三十三年頃から徐々に盛り上がる娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 131
三十三年頃から徐々に盛り上がる娯楽
五月皇太子成婚式/六月義和団事件で日本出兵/九月立憲政友会結成
・平和を反映し市民のレジャーは盛り上がる
 浅草は、元旦から大勢の人々が訪れている。当時、市民の間で、三箇日に観音さまを初詣して、浅草公園で遊ぶというスタイルが定着していた。特にこの年は、「近来人の耳目を引く観覧物」と新聞に書かれた珊瑚閣が開業、前年十月にオープンした水族館も相まって賑わいを増した。珊瑚閣には、高さが二三尺、目方が三四貫もある特大の桃色珊瑚が陳列。桃色珊瑚は、学術上も装飾品としてもまれな珍品で「日々二千人以上」の見物人を集めたらしい。正月の浅草公園には、凌雲閣をはじめ劇場や見世物小屋などが元旦から来客を待っており、有料施設だけでも一日一万人以上を超える利用者があった。
 二月、七年前に新声館や春風館に出演したダーク一座が英国から再来日。新富座で操人形を午後と夕方からの二回興行。料金は、高土間35銭、桟敷30銭、土間25銭、中等・大入場が10銭と、比較的安かったと思われる。しかし、操り人形のできばえが悪かったのか、それともホーカイ節や長唄勧進帳といった伴奏に合わなかったのか、拙劣と酷評されている。以前受けたのでもう一稼ぎしようと、今度は収容人員の多い劇場に変えて興行したが思惑は見事に外れた。
 四月、花見は前年にも増して盛り上がった、12日の浅草所管内では、悪天候にもかかわらず酩酊保護者が55人、喧嘩15件、迷子18人もあったという。14日の上野・浅草・向島は、近来まれな人出とされ、酔漢が292人、迷子61人も保護され、喧嘩で147人が捕まり、スリも4人逮捕された。15日の天気は晴れ、職工の休みと日曜日が重なったため、さらに多くの花見客があったと見えて、「掏摸もしきりに出没」との記事。その後も、「花見客が大立ち回り」、「天神下同朋町の芸妓150人が休業して9時より上野へ花見に」などなど。新聞には、花見に関する話題が続いている。                       五月の大相撲は、初日の観客が1853人、二日目が1279人、以後1381人、1810人、2701人、3812人、七日目が最も多く3990人、2951人、3747人、最終日が730人。十日間の入りは、合計22444人。新聞には連日取組が紹介され、以前より観客数は増えたが、満員御礼の連続とまではいかなかった。
・演芸に外人コンプレックスがなくなる
 六月、歌舞伎座では、回向院で喝采を受けた米国人シードフラックらが自転車曲乗りを興行。菊五郎はかなり気に入ったと見えて再三見物に出かけ、彼に付いて自転車乗りの練習をしたという。七月にはフランス人デルフ一座が奇術を披露。前述の新富座歌舞伎座などの劇場で、歌舞伎や演劇とは異なる演し物が行われることが一般化していた。明治二十八年、川上音二郎歌舞伎座で「威海衛陥落」を上演した時に、団十郎が「いやしむべき書生芝居を演じさせた舞台は、全部削りなおさなければ今後出演しない」と断言したことなど一昔も前の話のようである。三月時の料金は、桟敷6円30銭、高土間5円30銭、平土間4円30銭、敷物50銭、三階席30銭であった。
 歌舞伎座は、明治二十九年に株式会社となった。したがって、劇場経営は採算を重視され、収益の見込まれる演し物なら何でも興行させようとする方向に移っていた。デルフ一座の奇術は、開場前から評判が高く、初日には劇場前に黒山の人だかりができるほどであった。が、あまりにも下手くそなので、観客が舞台に上がって騒ぎだし、中止。たった一日で閉場した。当然のことながら入場料を返せと言って観客が騒ぎ混乱したが、劇場側は売上げのすべてを養育院へ寄付するということで観客を納得させた。この措置は、劇場にとって厳しい選択であったが、当時はこのようなリスクも当然考慮されていた。
 その数年前には、外国からやってきたというだけで、芸の出来に関係なく喝采をおくり、大金を出していた時期があった。日本人は、現代でも外国人、特に欧米人に対して甘いところがあるが、欧米を模範としていた明治には、その傾向がより顕著であった。しかし、日清戦争に勝ったことや日英通称航海条約ほか改正条約実施によって、治外法権が撤廃されるなどし、少しは欧米コンプレックスも緩和されたのであろう、演芸の出来不出来の評価をハッキリと下すようになった。また、日本人の芸が欧米人と肩を並べるまでになり、日本人の観客も目が肥えてきた、ということもあろう。十月の新富座では、外人との共演による自転車曲乗り競技大会を興行。料金は、一等50銭から四等10銭までと、人気のあった同月の神田錦輝館が上映した「北清事変の従軍映画」の金額と変わらなかった。
・年末、神田明神で大惨事
 十一月、東京府から劇場取締規則が公布された。それによると、劇場数がそれまでの22ヶ所から27ヶ所まで許可数が増え、興行時間も従来の八時間から九時間に延長された。近年、大衆の生活が安定し、レジャー活動も活発化して、劇場観客数が年間400万人以上へと急激に増加したことを反映しての判断であろう。
 十月の大伝馬町のベッタラ市は人出が多く。十一月の浅草大鷲神社の初酉の市も、寿司20銭、汁粉5銭、甘酒3銭、粟餅5銭と高かったがそれでもかなりの盛況で、260台の馬車が延べ1500余回の運転で6277円の売り上げ。二の酉、十二月の歳の市も、多くも人々が各地に出かけ賑わった。なお、神田明神の歳の市には、玉乗り、女相撲、火渡り、七面相、曲芸、剣舞、猿芝居などの興行があった。それを見に大勢の人がつめかけたところに、急に雨が降り出し、人皆、我先にと帰ろうとしたため大混乱、死者が10名も出る惨事となった。                                       
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明治三十三年(1900年)の主なレジャー関連の事象
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1月M元旦が初水天宮、早朝より参詣人多く、勧工場など大繁盛/都新聞
1月M上野・浅草公園、見世物や露店、劇場も大入り
1月M藪入り、上野・浅草公園、見世物・露店・劇場も大入り
1月T浅草珊瑚閣が開業し一日の参観者二千人/東京日日
1月 上野公園の日本美術協会主催の葛飾北斎展覧会、来館者多く日延べ/時事新報
2月Hダーク一座が新富座で操人形を昼夜二回興行する、高土間35銭、桟敷30銭、大入場10銭/郵便報知
3月Y彼岸の中日、どっとあふれた参詣者/読売
3月Y浅草水族館にオットセイが新呼び物に
3月H浅草花屋敷の火事でオランウータンが焼け死ぬ
4月Y深川の浄心寺身延山の開帳が賑わう
4月M花見の騒ぎがエスカレート、向島では喧嘩96件、酔漢205人、迷子14人、スリ2人逮捕
5月M皇太子御成婚祝、街中を飾り、山車が曳き出され、日比谷原頭の大凧に見物人が群集
5月 皇太子御成婚祝で米国在留邦人が自動車を献上
5月 一高と横浜外人の野球試合で一高がシャットアウト勝ち
6月Y米国人シードフラックらが回向院と歌舞伎座で自転車曲乗りを興行する
6月M南千住の汐入山王の祭礼、屋台囃子神楽等
6月 警視庁、道路取締規則制定
7月 フランス人デルフ一座が歌舞伎座で奇術を興行する
7月M浅草四万六千日で鉋で氷を刷き落としコップに入れて5厘で売り、大人気
7月M上野のパノラマ、会津
7月Y神田錦輝館で相撲映画を公開
8月Y両国の川開き、川施餓鬼と重なり遊船底払いし好景気
8月M両国の川開き、38艘の大伝馬船などで警戒、河岸桟敷特別席1円・二階席上等一間6円・下座敷3円・一銭蒸気船待合所15銭
8月 東京の水泳教習所、七流派十七カ所
8月Y明治座の活動写真、大入で興行を日延べ
8月 本郷春木座で中村雁次郎の「鳰の浮巣」の映画を興行する
9月M芝神明祭礼、山車・踊屋台、剣舞、手踊り出る
9月M神田明神、西久保八幡、千住氷川等で祭礼
9月 救世軍と二六社報社が吉原で廃娼運動を展開し流血
10月M浪花節の流行で落語が圧倒され、浪花節と席亭とが衝突
10月M琴平神社の大祭、剣舞、眼鏡猿芝居等の見世物あり
10月M鬼子母神・堀之内・本門寺で会式、新橋・大森間鉄道17601人・2487円、鉄道馬車品川支局542円
10月F不忍池畔で第二回自転車競争会を行う/国民
10月 新富座で内外人によって自転車曲乗り競技大会を興行、一等50銭~四等10銭
10月M神田錦輝館で北進事変の従軍映画を昼夜二回興行、一等50銭~四等10銭
11月 劇場取締規則の公布、劇場数が22から27ヶ所に、興行時間も九時間に増加する
11月 東京帝大運動会(ヤード制を廃しメートル制を採用)挙行
11月Y明治座、大入が続き場代を大安値奉仕
11月Y上野・新橋駅は、紅葉狩り客が殺到
11月M浅草大鷲神社の初酉の市盛況、寿司20銭、汁粉5銭、甘酒3銭、酒12銭等と高い
11月H新富座で娘芝居(十二歳以下)を公演
12月M愛宕の歳の市、羽子板22、七五三飾45、植木88、飲食等250、見世物8、昼より雑踏し夜には群集