江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)257
買い出しレジャーの昭和十九年一月二月
大東亜戦争が始まって三年目の正月を迎えたが、まだ戦争は続く。勝ち目のないことは政府も軍部もわかっていなかったのであろうか。日常生活は、破綻をきたしているが、国民は政府に何も言いえない状況であった。時代の先端を行く東京市民ですら、ただ命令されるがままに困窮生活を続けている。どこまで我慢できるかを探っているようだ。
「さあ・主婦も戦列へ」A(27)との見出し、戦地へ赴くのかと思うかもしれないが、さすがにそのようなことはない。「帝都一月の内職者数 三十万を突破 収入はあげて貯蓄へ」と、女性を働かせようとしている。「僅かな時間で 月収三十円 仕事は戎衣縫い」(注・じゅうい 戦争関連の衣類だが、民製品も)の見出し。そして、「童心を戦力化せよ」もある。国民、総動員体制を目指している。
この頃になると、戦争にプラスになりそうなら、できることは何でも行い、少しでも戦力を増強させたいのだ。とは言っても、締めつけだけでは無理なので、その捌け口が遊びであること、レジャー自粛を叫ぶものの全面否定はしていない。締めつけは徐々に表れており、やはり出歩く人は減っている。
東京では、一月に疎開命令がだされる。東京が空襲されることを予想しているが、人々はまだ実感が無かったのであろう。そのためか、大相撲や演劇などは、大勢の人が詰めかけ盛況だったらしい。
二月になると、遊興等はもっての外との禁止的高率へ増税となる。またも、なされるがままに受け入れる市民。
十七日、米機動部隊がトラック島を空襲する。日本海軍は、艦船43隻と航空機270機を失うという重大な損失を被る。この事実は、国民には知らされず、勝っているとの報道に、半信半疑ながら従っている。戦果などに触れて、非国民とされるより、関しないことが安全と心得ていた。それでも、招集前の結婚式が豪華になっていることは、何を意味しているのであろう。
官製イベントは、定期的に催され、動員されているのも恒常化している。市民の関心事は食べ物、空腹が何よりも最大の問題になっている。配給では足りずに、郊外への買い出しが日常化した。単純計算すれば、市民の半数以上が一月に一回、買い出しに行っていることになる。
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昭和十九年(1944年)一月、初の疎開命令を実施(26)、正月気分は盛り上がらず寂しい年明けだが、市民のレジャー気運はまだ健在。
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1月2日A 「明治神宮奉拝の民草」
2日A 成田山の初詣、十万人
4日A 伊勢神宮へ二十七万人 お正月三日間の参拝者
5日A 阪妻の剣に殺到する超人気「剣風練兵館」
6日A 「泊込みで切符買い 自粛未だし 年末年始の旅行」
8日a 「早朝より跪拝の群れ きょう新春の奉戴日」
9日A 「陸軍始観兵式」代々木原頭に十数万人
10日A 春場所初日、大衆席から雛壇まで、家族連れで埋まる
13日ro 「川崎のりかえ・・三十分も行列・・大師駅からバス、これ又大行列で三十分の待ち」
14日A 後楽園大サーカス15~17日、木下サーカス入場料大人1円80銭小人75銭
18日A 戦争に勝つためだ 旅行は取りやめ、四月より約四割値上げ
24日A 勤労逃げる有閑娘、婦道の恥じたよ
27日Y 銀座で「白衣勇士慰問家庭演芸大会」
27日A 熱海温泉の休湯日、月に3日、八の付く日
28日A 殖える屋台店取締り
28日Y 国際劇場で三十一日に拳闘試合
二日付Aの一面見出しに「明治神宮奉拝の民草」と、東條首相らの参拝写真。写真を見ると、初詣の混雑は例年よりやや少なめである。三面には「戦いに休みなし」と、工場へ向かう人々が続く写真。正月気分は、前年より盛り上がらず。寂しい年明けであった。
また、清沢洌の日記に、「熱海は死んだような静けさだ。味かん一つ店に出て居らぬ・・・無論、魚もない」とあることから、年末年始の旅行が無くなった訳ではない。三箇日に伊勢神宮へ「廿七万人」も訪れ、全国的にはかなり人の動きがあった。
『初笑五十三次』『歌う紙芝居』などを演じているロッパの有楽座は、二日の時点で夜の部が二十日まで売り切れ、千秋楽まで大入りであった。「この正月は、この二、三年のうちで一番の混みようだという。客席のなかに詰められた客は、小便にも出られず、悲鳴をあげる騒ぎだという」と、高見順は七日の日記に書いている。正月の人出は続いていて、八日の奉戴日は、皇居前に「早朝より跪拝の群」と、陸軍の観兵式に「十数万人」も集まったそうだ。とすれば、浅草や上野などには大勢の市民が出歩いただろう。
また、松阪屋では「日本海軍展覧会」A④が四日から十六日まで、正月の人出を迎えた。大相撲春場所は、「大衆席から雛壇まで賑やかな家族連れの観客で埋まる」A⑩と。十五日からは後楽園で木下大サーカス。新春興行の歌舞伎座(9円40銭~1円10銭)、東京劇場(水谷八重子)、明治座(天の綱島)、新橋演舞場(曽我廼家五郎)、東京宝塚劇場(雪組)、帝国劇場(新国劇)など、新聞には興行の広告が数多くあり、市民の遊び心を誘っていた。
ジリジリと戦局は行き詰る、二十六日に疎開命令がだされた。市内では、開業許可の不要な簡易な食堂が増加の一方であるため、「屋台店へ取締り」。また、「野菜の買出し公認問題、産地側は反対」A(28)と揉めている。荷風の二十九日の日記に、浅草六区は「灯火と共に音楽の響起こりて公演は忽騒しき夜の世界に移り行けり」とある。
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昭和十九年(1944年)二月、米軍トラック島大空襲⑰、市民の気持ちを無視して、レジャー禁止への圧力を強める。
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2月1日na 「寿劇場へ行く、満員」
4日A 「敵撃滅の豆撒き」豆は生、食料増産の一助に
6日A 寸地も遊ばすな、いま植付けの最好季
8日A 新しい衣料切符、有効は2年間
12日A 紀元節、日比谷公園で帝都の奉祝大会
14日Y 学徒一万・撃敵祈願行進
14日na 「広い歌舞伎座は満員だ。客の顔触れは・・・芸者の派手な姿などは見られず、戦闘帽の産業戦士らしい姿が多い」
15日A 国民映画入賞決まる
16日A 「遊興等はもっての外」「間接税 きょうから禁止的高率へ」入場料に六~二十割、遊技場も四割
21日Y 「買出部隊抹殺せよこの醜状」埼玉では平日二万人、休日には四万人
21日A 百貨店の開店時間を30~60分繰り下げ
24日A 「買出し撲滅へ積極果断」
26日A 料理屋、これでよいか 非統制物資の買い漁り
「敵撃滅の豆撒き」、豆は煎って食べないように、生のまま撒いて後で植え、食料増産の一助にしなさいと。豆撒きの行事は、禁止されていない。空き地は、「寸地も遊ばすな いまが植付けの最好季」A⑥と、ジャガイモの植付けを奨励。食料難だけではない、「新しい衣料切符 有効は二年間」A⑧と生活は厳しくなる一方である。
ところが、新聞の広告には、結婚調査や婚礼礼服などが掲載されている。まだ結婚式は盛大に執り行われていたのだろう。翌年の6月になっても、「空襲下の結婚式場をのぞく“いま時”と驚くほどの繁盛ぶり」であった。三越地下の式場では艶やかな振袖姿の花嫁を見ることができ、まさに地上とは別世界が展開していた。
建国記念日は、「宮城前に紀元節を壽ぐ赤子の万歳」や「奉祝大会」「航空戦力昂揚へ堂々少年大会」などと、まるでレジャー記事のような紹介。少年大会は百校五千人もの生徒動員。また、都下中等学校百校一万人が「見よこの撃滅魂」と、靖国神社と明治神宮に必勝祈願、女子部も三十余校一千二百名が朝七時半に宮城前に集合し、30キロメートルを踏破し、午後四時に靖国神社で解散。様々なイベントが催され、学生生徒の人数は詳細だが、一般市民の数は不明。
十六日から間接税が禁止的高率に上がり、「遊興等はもっての外」と。5円以上の食事には8割の税金、劇場などの入場料1円未満でも6割、3円未満10割、5円以上になると20割。射的場やローラースケートなどの遊技場でも4割の税金をかけた。これで、レジャーがどのくらい減少するか。
市内の百貨店の開店時間を30~60分遅らせることが決まった。それは、九時の開店前に二千五百名程度が訪れており、開店後30分に六千五百名も入店、通勤時の混雑を増していた。この措置で、百貨店の従業員(約八千人)も出勤時間が遅れるため、勤時間帯の交通混雑が緩和される。目的は交通混雑防止策とあるが、早朝からの百貨店通いをなくそうとしたことは明白。
「買出し撲滅へ積極果断」、かなり成果があったように書かれているが、「不埒な“自転車部隊”」や「休日には一万人減らぬ買出部隊」とも続く。また、「料理屋 これでよいか 非統制物資の買漁り」A(25)と、市民の買出しだけではない。食糧事情の悪化は深刻化を増しているがゆえに、埼玉への買出しが休日には四万人と、買出しも買い漁りもなかなか減らない。