茶庭 23 小堀遠州その8

茶庭 23 小堀遠州その8
 
桂離宮小堀遠州
  森蘊は、遠州桂離宮の作者である可能性について、a記録上、b意匠上、c政治的背景、d時問的余裕、e親王自作の公算、という視点から考察している。
a記録上  記録には、「親王白身の現場指導であることを暗示している。」と述べている。
b意匠上  「如何にもよく出来ている桂離宮の外腰掛前延段も、遠州の作意から見れぼ、まだまだだと言われはすまいか。」と、かなりきびしい評価で、「遠州桂離宮の作者だとは断定できないように感じられる。」とある。
c政治的背景  政治的な背景からは記録にないとしているが、完全否定ではない。
d時問的余裕  「晩年は病気勝ちであった。」「あちらこちらと公儀以外の仕事をかけ持つことはなかった。」と否定的である。
親王自作の公算  「第一期(元和六年-寛永元年)は智仁親王自身の指導、第二期工事は智忠親王自ら施工指導され、殊に後者は、常照院殿消息に『思し召すまま』と書かれ、『にぎはひ草』に『御作意ならんかし』と書かれた理由であろう。殊に第二期造営で工事に協力したのは遠州ではなしに、玉淵坊を従えた小堀左馬助正春が遠州の死期にまたがり、それ以後において完成したのではないであろうか。」と結論している。
  以上の結論については、『建築論叢』(堀口捨己)からも十分納得できるものである。堀口は、「わが国の建物でも、誰々好みという言葉はあっても、今あるような設計家があったわけではないから、それは室町時代の東山殿や秀吉の桃山城におけるように、作らせる人と、その回りにその話を聞き、その問に答えたり、言葉を進めたりする多くの人々が取りまき、その下に工を行う人と手とがあって、進められて行くのが習であった。そこにはどの人が設計家であったと決め兼ねるような連りであった。それはたとえぼ平安時代の鳥羽殿最勝光明院であるが、角田文次氏の研究によると、全くその通りであった。また室町時代の義政の東山殿においても、その頃の日記などから推して、そうとしか思えないものであった。この桂離宮においても、恐らくそれに近かったであろうかと思う。特に建物などが二、三に分かれて、年月の幾らかの差が考えられるような場合、今われわれが、一つの纏った姿で見ていても、それは一人の創作と見るべきでなしに、一つの時代の作品として受け取るべきであろう。そしてその時代には、智仁親王、智忘親王をはじめ、小堀遠州も玉淵坊も、その他多くの人々の考えが作り出したものと見るべきであろうかと思う。しかしまたこのような時代の作品としても、その時代は、千利休古田織部小堀遠州と伝わって来た茶の湯宗匠としての位が、この遠州に受け継がれた世であった。その含みで、時代が生んだ茶の湯に関わるすぐれたものは、おおむね世は遠州好みと考え勝ちであった。それがここにも表われて来たと見るべきであろうかと思う。」と述べている。  桂離宮のみならず、庭園の大半は設計者の断定が難しく、また特にその必要もなかったのだろう。末端で庭づくりする職人が同じ人たちであれば、ディテールが似てくるのが当然である。それは、当時の作風の特徴の一つとして理解すべきであろう。
 
小堀遠州の設計
  17世紀になると、作事業務の複雑化から総指揮者・設計者という人が必要となり、設計図が記されるようになった。その結果、遠州の存在が明らかになり、遠州の力量を確認できるようになった。それまでは、設計図など作成すること稀であった。たとえば舟、小さな和船を作る際、設計図はほとんど描かれなかったようだ。和船は、船体を構成する材料を、使用する木材性質に合わせて切断し削りだす。もちろん、製作する人の頭には、寸法や組み合わせの具合などの構想はできている。が、個々の木材は、木に合わせて削られ、形作られるもので図化しにくい。だから、設計図は作成できないと、いうよりも必要としないのである。個々の担当職人もそのことがわかっているから、材料から推測して曲げたり、鉋をかけたりする。そのような作業が集大成して、ようやく一艘の和船ができあがる。遠州が関わったとされる石組み、手水鉢などのガーデンファニチャーも、同様であっただろう。特に、石組みは、建築と同じような規格で材料を調達できるものではない。現代でも、設計図通りの庭石を探すことは難しく、逆に庭石を見て作図することもある。また、現場に運び込まれた庭石の中から選び、石の個性に合わせて組むこともある。
では、遠州は、作庭にどのように関わったのだろうか。庭園の設計図といえば、現代でも江戸時代に描かれた『築山庭造伝』の絵程度の図面があれば充分である。「ところが小堀遠州が採用した庭園の図法は大へん進歩したものであった。・・・建築については勿論のこと、庭園の場合でも、建築工学的な方法を応用し、実測から得た数値と、或る幾何学的な製図法によって設計図却ち指図を作製している。・・・惣指図というのは今日で言う基本設計で、敷地の輪郭、建築の配置、庭園の地割といったものが取りあげられる。次の段階では個々の建築の平面図と起し絵図とが作られる。建築と同じ敷地の中にある庭園については、ともに同じ縮尺に庭園の平面図をかき、その中に配置される樹木や庭石だけは、その高さ大きさの比例に応じて、立ち姿を図示するもので、建築に於ける起し絵図と同じような役目をなす。近代的に言えぼ立面図を併用したということができる。」と、森蘊は述べている。
  またそれに加えて、「建築や庭園に於ける配置上の調和は、茶道具に於ける置合の妙味に比肩すべきもので、師匠古田織部が『すべて角懸て』を強調しているように、遠州もまた置合せに於ける『角懸て』を好んだ。ただ遠州の場合は、その角度の上にもう一つ注文があったようである」。それは、「角度の知覚」として45度、30度、さらには36度(3:4:5から得られる)を意識している点である。これは整形庭園の花壇などの設計に反映され、遠州ならではのものとしている。まさに建築家が発想する庭園設計ならではのスタイルであろう。
次に、森蘊は「加工石材の挿入」を遠州ならではの手法としてあげている。ただ、加工石材を庭園に導入することは、織部の時代でも畳石で切石を使った例があり、必ずしも遠州のオリジナルとは言えない。その点について、森蘊は「加工石材の挿入」の使用形態が一段と洗練化され、人の視線を誘導、おのずと足を向かせることを可能にしたという点において、遠州の独自性を強調している。その良き例として、孤篷庵敷石道を示している。それでも、なお気になるのは、孤篷庵の作庭におけるそうした複雑な石の配置が、江戸に居る遠州からの遠隔指示で本当に可能だったのかという疑問である。推測するに、当時の職人の間では、そうした敷石の配置は周知のものであり、それゆえ遠州の遠隔指示だけでも施工できたのではないだろうか。どうしても直接遠州が関わったと考えるなら、それは、遠州が孤篷庵との間を行き来するようになり、自分の目で現場を見てから指示したことになる。そうであれば、遠州の好みの形態になるのは至極当然の帰結である。
  建築的な空間の取り扱いという点については、遠州の力量は確かである。が、庭園のデイテールについては必ずしも、森蘊の見解には同調できない部分がある。それは、「露地の石造物」としての石橋と手水鉢についての具体的な例が、孤篷庵の一例しかないにもかかわらず、それだけで遠州らしさを論じているからである。遠州は、庭園に建築的手法を導入するという画期的なことを行ったが、織部の茶碗のような斬新なデイテールをいくつも創出することはなかったようだ。森蘊も「茶道具を通じて見た『遠州好』」で、遠州が生来器用であったことは認め、改良してはいるがオリジナルとは言っていない。
  森蘊は、ガーデンファニチァーに古物を利用していることを、遠州の特徴としてあげている。遠州は、『古今集』など古典を愛する懐古的な傾向が強く、また鶴亀というような伝統的な主題にも一目を置いている。そして、『古今集』の歌切れを床に掛け、遠州ならではの活用法を考案した。また、庭園においても、手水鉢などに古物を利用した遠州の細工が見られる。それを見ると、遠州が確かに素晴らしいものを選んでいることは間違いない。既存のものの中から優れているものを選んで組み合わせること、それが遠州好みの根源となっているようである。遠州好みと言われるものは、遠州が相当な目利きで、その撰眼に狂いがないことを証明していると言えるであろう。