茶庭 22 小堀遠州その7
小堀遠州と茶花 その2
・遠州の好みの茶花
小堀遠州茶会記に登場した花は、38種ほどある。現在使われている茶花に比べると意外に少ないと感じた。最も多く使われたのがスイセン(78回)、次いでウメ(56回)、ツバキ(30回)、サザンカ(23回)、ハス(19回)、コウホネ(15回)、ボケ(11回)、フクジュソウ(11回)の順である。これらの花は、寛永二年(1625)から正保三年(1646)まであまり変化していない。そのため記載のない、寛永六年から十二年までの茶花についても、前後の期間(寛永二年から五年、寛永十一年から正保三年)と同じような種類の花が使われたものと思われる。
花の使用回数から遠州の好みを判断すると、スイセン、ウメ、ツバキ、サザンカ、・・・となる。遠州自身はサワギキョウを好んだという指摘があるように、使用回数だけで好きな花であると断定することは難しい。もちろん、使用回数が多いということは嫌いではなかったのだろうが、ただ、よく用いた花に共通する点を見ていくと、白色を選んだということは確かなようだ。
そこで、『利休の茶花』(湯川制)に示された茶花と比べてみよう。使用回数の多い順に、梅・菊・椿・柳・スイセン・蓮・杜若・牡丹 ・桃 ・卯の花 ・朝顔 ・ほけ・藤・アジサイ・夕顔・しの花・やくも花・小車がある。『利休の茶花』の種類は『小堀遠州茶会記集成』の茶花の72%が同じで、かなり似ていると言えそうである。
・遠州の好みの茶花
小堀遠州茶会記に登場した花は、38種ほどある。現在使われている茶花に比べると意外に少ないと感じた。最も多く使われたのがスイセン(78回)、次いでウメ(56回)、ツバキ(30回)、サザンカ(23回)、ハス(19回)、コウホネ(15回)、ボケ(11回)、フクジュソウ(11回)の順である。これらの花は、寛永二年(1625)から正保三年(1646)まであまり変化していない。そのため記載のない、寛永六年から十二年までの茶花についても、前後の期間(寛永二年から五年、寛永十一年から正保三年)と同じような種類の花が使われたものと思われる。
花の使用回数から遠州の好みを判断すると、スイセン、ウメ、ツバキ、サザンカ、・・・となる。遠州自身はサワギキョウを好んだという指摘があるように、使用回数だけで好きな花であると断定することは難しい。もちろん、使用回数が多いということは嫌いではなかったのだろうが、ただ、よく用いた花に共通する点を見ていくと、白色を選んだということは確かなようだ。
そこで、『利休の茶花』(湯川制)に示された茶花と比べてみよう。使用回数の多い順に、梅・菊・椿・柳・スイセン・蓮・杜若・牡丹 ・桃 ・卯の花 ・朝顔 ・ほけ・藤・アジサイ・夕顔・しの花・やくも花・小車がある。『利休の茶花』の種類は『小堀遠州茶会記集成』の茶花の72%が同じで、かなり似ていると言えそうである。
金盞銀台
眼皮
さらに、『山上宗二記』に示された茶花とも比べてみよう。記されている花は、「白梅。妻(め)柳。薄色の椿。白玉椿。金盞銀台。水仙花。寒菊。芍薬 薄色の千葉(ただし赤芍薬無用なり)。うちの撫子。石竹。桔梗。夕顔。白き芥子。槿(あさがお)。萩。眼皮(がんぴ)。一八(いちはつ)。むくげ。春菊。」など16種。「いずれにこの外なるとも、白き花入るべし。赤きは無用か。」とある。使用頻度はわからないが、セキチク・ユウガオ・ハギ・ガンピ・イチハツを除く11種は同じである。これも69%が同じである。なお、『利休の茶花』と『山上宗二記』の茶花は、いくつかは異なっているものの、利休と山上宗二は師弟関係から類似することは当然であろう。
うちの撫子
石竹
そこで、遠州と利休の茶花の使用頻度を見ると、必ずしも同じではないようだ。『小堀遠州茶会記集成』と『利休の茶花』の植物ごとの使用頻度を図示すると、左図のようになる。使用回数の上位3は共通する。使用回数の多い植物は6割共通するものの、2回以下の植物は7割以上が異なる。そのため、遠州と利休の茶会での茶花の使い方には相関(R=0.54)は見られないと言えそうだ。同じような花を使用しているものの、使用頻度が異なるのは、遠州と利休の好みによるものかと思われるが、『利休の茶花』のサンプル数は少々少ないので断定できない。
さらに、時代は下って、『金森宗和茶書』(茶湯古典叢書四)の茶花と比べてみる。なお、この書の茶会記は、宗和没後に編纂されたもので、転写が重ねられており、記録が47あるものの不明な部分があると、解題に記されている。以下に示す茶花は、記載のある35程の茶会からのものである。最も多いのがウメで12回、次いでキク5・ツバキ4・ユリ4・ボタン4・サザンカ3・スイセン2・アジサイ2・アサガオ2・シュウカイドウ2、一回の花としてヒルガオ・ガンピ・ミツマタ・トラノオ・ススキ・モクレンなどがある。なお、その他に、うのはなかつら(ウツギ?)・かくすて・ことしゆう・ほうちゅうなど不明な花が10種以上あり、転写の折に名が変わってしまったのだろうか。それでも、3回以上使用されている花は、すべて『小堀遠州茶会記集成』にもある。花の種類は共通しているものの、両茶会の使用頻度に相関(R=0.58)があるとは言えない。金森宗和の茶会も、サンプル数が少ないので、使用頻度の違いを遠州と宗和の個人的なものと断定することはできない。
では、『小堀遠州茶会記集成』に記した花が茶会に使用されたのは、遠州の好みかを考えると。どうも、遠州の好みというより、その時代における人気や需要を示すと言えそうである。そして、その時節に咲いていて入手しやすい花を使用したということもあるだろう。そう思って見ると、確かに流行したツバキは比較的良く使われ、開花時期が長い花(スイセンやウメなど)ほど、使用頻度が高い。茶花として使う際、珍しい花や凝った花を積極的に使うという、気を入れた選定はあまり見られなったようだ。この事実から見ても、当時の茶会での茶花は、道具飾りに比べて人々の関心が低かったことを示していると思われる。
追、「朝かほ」「朝顔」がヒルガオ科のアサガオであるがどうかという点について。「朝かほ」「朝顔」の記載は寛永二年・三年八月廿六日之朝、廿八日之朝、廿九日之朝、寛永十七年七月二日朝の茶会に出てくる。八月廿六日晩の茶会に「ききやう」という記述が見られることから、「朝かほ」「朝顔」はキキョウではないことは確かだ。また、「朝かほ」「朝顔」がムクゲである可能性については、正保三年七月十六日之朝、八月十六日之朝の茶会に「槿」が記されている。「槿」はムクゲであることから、「朝かほ」「朝顔」がムクゲを指しているとは思えない。その他の植物である可能性を完全には否定できないが、私には以上のようなことを根拠として「朝かほ」「朝顔」はアサガオであると考えた。
また、「さゝむ花」「茶山花」がツバキ科のサザンカであるかどうかという点について。寛永五年九月廿日之朝の茶会に「つはキ 茶山花」と両方の名が記されていることから、当時の人はツバキとサザンカを識別していたと考えられる。ツバキの名は、昔から知られていたが、サザンカの名前が世間に浸透したのは、慶長年間に入ってからである。サザンカは、当時としては新しい茶花であり、茶花として活けるにあたっては、わざわざサザンカを使用すると意識して使ったと思われる。『小堀遠州茶会記集成』のツバキ関する記述は、ツバキの種類や形状を詳しく見抜いているように思う。たとえば、寛永五年(1628)十月四日晩の茶会に活けられた「小椿」(なお、年月不詳とされる茶会にも2回登場する)、当時には人気があった種らしい。『隔蓂記』(鹿苑寺の住持鳳林承章の日記)には、寛永十九年(1642)三月十九日「仙洞にツバキを献ず 小椿之飛入」と記されている。このように、ツバキ類についての記述は信頼性が高いものと信じられる。したがって、ツバキの一種を「さゝむ花」「茶山花」と呼ぶことはなかったと思われる。
また、「さゝむ花」「茶山花」がツバキ科のサザンカであるかどうかという点について。寛永五年九月廿日之朝の茶会に「つはキ 茶山花」と両方の名が記されていることから、当時の人はツバキとサザンカを識別していたと考えられる。ツバキの名は、昔から知られていたが、サザンカの名前が世間に浸透したのは、慶長年間に入ってからである。サザンカは、当時としては新しい茶花であり、茶花として活けるにあたっては、わざわざサザンカを使用すると意識して使ったと思われる。『小堀遠州茶会記集成』のツバキ関する記述は、ツバキの種類や形状を詳しく見抜いているように思う。たとえば、寛永五年(1628)十月四日晩の茶会に活けられた「小椿」(なお、年月不詳とされる茶会にも2回登場する)、当時には人気があった種らしい。『隔蓂記』(鹿苑寺の住持鳳林承章の日記)には、寛永十九年(1642)三月十九日「仙洞にツバキを献ず 小椿之飛入」と記されている。このように、ツバキ類についての記述は信頼性が高いものと信じられる。したがって、ツバキの一種を「さゝむ花」「茶山花」と呼ぶことはなかったと思われる。