自粛でも人出の変わらぬ十三年の冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)233
自粛でも人出の変わらぬ十三年の冬
 中国での戦線はさらに拡大し、四月の台児荘では大きな痛手を受け、戦争に行き詰まりを見せた。戦費は膨大に増加し、軍需優先の産業体制は貿易収支の悪化と民需産業の衰退を招いた。そこで、経済危機を打開するため、国家権力の発動によって戦時経済統制を進め、さらに民需を切り詰めた。これによって、インフレと生活必需品の不足から、陶製鍋・竹スプーンなどの代用品を使うという生活レベルのさらなる低下がはじまった。
 戦時体制の長期化は、様々な面においての制約を増やしてゆき、特にレジャーは自粛を求められた。また、戦争の中止や反対などの言論は封じられ、軍部の方針や行動に疑問を持つことすらできないような状態になった。レジャーは、戦争の妨げとなる可能性があるだけで取締りの対象となり、軍部に迎合する映画や芝居を興行するようになる。
 正月の市内の人出は未曾有、何が市民を浮かれさせているのか。戦争に勝ったとされても、物質的・経済的な実質的メリットは何もない。このような市民の風景、日本の国内に居ては違和感がないものの、外国から観れば奇妙な行動と映るだろう。まして、二十一世紀の現代から観れば、当時の日本人の対応を嘆きたくなる。

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昭和十三年(1938年)一月、年賀状四分の一「二十年来の小記録」①、戦勝新年で市内は未曽有の人出、興行の盛況は三箇日以降も続く
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1月3日A 凱旋の春は全市内沸騰、昼は神苑に詣で、夜は銀座が未曽有の人出、浅草の映画街はすし詰め
  3日Y 元日の明治神宮参拝者百万を越え、原宿駅約十八万人下車
  3日ka 浅草公園に徃く。仲店より興行街到る処群集雑遝す
  5日a 三箇日の乗客は、東鉄管内五百二万人、市電三百二十四万人、市バス二百二十三万人、私鉄の京浜八十五万人、京成七十万人、東武五十万人などと前年より大幅増加
  7日a シネマパレス「大地」他満員御礼
  7日a 出初式6千人参加、事変下で梯子乗りなし
  8日a 富士館等日活系「五人の斥候兵」満員御礼
  14日a 華やかに春場所開幕、ほとんどぎっしりの入り
  15日a 日比谷映画劇場「オーケストラの少女」満員御礼                        
  22日a 国際劇場「松竹娘祭り」いつも満員

  26日a 大相撲春場所、十三日間破れ返る様な大入り
  26日a 興行時間短縮、映画は一日から三時間
  30日ro 有楽座千秋楽「大久保彦左衛門」他、三十日間42回満員
                                                
 戦勝の報で活気づいたまま、「三ケ日・凄い人出」と市内の人出は前年を大きく上回った。特に銀座は多かったらしく、浅草も、元日に訪れた荷風は、「暮れて後浅草公園を歩む。群集織るが如し」、二日は「十一時過浅草公園を過るに仲店初め区役所通りの商店猶灯火を消さず。行人は織るが如し。広小路北側に並びたる屋台店にも人多く飲食す。去年あたりより浅草の繁華殊に著しくなりしが如し」と、日記に記している。
 賑やかな人出は三箇日まで、十三日の荷風の日記には、「厳寒のため銀座通は夜店も出ず人影絶え勝ちなり」とある。が、映画や演劇の人気は続き、相撲も初日から大入りで、藪入りの四日目は「夜明け前には満員」a⑰、市内の興行は盛況。ただ、戦時下ということで、出初式恒例の梯子乗りが中止されるなど、レジャー自粛のムードは変わらなかった。

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昭和十三年(1938年)二月、東京市民運動本部、市内一千ヶ所で市民体操会開催②、警視庁がサボリ学生狩り三千五百人検挙⑮、二月にしては市内の人出が多く、映画や演劇の入りもよい
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2月4日A 「戦捷の春“軍国調豆撒き”蔭を潜めた人気商売の年男」、浅草観音では約三万の人出
  7日ka オペラ館に少憩例の如し。初日にて満員の好況なり
  11日ro 日劇の前もう行列で客止め、紀元節で一帯人の波とはいえいい景気
  11日a 新橋演舞場新国劇「日本人」他満員御礼
  12日a 建国祭、靖国神社神宮外苑芝公園・上野公園など七ヶ所に郷軍・男女青年団・学生など約廿万人が参列
  16日a 国際劇場「モダン・タイムス」他満員御礼

 三日の追儺式は、「お祭騒ぎは蔭をひそめ国威揚武運長」で俳優や人気商売の年男は一切締め出され、僅かに関取と軍人らが豆を撒いた。なお、人出は例年と変わりなく、場所によっては五割増というところもあった。ちなみに、荷風は「浅草に往きて見るに節分追儺の式を見んとする人観音堂の前に群をなせり」と。成田不動尊では「約三十万人に及び近年にない人出」。
 十一日は、午前中に建国祭、午後から憲法発布五十周年記念式典。建国祭七会場から皇居前広場に向け、上野公園からは「ラッパ鼓隊」を先頭に、芝公園から「白虎隊の凛々しさを思わせる」大旆を揚げた少年団、神宮外からは「女学生のカーキ色戦闘棒や修養団の『汗と愛』と染め抜いた白鉢巻き」、と様々な行列が合わせて「約廿万人」行進。午後の日比谷公園では、東京連合少年団主催の凧揚げ大会、市主催の「憲法発布五十周年祝賀音楽行進」、「軍用犬二百頭の大行進」「少年武者行列」など、市内は終日賑わった。
 警視庁は盛り場で「サボ学生狩り」を行い、三日間で3,486人を検挙した。捕まった学生は、改悛誓約書を提出、宮城遥拝後に釈放。用もないのに繁華街をうろうろしている人が多いのだろう。そんな遊歩者の一人、荷風は、「銀座に行くに昨来の暖気に散歩の人影も俄に多くなれり。浅草に至ればここも亦人出盛なり」と、二十八日の日記に書いている。

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昭和十三年(1938年)三月、国防大博覧会開催(25)、東京駅構内人力車廃業(31)、彼岸過ぎから市民の行楽がはじまる
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3月3日A 丸ノ内松竹劇場エノケン公演「はったり勘兵衛」他満員御礼
  14日a 日本劇場「オーケストラの少女」満員御礼
  19日y お花見の仮装姿、女給の揃い衣裳もご法度
  21日a 「陽春来・ドッと人出」前夜より各駅に殺到
  21日Y 多摩川園“戦捷つゝじ大会”に二万余
  22日a 「五月の陽気に一飛び、押出した行楽の群れ」
  24日a 浅草帝国館等「新しき翅」他連日満員感謝
  26日a 国防博覧会、上野不忍池畔で開催
  27日a 東京劇場「愛国行進曲」大スペクタルショウ他満員御礼
  28日A 後楽園スタジアムで伊国使節歓迎国民大会、在郷軍人・青少年団・防護団・大学専門学校・中等学校・小学校等十万余参加、十万人の大行進
                                                
 三月に入り、戦局は膠着したままで明るいニュースはなく、市民のレジャー気運も盛り上がりに乏しい。彼岸に入り十九日の夜から二十日の朝にかけて、東京や上野・新宿などの各駅から大勢の人が出かけた。“戦捷つゝじ大会”を催している多摩川園を筆頭に、不忍池のボートは「二百名余」が並び待つ盛況、明治神宮野球場開き、後楽園スタジアム前で軍用犬展覧会、江戸川べりで滑空競技大会などが催された。翌二十一日はさらに多くの市民が行楽に出た。
 二十五日から国防大博覧会開催、二十七日のサクラはまだ咲きはじめたばかりであるが、上野・飛鳥山・外苑・植物園などにドッと家族連れが繰り出した。