レジャーの制約が進む  昭和十八年冬

 江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)253
レジャーの制約が進む  昭和十八年冬

 元日の新聞Aは、東條首相の決意「益々攻勢を持続」が一面を飾った。二日Aは「交わす合言葉も逞し“米英を撃滅しよう”戦ふ新年・虚礼を捨て必勝へ進発」との見出しで、「“勝つて、勝つて、勝ち抜いて敵を降参させませう”と全国民が氏神の前に誓ふ」とある。
 実際は、正月、ニューギニアでブナの日本軍全滅。二月、南洋方面の要、カダルカナル島から撤退。三月、ダンビール海峡で日本輸送船全滅。惨憺たる日本軍の被害は国民に伝わっていない。

 市民レジャーは、朝風呂が無くなるだけでなく、色々な切符制が始まる。映画館劇場の節電休館がはじまり、「物見や遊山は止せ」との回覧板。制約は多くなるが、市民は息抜きをしたくて出歩いている。
 と言うのも、朝日新聞の報道は、三月二十八日付「英艦隊奇襲の特殊潜航艇十勇士」、二十九日付「数を恃み連日出撃」、三十日付「熱田島沖で三艦撃破」、三十一日付「敵二百機を撃隊破」、四月一日付「米空軍拡張計画に陰影」、二日付「陸鷲東部印度の連爆」と、そのまま全てを信じないとしても、とても日本軍が負けているとは思えない。
    
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昭和十八年(1943年)正月、ニューギニアでブナの日本軍全滅②、配給米五分搗⑦、戦争の緊張からの息抜きをしたい市民。
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1月2日A 明治神宮に必勝を祈る参拜者の群れ
  2日ro 「浅草は、何と早朝興行午前七時開場を、各館一斉に試みたそうだ・・ガラガラだった」
  4日A 羽織、袴で愛国カルタ会開催
  4日A 「いろは」四十組の纏を押し立て、宮城・靖国神社に奉拝
  5日a 「さすが勝抜く正月 断然多い神詣」
  7日a 四日早い春場所 ザン切り頭の決戦熱闘譜
  8日Y 邦楽座「水の江滝子公演」連日満員御礼
  9日y 陸軍始観兵式、代々木原頭に十万余の陪観者
  10日A 初場所初日「徹夜の角狂 不埒な焚火」
  14日A スキー持ち込み許可制
  16日A 朝風呂なし客足なし、決戦下静かな藪入り
  19日A 一円の入場料に六十銭税金
  25日Y 大相撲千秋楽、双葉山前人未到の七度目の全勝
  28日y 帝国劇場の新国劇「汪精衛」他連日満員
                                                
  元日の新聞Aは、東條首相の決意「益々攻勢を持続」が一面を飾った。二日Aは「交わす合言葉も逞し“米英を撃滅しよう”戦ふ新年・虚礼を捨て必勝へ進発」との見出しで、「“勝つて、勝つて、勝ち抜いて敵を降参させませう”と全国民が氏神の前に誓ふ」など威勢がよい。写真も、「明治神宮に必勝を祈る参拜者の群れ」を掲載。
  三箇日の人出は、明治神宮靖国神社が前年より二割強増え、伊勢神宮参詣列車や湘南方面は前年と変わらず。また、成田山、川崎大師などは相変わらず賑やかであったが、全体としては遠出が減って一割から三割減のようだ。市内の盛り場は、映画や演劇などの景気が良かった。『猿飛佐助』などを公演している有楽座は、「今年は又輪をかけたよさ」とロッパの日記にあり、七日まで大満員。
 大相撲の人気も過熱していた。初場所から、早朝から日没までに全取り組を終了することになった。そのため、番付外の力士の卵は取組が多すぎて、場所四日前の七日から相撲を取った。また、初日は十日であるが、その切符を求める人は前夜から押しかけ、両国署の警官によって全員が追い払われた。ところが、埼玉、神奈川などから訪れた約千名は、帰るにも電車がなく、三々五々分かれて徹夜。“絶対に防空資材など燃やさぬようにと”との厳重警告にもかかわらず、冬空の寒さには耐えきれず、3~40ヶ所の資材は焚き火にされてしまった。
 週末から休日にかけての旅行は依然と盛ん、東京鉄道局では輸送調整を図るため、上野発十一時三十五分以降の列車には上野・大宮間からスキーの車内持ち込みを禁止。但し「スキー持込承認証」所持の者には一人一台限り認めた。食糧事情が悪化しているさなか、スキーに出かけられる人は、市民の一割もいなかったが、贅沢な遊びとして禁止にはなっていなかった。
  その一方で、非常時ということで朝風呂はなくなった。朝刊Aに、「朝風呂なし客足なし 決戦下静かな藪入り」、浅草六区でも人出は平日と変わりないと。また、両国、上野、新宿各駅も平日並みの人出であったとある。が、どうも腑に落ちない。ロッパの日記に「藪入りの臨時マチネー」、十六日は「夜の部大満員」とある。
 ロッパは十七日「新聞見てビックリ、煙草値上げ・・・光十八銭が三十銭はむごい」と。十九日は、「『闇』以外に品物は無し、又、物の値段てものが、此う狂っては、高いも安いもないわけである」と、書いている。十九日付Aには、「外食せずに頑張らう 勝ち抜く新設計 一円の入場料に六十銭税金」。生活に欠かせぬ食料にも物品税が課せられ、外食料金や入場料も値上げされることは必死である。

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昭和十八年(1943年)二月、カダルカナル島から撤退開始①、東京府内の映画館劇場交代で月二回の節電休館を始める③、戦時下にもかかわらず、遊覧客は減らず。
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2月2A 「紙芝居へ監視隊 漫画はなくなります」
 5日A 「豆はなま・撒くは産業戦士」市内の節分
 5日Y 邦楽座水の江滝子公演「愉快な音楽会」他満員御礼
 5日A 風呂も切符制へ
 7日Y 国技館で古式相撲、超満員
 9日A 威勢良く海軍省へ神輿獻納
 12日A 紀元節靖国神社などに「各種団体十二万人」
 22日A 「戦う輸送に席を譲れ」列車改正にも減らぬ遊覧客
                         
  紙芝居は、子供に与えるの影響が大きいため三月から審査が始まる。「紙芝居へ監視隊 漫画はなくなります」というお達し。とうとう、紙芝居にもいろいろなチェックが入り、軍部の眼鏡にかなったものしか許されない。面白いだけの漫画は、戦争遂行の妨げになると。
  「風呂も切符制へ」と、朝風呂が制限されるのはともかく、市民の数少ない楽しみの一つである入浴さえ、再検討をしなければならない事態となった。そのような状況下でも、「豆はなま・撒くは産業戦士」と、市内各地では「豆まき」が行われていた。ただ、撒いた豆はすべて拾い集め、春になったら畑に蒔くのである。
  六日付Aで「雪原の朝におゝ出た 金冠匂ふ“黒い太陽”」と、この日七時五十分に皆既日食があった。日食については、すでに一月から連日のように報道され、娯楽の制限されるなか大勢の人が関心を持ち、学生たちを中心にあちこちで観測された。
 「威勢良く海軍省へ神輿獻納」と、東京市荒川区町屋の若衆一同は、春祭りを前に神輿の応召を決意。そこで、奉納を前に、決別を込めて威勢よく担いだとある。このほかにも、市内各地で神輿獻納が続いた

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昭和十八年(1943年)三月、ダンビール海峡で日本輸送船全滅①、第一回防空服装日⑩、「撃ちてし止まん」は不人気、まだレジャーを求める市民に自粛の呼びかけ。
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3月1日A 日比谷公会堂で「ひな祭り会」子供三千名
  4日A 「“お山参り”も行軍に衣替え」
  9日A 数寄屋橋畔忠魂碑小公園で決戦型紙芝居公演会
  11日Y 陸軍記念日、軍楽隊銀座などの繁華街行進
  11日Y 多摩川園で「世界戦争展覧会」開く
  14日y 日本野球優勝大会、外来語排撃新用語で開幕
  18日A 2942種類あるオモチャの贅沢物を一掃し錬成型500点内外に絞る
  23日A 「物見や遊山は止せ 空襲必至の季節 翼賛会から『回覧板』」

 「六根清浄の“お山参り”も戦力増強の一点を目指して新時代の脱皮を敢行」と。まだ“お山参り”は健在。それも、行軍に託つけてのハイキングであることは間違いない。
 六日、「この比公園の興行場午後より夕方近くいづこも満員大入。夜は到て見物少なくなりしと云」と、荷風
  日本教育紙芝居協会は、「うちてし止まむ教育紙芝居大公演会」を九・十日、数寄屋橋畔忠魂碑小公園で実演。この日は火曜、午前九時から午後四時まで開催しているが、子供たちは学校に出かけたはず、一体誰が見たのだろうか。
 陸軍記念日、国民服に戦闘帽のロッパは、「防空日だから、国民服のこと、女はモンペ又はズボンのことということ・・・表を歩いてる人々は、半分も実行してはいなかった」のを見ている。またその日は、東宝劇場の『桃太郎』や帝国劇場の『撃ちてし止まむ』が無料招待。『撃ちてし止まむ』はいつもは不入りだが、無料のため帝劇が満員。ロッパは五日の初日に、「愚劇だし、第一それを上演することすら嫌でたまらない位のものだから」とぼやいている。『桃太郎』についても、十四日の日曜日でさえ「入りは平均五十六パーセント」であった。
 「物見や遊山は止せ」との回覧板。「陽春四月ともなれば、戦時下とはいひながら、やはり旅行、遠足が多くなり、家を明けたり、輸送機関を混乱させることが予想される。しかしいい陽気すなわち空襲の好機ともいえる」と。市民は、また自粛を言っている程度の認識であろう。
 と言うのも、日本軍の敗走にもかかわらず、朝日新聞の報道は、二十八日付「英艦隊奇襲の特殊潜航艇十勇士」、二十九日付「数を恃み連日出撃」、三十日付「熱田島沖で三艦撃破」、三十一日付「敵二百機を撃隊破」、四月一日付「米空軍拡張計画に陰影」、二日付「陸鷲東部印度の連爆」と、とても負けているとは思えない書き方、市民に戦争の緊迫感は起きていない。