大正十四年中期 引締めを感じてか盛んな娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 180

大正十四年中期 引締めを感じてか盛んな娯楽
 4月に治安維持法、5月に普通選挙法と、重大な法律が公布された。普通選挙法は、成人男性の普通選挙実施による政治運動を進めることになり、それに対し、過度の政治運動を抑制するための治安維持と、この二つは「飴と鞭」とも評された。また、治安維持法は、1月の日ソ基本条約が締結されソビエト連邦との国交樹立が、共産主義革命運動の激化の懸念を念頭にしていたとされている。
 大衆は、そのどちらにも大きな関心を持っていたとは感じられない。新聞には、以下のような記事が掲載されているが、遊ぶことの方が優先されていた。それでも、政府の引締めを感覚的にわかっていたような気もする。
 この年を通じて感じるのは、懐古的なムード、江戸を懐かしむ雰囲気が残っていること。翌年から新たな動きに向かうことを予感したのであろうか。
・五月「二重橋の人波と 万民歓呼の声」十一日付讀賣
 メーデーについては、「賑うた『おれ達の日』 五月晴れに威声を轟かせながら 二万余名の人たちが練り廻った 無産階級の大示威」(二日付讀賣)という報道。芝有馬ケ原に36団体が参集。メーデー始まって以来の大入りで、3千名の警官に見守られて行われた。会場に入るまでの坂道で巡査が検査しており、うさん臭い者は遠慮なく検束され、竿や旗などは没収された。宣言の朗読が中止されるなどのことはあったが、会自体は盛り上がった。終了後は会場から大行列が上野へと向かった。途中、巡査が言いがかりをつけて小競り合いが起き、20余名検束などのトラブルもあったが、「四時上野でめでたく打出し」となる。なお、検束者は160名。労働者同士の内紛や警察の過酷な取締、様々な問題を抱えるメーデーに、勤めて間もないはずの赤襟嬢(女性バス車掌)も参加していた。
 九日の夕方から、陛下銀婚式の奉祝は賑やかに開催。翌十日は、朝から日比谷公園から馬場先門にかけて人の波が続き、宮城前の奉祝門のなかは数十万の人で埋められた。公園内では、奉祝相撲、陸海軍軍楽隊の管弦楽、市民の合唱などが催され、身動きのとれない人出。午後になると銀座方面へも人が多数流れ、飲食店はどこも満員、七台の花電車が行き交う通りは車道まで人が溢れた。この日の人出は50万人と報じられ、迷子も95名もあった。
・六月「不景気のお蔭で ダンスが又はやる」六日付讀賣
 市内のダンスホールが増え、十を数えるほどになり、社交ダンスが流行しはじめた。ダンスホールの会費は月10円程、専属の女性が控えているのだから、毎日のように通えばカフェへ行くより格安というのが流行の理由とか。警察の監視が厳しく、この時点では風紀上の問題はないとしている。
 六月も末になると暑くなり、芝公園プールは前年より半月も早くオープン。入場料は大人一時間5銭と、アイスクリームより経済的な消夏法であると推奨。連日込み合い、二十七日の土曜は1,304人、日曜日は1,660人、月曜日でも1,558人もの人が泳いでいる。十五・六才までは無料、午後になると誘い合ってやって来るので実際は2千人以上になる。営業時間は午前八時半より午後五時まで、もう少し暑くなると八時半まで開くそうだ。
・七月「景気直しの川開きが 今迄にない不景気さ」二十六日付報知
 「商人は上がったり 当外れのやぶ入り」(十六日付報知)と。浅草は書き入れ時とばかり、小僧さんたちを待ち受けていたが、十一時頃になっても人が来ない。平日と変わりないほどの人出しかなく、混雑したのは映画館だけだがこれも例年の半分程度の入り。ただ、おみくじだけはよく売れ、不景気を反映したものと書いている。また、小僧さん達は浅草や上野辺では満足せず、山や海へと出かけるようになり、この期間に品川から3万5~6千人、東京駅から1万5~6千人、等々との乗客があった。
 また、同じ十五日に、日比谷公園では納涼会が催された。素人相撲や映画などを楽しむ人が公園内を埋めつくし、人出20万人の賑わいと。翌日はそれ以上の35万人と見込まれ、人出でが多く迷子が4名(前日は十数人)、卒倒1名、負傷者14名も発生した。なお、婦人にけしからぬ振舞いをする者が多く、その中でも悪質な者を15名も検挙、また不良少年少女の団長を6名検挙。この納涼会は、市電の乗客増加を狙って五日間にわたって行われたが、人が集まったのは最初の二日間だけだった。残りの三日間は激減。市の社会教育課の選定した映画が人気がなかったのが原因をなどと責任のなすり合いをしたが、官製の納涼会企画は見事に失敗した。
 二十五日の川開きは、今迄にない不景気であったらしい。混雑していたのは両国橋付近だけとあるが、混雑の取締りに3千人以上の警官が配置され、2百艘の船で警戒したところを見ると人出は多かったものと思われる。他紙(讀賣)は「大景気の川開き 人出四十万」、呼び物の銀婚式の仕掛け花火が揚がるころには身動きのできぬほどの混雑ぶりとある。迷子や救護所の状況は、迷子18人、10カ所の救護所は脳貧血や負傷者で満員だったという。たぶん、人出はあったものの料亭をはじめとする屋台商人たちの実入りが悪かったのであろう。
・八月「盛り返した暑熱に海水浴場大繁盛」二十一日付讀賣
 「景気を煽る 夏祭り」(十三日付讀賣)。震災で神輿が焼けたり、氏子が亡くなり祭の復活は遅れていたが、深川八幡の夏祭は復活した。「焼けた神輿数百台を復活し軒提灯美しく復興の意気を見せ」と、手古舞や茶坊主の余興など趣向を凝らしている。洲崎では新たな氏子5百戸を加え、毎夜素人相撲で景気添えるとか。
 この夏、八月の半ばを過ぎても、海水浴場はどこも賑わっているらしい。七月の末十日間の鎌倉や磯子など神奈川県内の海水浴場の利用状況が示された。海水浴客は18万人。事故は溺死1名、盗難13件、負傷50件と比較的少なかった思われる。なお、「男女混合して叱り飛ばされたのは」103件あったというから、神奈川県内の海水浴場では男女は分かれて泳いだのだろう。
 三十一日付(讀賣)「増える一方の娯楽場、この不景気を控えて 震災後四二ヶ所の増加」。劇場や映画館、寄席などの娯楽場はいずれも経営難に陥っている。それがわかっていながら、後から後からできるのはどうしてか、と疑問を投げかけている。こうとた娯楽場の数は確かに増えており、大正十一年十二月に比べると、映画館27、寄席15、劇場3ヶ所も多くなっている。また、遊技場の数も著しく増加して、震災前(493)の倍以上(1022)になっている。特に増えたのが球戯(ビリヤード)で約二倍(504)、碁会所(麻雀を含)は約五倍(273)になった。

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大正十四年(1925年)中期の主なレジャー関連事象・・・4月治安維持法公布/5月普通選挙法公布─────────────────────────────────────────────
5月2読 メーデー2万余名の人たちが練りまわる
  3読 熱海温泉の不評判で週末列車ガラ空き
  10読 大婚二十五年奉祝、提灯行列や篝火会
  11読 奉祝、丸ノ内馬場先門内外に50万人の人出  
  11読 目黒競馬第二日目 大変な人出と物言い    
  11読 本郷座「堀川」他各等全部売切れ
  23読 堀切のむさし遊園地 花々しく開園
  27永 荷風、百花園に往く。園中人なく      
6月2日 鮎漁、今年は近来まれな7寸の大出来     
  6読 不景気のお蔭でダンスが又はやる          
  6読 避暑地人気投票、一位赤倉温泉二位大洗
  6日 警視庁がダンスの取締り、東京府内のダンスホール56ヶ所
  17朝 江戸らしい香い 山王祭りのお神輿が通る
  22朝 明治神宮外苑で早慶対抗競技 満都の人気を集めた
  27日 堀切菖蒲、満開見頃
  28読 子供の遊戯「隠れんぼ」や「鬼ごっこ」廃れ、大人の遊戯を真似る
  28朝 芝公園のプール開き、収容人員350人、大人5銭                    7月2読 へちまの風呂と新装の丸子園
  5読 森ヶ崎海水浴場開き
  6読 芝プールに一日千6百人押し寄せる
  7読 東京付近で許可された水泳場、約80ヶ所
  16読 多摩川丸子大花火十九日開催
  16読 日比谷公園納涼会第一日、人出20万人の賑わい
  16報 商人上がったりの 当て外れの藪入り
  21読 大磯・葉山の避暑、前年より千人増加
  24読 国技館の納涼園大人気
  26報 景気直しの川開きが今までにない不景気さ
  30読 明治神宮、夜も参拝・祭礼に許される                          8月2日 浅草松竹座、柔道拳闘大試合
  6読 歌舞伎座の「新版歌祭文」文楽座の人形芝居毎日大入り
  13読 深川八幡大祭、神輿数百で復興
  14読 洲崎神社祭礼、毎夜素人相撲で景気添え
  21読 盛り返した暑熱に海水浴場大繁盛
  24日 国技館の納涼園、三日間大福引デー
  31読 増える一方の娯楽場、震災後42ヶ所増加
  31永 八月中は人皆避暑に赴きし後にて来訪者少なく、閒居には最好き時節なり


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