太平洋戦争突入も変わらぬレジャーの昭和十六年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)248
太平洋戦争突入も変わらぬレジャーの昭和十六年秋
 十月に東條内閣となる。戦時色が強まる中、現状を打開できるのではという期待は亡くなってしまったのではなかろうか。古川ロッパは、十月十八日「天皇靖国神社親拝の刻、客席に起立を願い、僕の号令で黙祷をして貰う」と日記に記している。観客は皆従ったのであろう。自発的とは言うものの、世間にはこのような趨勢を受け入れ、市民が進んで行なうムードが醸成されている。
 それでも、東京市内には人々が出歩き、それなりの賑わいが見られた。ただ、市民が心置きなく羽を伸ばす機会は少なくなっている様子は、永井荷風の日記から感じられる。太平洋戦争へ向かう動きは始まっており、「物品税殆倍額」に対応して殺到するなど、市民はただ成り行きに身を任す準備をしているようだ。  
 十二月八日、太平洋戦争へ突入。奇襲ではじまった戦争は、勝利の知らせが続いた。市民は、「自存自衛の為」の戦争であることを、理解していたか。市民の関心は戦果に向けられ、一喜一憂の様相を呈した。市民は、やがて自らも徴兵され、自宅が爆撃されることなど全く想像していない。これまでの中国での戦争と同じと思っており、他人事と信じ込んでいた。
 荷風は二十九日、「町の辻々には戦争だ年末年始虚礼廃止とやら書きたる立札あれど銀座通の露店には新年ならでは用いざるさまざまの物多く並べられたり」と、これが当時の姿であろう。大晦日の十二時から正月の四日まで警戒管制、除夜の鐘もなし。

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昭和十六年(1941年)十月、ドイツ軍モスクワを攻撃②、市電による貨物輸送開始⑭、第三次近衛内閣総辞職⑯東條英樹内閣成立⑱、市内にはまだ遊んでも良いムードが残っていた。
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10月13日A お会式の人出半減で二十二万、迷子三十八・スリ六・窃盗十
  17日a 靖国神社臨時大祭 
  18日ro 「天皇靖国神社親拝の刻、客席に起立を願い、僕の号令で黙祷をして貰う」
  19日Y 秋の六大学野球戦閉幕、六季ぶり早大優勝
  19日A 競歩章検定個人競歩大会「一万人の四十一キロ競歩明治神宮から多摩御陵
  23日A 秋の東京競馬新体制 払戻しに豆債権

 お会式の人出、半減と書かれている、迷子の数は38人と数年来で最多。強制動員されない最後のイベントであるため、市民が大挙して出かけたのではなかろうか。また、「国技館の菊人形を見物」と、健在が二十八日のロッパの日記からわかる。ただ、前日の日記、「六区へ出、来々軒で五目そば、うわー不味くなった」から、食べ物屋は食料不足で質の低下が進んでいた。
 荷風の日記から五日、「公園に入るに日曜日の人出多く酔漢亦少からず・・・オペラ館昼間より大入にて大入袋一円八拾銭の由踊り子の語る所なり」と、興行の入りは良い。十五日の「防空演習・・・浅草に至り見るに小春の天気好きが故にや、人の出盛ること日曜日の如し」と。二十一日、「正午の頃の銀座通は男女店員の休憩時間とおぼしく事務服姿のまま散歩する者多く、飲食店はいずこも店員にて雑沓せり」。

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昭和十六年(1941年)十一月、大本営海軍部、連合艦隊に対英米蘭作戦準備を命令⑤、開戦を前に市民のレジャーが盛り上がる。
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11月1日a 明治神宮国民体育大会開く、選手代表一万、入場式前に明治神宮参拝
  3日A 体育大会第三日、繰出した二十万の人波
  3日ka 浅草往く。市中電車の雑遝甚だしく街路に酔漢の嘔吐せし物悪臭を放つ。少壮士官の女を携え酔うて放歌するものあり
  4日A 明治節「聖域に百二十万」
  8日ka 今夜十二時より一の酉なれど新聞に出ず
  13日a 外苑競技場で東京国民学校体錬大会
  20日ka 今夜十二時より二の酉というに松喜其外の牛肉屋は品切れにて休みなり
  30日Y 日本野球第一回東西対抗戦、後楽園は寒気物ともせぬ大観衆

 ロツパの有楽座、『あさくさの子供』『ロッパの軽音楽』など一日が初日、「座に出ると、既に大満員、前途楽観」と日記にあるように、市民のレジャー気運はこの時期に来て盛り上がっている。四日、ロッパは明治神宮を参拝し、全日本力士選士権大会を見物、その日の座は大満員。九日の日記には、「日曜の夜の客は笑いたくてうづうづしてる」とある。そして、有楽座は千秋楽まで大満員が続いた。
 市内は確かに人出が多かったのだろう。荷風は十五日、「日比谷を過ぐ。菊まつりとやら称する催しものありとて人雑沓せり」。二十九日、「電車乗客の混雑物すこきばかりなり。明後日より物品税殆倍額となるが為今明日中に物買わんと銀座日本橋辺へ人々朝の中より押掛るなりと」書いている。

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昭和十六年(1941年)十二月、煙草値上げ①、「時局防空必携」を各戸配布⑤、大東亜戦争はじまる⑧、アメリカ映画上映禁止⑧、開戦の勢いか、市内は人出で賑わう。
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12月1日ka 午後惣菜を買いに浅草に往く。興亜日の事とて人の出盛ること夥し
  2日a やめよ急がぬ旅 年末年始スキーの持ち込み禁止・指定列車のほか
  6日A 労働者の忘年会や新年会はやめ 全廃を指導
  6日a 俳優の芸名禁止
  8日Y 関東大学ラクビー、外苑競技場に万余の観衆
  14日a 大詔奉載国民大会、日比谷公園に学生生徒等を中心に十万人
  24日a 宮城前に「女学生一万二千の戦捷祈願」

 八日、大東亜戦争はじまる。荷風は、「余が乗りたる電車乗客雑沓せるが中に黄いろい声張上げて演舌をなすものあり」、興奮した市民の様子を日記に書き留めている。ロッパは、「ラジオ屋の前は人だかりだ。切っぱつまってたのが、開戦ときいてホッとした」とある。それでいて九日には、「日米開戦のため落ち着きを失っている」と、多くの市民も同様であったのだろう。
 戦争開始の趣意、『宣戦の大詔』は、ラジオで朝十一時四十五分から放送され、新聞には夕刊に掲載された。たとえば、「自存自衛の為」に米国と戦争したことをどのくらいの人が理解したか。市民の関心は戦果に向けられ、十日水曜、後楽園で「米英撃滅国民大会」が新聞八社の共同主催で行われ、熱狂する観衆が数万も集まった。
 十一日、荷風は「日米開戦以来世の中火の消えたるように物静かなり。浅草辺の様子・・・往きて見る。六区の人出平日と変りなく」と。十七日、「浅草年の市も灯火思うようにならねば景気もいかがにや」と、盛り場への人出が少なくなったようだ。新聞T⑱は、「遊興街の客足減の見積りは四割強で、これは増税が利いたことも争われないが、ことに待合、料亭等は全く火が消えたよう」と。開戦による不安が人々の気持ちを引き締めたように見えるが、日本軍の快進撃が伝えられると、元の木阿弥になっていた。
 ロッパは二十日、「熱海の町の夜は、まるで灯火管制などしていない、熱海銀座は、あかあかと明るい」と。二十三日「新橋演舞場文楽を見に行く・・・千秋楽の文楽は、大した満員」。二十八日は、「東宝劇場の『吉本芸道大会』をのぞく、大入満員。少し見て、日劇柳家金語楼一座」も覗いている。新聞Y(24)も、「銀座に見る敵性ぶりはまだ相当なもの・・・これでも戦争をしている銃後かと疑われる」と。荷風は二十九日、「町の辻々には戦争だ年末年始虚礼廃止とやら書きたる立札あれど銀座通の露店には新年ならでは用いざるさまざまの物多く並べられたり」と、これが当時の姿であろう。
 晦日の十二時から正月の四日まで警戒管制、除夜の鐘もなし。