不景気に萎縮するレジャーの六年冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)205
不景気に萎縮するレジャーの六年冬
昭和6年(1931年)のレジャー関連事象 
 国内の景気は一向に変わらず、公務員等の減俸実施など、民政党内閣への不満が高まっていった。クーデター未遂三月事件、陸軍の軍縮政策に対する民政党若槻内閣批判、政府は軍部を抑えることができなくなっていた。満州での権益を守ろうとする動きに、政府は反論できず、軍部の武力行使を黙認し満州事変へ進んだ。
 若槻内閣は、軍部と与する勢力によって総辞職に追い込まれ、犬飼内閣が成立した。まず行ったのが、金輸出の再禁止、これによって国内の経済は混乱を増した。この年、東北・北海道は冷害、農村の疲弊は最悪の状況を呈しており、米の買い占めなど投機的になりやすくなっていた。そして、東京市内の不況は、労働運動の活発化、労働争議の激化、失業者が溢れ、欠食児童が問題となった。
 市民レジャーは、不景気に加えて、満州事変勃発、大きなイベントがなかったことから低調であった。それでも、学生スポーツは盛んで、野球に加えてレスリングやボクシングなどの格闘技も人気を増した。
 この年の話題は、羽田飛行場開場のほか、森永製菓が発売した「パナマウント・チョコレート」と「チューインガム」が流行。また、チンドン屋が出現、これはトーキーの普及によって失業した楽士の活路でもあった。流行歌は、『酒は涙かため息か』『丘を越えて』『侍ニッポン』など。

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昭和六年(1931年)一月、「不景気を吹っ飛ばす=春芝居」、市民の正月レジャーは気運盛り上がる
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1月3日T 元日の人出・浅草第一、十万
  4日A 「不景気何のその 浅草大当り」
  4日A 動物園は雪で三千五百人、前年の半数程度
  6日A 不景気を吹っ飛ばす春芝居
  6日a 初水天宮の大賑わい、帝釈天も人出
  6日A 「吉例の消防出初式 きょう二重橋前の盛観」約三万の観衆
  9日a 「さすが春場所 民衆デーの賑わい」
  10日ka 夜虎の門金比羅の縁日を看る
  16日a 「やぶ入 きょう浅草賑わう」
  18日A 大相撲十日目大盛況
  21日t 大相撲の観客は商人が最も多く25%、女性は6%(四百五十人)
  24日A 都下の感冒患者 四八万人上る
  30日a 警視庁、映画館の男女別席撤廃を決める

 この年は、元日二日が雪、三日は好天気に誘われて市民は街に「ドッと出た」。映画館や劇場はどこも満員、「遊楽館などは元旦以来毎日一万五千人から呼んでいる」、歌舞伎座「定員二千七百としても無理につめたら五千近く入る」というような盛況ぶり。「不景気何のその 浅草大当り」で、公園内は興行だけではなく「呼売りの店」までも繁昌し、「冷やしコーヒー、氷づけのサイダー、アイスクリーム」が飛ぶように売れた。なお、恒例の「うで玉子」は不人気であった。また、初水天宮は大賑わい、消防出初式帝釈天も人出が続いた。そして、十五日の藪入りも浅草に大勢の人が訪れるという状況が続いた。なお、二日に雪が降ったということもあるが、上野動物園の入場者が前年の半数に減った。新聞には、「だんだん動物園を相手にしなくなった」とも書いてある。
 八日初日の大相撲は民衆デーで賑わう。十七日の十日目は、大入りの大盛況。二十日、観客の調査が行われ、回答者7515人のうち最も多いのが商人で25%、女性客は四百五十人で6%を占める程であった。まだ相撲を積極的に見る女性は、非常に少なかった。たぶん、旦那方に連れられて来場したものであろう。家族連れで訪れることもなかったのではなかろうか。そのため、升席は男女を分けて座らせることもなかったようだ。
 ところで、この当時は、映画を観賞するとき、男女は別々の席に座ることになっていた。それが、この時期におよんでやっと、警視庁は「活動写真常設館の男女別席撤廃」を決めた。つまり、家族連れで映画館に行くということはなかったのだ。

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昭和六年(1931年)二月、国会は失言から乱闘騒ぎ③、市民は正月の夢からさめてまた不景気
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2月3日A エア・ガールの志願に どっと押しかけた女性
  5日A 細雨にもめげず豆まき、川崎大師の人出は十三万人
  7日a 東京劇場「改訂金色夜叉」他連日満員御礼
  7日a 歌舞伎座義経千本桜」他、連日満員御礼
  12日A 「どの列車にもスキーヤー満載」十日の夜だけで千五六百名
  12日A 「壮観!七万の長列 雪を蹴って大行進 年毎に盛んな建国祭」
  22日A 「八流の奥義をこらし 生花の大展覧会」上野府立美術館で開催
  22日A 「あてに成らぬ あすの梅日和 スキー列車もでない」

 節分は、細雨が降るという中、「豆まき列車繁昌」t⑤と、川崎大師に「十三万人」も出かけた。東京劇場の「改訂金色夜叉」が「初日以来連日満員御礼」、歌舞伎座も「義経千本桜」が「連日満員御礼」の広告が出されているが、市民レジャーが盛況なのはその頃まで。
 十一日の建国祭、「壮観!七万の長列 雪を蹴って大行進」とあるが、その多くは動員されたもの。年々盛んになるとあるが、実態は盛んにしているのであって、イベントの少ない時期にすることで関心を向けようとしていることがわかる。
 新聞は、三日の幣原首相代理の失言から起きた国会の混乱を連日掲載。チャンバラ剣劇時代を再興した混乱、乱闘とまでいわれた。あきれた議会の情勢より、市民が心配していたのは流感であった。それが、「流感七十万人 峠はもう越したが」A⑭、と多少安心できるようになったものの、その後もたびたび雪が降り、市民のレジャー気運は落ち込んでいた。

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昭和六年(1931年)三月、隅田公園開園(24)、二日続きの休み「お客は増えたが鉄道は銭足らず」
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3月9日A 「陸軍飛行演習の珍事」観衆数百名火傷す、観衆実に二十万
  11日A 国技館で「大ばけ大会」曲芸レビュー他余興数々、大人40銭小人20銭
  15日A 「いよいよ映画館 取締りに着手す 回転回数の制限決す」
  16日A 「うだる人波 申し分ない春日和の日曜」郊外電車だけでも乗客約五十万人
  21日A 「化学工業華かに幕開き」
  21日a 「動物祭の賑い」上野動物園開園五十周年記念祭が開催される
  21日a 帝国館・南座「壊けゆく珠」好評満員広告
  22日a 「春行楽幕開き 郊外へ海岸へ各電車満員」
  24日A 連休で、鉄道のお客は増えたが「銭足らず」
  25日A 帝劇「有憂華」初日以来連日満員御礼
  26日A 「劇場前で警官が定員調べ 浅草興行界大弱り」
  27日A 「最初の復活祭」日比谷音楽堂で盛大な記念音楽祭
  31日y 快晴に浮かれた人出、東鉄管内で五・六十万人輸送

 八日、代々木練兵場には陸軍記念飛行演習を見ようと、「実に二十万」人も訪れていた。当日呼び物の「煙幕」を展帳した際、煙幕剤が気化せずに観衆に降り注ぎ、数百名の火傷者が出るというアクシデントがあった。
 十五日は、「申し分ない春日和の日曜」、上野動物園は「動物撮影週間」ということもあって3万人余の入場者(迷子32件)。市内の日比谷公園、銀座などはもちろん、郊外へも多くの市民が出かけた。京成電車や目蒲電車などの郊外電車だけでも乗客が「約五十万人」、市内の行楽を合わせれば「百万の人出」となる。
 次の日曜は連休で好天気。この春一番の人出、それも家族連れの行楽が目についた。不景気とされる中で、一方では一家で円タクに乗って遊びに出かける人が増えているそうだ。二十一日、五十周年記念祭の上野動物園は、午後三時には3万人を超える入園者、この年最初の記録。裏の谷中にも彼岸ということで普段にない人出、被服厰跡の震災記念堂や浅草寺にも大勢の人が訪れた。また、郊外に向かう電車は、「朝から 満員また満員」。東京駅・両国駅上野駅新宿駅等の乗降客は、市電を含めると「百万を突破する見込み」である。確かに人出は多いが、市内および周辺にまでしか足が伸びず、収入を期待した鉄道は裏切られた。