江戸時代の椿 その12

江戸時代の椿  その12
 
★1790年代(寛政年間) 『来禽図彙』『津可呂の奥』の山茶、椿
・『来禽図彙』
  『来禽図彙』は、北尾政美によって描かれ寛政二~三年(1790~91)頃刊行された。実物はもちろん、写本等も見ていないが『樹木図説』に、「〔来禽図彙〕山茶、和名つばき、日本古書にツバキを海石榴と書きいつの頃よりか椿をツバキと読み来れり、されども椿はツバキに非ず、香椿とてチンと云ふ、花なく実なし、長崎福済寺関帝堂の前にあり、寛文の頃唐山より来れりと云ふ、其葉両々相対し葉の中筋紅く香あり、根より苗を生じて繁生す若葉の時煎茶とし又末して茶に点ずれば香佳しと云ふ。
  山茶は葉極めて厚く面に光ありて実に脂多く、毒なし、好事の者諸品物を煎じ食味胡麻油よりかろく優れりと云ふ、燈油と為て煙なく、極めて好なり、刀剣にぬりて錆を生ぜず、故に自鳴鐘に此の油を用ふ、本綱に婦人髪ねばるに研末して之をこすると、今試るに神効あり、吾邦此の葉に石決明の生なるを包むに久しく損せず、又花を蔭千にして粉末にしシキミに合せて焼けば香よく焼けやすし。」という記述がある。
 
・『津可呂の奥』
  『津可呂の奥』(仮題)は、国学者菅江真澄が寛政七年(1795)三月に南部領から津軽領に入り、東津軽郡平内町の椿崎を見物した時の日記である。その二十六日は、「海もなぎ空もはれたれば、つとめて椿崎見にとて出ゆく。浦館よりみちしばし離れて岨(いしやま)よりくだれば、波うつ岸べよりけしき遠ざかりたるいそ山に、としふる椿のひしひしと生ひ茂りたり。こは如月の頃雪やゝけぬる頃ゆ、やをら咲初てけると云ふ。今、やよひの末つ方花はなからばかりも咲つれど、紅ふかうふゝみたるは稀なるやうに、朝日の影にいとまぱゆきまで、にほひの潮と共に満々たり。年毎の卯月八日の頃ほひは、いつもまさかりとて、近きわたりの人々うちかたらひ、かちよりし、舟にてこゝに渡り花見すと云ふ。けふの空、のどかにうち霞みたる朝泙に、こゝらの椿咲たるは、巨瀬(大和巨勢)の春野のたま椿も、えこそをよばねと、こなたかなた、ちりたる花とり吸遊ぷ童を友にわけめぐりわけ入て、小川の流るゝへたに椿明神と云ふ祠あるにぬかづく。ころは文治(一一八五~九)のはじめやらん、此浦にかほよき女ありけるが、こと国の船人年々来て、此うらうらの宮木伐てつみ行男と契り、末はいもせのかたらひせまくむつびたり。其舟人の帰りゆかん折に女の云、都人はつねに椿の油てふものもてぬりて、髪の色きよらにつやつやとひかり、つらつら椿の葉のごとにありとこそきけ。かゝる賤しき海士少女も、をぐしとるいとま、露ぬりて、にやはしきものならば、来る年のつとに椿の実たうびてよ。絞りぬりてんと、余波すべなうない別て、とし明れば此船長のこんやと、むつきより、しはすまでまつに、むなしう船の来ざりければ、又のとしも春より一とせを待つに、いかゞしたりけん二とせ斗船長のこぬを、この男は、ことめ(異女)に心ひかれてやと、契のたがひしを深く恨て海に入て身まかれり。その女のなきがら波に寄たるを、浦人ら、なくなく横嶺といふ所に埋て、つかじるしに木を植てあととぶらひけるをりしも、かの船をさ三とせを経てこゝにこぎつきて、さりがたき事にたづさはりて、二とせ三とせも沖のりせざりける。こたびは、きつる、かの女は事なしやと間ふ。浦人しかじかとこたふるを聞て、ふなをさ、こはまことか、いかゞせんとてふしまろび、血の涙を流してなけどいふかひなう、せめて其塚にまうでんとてよこみねに行登りて、莓(苔)の上にぬかさしあてて、いける人にものいふやうに悔の八千たびものいひつつ、其つゝみ来る、いくばくの椿の実どもを女のつかのめぐりにまきて、今は苔の下に朽ぬる黒髪の、いかに此油ぬるともつやゝかならんやはと、たゞなきにないて舟こぎいにき。その椿残りなう生ひ出て林となり、花ことにおもしろく咲たるを人折れば、きよげなる女あらはれて、花な折そと惜しみしかば、海士、山賤おそれをなして、女のなきたまを神にいはひけるとなん。其かん祠も今は横嶺より、かく、こと所にうつしたりけり。・・・」とある(『菅江真澄全集』第三巻日記Ⅲより転載)。
  この磯山は、現在の青森県夏泊半島先端にある約20haほどの地域。地元では通称「椿山」と呼ばれている。ヤブツバキは、海岸に面した低い山に生育する。大きいものでは幹回り二メートル、高さ六メートル程にもなり、1万数千本も生育している。『ツバキ自生北限地帯』として国の天然記念物に指定。この「椿山」は、江戸時代からすでに景勝の地として知られ、椿神社が祭られているように、昔から人々の注目を集めていた。