アヤメとハナショウブの表示名について

茶花と花材の植物名その17

ヤメとハナショウブの表示名について
・アヤメ・イチハツ・カキツバタハナショウブ
  茶花や花材を調べていて、気になるのはアヤメ・イチハツ・カキツバタハナショウブ、加えてネジアヤメ・カンザキアヤメなどである。これらについては、現代でも正確に分類できる人は少ない。昔も混乱していたと思われ、『山科家礼記』、さらには貝原益軒の『花譜』においても、その記述は混乱している。 
   先ず、アヤメ・カキツバタハナショウブ(ノハナショウブ)は、国産種。イチハツは、中国原産で、室町時代の頃に渡来したとされている。『資料別・草木名初見リスト』(磯野直秀)よれば、アヤメの初見は1528年(『お湯殿の上の日記』)、カキツバタは785年前(『万葉集』)、ハナショウブは1346年となっている。これらの植物は、初見の時期にかかわらず大昔から日本に生育していたことは確かである。名前が記されるようになるのは、注目されるようになってからと言うことであろうが、その時点から混乱が始まっていたと思われる。
イメージ 1  では、どのように見分けるか、わかりやすいのは花形である。アヤメの花びら(花弁)には、写真のような紋(編み目)がある。ネジアヤメやカンザキアヤメも、この紋があることでアヤメの仲間であるとされている。カキツバタは、紋はなく花びらの中央に白い筋(中央が広く先が細くなる)がある。ハナショウブは、花びらの中央にカキツバタより太い黄色の筋(中央が広く先が細くなる)がある。イチハツの花には、花びらの中央に鶏冠のような白い毛ある。
  次に咲く時期からも分けられる。開花の早いのがアヤメ、五月上旬から下旬まで咲いている。カキツバタは、五月中旬から下旬まで。アヤメとカキツバタの開花は重なるので、間違えやすい。ハナショウブは、六月初旬から下旬まで咲いている。なお、地域や種類によって、開花時期は多少前後に移ることは言うまでもない。その他にも、生育環境の違いによる見分ける方法などもあるが、このくらいで省略する。
  これらの植物の混乱は、漢字で記された名前をどのように読むかによってが生じる。極端な例として、『生花枝折抄』には「杜若」と記して、「やぶしやうが」と仮名が振られている。ヤブショウガという名の植物は、『牧野新日本植物図鑑』には存在しない。紛らわしい読み方に加えて、錯誤や思い込みなどが混乱に拍車をかけている。なかでも、読み方で混乱しているのは、アヤメとハナショウブである。「菖蒲」を「あやめ」と読むか「しょうぶ」と読むか、現代となっては判断できないかもしれないが、その辺から解析してみたい。


・アヤメとハナショウブの記載
  アヤメ、ショウブ、ハナショウブ、これらの違いについては、実物を見ればわかるものの、文字だけからは非常に判断しにくい。文献として最初に登場するのは、『万葉集』(785年前か)大伴家持の「霍公鳥待てど來鳴かず菖蒲草玉に貫く日をいまだ遠みか」であろう。この「菖蒲草」は、サトイモ科のショウブを指すものとされている。
  次いで『古今和歌集』(912年頃か)に「ほとゝぎすなくやさ月のあやめぐさあやめもしらぬこひもする哉」とある。この植物もショウブとされている。『源氏物語』(平安時代中期)にもショウブが「あやめ・菖蒲」と記されている。また、『拾遺和歌集』(1006年頃か)に女藏人兵庫「天暦の帝かくれ給ひて又のとし五月五日に宮内卿兼通がもとに遣はしける」「さ月きて長雨増ればあやめ草思絶えにし音こそ泣かるれ」とある。その後に、粟田右大臣(藤原道兼)の「ふくたりといひ侍りけるごのやり水にさうぶをうゑ置きてなくなり侍りにける後の年おひ出でゝ侍りけるをみて」「忍べとやあやめも知らぬ心にも長からぬ世の憂にうゑ劔」が続く。この「あやめ草」「さうぶ」「あやめ」もショウブであろう。そして、式子内親王(十二世紀中頃)の歌に「今日はまた葺きそへてけり蘆のやの小屋の軒ばもあやめ隙なく」がある。この「あやめ」もショウブであろう。さらに、『新古今和歌集』(鎌倉時代初期)に「今日は又あやめのねさへかけそへて乱れぞまさる袖のしら玉」と、「あやめ」が記されているが、これもショウブである。『徒然草』にも「あやめ・菖蒲」と記されているが、ショウブである。
  ハナショウブの初見とされる資料として、『拾玉集』(1346年)がある。「野沢潟雨やゝはれて露おもみ軒によそなるはなあやめかな」の「はなあやめ」をハナショウブとするものである。しかし、これが本当にハナショウブであるか、確信できない。それは、『山科家礼記』を見ると、「あやめ・菖蒲」が当時の習慣、周辺の環境や状況と共に記され、判断することができたからである。
  『山科家礼記』には、次のような記述がある。
①文明十二年1480五月二日「十五文しやうふかう」
②文明十八年1486五月三日「シヤウフ十ハ、代十二文」
③長享二年1488五月四日「アヤメ、禁裏ハ御フキナシ」
④長享三年1489五月三日に、「しやうふ三十三文、ねしやうふ三文」
⑤延徳三年1491五月四日「しやうふゝき候」
⑥延徳四年1492四月十八日「心松、下右松ニテモチイ候也、右下イチハツ、ツツシ、御学文所下花心ムロ、左下アテヒ、右へ出之、前後中ニシヤクヤク・花シヤウフ葉等也」
⑦延徳四年1492四月廿四日「心シヤウヒ・カキツハタ、御座花心ヒワノ木、物ノカフ・キンせン花・クナハクチヤウケ、又打置心檜木・キンせン花、クナキホウシノ葉、カラアヲヒ」
⑧延徳四年1492五月三日「しやうふ三十文」
⑨延徳四年1492五月五日「今朝シヤウフニテヤネフク、右衛門」
  以上の記述は、大半が五月初旬、端午節供に関連しているのだろう。大半は、サトイモ科のショウブであろう。しかし、③長享二年1488五月四日に「アヤメ、禁裏ハ御フキナシ」と「アヤメ」がある。日付が四日ということは、節供にあわせて葺くのであれば、アヤメではなくショウブである。したがって、この「アヤメ」はショウブの書き違い。またはショウブを「アヤメ」とも呼んでいたと考えられる。
  ただ、四月に記された⑥「心松・・・花シヤウフ葉等也」と⑦「心シヤウヒ・カキツハタ・・・」の記述は、立花についてである。そのため、この文中の「花シヤウフ」「シヤウヒ」は、以上のショウブとは異なるものと思え、検討する必要がある。まず、「シヤウヒ」を「シヤウフ」と書き違いしたとも考えられるが、「カキツハタ」と共に活けられているため、「シヤウヒ」は花の美しいアヤメであろう。あまり見栄えがしない花ショウブの葉を仮葉として使用したとは考えにくい。
   なお、④長享三年に「しやうふ」と「ねしやうふ」の記述がある。「ねしやうふ」という植物名はない。ショウブの根には、薬効・芳香があり、根のほうにより着目していることから、「ねしやうふ」と書いたのだろう。ショウブとショウブの根の両方を購入したものと考えられる。
  以上から、植物名を推測すると、アヤメは立花⑥⑦に使用されただけで、他はショウブであると判断した。もちろん、この時代にもハナショウブが生育していたことは確かだろう。しかし、家の軒に挿したのはショウブであろう。
  ハナショウブの初見は、花道が盛んになってからではなかろうか。またアヤメの初見は、『資料別・草木名初見リスト』(磯野直秀)によれば、『お湯殿の上の日記(1528年)』とある。しかし、1492年(延徳四年四月十八日)の立花に記された『山科家礼記』の方が先だと思う。
  アヤメとハナショウブ名がハッキリと記されるのは、十七世紀以降の園芸書が刊行されてからである。『花壇綱目』(1681年天和一年)に「菖蒲草」(しやうぶさう)とアヤメ、「花菖蒲」(はなしやうぶ)とハナショウブの記載がある。『花譜』(1694年元禄七年)には、四月の花として「菖蒲花(はなあやめ)」が記されている。アヤメについて書いてあるかと、その記述を読むとハナショウブの説明と思える文面である。さらに気になるのは、『花譜』にアヤメの記述がない。前述のとおり、ハナショウブの開花は五月である、アヤメとハナショウブの記述が混乱しているのではないかという疑問が残る。『花壇地錦抄』(1695年元禄八年)には、「花菖蒲(はなせうふ)るひ」としてハナショウブ4種が紹介されている。「白昌草(あやめ)」として、アヤメ3種が紹介されている。

花伝書と茶会記のアヤメとハナショウブ
  初めに指摘したように、「菖蒲」は必ずしもサトイモ科のショウブを指していない。アヤメ科のアヤメを「菖蒲」と記していることがある。そして、アヤメを「はなあやめ」と記載したり、ハナショウブと紛らわしい記述がある。そのような混乱を解きほぐす資料として、茶会記と花伝書の記載を見ることにする。
  茶会記は、いつどこで催されたか、どのような人が参加したか、床飾りや道具建て、会席膳の献立などが記されている。茶花は、床飾りの中にあり、茶会記の中での重要性は低い。初期の茶会には、飾られていたとしても「花」としか記載されていないこともあった。それでも、徐々に詳細が記されるようになり、植物名を知るには重要な資料となる。それは、茶人たちの関心が花の飾りつけや趣にこだわるようになったからである。
  花伝書は、花材に使用される植物の種類が多く、植物名を知るには参考になる。ただ、花伝書は、植物名を正確に知る記すことを目的としていないため、記された名称をそのまま現代に当てはめるのは難しい。花材の植物名の表記は、特有の表現(わくら、紅葉など植物名とは言えぬ)が多くあり注意が必要である。
  茶会記や花伝書を見ると、同じ植物でも、いくつもの呼び名がある。当時の人々は、花伝書や茶会記に記載されている表現で十分理解できるものであったのだろう。また、時代と共に呼び名が変わったり、同じ植物としていた種が分けられたり、当時でも錯誤や記載ミスはあっただろう。それでも、花伝書や茶会記から、どのように呼ばれていたかの変遷を知ることはできる。
茶会記の記載
松屋会記・久好茶会記』1586年(天正十四年)卯月廿日・アヤメを「花シヤウフ」と記す。
小堀遠州茶会記集成』1628年(寛永五年)卯月廿六日朝・アヤメを「あやめ」と記す。
片桐石州会之留』1672年(寛文十二年)五月十六日・アヤメを「菖蒲」と記す。
伊達綱村茶会記』1705年(宝永二年)四月十五日晩・アヤメを「菖蒲」と記す。
『学恵茶会記』1717年享保二年)四月十一日晩・アヤメを「あやめ」と記す。
『槐記』 1726年(享保十一年)四月十九日・アヤメを「菖蒲」と記す。
川上不白利休二百回忌茶会記』1782年(天明二年)五月三日・アヤメを「せうぶ」と記す。
『酒井宗雅茶会記』1787年天明七年)五月四日・アヤメを「菖蒲」と記す。
花伝書の記載
『仙傳抄』1445年(文安二年)には、「はなしやうぶ」「菖蒲」「花菖蒲」が記されている。ハナショウブ、ショウブ、アヤメのどれを示しているか判断しにくい。
池坊専應口傳』1542年(天文十一年)の「菖蒲」は、ショウブかアヤメであろう。
『替花傳秘書』1661年(寛文元年)の「菖蒲」は、ショウブかアヤメであろう。
『立花初心抄』1675年(延宝三年)の「菖蒲」は、ショウブかアヤメであろう。
『立花大全』1683年(天和三年)の「花菖蒲」は、ハナショウブかアヤメであろう。
『立花正道集』1684年(天和四年)・アヤメを「あやめ」ハナショウブを「花菖蒲」と記す。
『抛入花傳書』1684年(貞享一年)・アヤメを「菖蒲(あやめ)」・ハナショウブを「花水剣(はなしやうふ)」と記す。
『立花指南』1688年(貞享五年)・アヤメを「菖蒲」・ハナショウブを「花菖蒲」と記す。
『立花秘傳抄』1688年(貞享五年)・アヤメを「あやめ・菖蒲」・ハナショウブを「花菖蒲・白昌・水宿・吹喜草」と記す。
『立花便覧』1695年(元禄八年)・アヤメを「菖蒲」・ハナショウブを「はなせうふ」と記す。
『古今茶道全書』1693年(元禄六年)・アヤメを「あやめ」と記す。
『當流茶之湯流傳集』1694年(元禄七年)・アヤメを「あやめ」と記す。
『立花訓蒙図彙』1695年(元禄八年)・アヤメを「菖蒲」と記す。
『挿花千筋の麓』1768年(明和五年)・アヤメを「菖蒲」と記す。
『抛入花薄』1767年(明和四年)・アヤメを「菖蒲」と記す。
『生花枝折抄』1773年(安永二年)・アヤメを「菖蒲」・ハナショウブを「花水剣」と記す。
『甲陽生花百瓶図』1774年(安永三年)・アヤメを「あやめ」と記す。
『砂鉢生花傳』1773年(安永二年)・アヤメを「あやめ」ハナショウブを「花菖蒲」と記す。
『古流生花四季百瓶図』1778年(安永七年)・ハナショウブを「花志やうふ」と記す。
『挿花故実化』・アヤメを「あやめ」と記す。
『古流挿花湖月抄』1790年(寛政二年)・アヤメを紫羅欄(はなあやめ)・ハナショウブを「花水剣」と記す。
『小篠二葉伝』1787年天明七年)の「花菖蒲」はハナショウブかアヤメであろう。
『活花圖大成』1789年(寛政元年)の「花菖蒲」はハナショウブかアヤメであろう。
『生花出生傳圖式』1790年(寛政二年)・アヤメを「菖蒲」・ハナショウブを「花菖蒲」と記す。
『挿花四季枝折』1794年(寛政五年)・アヤメを「あやめ」ハナショウブを「花菖蒲」と記す。
『挿花秘傅伝圖式』1799年(寛政十年)・アヤメを「あやめ」と記す。

 以上から、ハナショウブは「花菖蒲・白昌・水宿・吹喜草・花志やうふ・はなせうふ・花水剣」と表記されている。アヤメは「菖蒲・あやめ・せうぶ・花シヤウフ・紫羅欄」と表記されている。
  茶会記で「菖蒲」と記された茶花は、ショウブではないこと、茶会の日付からアヤメであることがわかる。また、花伝書に記載された「菖蒲」についても、多くはアヤメを指している。したがって、判断のつかなかった「菖蒲」はアヤメと思われる。「花菖蒲」は、ハナショウブを指す場合が多い。しかし、四月以前に記された、判断のつかない「花菖蒲」については、アヤメの可能性も否定できない。