江戸・東京庶民の楽しみ 182
大正十五年前期 娯楽の多様化が進む
大正十五年、この年は、東京が大都市としてスタートした年と見ることができそうだ。世情は徐々に新しい風が吹きはじめ、女性の「断髪」やハンドバックの流行など、女性の進出が目につくようになってきた。またレジャー関連では、ラジオが下層階級にも普及し、市民に欠くことのできない娯楽になった。ラジオが大勢の人々に聞かれるようになっても、だからといって映画や観劇の観客が減少することはなかった。この年のレジャーは、前年にも増して海水浴へ出かける市民が増加した。
一方、政治は何ら変わることなく、遊廓移転に絡む収賄、機密費の横領などでまたも混乱、与野党とも国民の信頼を失うような醜態を見せた。さらに、この年も国会解散のチャンスはありながら、議員の身分を維持したいがために衆議院を改選せず、また民衆の側からも普通選挙の要求運動は起きなかった。そして、労働運動は盛んであったが、無産政党も内部分裂を繰り返し、アナーキストの出現などで民衆からは遊離していった。
・一月「電車客はさびしい 十二月の平均数より少ない 元旦のお客さん」二日付讀賣
元日の市電乗車客数は、大晦日から終夜運転した分の乗客数が除かれたため、十二月の平均数より少なかった。東京駅も前年と比べて減収。この年の元旦は、よく晴れて申し分のない天気であったが、市内の賑わいはさほどでもなかったようだ。ただ、湯治避寒に出かけた金持ちは、伊豆箱根方面に2万4千人と温泉場の宿屋は大繁盛だった。主な行き先は箱根1万人、熱海7千人などで、宿屋に落ちた金額は19万円程度だろうと鉄道局は試算した。
正月の映画や芝居などはまずまずの入りであったが、大相撲は藪入りの日でも六分の入りと悪かった。それは、藪入りや閻魔参りが以前ほど盛んでなくなったことが少なからず影響しているようだ。それでも十日目は、土曜日で学生たちが大勢見に行ったため三四階が大入り、最高だったらしい。
その他で市民が注目したものは、十三日から上野公園で開会した「こども博覧会」(二月十四日まで)。これを目当てに子供連れで遊びにでかける人も多く、上野動物園は二十四日に2万6千人もの人が訪れた。好天気で動物写真撮影会などのイベントも開かれたため、早朝から入園者が詰めかけ、「園内は人波どよめく」という混雑ぶりだった。
・二月「東京に女師匠が二千二百」十三日付讀賣、「東京に撞球場七百五軒」二十五日付讀賣
二月に入り吉例の節分会、市内各社寺などの賑わいは格別だった。市内の白木屋では年男に出羽ケ嶽関が豆を撒いた。当時、最も人気を集めたのは成田山の節分会。そのため、日中、両国駅から臨時列車が12本・3千名、上野駅から同6本・2千人もの乗客。夕刻にかけては何万の人出で駅が大混雑になるだろうと予測されている。また、池上の本門寺も相当の参詣人で京浜省線は混雑するという記事を出している。
「悪法を呪う労働者、長蛇のごとくに」(八日付讀賣)と、七日、芝公園で労働組合法反対の集会が開かれた。解散後は、数千名が示威行列し、警官隊の誘導で上野公園に向かった。関所関所では名物のひっこぬき検束もあったが、上野の山に近づく頃には十数万人の人出となった。また、十一日に各地で一斉に建国祭が催され、東京では赤尾敏らが芝公園で演説を行った。
十三日付の新聞(讀賣)には、「いま東京に 女師匠が二千二百」との記事がある。当時、遊芸人として生計をたてていた人は、東京市統計表によると5千5百人、その数は男女ほぼ同数であった。女師匠で最も多いのが長唄の師匠で540人、次いで生花、清元、琴、雑曲、舞踏、義太夫、琵琶、茶道などとなっている。これらの師匠の住まいというと、長唄と清元は神田・京橋・日本橋・芝・本所・深川に多い。生花と茶道は麻布・赤坂・四谷・牛込に多く、雑曲と常磐津は、芸者や半玉の多い京橋・芝等の下町から江東方面となっている。この地域による違いは、「下層階級の所謂娘を犠牲にして、左団扇で暮らす人なぞが此の師匠の所在にと密接な関係を持って居る」ということらしい。この記事から、趣味やレジャーの世界には、女師匠がかなり存在したことと、また彼女らが花街の一角を支えていたことがわかる。
関東大震災後、遊技場が急激に増えた、中でも球戯(撞球、ビリヤード)の増加は著しい。東京府下には705軒の撞球場があって、308軒は女性経営者である。そこで働く人は1434人もいる。撞球場数が多く分布している地域は、市内では浅草区・京橋区・神田区・芝区・本郷区、郡部で荏原方面の大森・大崎など勤め人の多い新開地。撞球場が密集しているのは学生町で、3千人のファンもいる大学もあるという話。撞球場の増加から推測して、ビリヤード愛好者は前年からの爆発的な流行に乗って二倍程度も増えたようだ。
・三月「きょう開会の化学工業博覧会 不忍池畔」十九日付讀賣
芝居は、本郷座や市村座など新春から客の入りがよく満員御礼の広告が出ている。二月は本郷座が大入り祝いをかね賑やかに稲荷祭を行っており、永井荷風は十九日の日記によれば、新橋演舞場でも大入り稲荷祭を行ったと書いている。また、洋楽演奏会もベートーベン百年祭音楽会などが催され、かなり浸透してきたと思われた。しかし、帝国劇場の歌劇「アイダ」は、「聴衆多からず。場内寂寞たり」と永井荷風の十二日の日記にある。それに加えて、大正八九年頃の好況は見るかげもなく、日本人のオペラ鑑賞は一時の流行だと延べている。
十九日、化学工業博覧会開会、正門に高さ50尺・直径10尺の高い塔、万里の長城をかたどった土塀、中世風の余興場など、地味な博覧会。「春の上野の人気を集めて」などと書き立てているが、主な観客の対象は専門家や学生などで市民への認知度は今一つ。それでも、月末の日曜日には1万8千人の入場者を迎えた。
・四月「花に群がり酒に酔う きょう百二十万人の人波」十二日付讀賣
三日の神武天皇祭は雨、臨時列車を用意して三十万円の収入を期待した鉄道省は大当外れ。四日の日曜、「素晴らしい日曜の人出 春光に誘はれて行楽の人の波」(五日付東朝)、上野駅の30万人を筆頭にどこもかしこも大賑わいであった。一日から上野公園では飲食料品の取締りをはじめ、八日からは飛鳥山、荒川、小金井などの順に警視庁が検査をした。そんな警視庁の配慮をよそに、十二日にはサクラも八分咲きの上野に家族連れが殺到してごった返し、飛鳥山ではまだ五分というのに乱痴気騒ぎ、玉川方面へは会社の団体が繰り出し、京王電車や京成電車の沿線にも花見客があふれた。あまりにも多くの人出で輸送機関の限界に達したと見えて、「鉄道省を驚かした日曜のお客百卅万人 レコード破りのこの人出に喜びの裏に大頭痛」(十三日付東朝)と。東京市の人口は大正九年には200万人を超えており、市内の行楽地だけでは足りず、近郊にもドンドン出ている。また、東京府の人口も十四年に400万人を超え、それまで市民の行楽地であった場所が開発され、さらに離れた行楽地へと足を伸ばしている。
ラジオ聴取者が二十万人を突破したという記事(二十七日付讀賣)がある。この機会に聴取料金が値下げされれば、ファンの幸せとあるが、ちなみに料金は一ヶ月1円である。放送時間は、午前九時四十分から始まって約十二時間。この日の午後七時十分以降の番組は、ニュースの後、通俗化学講座(結核関連)、管弦楽(カルメン他)、歌沢(宇治茶他)、山田流三曲(桜狩)、放送舞台劇(那須野與市館の場)となっている。
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大正十五年(1926年)前期の主なレジャー関連事象・・・2月松島遊廓疑獄事件
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1月2読 元日の電車客は、十二月の平均より少ない
3朝 割れ返る浅草公園 近来珍しい景気の興行
4読 正月休みに伊豆・箱根の温泉に出かけた人 2万4千人
10永 金比羅社新春初めての賽日にあたり賑なり
12読 芝居、寄席の福引御法度(十一日付で)
13読 上野公園で「こども博覧会」開催
15朝 日比谷に訪欧飛行の四勇士に捧ぐる大歓呼1万人
16読 大相撲春場所二日目、藪入りに六分の入り
25国 記録破りの人出に動物園の門限を延ばす
25読 神田花月入場料1円、小さん等有名人会連日満員御礼
2月4朝 怪物出羽の豆撒き、節分の賑わい
8読 労働組合法反対、大示威行列は上野山に向けて十数万人
11読 各地一斉に催される今日の建国祭
12読 本郷座「松竹梅湯島掛額」他連日売切れ御 礼
13読 本郷座、大入り祝いをかね十五・十六日に賑やかな稲荷祭り
13読 いま東京に長唄・生花・清元・琴などの女 師匠2千2百人
25読 東京に撞球場(ビリヤード)705軒、従業員1,400人
27読 人気を呼んでいる温泉遊園地、多摩川園
3月6朝 大東京「修羅八荒」満員御礼
8読 市村座「大山と家光」他満員御礼
9読 花見の取締り今年は厳重
10朝 春心地もなく寂れた浅草、正月以来客は減る一方
12永 荷風、帝国劇場で「アイダ」を聴く、聴衆 多からず
19読 不忍池畔で今日から化学工業博覧会開会
19永 新橋演舞場大入稲荷祭り
28読 三越で万国時計展、時節柄注目をひく
29朝 春風に誘われて郊外へ、上野は化学工業博覧会に1万8千人入場
4月5読 どこもここも日曜日行楽で大賑わい
8読 日本橋劇場で第一回撞球全日本選手権大会
8読 お花見商売取締り、飲み物を検査
8読 きょうの花祭り、花神輿、浅草公園から日比谷公園へ、飛行機も飛ぶ
12永 荷風、草花の種を蒔く
12朝 代々木原頭で航空ページェント観衆数万
19読 名残りの花に乱舞する人々、小金井に三十万、荒川堤に五十万と
19朝 神宮外苑競技場で東西対抗陸上競技大会に無慮五万、入場料無料
22読 新宿御苑で観桜御会、きょう文武高官名士 六千名御召し
27読 ラジオ聴取者、二十万を突破
27永 荷風、夜肆を見歩き赤城神社の境内に憩う