平穏な安永四年六月~閏十二月

江戸庶民の楽しみ 39
★平穏な安永四年六月~閏十二月
★六月
 信鴻は、以下の一日しか外出していない。江戸の町に特記するようなことはなかったと思われる。
廿二日○六半前より珠成同道浅草参詣(略)谷中通り(略)清水門より入、山内旗本衆参詣多し(略)山下門より三河屋茶やに休む(略)浅草山門にて五ツの鐘聞ゆ、御筑百度参、堺やに休む(略)田原町にて(略)又清水門より出、首振坂茶やに休む、雑司谷へ(略)帰路大暑堪かたし、四ツ帰廬
★七月
八日○(略)暮過より燈を見(略)中町へ入、江戸町辻々両庇より舞台を出し、石橋作物、面蝋人形からくり、江戸町一町め左ハ庇上を皆大橋の欄杆に作り、下に舟を掛し風情、右ハ淡雪のれん掛式ハ見物有、堺町角より軒に松に蔦の紋挑燈、下ハ一町溝を掘水湛へ一店一店に小橋掛、鴛鴦の燈に火を点し水に浮ふ、揚や町より両方松の作物・松の挑燈、水道尻に富士をつくり、祏成時致挑燈籠を設く、京町一町目を見、又揚や町へ入、庇上に笠の橋、下に白鷺立、夫より又中可へかかり二町目へ出、伏見町を見る、通ふ神万燈子供中の額、入口にお旅所有・中町口に華表・夫より石橋人形からくりを見る(略)大門を出、(略)白玉に休み(略)五過起行、前路を取、金杉を直に屏風坂門へ入(略)、谷中通、四半過帰家
十一日○七半過より(略)谷中通(略)いろはにて六ツ聞ゆ、池端通り今日蓮切にて人多し、橋向ふ和国やに休む、虫売多く、蛬を買ふ、余の虫なし、梅本屋にて藤やそは取寄、五過起行、前路をとる(略)四過帰廬
十七日○明七ッ起、七半より珠成同道浅草参詣(略)谷中通(略)池端の門前にて六ッの鐘聞ゆ、観音にて因果地蔵へ参り幟を奉り直に参詣(略)三河やに休み山下門より入、清水門を出、首振阪にて宇平沢へ寄、厠へ行、路次内の庭を見る、泉池有、亭をかしく建て幽閑の地也、夾竹桃鉢うへを買ひ、五過帰家
三十日○七半頃より(略)兼而油島へ詣んとす、谷中へかかる、日落夜に入らんと言ヘハ、法住寺上の酒や前より左折、日暮里前飼楽寺前直行、道灌山へ(略)、御鷹部やの北也(略)不二の裏へ出、暮時かへる
 『武江年表』から江戸の町中についての記述を見ると、以下のように開帳がある。
○七月より、回向院にて、伊豆三島長圓寺、富士山本地阿彌陀如来開帳
○七月より、回向院にて、相州箱根塔峯阿侭陀寺、弾誓上人本地諸國光明佛開帳
○七月より、市谷柳町高徳院政世音開帳
 この月も江戸に大きな出来事は無いようである。信鴻は前年同様に吉原の燈籠見物へ、その記述は詳細でかなり気に入ってたものと思われる。燈籠の出し物は、前年より凝っており、まるで見世物のようで、人出もあったものと推測される。
★八月
 信鴻の八月は、十六日に中村座へ出かけただけである。巷の話題は、『武江年表』に記された以下の開帳と、「○薩週り来る鼇ヤマアラシといふ獣、神田紺屋町田村元雄が家に在しが、後浅草寺境内にて見世物とす、猪の大サにて、脊に長き骨数百本ある、怒る時は此骨逆立て恐ろしき響を爲す。」とあることくらいである。
○八月十三日より晦日まで、深川八幡宮開帳
○廿二日より、護國寺山内にて、秩父三十四番観世吾不残開帳
○八月、茅場町薬帥境内にて、相州萩野法界寺、朝日如来開帳
★九月
朔日○浅草参詣(略)谷中通、清水門より入、上野水茶屋(略)車坂より出、三河屋に休み、浅草にて堺屋へ寄、老母在鄽上、参詣より直に帰る(略)瑠璃殿前にて暮六ツ聞、護国院前にて挑燈を点す(略)五ツ前帰廬
六日○五半過より新堀へ(略)白山より伝通院(略)半蔵御門前(略)牧野前西久保秋田前まみ穴へ出、十番橋未出来故中橋、九半頃着(略)、八半過起行(略)中の橋より森元長井町にて七ツの鐘聞ゆ(略)水野前より西久保前道をとり、虎門に入牛込門より乗輿、牛天神わきゑさし町、暮前かへる
十九日○八過より(略)護国寺開帳へ行、賑たから大群集にハ非す(略)雑司谷へ行、直に参詣、日既落、茗荷屋に諸侯の奥方参詣、二階に翠廉掛、供多し、堂右角の茶やも同前、供駕等多し(略)暮過起行
廿二日○四半より浅草参詣(略)谷中通、動坂花屋へ立寄、谷中口明きな処より入(略)車坂にて九ツの鐘聞ゆ、三河や水茶やに休み観音参詣、帰りに堺やへよる(略)帰路前路に同し、帰廬八半頃
廿五日○四過より油島参詣(略)富士裏へかかる(略)首ふりより根津にかかる(略)裏道にかかり備後向屋敷を廻り、池端へ出、榊原前へ入、女坂より参詣、例の茶屋に休み、小菊求め(略)又女坂より中町通り上野へ入、御宮わきにて九の鐘聞ゆ、谷中口よりかへる(略)又不二裏より九過帰廬
 信鴻の九月は、5回も出かけたが町中の注目する動向の記述は少ない。『武江年表』に記された話題は、以下の通りである。「○投壷の技行る」もあるが、詳細はわからない。
○九月朔日より、音羽町九丁目田中八幡宮開帳
○同日より卅日迄、飯田町世継稲荷、天満宮開帳
○ 九月十九日より牛込赤城明神開帳
★十月
十一日○七少前より菊見(略)庄八庭を見、和泉境より出、四郎左衛門前に供廻り数多有、問しむれハ彦根侯来(略)裏道より市左衛門菊を見、八五郎わきより本道へ出、四郎左街門菊を見る、見物多し、街道の花や二軒立奇、旧年通りし径路に(略)少林寺の前へ出(略)王子街道へ出、薪屋吟八へ行、橡に休み菊を見(略)今年菊華旧年よりあしく、庄八ハ花壇咲一ツ作る、其余旧年に及ハす
十二日○九過より富士裏より首振阪宇平次菊を見、祖師を祭飾物有、今日雑司谷護国寺参詣、塗中賑し(略)感応寺中芋坂左側茶屋に少休み、金杉通正燈寺へ入、紅葉せさるゆ参へ直に出、白玉やに休む(略)真崎仙石やへ(略)八半過起行、今戸手前霊亀山宝昌寺と云禅寺を見、寺町より浅草参詣(略)広小路塀際水茶屋(略)谷中口にて六を聞、月昼の如し、六半前帰
十七日○四過出宅六本木へ行(略)市谷御門より入、裏六番町紀州門前赤坂外水茶屋(略)長坂十番橋(略)新堀へ行(略)七前起行、森元町切通増上寺馬場(略)二葉町より通町(略)京橋三町四町(略)嶋津淡路被通、中橋にて松悦前より東裏町へ出、万町より日本橋へ出(略)神田明神前にて挑燈をつけ、六半頃帰廬
十八日○九時より珠成同道浅草参詣(略)首振坂(略)山下(略)弘徳寺門前に病狗倒有、人集り見る、三河屋に少休む(略)田原町一町目(略)広小路へ出(略)直に参詣、御堂廻り(略)境やに休む(略)弘徳寺を過て又津軽侯帰るに逢、直に右へ曲り塀風坂門(略)動坂上にて万年青樹を求め、樹を預け、八半過かへる
廿四日○四半過より(略)不二裡より行、神明原にて馬上鷹を遣ふを見る、谷中通、上野中梅本(略)御成小路筋違橋柳原柳町通り、新銀、伝馬町新道、新材木町、ふきや町(略)堺町も役者の名不残出す、松屋鄽(略)土竈河岸より入江橋直行、大橋築地を見、直に南行、霊岸橋(略)筥崎永代橋(略)深川八幡へ詣、相撲場を見、土橋通、洲崎弁天へ詣(略)永代橋にて日入る、小網町橋にて挑燈をつくる、小舟町通伝馬町新道へ出、前路をとり、柳丁手前より柳原へ出、昌平橋側水茶や(略)五ツ前帰盧
廿五日○八半頃より(略)油島参詣(略)鱣縄手通り、肴市場(略)本郷六町目(略)加賀前より行、大群集(略)天神の門へ入、迹へ付行、群集分かたし、柊うへ木を買ふ、聖庿を拝し、例の茶屋に休む、梅原、店婆に葭賛の竹貰ひ、柊を結ひ付る(略)植木を見、男坂上の茶屋へ入(略)今日より地形胴付にて櫓を上け音頭賑ハし、女坂より中町へかかる(略)上野中を帰る(略)神明原にて弓帰るに逢ひ、暮過帰廬
 十月に入り、行楽シーズンでどこも人出が多く、信鴻も「菊見」に2回出掛けている。菊花のできは、前年より劣っていたらしい。それでも、人気があったのだろう、他にも大名や旗本など供連れで見物に訪れている。十月の江戸は平穏で、他には、深川八幡で勧進相撲が行われたくらいで、そのためか信鴻も「相撲場を見」と記している。
★十一月
四日○九半比より富士前(略)上野紅葉未盛成らす、車坂(略)浅草へ行、三河や(略)観音参詣、帰りに堺屋へ(略)浅草広小路(略)又前道をとる、御堂橋辺(略)上野本堂前(略)谷中口(略)法住手前にて傘を求め(略)上野にて八の鐘聞へ、御鷹へや(略)雨少止、塗大に滑る、七半過帰廬
十一月六日別録○中村座頑要
十六日○九半前より(略)鰻縄手加賀前油島参詣、例の茶屋に休む(略)男坂より広小路横に長者町通り、洞津侯前和泉橋柳塘豊嶋町へ下り、伊奈門前横山町より両国廻向院(略)柳橋第六天杜内を通ぬけ茅町閻魔堂へ立寄、鳥越明神へも立寄、三絃堀より山下へ出、車坂より暮前帰
十八日○九半前より(略)富士裏(略)上野にて大仏より宝光寺癌瘡守護の神へ詣(略)広小路人馬群行(略)広小路植木見(略)松坂屋を過、お徒士町へ出、加藤前より立花前七軒町新堀はたへ出(略)禅寺に紫幕うち人群参(略)広小路へ出、観音参詣(略)御堂内を通り抜、山下へかかり、広小路藤屋に休む(略)樹を買しめて起行(略)黒門より入る(略)谷中通り、動坂(略)六ツ頃帰廬
廿一日別録○森田座頑要
廿五日○四半過より(略)吉祥寺(略)加賀裏(略)聖廟参詣、例のいせ屋に休む(略)植木を見(略)茶鄽に休み(略)梅本茶や(略)中町(略)植木もつこく松を荷し来るを忍す通りを行しむ、五条聖庿に詣、山下門より入、本堂より法華堂へ(略)本堂の裏を廻り、谷中口より八時かへる
廿六日別録○市村座頑要
 十一月の信鴻は、観劇3回を含め7日出掛けている。江戸は平穏で、町中の話題は、信鴻も観た市村座の『親船太平記』が千秋楽まで大入り、森田座の顔見世『菊慈童酒宴岩屋』が大当たりを取ったくらいである。
★十二月
四日別録○森田座再頑要
九日○八半過より土蔵の裏より行、谷中通り、いろは手前(略)上野へ入宝光堂参詣の時七の鐘をつく、梅元に休み(略)油島女坂より行、聖庿参詣、例のいせやに休む(略)帰り加賀裏本郷通り門へ入時、六の鐘聞ゆ
十七日別録○市村座頑要
十八日○九過より浅草(略)谷中通り、首ふりの下三辻(略)屏風坂より出、三河やに休み、御堂内を通り参詣、下向境やに休む(略)広小路にて柊棒木・伽羅木求め、梅本に休み、樹ハ池端を廻し、黒門より帰る、七過帰
廿八日○九過より(略)塗沼のことし、足駄にて出、富士裡より塗好、御鷹部や辺(略)谷中門より道好シ(略)車坂より行、山下(略)御堂中より行、戸繋伊勢やに休む、鄽上妹女有、観音参詣○御堂を廻り、下向に手遊を求む、風神門(略)梅原御堂より先へ行、広小路藤やへ蕎麦をあつらへる、柳稲荷、三河屋(略)山下より(略)中町(略)油島伊勢やに休む(略)加賀裏より、七半過帰廬
★閏十二月
七日○九過より(略)屋布内より塗沼の如く足駄にても行かたく各杖を持す(略)吉祥閣前にて雪駄に成、梅本に休む(略)広小路道大に好、中町塗某悪く、一町過て又大に好し、榊原前より無縁坂出雲門前加賀裏(略)上野にて八ツの鐘を聞、帰時七ツを聞
九日○九半過より(略)土物店(略)本郷三町目にて岡崎侯に行違ふ、昌平橋(略)小柳町直行、伊勢町、舟町、江戸橋を渡る、人叢夥し、門松舟つく、海賊橋より萱場町薬師へ行(略)駿河町へぬけ(略)筋違橋へ出、茶や三河や(略)出世弁天へ立寄(略)山内よりかへる、神明脇にて六鐘聞へ、暮少過帰廬
十九日○九ツより雑司谷(略)火の番町より砂利場の橋、大学館裏坂三辻(略)波切不動(略)音羽手前小き花やを見、音羽を下り八町め洞雲寺(略)目白台に上り、不動を拝し(略)高田四家町達へ出右折、鬼子母神参詣(略)著荷屋に休む(略)藪の前より護国寺外へかかり、安藤前大学表門幽霊橋、原町角加賀南角より辻番へかかり、南より七半過かへる
廿五日○九時より浅草参詣(略)首振坂(略)いろは(略)谷中口観成院大師(略)車坂より行、山下小道具や(略)三河やに休む(略)因果地蔵、観音へ詣、御堂廻り伊せやに(略)御堂後ろより開善寺前新寺町(略)屏風坂にて南より三浦侯来、跡へつき行(略)又観成院にて烟を弄し、七時帰家
 十二月の信鴻は、観劇2回を含め5日出掛けている。閏十二月は4日出掛けている。冬季、年末、さらに道路が泥濘で歩き難いこともあって、浅草をはじめとして人出は多くなかったようである。日記などに町中の動向を記すものは無く、江戸市中は平穏であったと推測される。