厳しい制約に順応し、出歩く市民 十五年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)243
厳しい制約に順応し、出歩く市民 十五年夏
 七月に再び近衛内閣と変わる。国民は再登場の近衛に政治革新を期待した。が、九月の日独伊三国同盟調印、東南アジアへの進出によって対英米戦争へと向かう筋道を作ってしまう。国内は、生活用品に事欠くというのに、軍需景気に浮かれる様相が残る異常な状況。八月の東京市内には、「ぜいたくは出来ない筈だ!」との立て看板が配置され、マッチや砂糖を切符がなければ買えないほど物が不足していた。
 市民の生活は、日を追って締めつけられ、その上隣り組の制度がしかれ、相互監視体制まで整えられた。現代でもどこかの国では、当たり前になっている。さらに、レジャーについても、劇場・映画館の早朝興行廃止、六大学野球も試合数の削減、ダンスホールの閉鎖など、制約はなされるがままであった。
 今の日本では考えられないかも知れないが、不自由な生活を東京市民は受け入れ、デモや抗議をする人はいなかった。このような相互監視や生活必需品の配給など、雁自絡めな状況に置かれている人々が、二十一世紀になっても世界には少なからずいる。そのような状況の国の人に、現代の日本人は他人事だと思っている人が少なくない。もしかして、現代の日本でも形態は異なるものの、社会的強制や誘導が進んでいるかもしれない。というのは、戦前の日本でも、時間を掛けて徐々に窮屈な社会になっていったためか、東京市民は馴れて、反抗するのではなく順応していったことを忘れてはならない。

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昭和十五年(1940年)七月、第二次近衛内閣成立(22)、映画検閲を強化(20)、月の半ば頃から市民のレジャー気運が落ち込み始める。
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7月5日Y 賑わう由比ヶ浜に一万の人出
  7日Y 後楽園で「皇軍感謝の夕 五万人の感激」
  7日a 山と海の列車八十六本、土日に増発
  8日Y 事変三周年、武装若人の行進など催す
  15日A 市内のプール、どこも超満員
  15日A 不忍池のボート、暑さで夜間営業認可
  16日y 自粛の藪入り、賑わう明治神宮靖国神社
  18日y 防空訓練火蓋を切る
  19日a 電気館等「狂乱の娘芸人」他大当たり堂々続映
  21日A 富士山、記録的な賑わい、夕刻までに早くも六千人

 一日、「銀座通より新橋駅のあたり炎暑の日にも係らず若き女の散歩するもの群をなす」のを荷風は見て、「此日興亜禁欲日にて市中の盛場休業するが故」と日記に書いている。五日「水天宮賽日の賑い時局に関せざるは喜ぶべし」。九日「浅草四万六千日の賽日なればなるべし」と。荷風の日記から、市民は案外出歩いているようだ。
 しかし、十八日の日記からは、「銀座通りを歩むに学生の群其跡を絶ち女連の姿も亦少なく、人通は夜九時頃 早く杜絶えがちとなれり。昨夜迄雑沓せし遊歩の男女の此夜俄に減少せしは、如何なる故なるや」とある。また二十七日、「銀座通の人通りいよいよさびしくなれり」と。土曜であるのに、ロッパの東宝劇場も夜の部で七分の入り。翌日曜日も、マチネーが六分、夜も七分と入りが悪い。

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昭和十五年(1940年)八月、新協劇団・新築地劇団に解散命令(23)、レジャー自粛が浸透して交通機関混雑は避暑ではなく帰省客の増加となる。
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8月2日a 国祭劇場・新宿松竹・銀座映画・池袋昭和等「木石」満員御礼
  4日ka 浅草に至るに日未暮やらず、日曜日の群集雑沓す
  10日a 競馬場へはお断り“自動車の贅沢”禁絶
  12日A 上野駅、お盆を前に帰省客で混雑
  12日A 房総方面の滞在客、十一万を突破の模様
  14日A 早朝興行は日曜日だけ
  19日Y 全日本一般対学生・女子三部対抗陸上競技大会
  26日Y 羽田沖で潮干狩り「ザッと一万」
  30日a 神宮プールで女子水上体育大会開催

 八月に入っても冷夏、海や山への人出は少なく、市内で過ごす人が多いようだ。荷風は、十二日の夕方、池之端の「摩利支天の縁日を見る」。十九日は、上野「広小路の夜肆を見てかへる」と日記に記している。
 十一日の日曜は、帰省客で上野駅が大混雑。その理由は、「国民の“自主自戒”が徹底」したため「何処に行ってもで気詰まりならいっそ故郷へ帰り」、「親兄弟を喜ばせよう」とする「産業戦士」が増えたためらしい。両国駅では、冷夏のため早々と避暑地から引揚げる人が多い。それでも、房総方面には、避暑客が「十一万」人程度滞在しているらしい。
 市民のレジャー自粛を求め、競馬場へは自動車の利用禁止、平日の午前の興行を禁止など様々な制約が続いている。そのため、「例年ならば今宵の如き溽暑の折にはひやしの雑沓すること甚しきが常なるに、今年七月頃より其筋の取締きびしく殊に昨今連夜の如く臨検あるが為」と荷風は二十一日の日記に書いている。それでも、二十五日にロッパが「有楽座の金語楼劇団を千秋楽なので見る、客が笑いに飢え切ってる」のを感じたように、市民は娯楽を求めていた。

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昭和十五年(1940年)九月、劇場・映画館など早朝興行廃止①雑貨品の公定価格決定⑥、北白川宮殿下国葬で音曲停止⑱、東宝が移動奉仕部隊結成(27)、六大学リーグ戦の試合数減少と自粛が増えても市民のレジャー気運はまだ高い。
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9月1日a 東京劇場「民族の祭典」連日満員
  2日Y 本所東京市震災記念堂「参詣五十万」
  13日ka 氷川神社祭礼
  14日a 繁華街商店も十時閉店、例外認めず
  14日A 映画は二時間半 制作の本数も半減
  15日a 観衆激減の六大学リーグ戦、一本勝負の幕開き
  16日A 日曜日、「遊覧よりも芋堀り」と市内や郊外に百三十万の人出
  16日A 産業戦士体育デー、産業体育陸上競技大会約七千、全関東工場青年野球大会約四十チーム等
  16日A 消える標示板の英語、駅に日本文字のみ
  21日A 国祭劇場等「娘花女」他超満員御礼
  24日A 記録破りの人出、三百万、混雑した連休
  27日A 東京劇場等「民族の祭典」満員御礼
  29日Y 後楽園で航空感謝祭、盛況
  30日A 航空大会 羽田の大会場に十万の人出

 七日、ロッパは、防空演習の空襲警報の時間表を「そっと貰ったので大変便利。安心して夜の街を帰れる」と。翌日の日曜には、「今日はマチネー、女房見物同道。客殺到している、満員。防空演習のことで昼になるとワッと押し寄せるのだ」と記している。
 十四日、六大学リーグが開幕したが、野球も自粛の憂き目に会い、試合数は対抗一試合だけとなり、その上観客まで減少してしまった。荷風は銀座で、「土曜日のためか再び酔漢の横行するを見る」と記している。また、ロッパは「補助の出る満員だが、どうも客が力が無い、しめっている。時世のためであろう、気の毒だ」と、その日の客を評している。
 行楽の秋、十五日の日曜は、家族連れが郊外に大勢出かけた。行き先は、芋堀りや栗拾い、梨もぎや葡萄狩り、成田不動や柴又帝釈天など。また、工場労働者も「産業戦士」と呼ばれ、景気が良いことから神宮外苑で「産業体育陸上競技大会」、多摩川オリンピア球場で「全関東工場青年野球大会」などを挙行した。