★安永九年冬・十月~十二月

江戸庶民の楽しみ 56
★安永九年冬・十月~十二月
★十月
三日○九半頃より浅草参詣(略)動坂花屋(略)庭樹植替る様子、御本坊太師参詣、甚群集、屏風坂より下り車坂門より出、塗中賑也、戸繋伊勢屋に休み(略)直に参詣、奥山廻り前路を帰る、車坂(略)動坂にて七の鐘聞へ七過帰廬
五日○八半過より珠成同道隣村の菊を見る(略)西門より出左太郎菊を見、四郎左衛門にて諸侯忍見物来、弥三郎ハ奥方客有門を鎖、市右衛門菊を見、稲荷にて休み、入相頃帰る
十三日○九半頃(略)雑司谷へ(略)猫また橋、大学舘裏(略)護国寺内より群集、観世音拝し裏門を出、塗中大熱閙、茗荷屋・福山二階翠簾掛り諾侯の奥方来られし様子(略)鬼子母神大に込合故横より内陣へ廻る、ハ紫千年堂へ行道大に込合行かれさる故右側の水茶屋に少休み(略)九郎僧立花を見(略)和泉屋離亭上間へ行、客大に込合(略)三辻より(略)前路を帰る、護国寺裏門(略)横原町へかかり七半頃帰る、
十六日○四半過より他行(略)土物店より行、本郷(略)湯嶋参詣、お清鄽に休む(略)中坂より行、昌平橋(略)筋違橋(略)富山丁より市橋前豊嶋町、富松町(略)馬喰町より富沢町、高松町河岸、堺町松屋へ立寄、鄽婆に逢ひ(略)今日狂言仕廻由(略)芝居大入の様子(略)新材木町通(略)伝馬町牢屋前(略)お玉か池より筋違橋(略)三枚橋藤屋へ(略)蕎麦喫、上野中より谷中通り七過帰る
廿日○八前より珠成同道浅草参詣(略)谷中通、車坂(略)戸繋伊勢屋に休み直に参詣、橡下に人集り土をふるふ、土烟茫々、左磴上欄に縄張堂後掃除の様子、御手洗へ鰻放し前路を帰る(略)山下に掛り蘭麪へ行(略)蕎麦喫暮前起行、切通しより本郷通大番町(略)六半前奥口より帰る
廿六日○九過(略)本郷より湯島参詣、お清鄽に休む、臍村飴売来り子共集り来る(略)筋違橋(略)宮山町、お玉か池、伝馬町(略)材木町より葺屋町群集分かたし、看板かかる(略)松屋ハ甚渾擾の様子(略)住吉町、浪華町、浜町の橋を渡り牧野前、新大橋より河岸通(略)弁天へ詣、金毘羅拝し南の門より出二町はかり行(略)七半頃起行、河岸の路次より出、植竹讃岐方へ(略)丸屋へ行舟を云付(略)昌平橋迄行(略)新橋(略)昌平橋の西へ船を着(略)本郷通り六半過帰る
廿九日○九半前(略)堺町へ(略)本郷通湯島へかかり聖廟拝し崖上より筋違橋(略)旭山に休む(略)富山町新道よりお玉か池通、新材木町へかかる、人叢分難し、楽屋新道より松屋へ(略)茶屋茶屋思ひ思ひの飾物也、人群集夥し(略)楽屋新道河岸手打蕎麦へ(略)堀江町橋より伊勢町、駿河町通りへ出(略)旭山にて(略)休み(略)本郷通りを帰る(略)帰廬暮時
 十月は7日出歩いている。自邸の六義園には見に訪れる人があるくらい菊があるけれど、信鴻は恒例の菊見に出かける。行楽シーズンのため、どこも人出があり賑わっている中で、信鴻はあちこちで彼らしいウオッチングをしている。その中で、「飴売来り子共集り来る」は微笑ましい。江戸の町には飴売りが歩いており、それを追うように子供が追いかけていた。そのようなことは聞いていたが、実際に文章として確認することができた。
 十月のイベントとして、芝神明社勧進相撲が興行されている。
★十一月
三日○九過より大師・浅草参詣(略)谷中通、護国院大師参詣、甚賑、車坂下(略)田原町(略)並木より戸繋伊勢屋に休み、直に参詣(略)御手洗へ鰻放し大神宮内より帰る(略)広徳寺前(略)広小路植樹を見廻り南天二株買ひ(略)塗中森旧番附求め蘭麪へ行蕎麦を喫、客多し(略)本郷通(略)松悦方へ立寄襲服、暮頃帰る
四日○八時より上邸へ(略)本郷通、京橋松本茶屋に休み(略)尾張町より山下門、七頃新道より行、米徳初迎に出(略)四半頃表の玄関より(略)山下門より通町、弓町河岸より入、本郷六丁目にてお隆駕に乗、市・角は石町より駕に乗、吉祥寺前にて八の鐘聞ゆ、帰廬八過
七日別録○中村座頑要
十一日別録○森田座頑要
十三日○九半頃より浅草参詣(略)土物店通り油島参詣、お清鄽に休む(略)女坂より下り山下より行(略)御堂内を通(略)直に参詣、鰻放し伊勢屋に休む(略)妙心鄽上に苧をうえ居たり、孔雀屋に(略)山下門より車坂、谷中通、七半過帰る
十六日○四少過(略)月桂寺・六本木へ(略)西門より(略)原町過て(略)猫また橋大学館裏にて烟を弄す、(略)音羽町より早稲田榎町、七軒寺町入口(略)河田窪月桂寺門前辻番(略)御墳墓廻拝、松竹庵(略)直に起行、合羽坂より塩町へ出、四谷御門へ入、土堤側赤坂門河岸より相良門前、相馬脇、市兵衛町裏門より入(略)表門より出、飯倉切通し(略)愛宕下(略)松山侯前通川前通り(略)木挽町猿屋へ(略)烏森前(略)引舟へ行(略)猿屋にて酒を呑(略)神山台井筒やに休み、土物店八兵衛鄽(略)松悦前(略)奥口より帰廬
二十日○九過より浅草参詣(略)谷中通上野御蔵米来故日長原駄馬多し、車坂より行、戸繋伊勢屋に休む、大宅方娘御と見へ被通(略)観音拝し御手洗へ鰻放し前路を帰る、広小路藤屋にて蕎麦を喫(略)動坂右をさゑ磴道よく出来る、御手鷹数十人野先江出るに逢、七半過帰盧
廿四日○九半前より浅草御堂参詣(略)谷中通、車坂より出、山下より大群集市の如し三河屋に休む、御堂内大熱閙、中門へ大材引入る故縄を張、道塞る故跡へ戻り浅草参詣(略)浅草御縁日の如く甚賑也、直に参詣、御手洗へ鰻放し、堂左楊枝屋(略)俵町にて(略)御徒士町より展風坂、帰廬暮前
廿五日○九半頃より湯島参詣(略)本郷(略)湯島植樹を見、聖廟・地蔵参詣、お清鄽客四五人在故母の鄽へ(略)暫休み、女坂より下り中町焼物屋にて諸々花生を見れとも意に叶ふなし(略)池端竹細工ヘ(略)護国院裏門より入、休絃墓を外より拝し、清水門へ出、谷中通七少過帰る
廿七日別録○市村座頑要
 十一月は、観劇3回を含めて10日も出かけている。出かけ先は、浅草などで特段変わった所はなく、行った先でも特別な催しもなかったが、そこそこ賑わっていたようだ。
★十二月
四日○九過より浅草参詣(略)谷中通、車坂、山下門(略)孔雀屋(略)戸繋いせや人なき故芳やに休む(略)直に参詣、御手洗へ鰻放し(略)前路を帰る(略)瑠璃殿(略)谷中門(略)法住寺前にて小麦焼求め七半前帰廬
七日○九半過より湯島参詣(略)本郷通大快晴、北風勁々、聖廟拝し、お清鄽に休(略)男坂より下り藤崖へ立寄温餉喫ひ、山内を帰る(略)谷中にて油揚買ハせ(略)千駄樹(略)帰廬七半前
九日別録○森田座頑要
十一日別録○森田座頑要
十七日○四ツすき(略)市へ(略)首振坂(略)車坂より下る、門を出て群集ながら込合ハず(略)柳稲荷三河屋に休む、始終塗中込ます風神門内は熱閙ながら例の半にも足らす、馬道の辻より弁天へ出、塀の門より入直に参詣(略)杏樹辺に(略)奥山榎樹辺の水茶屋に休み(略)三杜前より段々桶鄽を見(略)繰塀脇よき叶字桶数十在(略)伊勢屋裏口より入る(略)馬道正直そはへ(略)客百人斗(略)勢至堂過て小網町(略)花川戸より山屋前へ(略)並木一町過て右折、三河屋(略)山下より湯島女坂に掛り、お清鄽に休む、鍵屋(略)隣へ鬼頂来り、鍵屋へ(略)本郷通り七半過帰る
二十日○九過より珠成同道伝通院江行、塗甚泥檸、門前より塗好、小石川馬場塗大に滑下駄を履、柳町より好、大黒少賑、達磨数十求め表門外茶屋に休み、牛天神女坂より参詣、絵馬を見上餌差町より前路を帰る、松悦方にて茶を飲(略)七前帰る
廿五日○九半過より湯島浅草参詣(略)本郷通、湯島参詣、お清鄽に休む、お清に福寿草鉢植貰ふ、鍵屋に(略)女坂下にて遊人形を見、池端町二所立寄手熅りを見、広小路より竹町、山下へ出、弘徳寺(略)並木町中通りへかかり、並木町にて又手あふりを見る(略)観音参詣、御手洗へ鰻放し、堂前柳屋(略)戸係伊せ屋に休み(略)広徳寺(略)藤屋にて蕎麦喫(略)池端を帰る、奥入口ヘ入時暮かかる
 十二月になって、信鴻は湯島や浅草などの行き慣れた場所しか出かけていない。例年通り「市」にも出かけたが、何か物足りなさを感じている。師走に活気がなく、江戸の町は不景気なのだろうか。
 安永九年は、六月に洪水のあったこと、十二月の市の賑わいなど、前年より庶民の盛り上がりが弱かったように感じる。それでも、安永九年全体としては平穏で、春からの開帳は数多く催され、山王祭勧進相撲、三座の芝居の入りも、庶民の楽しみは引続き停滞することはない。
 当時の江戸の賑わいが年々増していたことは、『武江年表』を見ると見えてくる。そこで、安永年間について『武江年表』の中から示すと、「○堀の内妙法寺祀師、追日參詣人群集す、
○安永始の頃、王子、駒込、谷中辺、西國寫観世音禮所巡りを定む、
○江戸に二十五箇所圓光大師巡拝所を定む、
○安永十年、俳人提亭の撰たる、種おろしと云句集に、載る所の其時代のはやり物、商物目録左に略記す、△菓子屋 下谷広小路金澤、本町鈴木越後、同鳥飼、本郷ましや、飯田町とらや、泉町とらや、飯田町壷屋、△大仏餅、浅草並木、下谷車坂、△軽焼、誓願寺前茗荷屋、△蕎麦切、馬道正直、吉原釣瓶、深川洲崎笊そば、浅草道好庵、堺町福山、牛島長命寺雑司ヶ谷薮の内、△船切、麹町ひやうたん屋、△鳥枝茶筌五倍酒中花、浅草境内柳屋、其外、△料理茶屋、深川竹市、同洲崎竹屋、□濱大紋や、芝口春日野、深川八幡宮二軒茶屋、△しつぽく、神田佐柄木町山藤、大橋新町樂庵、△田樂、眞﨑の甲子屋、△飴、目黒桐屋、雑司が谷川口屋、△生簀鯉、庵﨑葛西太郎、須﨑太黒屋孫四郎、△麩の焼、かうじ町橘屋助惣、△隅田川諸白、並木山屋、△麩、芝伊皿子、△御所おこし、御くら前玉屋、△鮨、中ばし、おまんすし、△蕎麦切豆腐、木挽町、△あは雪なら茶、回向ゐん前、車坂下龜や、△煎餅、てりふり町翁、吉原きぬた、やげん堀羽衣、△朝草餅、浅草寺境内、△いくよ餅、両國、此外あまたあり、末に花鳥の名所、釣の名所をも記せり、
○相撲取 谷風梶之助、小野川喜三郎、釈迦獄雲右衛門等行る、安永の頃は、大かた深川永代寺にて、勧進角力興行あり、★この項を補足する「谷風梶之助」は、本名・金子与四郎。出身(寛延三年1750年九月八日生)は、陸奥国宮城郡霞目村(現・宮城県仙台市若林区霞目)とされている。
・明和五年1768年に力士となる。当初、秀の山と名乗った。
・明和六年1769年四月場所で、伊達関 森右エ門と改名する。
・明和七年1770年十一月場所で、前頭筆頭。
・安永五年1776年十月場所で、二代目谷風梶之助と改名。
安永七年1778年三月場所から天明二年1782年二月場所七日目まで、江戸本場所で土付かずの63連勝する(小野川が止める)。その後も43連勝する。なお、連勝記録は江戸本場所だけ、京都本場所・大坂本場所を含めると、天明二年二月場所から天明六年十一月場所まで98連勝をしている。
天明元年1781年三月場所後に大関へ昇進する。
・寛政元年1789年十一月、小野川喜三郎とともに横綱免許を授与される。
・寛政七年1795年一月、大流行した風邪・インフルエンザで、35連勝の現役のまま44歳没する。
狂歌師、平秩東作、蜀山人、手柄岡持、唐依橘州、
○軍談師馬谷、落し話石井魯石行る、
○浮世繪、栖鳥居清長、彩色摺鈴木春信の頃より次第に巧に成しを、清長が工夫より殊に美麗に成たり、吉左堂春潮、戀懸川春町、倉橋壽平、歌川豊春一龍斎、等行る、
俳人、松露菴鳥醉ヽ四時游観録といふ、兩面摺をあらはす、江戸花暦是に始るか、
浅草寺境内、石地蔵尊因果地蔵といふ、流行、其後奥山三途川姥像祈願の者多し、
○眞具先稲荷境内茶店の婆に、油揚を持て、おいでおいでと呼ぶ時、狐出て食ふ、皆人是を見る、
婦女の鬢さし始る
○箱入熅石始る、
○裸人形腰折れといふもの造り始む
○小石川傳通院大黒天はやり出しける頃、門前の表町角に辰巳屋惣兵衛といへるもの、田樂菜飯の店を出して行はる、この惣兵衛生質強きをふせぎ弱きを助け、頗る侠気のものなりしが若年より神樂やうの眞似をして、道化踊をなし、山王、神田いづれの祭禮にも出て踊る、或は女りかつらをかぶリ小原女となり、巫女の眞似をなしてをどり、或は諸侯藩中の鎮守の祭に、強て召れけど、金銀は賜はれどもうけず、文化の半の頃、神田は賜はれどもうけず、文化の半の頃、神田祭禮の時、七十餘才にて、出しの上に登りて踊りしを、おのれも看たり、其頃七十餘才にして終り、南畝先生文化元甲子秋長崎へ趣かれし時、商舶の清人程赤城にあはれしが、かの辰巳屋の翁と、瓜をニッに割たる如く面貌能似たりしとかたりしとぞ、辰巳屋が畫像に、南畝先生の賛あり、おまつりと御樂の堂に辰巳屋がかれ木喰や花をかせ爺、再按るに惣兵術は文政四年十月終れり、小石川慈照院に葬す、
○安永中、鳥山檢校遊里に趣、遊女瀬川を身受し、巨萬の金銀を 費せり、此檢校諸人に金銀を貸して、高利を貪りけるゆゑ、つひに罪科に處せられしと聞けり、
山王神田祭禮の時、花萬度をかつぎ出る事を止られしかば、地車を添へて曳萬度と號す
○安永中、越後の産にて、友世といへる大女の力持、所々へ見世物に出たり、」とある。