信鴻のガーデニング安永九年1
安永九年の日記にどのような植物が記されているか、また、どのようなガーデニングしていたかを示す。なお、植物名にはガーデニングとは直接関係がないものがあり、判別に迷うが前後の関係や前年までの記述から判断した。
○一月
一月の日記には18日間に植物名の記載がある。また、ガーデニング作業と思われる記述は、6日ある。収穫の記載は5日ある。それらの中から、記された植物名は22あり、これらの種名は7種である。以下順に示す。また、信鴻が六義園に移って初めて記す種は、フダンソウとマンサクの2種である。なお、「赤根」と記された植物をフダンソウと判断したが、確信はない。植物を遣り取りした記録は、11日である。
「梅」は、ウメ(バラ科)とする。
「土筆」は、スギナ(トクサ科)とする。
「蕗臺」は、フキ(キク科)とする。
「福寿草」は、フクジュソウ(キンポウゲ科)とする。
「赤根」は、フダンソウ(ヒユ科)とする。
「松」は、総称名マツ(マツ科)とする。
「万作」は、マンサク(マンサク科)とする。
○二月
二月の日記には23日間に植物名の記載がある。また、ガーデニング作業と思われる記述は、13日ある。収穫の記載は20日ある。それら二月の日記に記された植物名は41、13種である。この年の新たな植物の種類は11種である。以下順に示す。また、なお、「唐桑」と記された植物をハナズオウと判断したが、確信はない。植物を遣り取りした記録は、6日である。
「菊」は、総称名キク(キク科)とする。
「桜」は、総称名サクラ(バラ科)とする。
「芹」は、セリ(セリ科)とする。
「蒲公」は、タンポポ(キク科)とする。
「鳥頭」は、トリカブト(キンポウゲ科)とする。
「南天」は、ナンテン(メギ科)とする。
「唐桑」は、ハナズオウ(マメ科)とする。
「彼岸桜」は、ヒガンザクラ(バラ科)とする。
「藤」は、フジ(マメ科)とする。
「桃」は、モモ(バラ科)とする。
「娵菜」は、ヨメナ(キク科)とする。
○三月
三月の日記には25日間に植物名の記載がある。また、ガーデニング作業と思われる記述は、17日ある。収穫の記載は23日ある。それら日記に記された植物名は81、35種である。この年の新たな植物の種類は25種である。以下順に示す。信鴻が六義園に移って初めて記す種は、キチジョウソウ、ニワザクラの2種である。また、植物を遣り取りした記録は、12日である。
「菖蒲」は、アヤメ(アヤメ科)とする。
「海老根」は、エビネ(ラン科)とする。
「海棠」は、総称名カイドウ(バラ科)とする。
「楓」は、総称名カエデ(カエデ科)。
「燕子花」は、カキツバタ(アヤメ科)とする。
「観音草」は、キチジョウソウ(ユリ科)とする。
「栗」は、クリ(ブナ科)とする。
「桜草」は、サクラソウ(サクラソウ科)とする。
「椒」は、サンショウ(ミカン科)とする。
「春蘭」は、シュンラン(ラン科)とする。
「荵冬」は、スイカズラ(スイカズラ科)とする。
「杉」は、スギ(スギ科)とする。
「躑躅」は、ツツジ(ツツジ科)とする。
「つはき」は、ツバキ(ツバキ科)とする。
「庭桜」は、ニワザクラ(バラ科)とする。
「野韮」は、ノビル(ユリ科)とする。
「萩」は、総称名ハギ(マメ科)とする。
「母子草」は、ハハコグサ(キク科)とする。
「杜鵠草」は、ホトトギス(ユリ科)とする。
「三葉」は、ミツバ(セリ科)とする。
「茗荷」は、ミョウガ(ショウガ科)とする。
「もみ」は、モミ(マツ科)とする。
「棣棠花」は、ヤマブキ(バラ科)とする。
「艾葉」は、ヨモギ(キク科)とする。
「蕨」は、ワラビ(ウラボシ科)とする。
「娵菜」は、ヨメナ(キク科)とする。
○四月
四月の日記には14日間に植物名の記載がある。また、ガーデニング作業と思われる記述は、19日ある。収穫の記載は8日ある。それら日記に記された植物名は34、21種である。この年の新たな植物の種類は10種である。以下順に示す。信鴻が六義園に移って初めて記す種は、ジャノヒゲとヒオウギの2種である。また、植物を遣り取りした記録は、4日である。
「雰島」は、キリシマ(ツツジ科)とする。
「黄山蘭」は、キンラン(ラン科)とする。
「白山蘭」は、ギンラン(ラン科)とする。
「長春煉花」は、コウシンバラ(バラ科)とする。
「杜鵑花」は、サツキ(ツツジ科)とする。
「麦門冬」は、ジャノヒゲ(ユリ科)とする。
「鉄せん」は、テッセン(キンポウゲ科)とする。
「檜扇」は、ヒオウギ(アヤメ科)とする。
「牡丹」は、ボタン(ボタン科)とする。
「薯豫」は、ヤマノイモ(ヤマノイモ科)とする。
○五月
五月の日記には24日間に植物名の記載がある。また、ガーデニング作業と思われる記述は、26日ある。収穫の記載は5日ある。それら日記に記された植物名は48、18種である。この年の新たな植物の種類は8種である。以下順に示す。信鴻が六義園に移って初めて記す種は、グミとムギ総称名の2種である。また、植物を遣り取りした記録は、4日である。
植物名を決めるのに迷った記述として、五月一日の「桑・椹を拾ふ」がある。字面だけから読めば、クワとサワラとなる。クワの実を拾うことはわかるが、サワラの実を拾うことは合点がいかない。サワラの実は、ヒノキより小さく、用途もわからない。そこで、思いついたのが松尾芭蕉の句である。芭蕉四十歳・天和三年に詠んだ句に「椹や花なき蝶の世捨酒(くわのみや はななきちょうの よすてざけ)」がある。「桑・椹」は、クワを指しているものと推測した。
「卯木」は、ウツギ(ユキノシタ科)とする。
「茱茰」は、グミ(グミ科)とする。 「桑」は、クワ(クワ科)とする。
「杜鵑花」は、サツキ(ツツジ科)とする。
「夏透百合花」は、スカシユリ(ユリ科)とする。
「緋百合」は、ヒメユリ(ユリ科)とする。
「笋」は、マダケ(イネ科)とする。
「麦」はオオムギと思われるが、確証がないのでムギ総称名(イネ科)とする。
○六月
六月の日記には11日間に植物名の記載がある。また、ガーデニング作業と思われる記述は、12日ある。収穫の記載は3日ある。それら日記に記された植物名は18、13種である。この年の新たな植物の種類は7種である。以下順に示す。
六月の日記で、判断に迷った記述に「木朝顔」と「隠元さゝげ」がある。「木朝顔」は、ムクゲを指すものと考えたが、前年「槿」と記している。そのため、「木朝顔」をムクゲとするには躊躇せざるを得ない。「隠元さゝげ」は、信鴻の記載に問題があり、インゲンとササゲの二つを指すのではなく、インゲンかササゲを指しているものと考えた。なお、料理方法は、両方とも同じで、特に分ける必要はない。しかし、植物分類からは、マメ科インゲンマメ属、マメ科ササゲ属と異なる。見た目では、ほとんどわからないと言って良い。そのため、信鴻は区別していなかった可能性がある。多少異なるのは、収穫時期で、ササゲの方が遅くまで成っている。したがって、「隠元さゝげ」はインゲンかササゲのどちらかを指しているものと考え、安永二年に六義園へ移る以前に出ているインゲンとした。
「隠元さゝげ」は、インゲン(マメ科)とする。
「くこ」は、クコ(ナス科)とする。
「茄子」は、ナス(ナス科)とする。
「嬰麦花」は、ナデシコ(ナデシコ科)とする。 「なもみ」は、オナモミ、メナモミ、コメナモミ(いづれもキク科)があり、判断できないため、総称名ナモミ(キク科)とする。
「花丁子」は、「田舎にて和胡椒と云」とある。この植物は、「昼お隆と園中廻り、くこの如き実の生たる枝を取帰る」が、名前がわからないので植木屋に尋ねた。その答えが「花丁子」で、たぶん赤い小さな実の成る植物であろう。「花丁子」を「ハナチョウジ」と読めば、ゴマノハグサ科の常緑低木が該当しそうである。しかし、その実は「赤い小さな実」ではない。次に、「和胡椒」は、「九州地方の一部では、この唐辛子のことを「和胡椒」、ペッパー(胡椒)のことを「洋胡椒」と呼ばれています」ともある。トウガラシの実も赤いことから、トウガラシの可能性もあるが、信鴻はトウガラシを知っているので、トウガラシではない。そこでもう一度、クコの実に似た植物を探すと、オニシバリ(ジンチョウゲ科)、別名ナツボウズが浮上する。そこで、「花丁子」は、オニシバリであろうと推測する。
「るかう艸」は、ルコウソウ(ヒルガオ科)とする。
信鴻が六義園に移って初めて記す種は、ナデシコ、ナモミ、オニシバリ、ルコウソウの4種である。また、植物を遣り取りした記録は、6日である。