変わらぬ行楽の人出、昭和十六年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)246
変わらぬ行楽の人出、昭和十六年春
 欧州での戦争はドイツの勢いを増し拡大の一途、一方日本の中国戦では行き詰まっており、打開策がないままであった。このような世界の情勢を客観的に把握できない軍部、目先の戦いしか念頭にないため「日ソ中立条約」を結ぶ。この時点で、日本の行き着く先を見通せない軍部。独ソ開戦の情報は入っていなかったのかと、疑いたくなる。ドイツと組むのであれば、「日ソ中立条約」など問題外であることは、まともな軍人であれば自明であろう。
 古川ロッパは、「戦争で息子を失い、泣き悲しむ芝居なので、遺族達大いに泣き、気の毒なほど」と、当時の人々の一面を記している。アメリカとの戦争が始まる以前に、日本軍は多くの死者を出している。新聞には、遺族の悲しみなど触れることなく、「賜品に輝く殊勲 生きた戦陣訓-西島肉弾上等兵 機関銃抱いて阿修羅」との見出しで以下の如く書き立てている。4月8日A
 「・・・西島上等兵・・・の勇猛果敢なる行動は、身を以て戦陣訓を実践せるものとして○○(ママ)部隊全将兵の絶賛を浴び、先頃この輝かしき殊勲により一兵卒の身を以て畏くも竹田宮殿下より御下司賜の慰問袋を拝受するの栄光に浴した・・・」とある。末端の兵が命を失うことを、国民にこのような感覚で受けるように仕向けている。
 当時の大半の市民は、「米穀の配給通帳・外食券制を実施」になっても、順応するだけ。それでいて、春の行楽の人出は物凄く前年を上回る勢い。その様子は、永井荷風も日記に綴っている。新聞は、大相撲以外にはあまり触れず、人々が楽しげに遊ぶ様を極力乗せないようにしている。
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昭和十六年(1941年)四月、米穀の配給通帳・外食券制を実施①、日ソ中立条約成立⑬、春の行楽の人出は物凄く前年を上回る勢い。
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4月2日ka この夜公園六区の雑沓正月の三ケ日の如し
  8日A 代々木練兵場で興亜馬事大会、終了後市中愛馬大行進
  13日a 六大学春季リーグ開幕、両スタンド埋めつくす
  14日A 鉄道の乗降客約三百万人、上野駅が第一位の約五十万人
  17日ka 新橋を過るにこの辺依然として酔漢多し
  20日ka 日曜日の人出浅草は銀座よりも少し
  21日A 靖国神社、人の波で埋まり、参詣人十六万余
  25日a 靖国神社臨時大祭、外苑の大パノラマも観衆でいっぱい
  30日Y 代々木原頭で天長節大観兵式、数万の拝観者

 通帳制によるコメの配給割当制の実施、これで主食のコメが通帳制配給となることから、通帳なしには生活できなくなってしまった。なお、この配給米は、前年十一月から家庭用米に一~五割の麦が混入されていた。
 花見にブレーキがかけられているので、花見の騒ぎを伝える記事はない。しかし、市民のレジャー気運は高く、遠出はできないが春の人出は前年と変わらない。十三日の日曜は、どっと行楽に出たらしく、不忍池の貸しボートでさえ「冬枯れの五カ月分」を一日で稼いだとか。
 映画・演劇なども盛況らしく、荷風は十九日の日記に、「歌舞伎座前過るに恰も開場間際と見え観客入口の階段に押合い雑沓するさま物凄きばかりなり。劇場の混雑は数寄屋橋日本劇場のみにあらずと見ゆ。近年歌舞伎座の大入つづき斯くの如き有様にては役人が嫉視の眼もおのずから鋭くなるわけなり」と。また、二十五日の繁華街の人出は、「浅草公園の人出は平常に変らざりしが銀座より新橋辺には宵の口より酔漢殊に多かりき」と書いている。
 二十四日、ロッパの有楽座は、「靖国神社臨時大祭の遺族招待マチネー。『髪のある天使』は、戦争で息子を失い、泣き悲しむ芝居なので、遺族達大いに泣き、気の毒なほど。『花の詩集』は此の客まるで受けつけない」と。

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昭和十六年(1941年)五月、「肉なし日」はじまる⑧、東京市町会規準・東京市町会規則基準改正告示(27)、相撲人気高まるが、他のレジャーは沈滞気味。
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5月4日Y 多摩川読売飛行場で空陸攻防戦、観衆四万余
  8日ka 八の日は肉食禁止となれりし由にて銀座浅草とも飲食店過半店をしめたり
  9日A 大相撲夏場所、両国の新記録、徹夜どころか徹昼、前日早朝から詰めかける
  12日A 第七回体操大会、外苑競技場に一万七千
  13日a 大相撲月曜に“逆手の大入り”
  14日ka 相撲興行中は浅草の人出いつもよりも少し
  15日Y 「そうだその意気」発表会、後楽園で歌う二万
  23日a 宮城二重橋前で青年学校生徒御親閲式に全国から三万四千、市中武装行進
  17日y 国威宣場の夏祭、日本橋椙森神社祭礼
  19日ka 稲荷の祭礼なり
  23日ro 堀の内へお参りに、二十三夜さまで人出だ
  28日a 海軍記念日、陸戦隊の大行進
  29日Y 日本野球春の陣閉幕、巨人五季連覇
  29日Y 国技館で拳闘、堀口の積極攻撃に超満員の盛況                       
  大相撲夏場所初日は、午前一時から「敢闘の火蓋」と異常な人気。野球やボクシングも興行されているが、市民の娯楽に選択肢がなくなっている。制限はレジャーだけではなく、食べ物も厳しくなってきた。ロッパは十八日、銀座のモナミの二階で「ビフシチウとライスカレー。客は満員。みなシーンとして、学校の教室にいるように元気がない。運ばれる皿を、文句も言わずに待っている・・・この光景、時世の姿」と。

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昭和十六年(1941年)六月、迷信記載の暦を発禁①、独ソ開戦(22)。
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6月1日a 溢れる太公望列車
  13日a 国技館で一万人の御詠歌
  15日A 二十四万人分も外食券雲隠れ 行き場に困る大量の米
  16日Y 六大学リーグ戦、慶応が早稲田を撃砕す

 六月の新聞には、レジャーに関する記事がほとんどない。近隣の神社の祭りぐらいあっただろうし、街中に人出もあっただろう。
 欧州での戦争は拡大の一途、日本の中国での戦いは膠着したまま。市民生活は日に日にレベルダウン、特に食料不足は限界に近づいている。七日、食用油の切符制開始。配給制は、無駄なく公平な分配を目指したのだが、現実には闇の流通を促した。ロッパは、「肉なし日」に「肉ありの朝」、ジョニ黒などを飲んでいるように、あるところには何でもあった。
 レジャーも制限される中、十一日付Aで「両国花火復活」、七月二十七日に四年ぶりで行われるとの記事。なお、当日の花火の記事はない。