな」、客を「今日は暑いから海へとられたらしい」と日記に書いている。
 続く十八日は川開き。テーマは「オリンピック大会」、前年より「三十五万人」も多かったとあるが、取締りが厳しいためかスリ1、ケガ1、泥酔1などと少なかった。
 二十日、満員の続いた日劇の「歌う弥次喜多」などの興行は千秋楽。ロッパは気分よく劇場から外へ出ると、防空演習の第一日なので真っ暗、演習を逃れて東京発十時半の列車で熱海に向かった。二十七日、ロッパは、東京劇場の少女歌劇「夏のをどり」「忘れな草」を見て、「ターキーの馬鹿な人気には驚いた・・・こんな華かな拍手と歓声に乗って登場したのは」見たことがないと。二十八日の日劇エノケンの千万長者」を見ても関心している。三十日、「地下劇場のニュースを見ようと思ったら満員、何しろ暑いので都人は映画館へ涼みに入るのだ、浅草は益々さびれるわけ」と日記に書いている。

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昭和十一年(1936年)八月、第十一回オリンピックベルリン大会開催①、七大国策の基準を決定(25)、日本国中がオリンピックムード一色になるが、夏のレジャーは低調
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8月2日a 浅草電気館等「江戸秘帖」他満員御礼
  6日a 日本劇場「これは失礼」他満員御礼
  17日Y 国技館の大納涼「日本アルプス」、プロマイド配布で「入場者無慮二万余」
  18日A 日比谷音楽堂前でオリンピック実況映画公開
  19日a 帝国劇場等「最後の戦闘機」他満員御礼
  26日Y 森下公園の盆踊大会で悲劇
  26日a 帝国劇場・大勝館等「小公子」他満員御礼
                                                
 八月に入り、人々はベルリンオリンピックに熱をあげている。四日に走り幅跳びの田島選手が三位、初の日章旗が揚がる。棒高跳びで、西田・大江の両名で二位三位の争いを繰りひろげ、興奮をさらに高めた。三段跳び、マラソン、水泳の前畑と、金メダルが続くにしたがってオリンピックムードのボルテージはピークに達した。
 海や山への人出を伝える記事が少ない。それでも、川崎扇島ゆきのバス衝突事故a⑦から海水浴、森下公園の盆踊大会の事故などの記事から、夏のレジャーはそこそこの賑わいがあったと思われる。
 ロッパの八日の日記から、有楽座公演「歌う弥次喜多」などは「無論大入満員」。荷風の十五日の日記から、「言問橋西岸に花火の催しあり。看るもの織るが如し。此夜伯林オリンピックの放送を十二時より十二時半に至る。銀座通のカフェー及喫茶店これがためにいずこも客多し」。また、ロッパの二十四日の日記に「今年の夏の興行は冷房の勝利」と、映画や芝居も前月より活気を取り戻した。

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昭和十一年(1936年)九月、帝国在郷軍人会公布(25)、市民のレジャー気運は引き続いて低調
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9月2日a 秋草繁し震災記念日
  2日a 帝国劇場等「妻と女秘書」他満員御礼
  5日a 日本劇場・秋の踊り「続エノケンの千万長者」他満員御礼
  12日a 帝国劇場等「地の果てを行く」他満員御礼
  13日a 六大学リーグ戦開幕、「浄化宣誓も力強し」約五万の観衆
  19日A 九段軍人会館「満州事変五周年の夕べ」盛況過ぎて十数名負傷
  19日a 日本劇場「来るべき世界」他満員御礼
  20日a 浅草電気館等「戦場に吠ゆ」満員御礼
  23日a 「秋祭りの悲劇二題」白山神社の祭
 
 九月になっても市民レジャーは低調、市内のイベントは学生野球ぐらい、市民の楽しみは映画や演劇に向かわざるを得ない。また、荷風の二十日の日記にあるように「日曜日にて街上雑遝甚し」と、銀座などの繁華街に出歩く程度である。祭も行われているが、話題になるは事故が起きた時くらい