まだ残っている東京の楽しみ  昭和十八年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)255
まだ残っている東京の楽しみ  昭和十八年夏
 国民の耐久生活は、限界を超えていた。東京にはいろいろの物資が集まっていたが、配給制での食料だけでは生きていけない。九月には、小学生が配給に並ぶどころか、買出しに出かけるので社会問題になる。食料難は、動物園にもおよび、動物に与える餌も不足。表向きは、空襲時にライオンなど猛獣の脱走に備えてを薬殺しなければならないとしている。
 では、どれだけの楽しみが残っていたかを、禁止されたものから示す。なお、禁止されても、しぶとく残っているものもあるのは、当然であろう。
7月4日A 「旅行会に大鉄槌」鉄道当局を通じ解散を要望
  4日Y 決戦“銀座八丁”老舗四十軒も店を閉づ
  13日A お盆の帰省も制限
  14日y お盆の注意、屋外の提灯はいけません
  31日Y 年中行事を止めよう、官庁の催し物も五分の一に調整
8月21日A 「自粛値違反に営業許可を取消 目に余るカフェーなど」
9月12日A 「警報中は興行中止 劇場、映画館へ指示」
  23日A 藷堀大会ご法度
  26日A 駒沢ゴルフ場を閉鎖
  30日A 「お料理は出せない」酒場やカフェーの取締規則が改正

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昭和十八年(1943年)七月、経済市況の放送中止①、空襲警報下でも汽車や電車は運行、敵機を見たら停止(21)、市民レジャーに多少の陰りが。
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7月4日A 「旅行会に大鉄槌」鉄道当局を通じ解散を要望
  4日Y 決戦“銀座八丁”老舗四十軒も店を閉づ
  7日y 昭和通りでこんなに収穫、神田区戦時農園
  13日A お盆の帰省も制限
  14日y お盆の注意、屋外の提灯はいけません
  14日y 都営四プール開く
  15日A 「増産の盆踊り楽し」
  16日Y 観客も俳優も待避、藪入りの娯楽街緊張
  23日ro 有楽座「今夜も大満員」『芋と官軍』他
  26日Y 学徒航空蹶起大会、後楽園に十万を集める。
  31日Y 年中行事を止めよう、官庁の催し物も五分の一に調整

  「旅客自粛まづまづ まだ耐えない不心得者」A③と、さらに旅行を制限しようとしている。まだ、「温泉巡り、聖地参拝」と称して観光客を募集し、団体旅行の世話をする旅行会社があった。「旅行会に大鉄槌」と、解散が命じられた。また、「お盆の帰省も制限」、「生徒の団体旅行に制限」A⑭。修学旅行でも正課以外、理由のない団体旅行は認められなくなった。このように先手を打って、旅行規制を行っているが、効果の方はいま一つのようだ。十一日には、近郊への買出部隊は影を潜めたものの、湘南温泉地行きの指定乗車券は早朝に売り切れている。
  断腸亭日記によると、九日の浅草の四万六千日は参詣人が少なかったようだが、三十日の上野「広小路の両側に屋台店でて夜遊びの人出賑なること銀座に優れり」と。また、有楽座の『芋と官軍』『長崎』は、夜の部の満員は多かったが、マチネーの入りは良くない。レジャーに多少の陰りが見えてきた。
  十五日付Aで、横浜市の工場で行われた盆踊りの写真が掲載され、盆踊りの盛んなことがわかる。さらに、八月十四日付にも「宿寮で盆踊り大会」とある。盆に田舎に帰省できない人のために、工場内で盆を迎えられるようにしたという話だ。
 また、「夏を明るくトンカラリ」と「“ぼんぼり”に賑はう久我山町会の夏祭」A⑮と、写真を添えた記事がある。この祭りは、明治二十九年以来疫病除けの夏祭として、土地の人々に親しまれていると。いずれにしても、まだ祭りの夜店があちこちで行われている。

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昭和十八年(1943年)八月、戦時衣生活簡素化実施⑩、夏のレジャーは帰省。
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8月3日A 「土俵に練る攻撃心」と街中でも鍛練の道はある
  10日y 工場街の飲食店朝五時開店
  14日A 「自粛せぬ帰省客 お盆列車に氾濫 上野駅では卒倒騒ぎ」
  21日y 町内揃って銃剣術
  22日y 神宮夏期大会ひらく

  「土俵に練る攻撃心」、練成は海や山だけで行うものではなく、街中でも鍛練の道はあると。町の一隅に土俵が作られ、町会の行事として行うことを勧めている。これは、昔から行われていた素人相撲で、要は、海や山へ出かけるなとのことだろう。
 旧のお盆、帰省する数日間は想像を絶した混雑。驚くのは意外にも子供連れが多いことで、駅では非番の者たちまで動員する始末であった。旅行自粛の呼びかけは、ある程度浸透したとはいうものの、市民の行為は政府にとっては無軌道とも思われ、腹立たしさを感じていたに違いない。正確な戦況を知らない市民は、春の行楽に続いて夏のレジャーも楽しもうとしていた。
 「自粛値違反に営業許可を取消 目に余るカフェーなど」A(21)と、それまでカフェーなどで提供する料理や飲食物には自主価格を設けさせ、業者の自粛を求めてきた。だが、これには法的根拠がなく、罰則規定もないのをいいことに、暴利を貪る違反者が続出したので急挙取締まることとなった。とはいうものの、市民の中には、“ぼられる”のを承知の上で遊び行く人々が多くいたこともまた確かである。
 「永久に薫るアッツの雄魂」という見出しで、戦没者名の紹介に紙面の多く費やした。これ以後、新聞に戦没者の名前がたびたび登場するようになる。我が国は非常時であるが、東京は、映画・演劇や酒場にカフェー、今風に言えばグルメに温泉と、あらゆる遊びがまだ健在だった。

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昭和十八年(1943年)九月、米豪連合軍がニューギニアに上陸④、上野動物園、空襲時の混乱に備え、ライオンなどの猛獣を薬殺、供養式④、買出しはレジャーの様相。
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9月7日A 劇場でも国民儀礼
  11日y 中山道をゆく王子区女子青年団銀輪隊、一万
  12日Y 日本野球“秋の陣”開く、巨人が阪神に屈伏
  12日A 「警報中は興行中止 劇場、映画館へ指示」
  19日y 戸田橋で滑空訓練、一万七千名若人を集め
  21日Y 航空日、羽田飛行場「献納式の圧巻」
  23日A 藷堀大会ご法度
  26日A 駒沢ゴルフ場を閉鎖
  30日A 「お料理は出せない」酒場やカフェーの取締規則が改正

 一日付Aで「野菜、果物の買出し業務用は御法度 あすから一般も制限」とある。当時の市民は、アッツ島での敗北で日本が危機に瀕していることを理解できなかった。新聞は、「輸送を乱すのは利敵だ」A④と、買出しはまるで戦争犯罪人ように書き立てている。さらに、「これでよいのか、野菜買出し」A⑥、「米の買出しに厳罰」A⑧、「童心蝕む野菜買出し」A⑬など、買出しに再三圧力をかけているが、それでも買出しが途絶えることはなかった。なぜそれまでにして人々は買出しに出かけたのであろう。それは、食料が不足も深刻だが、より美味しいものが食べたかった。さらに、「藷堀大会ご法度」の記事には興味深い話が書いてある。それは農家の方でも「藷堀大会」を催して、歓迎して東京からの買出しを受け入れている。つまり、買出しは、レジャーの様相が濃くなっていた。
  劇場でも開演前に全員直立不動、国民儀礼を行うようになる。その上、幕間を利用して臨時啓発宣伝を行ったり、廊下に壁新聞を掲出したりしたらしい。この程度のことは、楽しいこととセットなので誰もが我慢して受け入れた。が、「警報中は興行中止」となる。警戒警報の発令と同時に興行中止し、客は追い出されることになった。もちろん、だからといって、映画や演劇を見る人がいなくなるということはなかった。
 とうとう都内唯一のゴルフ場「駒沢ゴルフ場」も九月いっぱいで閉鎖という事態になった。それにしてもプレーするとなると、まる一日たっぷりかかるゴルフ、一体どんな人が、戦時下に悠長にゴルフなどしていたのだろう。
 酒場やカフェーの取締規則が改正され、「お料理は出せない」と。「なくなる一品料理」A(22)と、大衆食堂のメニューが減少した。このように市民への規制を強化する一方、「“夕食一人前三十円”  まだ怪しからぬ高級料理店」という記事(十一月七日付A)もある。この記事は、市民を憤らせ、自粛させようという意図が見え隠れする。しかし、見方を変えると、東京にはまだいろいろな食べ物があることを証明、つまり金さえ出せば旨いものが食べられたのである。高級料理店の規制がどの程度守られたかは、まったくもって闇の中だった。