江戸・東京庶民の楽しみ 176
大正十三年前期 復興に追われ市内の娯楽は停滞
この年、一月に成立した清浦奎吾を首班とする貴族院内閣は衆議院を解散、五月の総選挙では護憲三派が大勝し組閣にこぎ着けた。こうして、形の上では「大正デモクラシー」運動が実を結ぶことにはなったとも言える。しかし、だからといって民衆レベルの民主主義的な要求が飛躍的に高まったと見ることはできない。まだ、女性はもちろん、国民全てに選挙権(全人口の6%以下)が与えられていない。震災の影響もあってか、選挙期間中のメーデーも盛り上がりに欠けていた。
市民の多くは、バラック住まいの生活をたてなおし、震災ショックから抜け出すということに追われていた。市民レジャーも、映画を除けばあまりパッとしなかった。ただ、夏の避暑は市民の間に定着しはじめたらしく、日帰りで出かける人が多くなった。
この年、「あの町この町」「ストトン節」などが歌われ、「円太郎」と呼ばれる市営バスの運行が始まる。
・一月「東京中に 酔っぱらいの影が無い・・・震災正月の気分」四日付讀賣
十三年の正月は年賀状の総数が減るなど例年より質素に明けた。「復興の新年よりも 震災正月の気分」(四日付讀賣)とあるが、それは震災のお正月と云えば不景気らしいし、「復興の第一の新年」と云えば上景気らしく」聞こえるからである。「東京中に酔っぱらいの影が無い」という見出しもある。例年なら酔った勢いで警官を手こずらせるものがあとを絶たないが、この年は無いも同じ。また、「吐いた物にお料理が無い」とまで書いている。鉄道関係者によれば、人出も前年より30万人も減ったとか。確かに市電の売上げは減少している、しかし、乗客数は前年より10万人も増えた。鉄道も上野運転事務所管轄では、元日だけで5万人も増えたという。なかでも、この年の恵方である成田不動へ出かける人が多く、成田駅や我孫子駅はまるで戦場のようだったとか。
市内では、浅草の人出が最も多く、電車乗降客が連日10万人以上、次いで明治神宮。ただ、深川不動、亀戸天神、川崎大師などは前年に比べるとぐっと淋しかった。浅草は四ヶ月ぶりで各興業物が一斉に蓋を明けたため上景気。11の映画館をはじめ、宮戸座・凌雲座・大盛館・世界館・安来節の御園劇場、さらに花屋敷、講釈場の金車亭に至るまで大入り。ことに、澤田正二郎一座の天幕劇場は、新国劇『国定忠治』を見ようという人で、東洋一の大テントのなかは超満員、木柵の上にまで人が鈴なりという有様。映画館も身動きも出来きないほどの混雑ぶりであった。このように市民は、正月を迎えてようやく落ち着きを取り戻し、映画でも見てみようかという気分になった。
「澤正が今日天幕劇場で 名士と共に演説 政治を民衆に近接せしめる為」(十七日付讀賣)。天幕劇場は連日客止めの大盛況。そして千秋楽には、時局問題その他政治上に関する講演会が開かれた。澤田正二郎は、民衆は政治に対して没交渉ではいけないなどと、持論を展開。警視庁の方でもよく理解してくれ末広博士も一時間半にわたって講演とあり、その時代にしてはなかなか「破天荒な企て」が催された。もっとも、どの程度の効果があったものやら、残念ながら民衆芝居のなかに政治活動を取り込もうとする試みは、これが最後のようである。
「米国野球界通信 世界選手権戦の入場者と入場料」八日付(讀賣)の中に、三田・稲門戦との比較が載っている。1903年、最初の世界選手権戦の平均入場者数は約1万2千人、入場料は日本円にして約1万2千円であった。また、この数値は、当時の三田・稲門戦の入場者数と入場料に酷似しているという。ちなみに当時の米国世界選手権戦一試合の平均入場者数は、約5万人、入場料は約3万3千ドルであった。日本の野球については、「野球は技量に於いても一般の熱心さに於いても・・・米国の二十年前位のものかも知れぬ」とある。実際、野球はまだ学生スポーツの域を出ず、女性や高齢者も喜んで見に行く相撲のような幅広い人気はとうていなかった。
新聞は年の初めから、東宮の御成婚関連の記事が出ない日は無く、震災復興ムードを明るく盛り上げようとするかのようである。二十六日は、「還行啓の沿道の感激・・・早朝より離宮に集まる群衆叫ぶ 来る電車も電車も満員」。「還啓を待設ける 群集から迸る歓声・・・昨日人出五十万という」(二十七日付讀賣)。早稲田大学では一万余名が参列して奉祝式など、市内はお祝いムード一色であった。
・二月「浅草の豆撒き例年の三倍の人出」五日付讀賣
二月はもともと人出の少ない季節であるが、さらに減少。ただ、浅草の「豆撒き」は、浅草寺が焼けずに残ったことから、例年の三倍に増加、近来にない人出となった。その他、各地でも追儺式は催されたが、あまり盛り上がらなかった。また、九日の初午も、羽田穴守稲荷神社の広告(讀賣)が二度ほど出ただけ。以後の新聞にも、レジャーで賑わう様子が見られない。
一月十四日付(讀賣)で、「歌右衛門一座が東京での初出演・・・大賑やかの二月の芝居」と期待された。しかし、実際には新春の明治座や天幕劇場等がどこも満員続きだっただけに、反動で二月の落ち込みは激しかった。「惨めな春芝居 気の毒な帝劇と市村一派」(三月十二日付報知)、「帝劇も市村も未だ容易に蓋をあける運びが立たず・・・各所で小興行を打っても不入続きの不成績」と、見出しから関係者の悲鳴が聞こえてくる気配。市民の多くは、まだ観劇を楽しむ余裕がない。永井荷風ですら、震災から半年たったいまも、まだ劇場に足を運んだという記述が日記に見当たらない。
・三月「日曜の春を楽む動物園の人出」三十一日付讀賣
三月に入っても市民レジャーは沈滞したままであった。観梅列車の運行など春の行楽を誘う記事もあるにはあるが、震災前の生活を取りもどそうと必死の市民には遊びに出かける余裕などなかった。震災の恐怖やストレスは薄れても、大半の市民は、仕事に全力投球するのが精一杯という状況。それでも、二十二日に関東実業野球大会が早大球場で開催、上野の山に1万人程度の人が出かけた。また三十一日付の新聞(讀賣)には、市民の行楽を誘うかのように上野動物園で憩う人々の写真が掲載された。
・四月「団体の少ない今年の花見」十五日付讀賣
サクラの開花が例年より少し遅れ、七日付で花見の記事。それも、あいにくの雨で花見衣裳が濡れたことや、不意の雨に追われて迷子が14~5人出たことなど湿っている。十一日、サクラは「爛漫」であるが、電車は混んでいないと荷風の日記。十三日付(東朝)で「人でうずまる きょう飛鳥山の賑 正午までに十万人」と人出が期待されたが、翌日はまた雨と、この年の花見はまったくの雨続き。そして十五日付(讀賣)では、前日の飛鳥山は、団体の花見がたった三組と激減したことを伝えている。考えてみれば、震災のせいで会社や工場はひどい打撃を受け、ようやく恢復の緒についたばかり。当然ながら、団体の花見客は少く、盛り上がりを欠いた。
四月の半ばを過ぎ、市内のサクラは散ったが、郊外のサクラやヤエザクラはまだ見頃。「花に浮されて 出るは出るは」と、二十日は晴れの日曜、郊外へ向かう駅はどこも大混雑だった。玉川へ向かう京王電車は6万人、京成電車で市川や中山へは12万人、荒川堤も10万人の人出。翌二十一日の新井薬師縁日には花見を兼ねて10万人が訪れるだろうと予想している。全般的に春の行楽は、名残りの花を求めて出かける人はいたが、例年に比べるとかなり湿っていた。
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大正十三年(1924年)前期の主なレジャー関連事象・・・1月第二次護憲運動
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1月3読 新春の賑わいは浅草
3読 天幕劇場、新国劇で満員御礼
4読 電車も汽車も到るところ大混雑の三箇日、酔っぱらいの影が無い
5読 興行界記録破りの大景気
11読 オペラ館「ベッスリア女王」他満員御礼
12永 荷風、市中塵埃甚しく歩むべからず
17読 澤正が天幕劇場で名士とともに演説
27読 東宮御成婚を祝し、人出五十万という
2月4日 日展の入場者六千、観客あふれて二度の札止め
5読 浅草の豆撒き例年の三倍の人出
8読 初午、羽田穴守稲荷神社
8日 小石川伝通館「世界の喝采」他満員御礼奉仕週間
9読 百万ダースのハーモニカが前年からこの年までに売れた
18朝 上野の護憲国民大会に二万余の大行列
24読 オペラ館「金色夜叉」満員御礼
3月12報 惨めな春芝居
9読 観梅列車水戸へ
9日 電気館「嬰児殺し」他大好評満員日延べ
16読 大東京「清水次郎長」他満員御礼
20日 演技座、澤正の「松永弾正」他満員御礼
22読 早大球場で実業団野球大会開催
23読 上野の山に1万人の人出、動物園に3千人
30日 花月園の京浜児童娯楽大会、野外劇入場者一万五千人
4月7読 東京駅の乗車券売切れ、小旅行増える
7朝 花見、不意の雨に追われて迷子が十四、五人出る
11永 此日近郊の桜花方に爛漫たり。電車幸に雑踏せず
15読 飛鳥山の花見、団体は少ない
20朝 芝離宮庭園公開、朝八時から午後五時
21読 花に浮されて、出るは出るは、快晴の日曜に各駅雑踏
27朝 日比谷音楽堂で、第一回日本軽体量級拳闘選権試合が行われ観衆数千
28読 早稲田大学大隈会館の大演劇会日延べ
28読 二日目の競馬、いずれも大入り満員
園遊舎主人の茶花写真