大正十二年後期 すぐに取り戻す庶民の娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 175

大正十二年後期 すぐに取り戻す庶民の娯楽
 関東大震災は、東京庶民に壊滅的な衝撃を与えた。市内の半数以上の人が被災し、大混乱に陥った。その混乱は、一月も経たないうちに収束に向かった。元の生活へと早く戻れたのは、庶民の自助努力である。地域の人間関係の結びつき、相互扶助など、自分たちで修復する力があったからである。現代の東京でも、同じような修復が期待できるであろうか。社会が複雑化し、人間関係が希薄化し、個人の力が埋没する組織など極めて難しいであろう。様々なことが、国や都に依存しなければならないようになっている現代、新型コロナウイルス感染症の流行を見ると、結局は自助努力になりそうだ。では、何が関東大震災からの復興へと向かわせたのであろう。それは、庶民が明日への楽しみを持っていたからであろう。
・九月「みくじの上り高四倍となる 焼け残りの浅草観音 大繁昌大景気」二十二日付東日
 九月一日、関東大震災。市域の43%は焦土と化し、焼失家屋44万、被災者141万人を記録した。前日までは市民の憩いの場であった上野公園など市内の各公園は、一転被災者の受け入れ場に変わった。震災直後である一日、二日の避難者は、上野公園が50万人、宮城外苑が30万人、芝公園が20万人、日比谷公園が15万人、浅草公園が10万人、小石川植物園が8万人等々。四日、永井荷風は知人の牧師を探しに上野公園へ出かけて行ったが見つけることができず、結局大久保まで歩いて帰った。
 震災後の東京は大混乱、二日に戒厳令が出されたが、盗み、放火、詐欺、婦女誘拐など、あらゆる犯罪が発生した。なかでも、流言飛語によって朝鮮人などが数千人も殺されるなど、治安の悪化は著しく、荷風は三日の日記に「各戸人を出し交代して警備をなす」と書いている。また、援助物資の横領や物資の買い占め、売り惜しみ、また物資の不足から諸物価は値上がりし、市民はその日の食事にも窮する状況に陥った。
 それでも、四日頃から送電開始、六日には公設市場で米を販売、八日頃から電車が動きだすなど、市民生活は徐々に回復しはじめた。市民は、身内や知人の安否を訪ねて市内を歩き回り、食べ物や日用品を求めて駆けずり回った。荷風もようやく落ちついたのか、十二日にハギが咲き始めたなどと窓の外を眺める余裕も見せている。市内にはバラックがたくさん建てられ、風呂屋も営業を始めたようす。荷風はそこに出かけ「心気頗爽快を覚ゆ」と十七日の日記に書いている。また荷風は、震災後は何となく落ちつかず、庭を歩くこともなかったが、十八日には箒を持って落葉を掃いている。この頃になると動揺していた市民も落ち着きをみせ始め、日比谷界隈に三百軒の俄飲食屋ができたとか、「縁台で五百円の売上げ」があったなどという記事からもわかるように、商いをしている場所には、買う買わないは別として多くの人々が集まった。
 二十二日には「みくじの上り高四倍となる 焼け残りの浅草観音 大繁昌大景気」(東日)という元気な見出し。まだ六区の興行が再開していない浅草へ参詣する人が毎日四千人程度いたというから驚きである。同時に震災で行方不明になった人を突止めようというのか、おみくじ場が大変な混雑という記事もある。当然仲見世は、火事泥的に飛びこんだ露店商人ばかりで、ただ「大増」だけが急造の大バラックで安い飲食物で黒山のように客を引き寄せていた。人はよく出ているらしく平日の倍に達したらしい。また、かろうじて焼け残った丸ビルには、銀座や日本橋白木屋・大丸商店・明治屋などが二十日頃から開店し、これには「何でも御座れの買物に 毎日の集散十万人余」と、震災前の二倍半の人が訪れた。このように、市内で一般に開かれている場所には、どこでも大勢の人が集まった。
 上野も西郷さん銅像前から竹の台一帯がすっかり露店で埋めつくされ、中には提灯を吊るす酒屋もあって、まるで花見のような雰囲気だとか。二十三日付の新聞(東日)には、「活動界 山の手から蓋が開く」と、駒込万歳館などの営業が始まった。その一方で、震災で崩壊した浅草凌雲閣の撤去が行われた。当時浅草公園ではまだ後片付けをしている段階で、劇場や映画館が営業できるという状況ではなかった。また、仕事を求めて「徹宵行列を作って 殺到する求職者の群れ」(十七日付東朝)と書かれているように、多くの市民は自らの生活の再建に走り回っていた。
・十月「樹の枝へ鈴成りに・・・大人気の澤正野外劇」十八日付讀賣
 一日からは焼失を免れた寄席が再開し、「何処も凄じい大入り満員」であった。三日付の新聞(以下東日)には、近頃、学生達の巡回音楽団が毎夜のように日比谷公園バラック街で慰安演奏をしているとある。五日付で、渋谷の宮益坂上農業大学裏で慰安無料浪花節大会。十四日には、神宮外苑で戸山学校軍楽隊がロッシーニのウイリアムテル序曲などの演奏会。十七日から避難民が大勢いる日比谷公園音楽堂で、澤田正二郎一座が三日間罹災市民慰安公演会を行った。その「澤正野外劇」がどのようなものかというと、「日比谷村はじまって以来の素晴らしい景気である場内は一万人以上と云う入場者に身動きもとれぬほど・・・『高田の馬場』で澤正得意の大立廻り十八人斬りは見物大喜びだった。終演は四時半、兎に角大盛況だったが 昼飯も食わず一生懸命に見ている見物も御苦労な事である。なお十八、九日も正午より開演する」(讀賣)と。二十日も「無料で野天講談」。二十一日、上野公園で天勝一座が野外慰安舞踏を催した。このような慰安芸能の催しは、どこでも多くの人々が集まり喝采を浴びた。
・十一月「娯楽物は何物によらず すばらしい景気」二十五日付讀賣
 震災後初めての野球は、「五対零で美軍敗る 対早大に」(一日付讀賣)と早大球場で行われ、満員の盛況だった。翌日も戸塚球場で慶応対美加登の試合が行われ、見物席が満員と。二日には、日比谷公園で来日したハイフェッツチゴイネルワイゼンなどを奏でる義援演奏会。これは野外コンサートで、帝国ホテルで行われた時の入場料が10円だったのに対し1円ということで、3600人の客が詰めかける大盛況。売上げも3600円になった。また、明治神宮外苑に野外演芸場が作られ「興到れば勝手に 観衆も舞台に 盆踊り気分の野外劇・・・丹青座が十八日無料興行」。「兜姿で無茶苦茶芝居の 松ちゃん立派々々 澤正の堀部安兵衛と・・・きのうの日比谷の野外劇大人気」(十六日付讀賣)と報じている。
 「焼けずぶとり興行物の大景気 はち切れそうな入りつづきに 毎日客止めの大当たり」(二十日付東日)と、営業中の芸能興行はどこも盛況であった。二十五日付(讀賣)で市内の劇場関係の復活状況が出ている。それには「芝居は中車一座の麻布南座、二十二日から開けた牛込会館の村田正雄一座の人間座をはじめ早稲田座の義士廼家一座、王子劇場の市村座若手連菊十郎等の一座その他いづれも大入、活動写真も東京市内外を通じて全部で百二十一館あった中四十四館が焼け七十七館が残ったが、その中現在僅か五六を除く外は全部開館して居り、寄席や演芸場も市内及府下で百五十五の中六十が焼け九十五が現存して居りこれも追々開場されつつあるが、いづれも押すな押すなと云う景気である。・・・大入りは、娯楽物が如何に要求されて居るかがよくわかる」。以前はなかなか大入りにならなかったところも満員になる盛況ぶり。また、演し物は明るいものが受けていた。それに対し年中行事の七五三の祝は、いつになく淋しかったようで、人々の生活に密着した行事はまだ完全復活は遠い状況にあった。二十日付の新聞(東日)には、その日の生活に困るものが都下30万人余という記事も見られる。
 「上野の露店は二十日限り」(十三日付東日)と期限が切られ、公園内の避難者等の退去、震災の後片付けは徐々に進みはじめた。しかし、日比谷公園などを占拠した人々は翌年まで居座ってバラック小屋で営業を続け社会問題化し、市民レジャーにも支障をきたした。一方、「三越下駄ばきで入れ 今日から開店」(十七日付)と、復興に伴ってあたらしいスタイルがいくつも誕生した。街には、婦人の洋装と自動車が増え始めた。震災の被害が少なかった渋谷は、「震災成金の隠れ遊び等で 大恐悦の渋谷町」(十二月五日付讀賣)と一人賑わいを見せていた。渋谷周辺には、一時5万2千人もの避難民が入り込んだため、町はにわかに活気づき新たな繁華街を形成しつつあった。
・十二月「予想外の人気に 活気立つキネマ界」十四日付東日
 土曜日の午後ということもあって、一日の浅草の人出は夥しく、早稲田演劇研究会による野外劇が大喝采を浴びた。お堂を取巻く人は数万にも及んだという(二日付国民)。六日付で納の水天宮の賑わった写真を掲載(東日)。上野動物園は、十一日から入場料無料で臨時にオープン。浅草観音の歳の市は、出店数が例年の四分の一だと報じられた。ところでキネマ界(映画界)は、十二月に入ってから一層の人気。五日位の時点ですでに従前の十二月分全体の収入を占めるというほど。日比谷図書館で開かれていた震災資料展覧会が入場者が多く日延べと。十五日から始まった目黒競馬は、馬券が復活したことから盛り上がり、二十三日には売上げ30万円を上回った。そういえば、年の初めからゴタゴタ続きの相撲協会も、遅ればせながら国技館の焼け跡で大相撲を披露。久しぶりのこともあり、しかも慰安興行ということで入場無料とあって大入り満員であった。
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大正十二年(1923年)後期の主なレジャー関連事象・・・9月関東大震災/12月摂政宮狙撃事件
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9月3永 各戸人を出し交代して警備をなす
  8日 虎や象とともに浅草観音に十万人 不思議な命拾い浅草の惨状
  14日 火の消えたような興行界と花柳界
  17朝 日比谷界隈に3百軒の俄飲食屋
  22日 みくじの上り高四倍となる 焼け残りの浅草観音 大繁昌大景気
  23日 活動界 山の手から蓋が開く
  24日 十二階爆破の刹那
  26朝 浅草へ参詣する人が四千人程度
  26朝 丸ビル大繁昌、何でも御座れの買物に 毎日の集散十万人余
  26朝 浅草仲見世は、火事泥的に飛びこんだ露店商人で賑わう
  29日 上野は露店で埋まり、野次馬など花見気分 
10月2日 寄席は何処も凄じい大入り満員
  6日 渋谷宮益坂上農業大学裏で慰安無料浪花節大会
  13永 馬場先門より八重洲大通り露店櫛比し、野菜牛肉を売る
  18朝 日比谷音楽堂で大盛況の野外劇「勧進帳」演劇に渇した2万人の見物
  15日 神宮外苑で戸山学校軍楽隊の演奏会
  21日 上野公園で天勝一座の野外慰安舞踏大盛況
  22読 奈良丸、日比谷で24・25日公演
  23日 深川八幡の遷座祭賑わう
  27報 日比谷音楽堂で菊五郎一派の野外舞踏   
  29読 早大対全関東ラグビー蹴球戦、観客多く野球戦も及ばぬ人気
  31読 上野精養軒で大菊花園、国技館用に作られた花で、自由観賞
  31読 日比谷商店街連合会 儲け無いデー
11月2日 戸山球場見物席満員、慶応美加登に勝つ
  3日 日比谷公園ハイフェッツの野外演奏会3588円売上げ 
  3読 明治神宮御例祭、余興等一切なし
  8読 明治神宮外苑に野外演芸場が作られる
   13日 ふだん着のまま淋しい七五三
  20日 焼けずぶとり興行物の大景気、毎日客止めの大当たり
  21日 天勝一座、ホテル演芸場日延べ
  23永 荷風渋谷道玄坂の夜市を見る
  24日 まっさきに明く仮小屋の宮戸座
12月2国 浅草の野外劇 お堂を取巻く幾万人
  4永 銀座に往く、商舗は皆仮小屋に電灯を点じ物資を路傍に陳列するさま博覧会売店の如し
  6日 納の水天宮賑わう
  9読 動物園開く、臨時に十一日から入場料無料
  13読 観音の歳の市は出店数が例年の四分の一
  14日 予想外の人気に活気立つキネマ界
  16読 日比谷図書館で催されていた震災資料展覧会は入場者が多く日延べ
  17読 馬券復活の目黒競馬始まる
  24読 国技館焼跡の大相撲 無料で満員
  24読 目黒競馬四日目、売上げ30万円を上回る

 

園遊舎主人の茶花写真

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