江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)249
戦勝報告に酔う市民、昭和十七年冬
戦況は、一月マニラ占領、二月シンガポール占領、三月ジャワ島上陸、東京市民は戦勝ムードに煽られ、市内は動員された人々によって賑わいが出来ていった。官製イベントに乗じて遊ぶ市民はいたが、デパートの「大東亜戦争展」にしても、「前日は観客七万も」とあったとの記事もあるが、心置きなく楽しんでいたとは感じられない。
二月には、味噌、醤油の切符制。衣料品(パンツやシャツ等)の点数制など、情けないように思われるが、当時は誰もが受け入れていた。それでも、衣料点数制実施の直前には、デパートや商店に駆込み売上があり、通常の3~10倍にもなった。このような耐久生活をしなければならないのに、市民の抵抗は値上げ前の買い占めしか出来ない。
それでいて、日本軍が二月十五日にシンガポールを占領すると、戦勝を祝し、市民には、一世帯に付清酒・ビール2本、小豆1合、子供には菓子の特配があった。耐久生活を強いながら、ちょっと緩めようとしたのであろうか。それこそ、子供だましの様なことを行なっている。このような感覚で、日本軍は占領地の統治をしていたのではと疑いたくなる。
二月十八日の市内は「沸き立つ帝都の感激」と、二月十九日付の朝日新聞には市内の様子を写す写真が四枚と共に書き立てられている。その見出しは、「この萬歳、世界も聞け 一億の歓喜と感謝けふぞ爆発」「歴史の朝・宮城前の歓呼」「神前に赤誠の人波」「首相ら靖国社頭に感激の祈念」「御奥へ響く奉唱に 天機一入御麗し」「絢爛・勇武の捷歌」「帝都に響く音楽行進」等々と続く。
官製のイベントは事あるたびに催されているが、新聞には、必ずしも参加人員が記されていない。大勢の人々が参加しているのであろうが、その数値はあまり信じられいないが、概要を知るには不可欠である。新聞に記されない理由は、個々に異なるのであろうが良くわからない。ただ、様々なデータ公表が少なくなる中で、レジャー関連の映画や演劇の観客数が減少しはじめ、上野動物園ですら入園者数の減少がはじまった。
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昭和十七年(1942年)一月、塩通帳制配給実施①、マニラ占領②、陸海軍機一千機示威飛行⑥、点数制直前のデパート・商店3~10倍の売上げ(24)、市内には戦勝に酔いしれた市民の人出。
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1月1日ka 新年の賀状一枚もなきは法令の為なるべし
5日ro「紙鳶をあげている子供らを見て、正月の気分がちよっと」
9日a 陸軍始大観兵式、代々木練兵場に二万の精鋭十万の民草が拝観
12日A 大相撲春場所、早朝五時半開場・打出四時
15日y 上野松阪屋で大東亜戦争展、前日は観客七万も
19日A 大相撲八日目、場内通路も立見人で埋まる
21日y 帝都座等「柳生大乗剣」他大好評続映
22日ro 「中日をすぎて尚活気が出たようだ、何とも凄い景気」
元日、ロッパは「省線で有楽町へ。大した混雑である」。また、荷風の四日の日記には、「東武電車の表階段に乗客の押合うさま物すごし。西新井の大師に参詣する人々なり」と、正月の人出はかなりあったようだ。
市民の生活は苦しいけれど、戦勝のニュースに酔いしれ、精神的に高揚していた。それを反映するかのように、大相撲は満員が続いた。また、『四十七分忠臣蔵』『わが家の幸福』などを上演している有楽座も、正月中満員。十五日の藪入りは、「客種グッと悪し、まるでゲラゲラ大声で笑う者、子供連れの客を多く、やりにくい」とロッパは言うが、二十八日の千秋楽までほぼ大満員。
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昭和十七年(1942年)二月、味噌・醤油切符制実施①、大東亜戦争戦捷第一次祝賀国民大会開催⑱、戦捷イベントで市民の気持ちを盛りあげているが人出は動員による。
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2月2日A 勝手違った日曜日 衣料切符制第一日 百貨店客足まばら
3日ka この夜節分なりといえどもまくべき豆なければ鬼は外には行まじ
4日a 節分、堀之内妙法寺でタイ首相令甥が豆蒔く
9日A 第二回大詔奉載日 神宮外苑に学生ら五万
12日a 紀元節
19日a 日比谷公園で大東亜戦争戦捷第一次祝賀国民大会開催
28日a 無断で値上げ 六十八映画館にお灸
一日から、味噌、醤油切符制を実施。衣料に点数(パンツ三枚で12点、シャツ三枚で36点等)が決められていて、年間(二月から六月までが60点、八月から40点と)100点まで使うことができるというもの。なお、衣料点数制実施の直前、デパートや商店は、3~10倍の駆込み売上があった。
日本軍は、十五日にシンガポール占領と、破竹の勢い。戦勝を祝し、市民には、一世帯に付清酒・ビール2本、小豆1合、子供には菓子の特配。十八日の市内は、戦捷第一次祝賀に沸き返り、宮城前に参集した人「実に百万」と、書かれるほどの人出。また、旗行列の波は、首相官邸、陸海軍省などへ終日続いた。荷風は、「此日酒屋にては朝より酒を売るがため酔漢到処に放歌嘔吐をなす」見ている。
戦捷第一次祝賀大東亜士気昂揚大音楽行進は、日比谷公園大音楽堂前に、中等学校、女子学校、国民学校、青少年団、会社、工場、青年学校等、都下各種音楽部隊を網羅する参加40団体が午前十一時に集合。約8千人の音楽隊は、日の丸はためく都大路を縫って、沿道に歓呼して迎える奉祝市民に応えながら行進。宮城奉拝後、万歳を三唱し、祝賀行進を終了。
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昭和十七年(1942年)三月、初めての空襲警報発令⑤、ラングーン占領⑧、戦捷第二次祝賀会⑳、戦捷イベントの効果はあまりなく、市民のレジャー気運は沈滞ぎみ。
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3月2日Y 満州建国十周年建国節式典、日比谷に五万人
11日A 陸軍記念日 市中演奏行進
13日a けさの大戦果に再び万歳 皇居前に奉拝
18日Y 国際劇場「東京踊り」他連日盛況
21日Y 後楽園で日本野球優勝大会開幕
「五日早朝、本州東方洋上に敵・味方不明の飛行機発見の報ありたるも、右は味方機なること確認せられたり」とあるが、初めての空襲警報発令。ロッパは六日の日記に「昨朝は全く緊張した気分になった」と記している。
十二日、木曜日というのに、市民は大戦果の報につられて大勢街中に出たのだろう、「市中昼の中より酔漢多し」を、荷風は見ている。
東宝劇場は、長谷川一夫と山田五十鈴の新演伎座旗揚げ公演、『お島千太郎』が大入り。ロッパは、十五日に二人の部屋を訪ねた。二十日、歌舞伎座を覗いて「中々よく入っている・・・歌舞伎の夢の人々も、まずいものを食って電車で通っているかと思うと、つまらなくるなる」と日記に書いている。