江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)258
花見どころではない昭和十九年三月四月の市民
砂糖の配給が無くなる。甘いものを食べる楽しみは、映画や演劇などの娯楽より強烈に欲するものである。その楽しみさえ、ままならない状態になった。酒については、配給が「一世帯に月二合(五合から) 家庭用麦酒は据え置き」A⑪となる。
料亭・待合など店閉め、歌舞伎座・帝劇・日劇等が閉鎖、新聞の夕刊廃止など、廃止できそうなものは廃止する。全国で店閉める料亭・待合が九千八百軒もある。ほぼ一万軒であり、よくそれまで営業していたものだと。それに伴って、芸妓・女給が約一万八千人も転職することになるそうだ。
四日の朝刊には、「歴史を飾る料亭も 寄宿舎や事務所に 頼もしいこの転進ぶり」との見出しがある。とうとう伝統の食文化も断絶、とは言っても、庶民は信じていたであろうか。真偽の程はあるものの、高級軍人らは何不自由なく、美味しい料理を食べていたと噂していた。あるところには、何でもあって、そのおすそ分けを貰っていた人のいたことも確からしい。
その一方で、「郵便局も日曜無し」、電車も「日曜も平日通り」、と休日をなくしている。形ばかりの対応、実質が伴わなければ意味のないことが抜けている。
六日の朝刊、「前線の奮戦に御感一入り」「畏し陸軍作戦畫を天覧台覧」さらに「栄光に輝く廿九作品」が見出しで続く。戦争記録画は、従軍画家などによって描かれたものである。戦争行為を賛美するとされるこれらの作品、その評価はいまだに確立をしていない。
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昭和十九年(1944年)三月、砂糖の家庭配給停止①、歌舞伎座・帝劇・日劇等閉鎖①、新聞の夕刊廃止⑥、高級劇場が閉鎖されたが、大衆娯楽の映画・演劇は観客が激増。
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3月1日A 「きょうから休業 各劇場は早くも閉鎖」
4日A 「あす店閉める料亭・待合、九千八百軒、芸妓・女給約一万八千人は転業」
4日A 買出し一斉取締 何ぞ四万人で十二万貫
6日A 東京都武装大継走、日比谷公園を帰着点として12キロ、二千人の青少年参加
6日A 「享楽追放、初の明るい日曜」
10日Y 多摩川園で「鹵獲兵器展」蓋あけ
11日Y 陸軍記念日 軍国絵巻、靖国神社から宮城前へ
18日A 「急にふえた『切符の行列』 やめよう“今のうち”の旅行」
25日A 旅行制限、通勤専用の列車八十一本を増発、急行は十七本を廃し
31日A 「緊急旅行は確保“前日申告制”も実施」
三日、早朝から終電まで買出しの取り締まりが行われた。主要各駅での買出し者は4万人、その内4千人が厳重説諭、悪質なものは検束。意外と大目に見ていると思ったら、4万人の8割が女性、それも工員や勤め人の妻であったという。担いでいる量も一人当たり2~4貫(7.5~15キログラム)、それでも全体では12万貫(450トン)にも達する。東京に入荷する蔬菜が一日に22~23万貫しかない、買出しがこれだけあれば「野菜が少ないはず」だと。
高級劇場の閉鎖は五日からと決められていたが、松竹と東宝系の劇場は、一日から休業した。8劇場の休業によって、都電が2百輌少なくてすみ交通の足が緩和されるとのことA②。その根拠は、8劇場の収容人員が15,975人、興行は昼夜二回あるところもあるから約3万人の交通量が減るとの計算。実際は、算出したような数字にはならなかったと思われる。それより、8劇場だけで毎日1万人を超える観客がいたことのほうが感心する。
「享楽追放」後の日曜、五日の市内の状況は、「閑散な百貨店」に続き、銀座通りも人通りが少なく、築地の料理店も待合もひっそり。ただ、浅草は、「大衆娯楽街には爆笑」と、映画も演劇も驚くほどの人出であった。
旅行制限が決まると、「“今のうち”の旅行」が急にふえ、『切符の行列』が駅にできた。切符の売出しは午前四時半から、両国駅では、販売を初めても列は長くなることがあっても縮まらず、正午になっても1千人の行列が続いた。「旅行制限」A(25)は、「緊急旅行は確保」と、重要旅行者の乗車券だけは優先確保するという“前日申告制”を実施。四月からは、近距離でも証明書がなければ列車に乗れなくなる。
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昭和十九年(1944年)四月、国民学校児童に一食七勺の給食開始①、「“花より防空”用意はよいか」と花見を牽制するが、市民は食べることが大変で花見どころではなくなった。
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4月2日A 明るくあけた“旅行制限”第一日、ガラ空き早朝列車
4日Y 巨人勝利で「戦う日本野球」後楽園で開幕
8日A 空襲警報一下「喫茶店は救護所」早変わり
11日A “足の制限”自動車も遊覧併行線取止め
13日A 映画興行は平日3回、日曜・祭日は4回許す
24日Y 靖国神社臨時大祭、招魂の御儀
26日A 空地はもうないか、今が種子の蒔き時だ
28日A 催物入場税簡素化、入場料二円以上2割
29日A 五月人形の広告
30日A 観兵式、代々木練兵場に拝観の民草十数万
30日na 「銀座の表通りに屋台店が、ずらりと」
一日の新橋演舞場、『さんまと兵隊』『てのひら』初日八分の入り。明治座(幸四郎・仁左衛門)、邦楽座(新生新派)も開場するが、惨憺たる入りと。この頃はロッパも愚痴るほど入りと客種が悪い、十四日には「幕切、拍手なし、初めての現象。客席に子供が駆け回って鬼ごっこしてる始末」と。さらに、二十四日の靖国神社遺族招待では、『さんまと兵隊』は「まったく受けつけず、弱っちまい、全然スピードを落とし、噛んで含める式に演る」と。芸能は、軍関連への慰問が多くなり、役者も試練を迎えることになる。
「“花より防空”用意はよいか」A③と、花見を牽制。「桜も微笑む無心の歓声」や「前線に一目見せたい花便り」A⑰と写真はあるが、花見の賑わいに関する記事は一切ない。
警戒警報発令中の七日、東京料理飲食業組合普通喫茶部の一同は、防空服に身を固めて警視庁保安課を訪れた。市内にある千余軒の喫茶店は、防空警報発令と同時に営業停止、お客を外に避難させ、直ちに「臨時救護所」を開設、女店員に死傷者の応急救護にあたることを、申し入れた。要は、喫茶店の営業を残そうとする苦肉の策である。
高見順は、二十二日に吉原で「営業停止令をうけた待合のうち、いわゆる場末の十七ヶ所だけが再開を許され・・・玉の井等の私娼窟と同じく無税・・・吉原の公娼は、十二割の税」。「再開は産業戦士の『慰安』という見地からであろうが、実際・・・戦争景気の重役連中の遊び場・・・ほんとうの産業戦士には、『只今満員で・・・』とことわっているらしい」、「十七ヶ所の再開は私娼奨励ということにもなる。花柳病の蔓延が恐れられる」ということを聞いた。
旅行制限によって、混雑がかなり解消されていると思われるのに、「自動車にも遊覧併行線取止め」と「足の制限」。対象は、遊覧や買出し、またこれを助長すると認められる路線。市民の移動は容易ではなくなっていたが、天長節の観兵式には、代々木練兵場に「拝観の民草十数万」が集まったと。
買出しにブレーキをかける一方、「空地はもうないか、今が種子の蒔き時だ」と食料生産を奨励。永井荷風も五日、「後庭に野菜の種をまく」。清沢洌は、二十七日「畠をやる。ほとんど空閑地のないまで、隅から隅までものを植えた」。新聞には、「食べられる若葉、野菜入りお粥」A(29)と、食べられるものは何でも食べろと言わんばかり。ただし、その調理になんと1時間以上もかかるらしい、どのくらいの人が挑戦したか。
現代、北朝鮮の困窮を他人事としているけど、戦時末期は首都の東京でさえ、雑草まで食べていたことを忘れてはならない。