・ゆとり

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・ゆとり
イメージ 1  新しい東京駅八重洲口広場を見たかと問われ、早速出かけた。建物を出ると、先ず目に入ったのが株立ちの高木、林立していた。これが東京駅八重洲口広場のイメージとなるのか、と思いながら近づいた。常緑の葉を見ると、この木はシマトネリコである。東京駅に、なぜシマトネリコなのか、という疑問が脳裏を走った。柔らかな緑色の葉は、確かに美しい。しかし、シマトネリコは東京周辺では自生していない。もっと南の暖かい地方の植物である。先端の葉が一部は弱っており、私には、シマトネリコを植える必然性を感じなかった。
イメージ 2  シマトネリコに近づくと、その根元にはローズマリーやフィリフェラオーレア、ロニセラニティダなどが植えられていた。これらの植物についても同様、植える必然性がわからない。さらに、周辺の低木の植込み、すべて同じような植物で、見ていても面白くない。四季折々に咲く、日本の野草をなぜ植えないのだろう。広場を通る人達に、季節の変化を見て肌で感じてもらうには、もってこいの場所であり、見やすい高さである。
 イメージ 3 この広場は通路だから、立ち止まって欲しくない。色とりどりの花が咲いていては、通行の妨げにでもなると考えたのだろうか。しかし、壁面にはカラフルな観葉植物が植えられ、結構人目を引く存在である。この壁面植栽、装置と管理は大変なものであり、費用がかかる。それを考えたら、日本の美しい野草を植えても何らさし支えないと思うのだか。
その他の高木を探すと、まずシマトネリコの先にあるシダレザクラ、オオモミジ、ヤマボウシシラカシ、ヤマコウバイ、アオダモ、ソヨゴ、ケヤキなどがある。これだけの高さの樹木を植えるのは、大変であったと思われる。特に広場の対岸となる位置からよく見える、アイストップとなるシダレザクラ、素晴らしい樹形で、開花した時の姿をぜひ見てみたい。移植して間もないため、今年は花数が少ないかもしれない。逆に、沢山の花が着いて、そのまま咲いたら樹勢が弱っている可能性がある。シダレザクラは日の当たる場所を好み、樹冠は大きくなり、東京駅のシンボルとなるだろう。ただ気になるのは、ビル風と夏季の高温・乾燥である。また、当初から大木を移植していることに不安がある。もう少し若い苗木を植えたなら、環境に徐々に順応し、見事な大木に生育するだろう。
 イメージ 4 建物などの構造物は、完成した時が最も美しく、時間が経つにつれて劣化する。しかし、植物は植えられた時から生育が始まり、時間が経つにつれて美しくなる。広場ができた時点で、植栽景観を完成させる必要はないと思う。もちろん、ある程度の美しさは必要であるが、将来のことを想定して材料を選ぶべきだろう。たとえば、シマトネリコ、半分はシラカシの苗木(5m程)でも良かったのではなかろうか。特に、シダレザクラについては、かなり無理をして植えられているようで、心配が杞憂となることを期待したい。
  サクラ類の移植は難しく、まるで鉢植にしたような状況ではさらに難しい。以前、江戸時代に催された新吉原の花見を再現するため、咲く寸前のサクラを鉢植に仕立てる試みがなされたことがある。その試みは成功しなかったが、江戸時代には、花見の季節になると人寄せのため、蕾を持ったサクラを駒込から日本堤を通って吉原へ運ばれた。当時は、咲きかけた鉢植のサクラを移植することは、そんなに難しくはなかったようだ。またさらに昔、豊臣秀吉は、「醍醐の花見」を催すため、寺の馬場より槍山までに六百本ものサクラを直前に移植させている。
 イメージ 5 現代では難しい移植を、昔の植木屋は案外容易に行なっていたようだ。ただ、その技術が本当にあったかを含めて、どのようなものであったかはわからない。東京駅八重洲口のシダレザクラ、植栽方法などについての詳細は不明だが、成功を見守りたい。なお、気になるのはサクラの根元の植栽である。通行する人の視線は、最初はサクラに向うが、やがて根元の高さになる。他の樹木の根元の植栽も首を傾げるが、シダレザクラにこのような植栽が最適なのだろうか。東京駅ならではとまで言わないが、あまりにもアンバランスな組合せだと感じる。
  日本の鉄道起点である東京駅には、やはりそれなりの植物景観が求められるのではなかろうか。外国人も多く利用することから、もう少し日本らしさを植栽にも示すべきである。そのような視点から見ると、八重洲口の植物景観が物足りないと感じるのは、私だけであろうか。その証拠とまで言わないが、ここで記念撮影をする日本人はもとより、外国人もあまりいない。一目見て、東京駅前であるということがわかるような景観であることが望まれる。確かに、駅舎の建物は、どこにでもある新幹線駅のスタイルであるからいたしかたないが、それなら植栽で個性を出したらよい。
  イメージ 6そして帰り際に、修学旅行の生徒がシマトネリコの横に、列をなして座り込んでいるのを見た。これから帰るのであろうか、多少疲れた様子でもあり、少々惨めな光景だった。シマトネリコの周辺は、人の温もりや温かさを感じる、休息したなるような場所とは言い難い。八重洲口広場には、このような人達が安心して、ゆっくりと佇めるスペースは無用なのだろうか。生徒たちが記念撮影したくなる、四季折々の花が咲く東京駅を望むのは無理なのだろうか。広場の全貌を眺める場所を探しても、近寄れず、やはり基本的なプランに問題があるような気がする。何が足りないかと言えば、「ゆとり」である。