不景気明治三十一年の娯楽様相

江戸・東京庶民の楽しみ 129
不景気明治三十一年の娯楽様相
六月隈板(わいはん)内閣成立/八月尾崎行雄の共和演説/十二月地租増徴案成立
・不景気で行楽の人出も今一つ
 亀戸妙儀の初卯は、天気に恵まれ大勢の人が出たが、財布の紐は固く飲食店の売り上げはのびなかった。劇場の正月興行は、歌舞伎座などを除く14劇場で催されていた。当時の観劇料金は、最も高額の春木座の桟敷が3円70銭、安い桟敷は開盛座の50銭。最も安い大入場も同じく開盛座で3銭である。桟敷の料金は、劇場によって大きな差があった。一方大入場は、高くても10銭、平均で6銭と大衆向き料金である。これらは、諸物価が上昇する中で比較的安定していた。
 一月の末頃から興行された、浅草座の松旭斎天一の奇術は、二月にも赤坂演技座で、昼夜二回演じられた。新聞記事などから見る限りでは東京のレジャーは、前年の映画のような目新しいもの、目立った活動など飛び抜けて注目を集めるものはほとんどなかったようだ。二月の節分には、恒例の亀戸神社追儺の神事で、赤鬼青鬼役を神楽師に依頼したという記事がある。従来は地元の人が鬼になっていたが、豆まきで鬼が逃げると、町内の若者が捕まえて担ぎ回り、池に投げ入れたり突き飛ばしたりするため、とうとうなり手がなくなったからだという。三月、浅草パノラマ館では、三年前の日清戦争旅順の激戦もようがかけられていたように、中身はすっかりマンネリ化していた。四月の上の不忍弁天の開帳は、花見時にぶつかったため大当たりしたが、全体として見ると、前年に続く不景気で行楽の人出も今一つであった。
 五月の新聞には、網の目のように張られた電線が妨げとなりって、伝統ある神田明神祭礼の山車が曳き出せなくなったとある。その上、軒に掲げる提灯も不景気のため数少なくなるだろうと予想している。なかには、山車の保存費用がかかるため、所有している山車を明神社に納めようする町もある。八月の両国川開きは、賑わいがあるものの割烹の客はさほど多くなく、大坂船や屋根船は稀で伝馬船や荷足船・五大力・高瀬船が多かった。路傍の飲食店は数多く軒を連ねているが、氷屋を除くと大した売り上げがなかったようだ。
 寄席や演劇など、レジャーに参加した人は、近年増加した労働者層が大半を占めているものの、新聞などで話題となるのは、十一月に不忍池畔で国際自転車競争会を外国人を交えて開催した上流階級、テニスの対抗試合を催した高等師範や高等商業学校などの学生たちであった。八月の記事に「大磯海水浴場の女王」という見出しがある。水着の美人コンテストでも開いたのかと思ったが、これは新し物好きの連中が西洋の真似をして、海水浴に来ていた女性の中から勝手に「クイン」を選んで騒いだだけのことであった。もつともこれも、選ばれたのは銀行の令嬢であり、大衆とは無縁の避暑地のできごとであった。
・遷都三十周年祝賀会に労働者が参加した理由
 労働者の台頭を押さえようとの動きもあって、日清戦争後、大衆の行楽を勧める記事が少なくなっている。四月に上野公園で開催予定の労働組合期成会の大運動会に対し、二日前に禁止命令が出されるという当局の弾圧があった。しかたなく、労働者たちは、大運動会に変えて遷都三十周年祝賀会へ参加することで、せっかくの楽しみをつぶさないようにした。この時、目をつけられた労働者たちが遷都三十周年祝賀会に容易に参加できたのは、祝賀会が官制イベントでなかったからである。遷都三十周年祝賀会は、祝典式、余興の行列と江戸の天下祭を彷彿させるお祭騒ぎであった。余興の行列は、大名行列、奥女中行列、武士行列甲冑隊、昔話舌切雀踊、軍艦と大砲の山車、鶴亀の山車、天狗の行列、諫鼓の山車、相撲行列と錦の旗など続々と続いた。これらの余興や山車は、東京市民が自主的に企画したもので、江戸っ子の心意気を感じさせた。式典開場から市中に繰りだされた行列は、まさに天下祭の様相を見せながら上野へ向かい、浅草、向両国、日本橋をはじめ東京中が祭のまっただ中にあった。なお、当日湯屋は休業だが、翌日の早朝から客がごったがえし、板の間稼ぎが多かったという。
・目に余る学生たちの放逸
 同じ四月、大衆に比べて暇を持て余している学生たちは、身勝手な一部の官吏や政治家、実業家などの行動をまねようとしたのか、特権階級の意識が強く、傍若無人に遊び回っていた。学生の運動会には何の制限も加えられなかったらしく、明治法律学校の生徒と教員約八百余名が、向島の隅田園で運動会を開催した。その後、約2百名の生徒が酔った騒ぎで吉原に繰りだした。高吟放歌し、相万楼の軒端に積み重ねてあった丼鉢を頭に被って踊り、あげくの果てには皿や鉢を手当たり次第に杖で叩き壊し、万歳を唱えた。壊された家の若い衆は、大いに怒り同業20軒あまりに声をかけ、生徒を懲らしめようと集まった。その近くに、別の明治の生徒たちが往来の婦女を驚かし、人力車を止めて客を下ろし、暴れに暴れて大門を入るやいなや鬨の声を揚げ、桜の枝を折り、ツツジなどの下草を抜き取るなどの暴挙を演じていた。さらに、芸妓を追い回し、揚屋に入っても乱暴を働いたので巡査が説得したが、生徒は数が多いのをいいことに抵抗、中には巡査に殴りかかる輩も出た。このありさまに撃昂した若い衆は、生徒の群れに割って入り、当たるを幸い散々に打ち負かした。これは、「明治の学生、吉原で大暴れ」という見出しの四月の新聞記事の概略だが、身勝手で歯止めの効かない連中が多くなっていた、当時の社会状況を如実に示している。
 十一月の連合(国際)自転車競走会は、天長節の翌日に延び、不忍池の競馬場で催された。競馬見所の前には天幕が張られ、彩旗が懸け連なり、音楽隊の演奏もあった。開場は9時との触込みであったが12時、観覧席の席次がいい加減で3円の会費を出した人も50銭の臨時切符を買った連中も一緒になった。競走場には、会の発起者である岩谷天狗が広目屋の口上人という服装で現れ、その他ポンチ絵から抜け出たような恰好の会員とレースに取りかかった。開場では、経費節約のためか茶一杯も出さず、菓子・洋食・煙草等を法外の値段で販売し、多くの不平を買った。新聞は、記事の終わりにレースに触れ、日本人の勝利を報じている。 
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明治三十一年(1898年)の主なレジャー関連の事象
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1月Y初水天宮、人形町通り露店両側を連ね夜になるとひとしおの混雑⑥/読売
1月Y銀座・日本橋賑わい、浅草・上野等の盛り場は好況
1月T英照皇太后が亡くなり、歌舞音曲が十五日間停止になる
1月Y藪入り閑散、皇太后崩御で盛り場自粛
1月M浅草花屋敷でキネトスコープ(のぞき見式活動写真)封切、シカゴ市街の馬車・自転車などの往来/都
1月H初天神、参詣人なかなか多く繭玉屋37軒/報知
2月H節分、浅草観音亀戸天神とも静か
2月M回向院の大相撲10日間で15876人・1550円、茶屋及び桟敷屋等を合せ7250円、2700円程の利益
3月Y神田川上座でシネマトグラフ(映写式活動写真)を興行
3月M水天宮、参詣人にて停車場ことのほか雑踏、お札の贋造数百枚摘出⑥
3月M神田三崎町に東京座開場、千六百人収容、桟敷5.5円・高土間4.5円・平土間3.5円・大入り場30銭
3月J神田錦輝館の活動写真興行、延長広告をだす/日本
4月M浅草奥山に大名行列人形、丹精こらし好評⑥
4月M赤坂溜池の演技座で着色活動写真昼夜2回⑬
4月Y灌仏会、晴天で各寺院賑わう/読売
4月 歌舞伎座で子供芝居が演じられ、五月には浅草座、十一月には新富座で興行される
4月M歌舞伎座福地桜痴の新作「俠客(オトコダテ)春雨傘」好評
5月M水天宮、近来にない賑わい⑥
5月M神田錦輝館でヴァイタスコープ(着色活動写真)が人気を博する
5月 中村歌吉右衛門・沢村小伝次らの子供芝居が浅草座で旗揚げし、人気となる
5月M六日目の相撲で、鶴ヶ浜が37回連続のマッタ
5月 浅草公園に日本シネマトグラフ(映写式活動写真)館開場

6月M麻布熊野神社大祭、金閣寺の箱庭、すこぶる見事①
6月M川上座『鉄世界』大入りにつき一週間日延べ
6月 回向院で奥田の西洋軽業が興行
7月M四万六千日、天気悪く飲食店・見世物等当て外れ⑩
7月G歌舞伎座、「小猿七之助」は淫猥極まる狂言との批判に中止、閉場/時事
7月M藪入り天気悪く、浅草公園界隈の飲食店大外れ、吉原は中々の景気⑰
7月M入谷の朝顔、明けぬうちから見物人多く、午前七時頃には飲食店客止め
8月H成田鉄道開通以後、参詣者が激増
8月Y入谷の朝顔市賑わい、飲食店も盛況
8月Y両国の川開きで、橋の欄干が落ちて死傷者十数人
8月M深川八幡祭礼、雑踏一方ならぬためため永代橋は車馬往来止め⑮
9月M向島の萩園、盛りにつき朝より杖曳く人多し⑧
9月M芝神明の祭礼、大喪中で羽衣の練物なく、若者の釣り狐の手踊りのみ
9月M川崎大師、前夜雨にもかかわらず参詣人多く賑わう
10月M虎ノ門琴平神社大祭、常より一層参詣人多く、スリ狩り⑫
10月Mベッタラ市、小伝馬町・本石町・人形町等に非常なる人出、浅漬け大根上物18銭・下物5銭
10月M向島須崎町の萩の園の菊、朝より杖曳く雅客多しと
10月M日本橋福傳神社の恵比寿祭、大中にて社内の祭礼のみ
10月M麻布仙台坂、仙華園の菊、八間の花壇培養
11月Y団子坂の菊人形16~17軒でて盛況
11月Uフタコブラクダなどの戦利動物を展示するため、上野動物園が拡張される/上野動物園百年史
11月M浅草田圃の二の酉、人出が多いなか急な雨で数万の群集が小松橋に集中しケガ人数十人
12月M愛宕の市、認可商人1918で前年より98人増加
12月M浅草観音市、羽子板三尺物8~10円、1尺八寸もの1円50銭~2円
12月M神田明神歳の市、一夜でスリ40人拘引
12月 英国ウィルソン一座が回向院で曲馬を興行

 

明治三十年に始まる映画という娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 128
明治三十年に始まる映画という娯楽

三月足尾鉱毒被害者二千人上京/十月金本位制度実施
・活動写真が始まる
 真偽のほどはともかく、明治30年以前にも活動写真が東京で行われ、喝采を博したが経費倒れになったという話がある。しかし、活動写真が広く東京市民に受け入れられるようになったのは、30年からである。一月に浅草花屋敷でキネトスコープ(のぞき見式活動写真)が封切られ、二月には小山内薫がそれを見ている。新聞の見出しには、「写真の活働」とあり、「活動写真」ではない。上映されていたのは、「連発銃射撃の写真」「シカゴ府市街の写真」などであった。不思議な発明品だから小学生徒などと一見すべきものという評価である。三月、川上一座は、神田川上座でシネマトグラフ(映写式活動写真)を興行。また、神田錦輝館もヴァイタスコープ(着色活動写真)を興行、連日の満員で延長広告をだした。
 神田錦輝館で映写されたのは、ナイヤガラ瀑布、ジャンヌ・ダークの火刑、出航する汽船、ニュヨーク市の賑わい、アメリカの大統領選挙の実況、アメリカを訪れた李鴻章が旅館を出る場面、消防士が火災から女子供を救出する場面、数十羽の鳩を買っている農家の秋、バタフライ・ダンシングなど二十余景であった。入場料は、特等が1円、一等50銭、二等40銭、三等30銭で、昼夜二回上映された。この金額は、歌舞伎などと比べれば高くないが、寄席の木戸銭よりは高い。当時の大工・左官の日当が55~60銭、活版植字工が25~50銭であったから、大衆が覗くにはちょっと奮発しなければならない金額であった。活動写真の出現は、後の大衆娯楽史上画期的なできことである。ただ、当時では、活動写真は目新しく話題性があり、関心も高かったと思われるが、観客数としてはまだ、寄席や演劇とは比較ならないほど少なかった。
天然痘などが行楽気分に水を差す
 この年の元旦は晴れ、銀座や日本橋に市内の賑わいが集まり、浅草や上野などの盛り場は好況で、幸先よいスタートを切った。六日の初水天宮も、人形町通りには両側に露店が連なり、夜に入ると一層の雑踏を繰りひろげた。その後、英照皇太后が亡くなり、市中では弔意を表す人が多く、そのため黒布が市場から姿を消した。それに伴って、市内の営業者に対しては歌舞音曲が十五日間停止、その他は三十日の停止の指示がでた。当然のことながら、藪入りは、小雨が降ったこともあるが、盛り場が閑散としていた。
 また、一月から天然痘が流行し、力士が予防の種痘をしたので相撲興行が中止となった。二月には広尾を初めとする避難病院が患者で満員となった。この年、天然痘の患者が5,831人(死者2,205人)も発生、さらに、疫痢が流行し、患者が6,909人(死者2,205人)も発生。三月には、足尾銅山鉱毒被害地の住民二千人も徒歩で上京し、途中で警官に阻止された。新年から暗いムードが漂っていたが、花見時になると一転、行楽に出かける気運が高まり、灌仏会が好天に恵まれたことが幸いして各寺院は賑わった。特に回向院は、ところ狭しとならんだ見世物や飲食店が繁盛し、甘酒のサービスも人気を呼び、大賑わいであった。
 四月に神田で、労働組合の結成を訴える演説会が催された。賑わう向島の花見では、仮装を楽しむ浅草区の鞄職組合と飯田町辺の大工組合・車製造業らが酔った勢いで大喧嘩をはじめた。五月、東京の労賃が大幅に上がったこともあってか、労働者の勢いはすこぶる良い。六月の上野で同業組合法発布記念大会には千人を超える参加者があり、山車3輌が繰りだされている。大衆娯楽である寄席は、諸物価が高騰しているにもかかわらず秋頃から賑わいを増しているという記事が出ている。寄席観客数は、前年が史上最高の527万人、この年も501万人と数年前より100万人以上も増加している。
・事故や災害がレジャーを襲う
 八月の入谷の朝顔人形は、忠臣蔵俳優似顔人形が大当たりして、午前七時頃にはすでに近所の飲食店が客止めになるほどであった。両国川開きも割烹や船宿などの予約が好調、十一日は曇りだが夜には月が出て、大川の両岸とも立錐の余地がないほど花火見物の人で賑わった。中でも、両国橋の上から見ることの人気があったとみえて、例年よりも混雑した。当時、橋の上での見物は、中央の車道の一部を往来できるように開けたので、両側はすし詰めのような状況であった。花火もたけなわの八時二十分頃、仕掛け花火が消えようとしていた時、よりかかられていた群衆の圧力に欄干が負けて橋が突然メリメリと崩壊した。そのため、見物人が水中に転落し、死者2人、行方不明3人のほかけが人も十数人でた。
  九月には台風に襲われ、劇場などにも被害が出て、赤坂演技座では三日間も興行停止となった。彼岸の中日が秋季皇霊祭に重なったこともあって、神社仏閣、大川のハゼ釣り、百花園の七草などに人出があった。秋の菊人形、特に団子坂は混雑し、上野谷中口・根津口とも人、人、・・人で歩行困難。十一月の浅草の酉の市には、熊手売りが30内外、芋が57軒などが並び、早朝から大勢の老若男女がつめかけた。二の酉では、ただでさえ人出が多かったところに、急な雨で帰りを急ぐ群衆が小松橋に集中、数十人ものケガ人がでるという惨事があった。新聞は、その状況を説明するつもりか、散乱して残された下駄のことまで詳しく書いている。
 この年のレジャー活動は、前年までの上昇傾向に水を差すようなことがしばしば起こった。暮れになると物価が著しく上昇し、特に米価は鰻のぼり。盛り場にはスリが横行、たびたびスリ狩が行われ、神田明神歳の市では一夜で40人ものスリが拘引された。大衆の生活は決して楽になったようには感じられない。それでも、東京に活動写真が出現し、十一月に戦利動物のフタコブラクダなどを展示するため上野動物園が拡張されるなど、大衆余暇活動は衰退するどころかむしろ増加傾向がみられた。劇場観客は前年より16万人も多く、340万人になっている。
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明治三十年(1897年)の主なレジャー関連の事象
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1月Y初水天宮、人形町通り露店両側を連ね夜になるとひとしおの混雑⑥/読売
1月Y銀座・日本橋賑わい、浅草・上野等の盛り場は好況
1月T英照皇太后が亡くなり、歌舞音曲が十五日間停止になる
1月Y藪入り閑散、皇太后崩御で盛り場自粛
1月M浅草花屋敷でキネトスコープ(のぞき見式活動写真)封切、シカゴ市街の馬車・自転車などの往来/都
1月H初天神、参詣人なかなか多く繭玉屋37軒/報知
2月H節分、浅草観音亀戸天神とも静か
2月M回向院の大相撲10日間で15876人・1550円、茶屋及び桟敷屋等を合せ7250円、2700円程の利益
3月Y神田川上座でシネマトグラフ(映写式活動写真)を興行
3月M水天宮、参詣人にて停車場ことのほか雑踏、お札の贋造数百枚摘出⑥
3月M神田三崎町に東京座開場、千六百人収容、桟敷5.5円・高土間4.5円・平土間3.5円・大入り場30銭
3月J神田錦輝館の活動写真興行、延長広告をだす/日本
4月M浅草奥山に大名行列人形、丹精こらし好評⑥
4月M赤坂溜池の演技座で着色活動写真昼夜2回⑬
4月Y灌仏会、晴天で各寺院賑わう
4月 歌舞伎座で子供芝居が演じられ、五月には浅草座、十一月には新富座で興行される
4月M歌舞伎座福地桜痴の新作「俠客(オトコダテ)春雨傘」好評
5月M水天宮、近来にない賑わい⑥
5月M神田錦輝館でヴァイタスコープ(着色活動写真)が人気を博する
5月 中村歌吉右衛門・沢村小伝次らの子供芝居が浅草座で旗揚げし、人気となる
5月M六日目の相撲で、鶴ヶ浜が37回連続のマッタ
5月 浅草公園に日本シネマトグラフ(映写式活動写真)館開場                   
6月M麻布熊野神社大祭、金閣寺の箱庭、すこぶる見事①
6月M川上座『鉄世界』大入りにつき一週間日延べ
6月 回向院で奥田の西洋軽業が興行
7月M四万六千日、天気悪く飲食店・見世物等当て外れ⑩
7月G歌舞伎座、「小猿七之助」は淫猥極まる狂言との批判に中止、閉場/時事
7月M藪入り天気悪く、浅草公園界隈の飲食店大外れ、吉原は中々の景気⑰
7月M入谷の朝顔、明けぬうちから見物人多く、午前七時頃には飲食店客止め
8月H成田鉄道開通以後、参詣者が激増
8月Y入谷の朝顔市賑わい、飲食店も盛況
8月Y両国の川開きで、橋の欄干が落ちて死傷者十数人
8月M深川八幡祭礼、雑踏一方ならぬためため永代橋は車馬往来止め⑮
9月M向島の萩園、盛りにつき朝より杖曳く人多し⑧
9月M芝神明の祭礼、大喪中で羽衣の練物なく、若者の釣り狐の手踊りのみ
9月M川崎大師、前夜雨にもかかわらず参詣人多く賑わう
10月M虎ノ門琴平神社大祭、常より一層参詣人多く、スリ狩り⑫
10月Mベッタラ市、小伝馬町・本石町・人形町等に非常なる人出、浅漬け大根上物18銭・下物5銭
10月M向島須崎町の萩の園の菊、朝より杖曳く雅客多しと
10月M日本橋福傳神社の恵比寿祭、大中にて社内の祭礼のみ
10月M麻布仙台坂、仙華園の菊、八間の花壇培養
11月Y団子坂の菊人形16~17軒でて盛況/読売
11月Uフタコブラクダなどの戦利動物を展示するため、上野動物園が拡張される/上野動物園百年史
11月M浅草田圃の二の酉、人出が多いなか急な雨で数万の群集が小松橋に集中しケガ人数十人
12月M愛宕の市、認可商人1918で前年より98人増加
12月M浅草観音市、羽子板三尺物8~10円、1尺八寸もの1円50銭~2円
12月M神田明神歳の市、一夜でスリ40人拘引
12月 英国ウィルソン一座が回向院で曲馬を興行

 

明治の遊びが始まる中期

江戸・東京庶民の楽しみ 127
明治の遊びが始まる中期

 明治中期に生きている人の多くは、江戸時代に生まれた人たち。政治を担っているのは全て江戸時代に教育を受けた人たち。江戸時代との決別を目指しているわけだが、人はそんなに容易に変われるものではない。確かに、自由民権運動など新しい動きはあるものの、そのにはどこか江戸時代を残しているようだ。明治十八年に内閣制度ができ、二十二年に大日本帝国憲法の発布され、二十三年に第一回衆議院議員総選挙帝国議会が開かれた。そして、二十七年には日清戦争をするにまで至った。
 一方経済は、第二期は、国立銀行条例改正(明治九年)によって、当時6行であった国立銀行が、十年27行、十一年95行、十二年153行と増加し、紆余曲折はあったものの、着実に商業資本が形成されていった。また、明治十三年からの工場払い下げによって東京の工場はマニュファクチャアから工場制工業への移行に拍車がかけられ、殖産振興の基盤が整いはじめた。経済・産業界は、新しい明治への衣替えの準備が着々と進んでいた。
 東京市部の人口は、明治十年(1877)に73万人、十五年が85万人と順次増加し、明治二十年(1887)には急増して123万人となる。東京の街並みは、江戸時代と変わらぬ頻度で発生する大火事によって、建てかえられる度に西欧風建築が増加した。鉄道は、新橋・横浜間を皮切りに、上野・高崎間、品川・新宿・赤羽間と続々開通し、馬車鉄道の新橋・上野・浅草館の開業な どによって、東京の街は次第に明治の顔を見せはじめる。市民の遊びも、浅草、上野など江戸時代からの場所が引き継がれ、公園と名を変え、文明開化を印象づけるような再整備が進められた。
 東京は、著しい人口流入によって、江戸時代から住んでいる人々より外来者の人口の方が圧倒的に多くなった。東京市民の間では、官公庁や学校の土曜半ドン、日曜休日が定着し、新しい生活スタイルの人々が増えていった。が、官吏は職業別人口の5%程度であった。工場ができて労働者の増加は著しかったが、それでもまだ、江戸時代色彩が強い商人や手工業・個人経営の職人なども多かった。
 農村から来た人々は、特別な技術や技能を持っている人は少なく、本籍を田舎に残したままで東京に住む“寄留者”が少なくなかった。また、このような人々は、定職を得ることが難しく、最下層の生活状態に甘んじなければならなかった。そのため、東京の人口は、上流者が1割、中流者が3割、下層者(下層上4+最下層2)が6割と、下層の人々が増加したものと考えられる。
 下層の東京市民は、江戸時代の貧民よりも遊ぶゆとりがなかったようだ。農村から流入してきた低所得者層は、食べるのがやっとという生活を余儀なくされていたので、遊ぶどころではなかったのだろう。また、住み着いた街でも、彼らは自分たちの生活スタイルを容易に変えなかった。つまり、積極的に遊ぶというような習慣はなく、少しでも長く働いてその分稼ぎたいという気持ちが強かった。
 したがって、いわゆる江戸っ子と流入した田舎の人々とは相いれず、江戸時代から綿々と続いた地域社会もこの年代で大半が姿を消してしまう。農村から来た新住民は、江戸時代から続く産土神の祭は見物する程度で、そのためなら仕事を投げ捨ててもというような積極的な参加をしなかった。出稼ぎ農民のレジャーは、東京見物的な行楽や単なる気晴らしであった。その一方、少数ではあるが上中流の人々による新しいレジャーも始まった。特に学生たちは、野球やボートレース、運動会といった文明開化にふさわしい西洋風の活動を楽しんだ。
 明治中期になっても、東京市民の見世物好きは、江戸時代から変わっていない。変わったのは、見世物を興行す場所で、従来の浅草奥山・両国広小路・上野広小路などから浅草公園靖国神社などへと移った。出し物も、猥雑なもの、醜悪なものなどは影をひそめ、政府の進める見世物の健全化によって、外国人の曲馬・軽業などが浸透した。しかし、見世物に反時代的なものをもとめる庶民の心は変わらなかった。
 特に見世物が多かった年は、曲馬のチャリネや奇術の松旭斎天一などが活躍した二十二年(1887)頃である。その年は、延べ17,538日、平均すれば毎日48ヶ所で見世物が興行された。明治後期の例から算出すると、観客数は490万人、どんなに少なく見積もっても350万人ほどの市民が見ていたと思われる。当然のことながら、市民の半数以上が見世物小屋などを覗いており、見世物全盛の時代であった。興行日数の多いのは、道化踊り、手品、活人形、軽業、造り菊の順である。興行内容と日数を見る限り、明治中期になっても手品、活人形など、市民の嗜好は江戸時代と大きな違いがないように思える。
 また、見世物は、機械人形・蒸気船・電信器械・理化学器械などが登場したことからもわかるように、時代を先取りする場でもあった。当時の見世物は、「観物」と呼ばれ、上流階級からは卑しいものと思われていたが、庶民の意識は博覧会となんら変わるものではなかった。そのためか、明治二十三年に開催された上野公園で第三回内国勧業博覧会は、四カ月間に入場者数102万人と前回を上回り、大部分の市民が訪れた。
 明治二十二年、観客2千人以上収容する歌舞伎座が新築された。さらに、翌年の劇場取締り規則の改正で、大劇場10箇所、小劇場12箇所に定められ、芝居に女優が出演できるようになった。これによって、多くの市民が足を運ぶようになり、大劇場だけでなく小劇場にも観客が増え共存共栄の道を開いた。この年の演劇観客数は、約200万人となり、市民の半数近くが芝居を見たことになるだろう。
 明治中期の演劇は、急速な欧米化を目指す新政府の意向を受け、演劇改良の動きが盛んになり、欧米の芝居や新派などの新しい演劇が上演されるようになった。話題を呼んだ演し物は、大衆人気を反映した川上音二郎一座の『経国美談』『板垣君遭難実記』で、特に劇中で唄われる「オッペケペイ節」は大流行した。また、三遊亭円朝の人情噺を元にした『塩原多助一代記』も、五代目菊五郎が演ずる多助と馬の別れが涙を誘い好評を博した。
 寄席は明治中期に入ると増加し、二十二年(1889)には255軒を記録する。観客数は示されていないが、明治二十六・七年の観客数から想定して400万人を超える年があり、それまでの最高になったと推測される。したがって、市民の半数以上の人々が寄席に通っていたに違いない。寄席で人気を得ていたのは落語で、講談には陰りが出ていた。また、落語も芸風が変化しはじめた。
 明治十四年頃から、大衆の求める芸に大きな転機が訪れた。三遊亭円朝に次ぐ落語界の大御所、初代柳家燕枝は、一興行十五日間連続の続き噺しをかけていたが、「また次の楽しみ」といった旧時代的なスタイルの話に観客がついてこなくなった。また、江戸の庶民生活に根ざした噺や音曲などをわからない人が多くなった。そのため寄席は、時代の変化に対応し新しい感覚の演し物や外国人の雑芸を導入した。その主役は、「寄席四天王」と呼ばれはじめた落語家たちであった。
 初めて高座で立ち上がって派手な踊りを見せたのがステテコ踊りの三遊亭円遊。小咄を演じた後、赤手拭いでほおかぶりし、赤地の扇子を持って「へらへらへったら、へらへらへ・・・」と唄い踊ったへらへらの三遊亭万橘。中国の孝子伝に出てくる郭巨の釜掘りの故事を「テケレッツのパァ」と滑稽に踊って見せた立川談志。そして、音曲噺の中で、乗合馬車のラッパを吹き、唄の合間に突然納豆売りの売り声をやったり、御者のまねをして「おばあさん、あぶないっ!」とどなったりという奇想天外なスタイルで人気を得たラッパの円太郎らであった。この四人は、それまで人情噺が多かった寄席に意味をもたないナンセンスな笑いを巻き起こした。そしてそれはまぎれもなく、新時代の要請であった。
 明治中期の市民レジャーは、江戸時代からの初詣や祭礼のような地域に密着したものが衰退し、博覧会や憲法発布式などといった、首都東京のスケールを感じさせるもの、官主導色が強いものが顕著になった。また、江戸時代から続く寄席や見世物、花見(菊人形等を含む)などは新しい趣向が加わり、大がかりにになった。特に、上野公園や浅草公園は、旧来の庶民娯楽の充実と平行して、動物園や十二階の凌雲閣などの整備にも着手、明治時代を代表するレジャーセンターになった。そして、レジャー産業が萌芽した。

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明治二十九年までの主な事象
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明治十六年  1883年 四月新聞紙条例改正/七月教科書採択の認可制度実施/十一月鹿鳴館会館会館
明治十七年  1884年 七月華族令公布/十月秩父事件/十二月朝鮮で甲申事変
明治十八年  1885年 四月天津条約調印/十二月伊藤博文初代内閣総理大臣就任
明治十九年  1886年 三月帝国大学設立/八月清国水兵暴れた長崎事件/ノルトマン号事件
明治二十年  1887年 六月憲法草案執筆開始/十二月保安条例施行、尾崎行雄ら追放
明治二十一年 1888年 四月市制・町村制公布/十一月メキシコとの通商条約調印(初の対等条約)
明治二十二年 1889年 二月大日本帝国憲法発布・森文相暗殺/十月大隅外相暗殺未遂
明治二十三年 1890年 七月第一回総選挙/十月教育勅語発布/十一月第一回通常議会開催
明治二十四年 1891年 一月帝国議会記事堂消失/五月大津事件/十月濃尾大地震
明治二十五年 1892年 二月第二回総選挙で選挙干渉/十一月北里柴三郎伝染病研究所を設立
明治二十六年 1893年 三月郡司大尉千島探検出発/六月福島中佐シベリア単騎横断より帰国
明治二十七年 1894年 三月朝鮮で東学党の乱/七月条約改正なる/八月日清戦争勃発
明治二十八年 1895年 四月日清講和条約調印、三国干渉/十月閔妃暗殺
明治二十九年 1896年 三月進歩党結成/六月山県・ロバノフ協定調印、三陸地方に大津波

 

二十九年の上流階層と庶民の遊び

江戸・東京庶民の楽しみ 126
二十九年の上流階層と庶民の遊び
三月進歩党結成/六月山県・ロバノフ協定調印、三陸地方に大津波
・「ある女の日記」に見るささやかな楽しみ
 明治二十九年頃、庶民がどのようなレジャー活動をしていたか、個人の日記『ある女の日記』(小泉八雲著 平井呈一訳)から紹介する。日記を書いた女性は、「大きな事務所の小使い」として働いている男の細君。男の仕事は夜勤がほとんどで、月給は十円。筆者は家計の助けに煙草の紙巻きの内職をしている。収入額からみると腕のよい職人よりは少ないが、その日暮らしの下層階級よりはかなり上で、平均的な庶民に位置づけられる。また、この夫婦は、子供のいない身軽な三十代、何か面白そうな催しがあれば、できるだけ出かけて見物しようという好奇心旺盛な庶民である。
 明治二十八年(1895)十一月八日、浅草寺へ参詣した後、お酉さまへまわる。十二月二十五日、大久保の天神さまに参り、境内の庭を歩く。
 明治二十九年正月十一日 岡田(知人)をたずねる。十二日 二人して後藤(妹の嫁ぎ先)をたずね、楽しく遊ぶ。二月九日、三崎座で『いもせやま』を見物。二十二日、天野で、ふたりの写真をうつす。三月二十五日 春木座で『蛍塚』を見物。この月、両親や親戚などとお花見に行く話もあったが、流れる。
  四月十日、二人して遊山にでかける。九段招魂社から上野公園、浅草観音を詣で、門跡様へもお参り。その後、曽我兄弟のお寺の開帳に行く。二十五日、録物(ロクモノ)の寄席へ行く。五月二日、大久保につつじ見物。六日、九段招魂社へ花火を見にいく。六月十八日、須賀神社がお祭礼なので父の家へ呼ばれ、親戚が集まる。
 七月五日、金沢亭で、播磨太夫の『三十三間堂』をきく。八月一日  浅草寺へ参詣し、吾妻橋で鰻を食べる。その後、浅草公園から鉄道馬車で神田へ。十五日、八幡さまのお祭に詣でる。九月、お彼岸の中日に寺参り。十月二十一日、柳盛座で『松岡美談貞忠鑑』を見物。
 以上のように、一月に一度くらいはレジャーを楽しむというのが、一般庶民の平均的生活であったのだろう。さらに、休みの一日の使い方をみると、たとえば四月十日の遊山では、午前9時に自宅を出て、最初に九段の招魂社へお参りし、上野公園まで歩き、そのあと浅草へまわって観音さまに詣で、門跡さまへもお参り。奥山へまわるつもりでいたが、昼時になったので料理屋へ上がっている。食事のさ中、奥山の見世物小屋から火事がでるという騒ぎが起き、「火の手が早くまわり、奥山の見世物小屋はあらかた焼けつくした」などという記述がある。公園内を見物して時間を過ごした後、さらに、吾妻橋を渡り、蒸気船で曽我兄弟のお寺の開帳に行き兄弟姉妹の息災を祈願して、晩の7時過ぎに帰宅。遊山と称して、目一杯遊んできたにしては、出発時間がゆっくりしている。帰宅時間にしても7時台には帰っており、現代の行楽事情とは違って時間に追われているという慌ただしさが感じられない。時間そのものががゆったりと流れているせいか、行楽の行程や内容にもゆとりが感じられる。
 この夫婦の行楽を見ていくと、浅草や上野、大久保といったような江戸時代から行楽の拠点として庶民に人気が高かった場所に、江戸時代と同じような、四季折々の風物を求めて出かけていることがわかる。また、レジャーにかけるお金は、芝居を見たり、たまに昼食を取るくらいで、まことに安上がりである。特に、徒歩が大半であるため、交通費がかからず、たまに蒸気船や鉄道馬車に乗ることもあるが、それはせいぜい一年に数回程度である。
・上流夫人はレジャーの日々
 では今度は、上流階級のレジャーについてベルギー公使婦人メアリー・ダヌタンの日記(『ベルギー公使夫人の明治日記』長岡祥三訳)から紹介しよう。明治二九年の彼女は三十八歳、日本に訪れて三年目に当たる。正月元旦、午後から皇居での謁見に出かけ、帰宅すると宮廷服を見せるために「客間のお茶会」を開く。六日に皇居での午餐会、十三日は三宮邸で晩餐会、十六日も公使館で晩餐会、二十二日の英国公使館晩餐会の後には演奏会、二十三日も公使館での晩餐会の後に音楽の夕べ、二十九日には伊藤侯爵邸の晩餐会、三十一日は友人宅で支那料理の晩餐会である。
 二月以降も皇居や赤坂離宮、各国の公使館、それに宮家、政治家等の自宅で、宮家、爵位を持つ人々、高名な政治家、各国の外交官などとともに晩餐会が続いている。その回数は明治二十九年(1896) には、日記に書かれている主なものだけで、33回もある。四月になると、芝離宮浜離宮での花見、上野公園にも花見、鎌倉に一週間の滞在、皇室の園遊会と行楽に出かけている。五月にも、亀戸にフジ、有栖川宮邸のボタン。六月に堀切の菖蒲園と足をのばし楽しんでいる。
  六月の末になると、梅雨を逃れて日光、中禅寺湖へリゾートに出かけ、九月の半ば、東京が涼しくなるまで過ごしている。公使夫人という地位にふさわしく、中禅寺湖でハイキングや湖での舟遊び、男体山登山、日光見物などと実に優雅な夏休みを送っている。避暑地には、皇太子をはじめアーネスト・サトウなどの上流階級の人々も訪れたというから、別世界であった。日光から戻ると、在京外国人による東京演劇音楽協会のメンバーとして活躍し、自らも出演するという忙しい生活に戻る。十月以降も、観劇、花見、旅行、晩餐会・・といった日々が日記に綴られている。
  以上が当時の上流階級に属する人々のレジャー生活であった。同じ東京に暮らしていても、前述の庶民のつつましい生活があると思えば、一方には公使夫人のように贅沢かつ優雅な生活を送る人もあった。

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明治二十九年(1896年)の主なレジャー関連の事象
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1月M正月の浅草は大盛況/都
1月 団十郎歌舞伎座京鹿子娘道成寺を踊り好評だが、ピアノ入りの音楽は不評
1月M初弁天、初水天宮も参詣人多し
1月 明治座は、菊五郎で連日大入り
2月Y初午祭と紀元節、強風で人出閑散
2月Y初卯、小雪で亀戸でも参詣人ちらほら
3月 川上一座の壮士役者が浅草座で時代物を興行する
3月Y大森八景園の梅園、日曜に賑わう/読売
3月Y浅草公園内、日清戦争パノラマ開業
3月J前年の青梅線日向和田駅の開通により、吉野梅林に観梅客が多数訪れる/日本
4月M向島、土手の歩行者10万人以上との記事
4月Y浅草活人形が様変わり、七情の動作や意匠より仕掛け物が人気
4月M義太夫は各席とも大入りであるが、一枚看板の綾之助、人気落ち目で大阪へ
4月○浅草六区で火事、見世物小屋等二百戸消失 
4月 西新井総持寺の厄除け弘法大師の開帳
5月Y靖国神社大祭、快晴で雑踏を極める
5月G浅草公園水晶館「ここまでおいでコーヒー進上」と開業/時事
5月 四月の火事で焼け出された英国大曲馬ヘンリーワース一座、神田三崎ケ原に移る
5月 八重洲河岸は蛍の名所にて、月末より飛び始めたが昨年より十日遅く形も小さい
5月M浅草三社祭、山車16両出る
5月 元祖軽業碇綱一座が芝愛宕下町で昼夜二回興行
5月Y一高野球部、横浜外人とチームに大勝、初の外国人との試合
6月G一高野球部、外人チームに連勝
6月Y赤坂の氷川神社の祭礼、大賑わいで一日延期する
6月Y中橋八坂神社祭礼賑わう
7月M川上音二郎の川上座が神田三崎町に開場、収容定員千余名
7月Y両国の川開き賑わい、割烹待合の観覧場も好景気/読売
7月M藪入りの小僧、目黒・王子・芝浦等に出る
7月M入谷の朝顔、各園とも賑わう
7月 東京で朝顔栽培が流行し、愛好者団体「一六会」が成立
7月 虫売、蛍2厘、鈴虫・松虫4銭、邯鄲・轡虫10銭
8月 浜町の水泳場が十周年を祝い、水泳競技を催す
8月Y深川八幡祭礼で獅子頭鰻屋へ、樽神輿が遊廓へ乱入
8月M市ヶ谷八幡の祭礼で二回もの神輿振りで店に乱入
9月Y二十六夜愛宕山上あふれるばかり
9月 上野で日本絵画協会第一回共進会が開催される
9月Y虎ノ門金比羅の中祭、人出多く賑わう
9月M芝浦の月待、船10銭、花火もあって賑わう
10月 石井ブラックが神田の新声館で奇術を昼夜二回興行、上等30銭、中等20銭、普通10銭
10月M池上の会式、大森駅から混雑し盛況
11月Y天長節、一番の人出は団子坂の菊人形
11月Y天長節夜会、帝国ホテルに内外2000人余を迎え、舞踏会など
11月M初酉、天気もよく身動き取れぬ人出、その割には景気上がらず
11月Y団子坂に大名行列の菊人形、見物で賑わう
11月F都座、八重垣姫で電気仕掛けの宙乗りもあって売り切れの景気/国民
12月 隅田川で海軍連合ボート競漕大会開催
12月Y愛宕神社の歳の市、羽子板や松飾りなど大繁盛
12月Y平河天の歳の市、好天に恵まれ中々の景気

 

戦争に便乗した二十八年の娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 125
戦争に便乗した二十八年の娯楽

四月日清講和条約調印、三国干渉/十月閔妃暗殺
・戦勝に浮かれるが市民の娯楽は尻すぼみ   
 日清戦争は、国民皆兵、国力のすべてをかけて戦う。したがって、傍観者的な行動は許されない。だが、外国との戦争というものを実感できない市民は、実際に戦場を目にしていないこともあって、まだ勝敗が決まったわけでもないのにお祭のような戦捷祝賀会を催した。東京では、戦争が始まった時点で、日本の勝利を暗示する芝居が上演され、日本にとって有利な情報だけが報道された。それで市民は、まるでオリンピックで日本選手が活躍しているのを応援するかのような感覚になっていった。
 戦争景気で潤った人は、ほんの一握り。多くの市民は、懐具合が厳しくなっていたはずだ。それでも、芝居はどこも盛況で、藪入りには、明治座が11時で客止め、ほかの各座も大入りであった。また、寄席案内の欄を見ると、出し物の入れ替えが多く、藪入りの人出に合わせていることがわかる。三月、向島白髭神社前で新発明の電気仕掛け煙火、「帝国戦勝祝賀大煙火」が催された。四月の隅田堤は、サクラが満開には、それなりの人出はあるものの、18軒もの茶店は閑散として淋しいかぎりであった。やはり戦争中のため酒宴を控え代わりに、言問の団子や長命寺の桜餅を食べながらの花見をしたらしく、こちらの方は例年より三割増の売り上げがあったという。
 戦線は山東半島に上陸から威海衛の占領、北洋艦隊の降伏と展開し、開戦から八カ月後、日清休戦条約が調印される。翌四月に日清講和条約が締結され、一旦、清国に対して有利な条件を獲得したが、ドイツ、ロシア、フランスの三国干渉によって妨害された。日清戦争終結は、日本がもうそれ以上戦うことができなくなっていたからで、国民が期待していたような文句なしの勝利にはほど遠かった。五月、日比谷に高さ約13m、幅約11m、長さ約100mの豪華な凱旋門が造られたが、勝利を祝う催しが盛大に行われたという記録は見当たらない。
 国民の大半は、なぜ日清戦争をしなければならなかったか、その理由を本当には知らなかった。また、勝ったことによって日本が世界の覇権争いに一歩を踏み出したなどとは思いもよらなかった。日本の国力を見抜いた欧米列強に屈辱的な譲歩をさせられた事実、朝鮮への内政干渉台湾出兵など隣国支配を企てる理由もむろんわからなかった。新聞には、臥薪嘗胆、富国強兵と、さらなる戦いに向けて心構えが必要なことを書き立てていた。六月の歌舞伎座や春木座は、大入りで日延べしている。それに対し大相撲は、寛政以来の不景気で、初日が347人、二日目が605人、三日が452人、四日目少し増えて856人になったが、五日目はまた減り716人と惨憺たる状況であった。そういえば、一月の回向院大相撲では、特別席が35銭を25銭、一等席25銭を20銭、二等15銭を15銭、三等7銭を3銭に引き下げたという記事があった。この年は冷夏だったと見えて、大磯の海水浴客が例年の十分の一、両国の川開きも人出はかなりあったが、割烹や露店は不景気という記事がある。両国広小路に灯籠が提げられると、庶民は夕涼みに出かけた。そこでは、急増した氷屋で一杯1銭から3銭のイチゴや汁粉味の氷水をすする庶民が目立った。
・レジャーは戦争便乗のなか義太夫が全盛を迎える
 九月頃、娘義太夫ブームを反映してか、素人義太夫が盛んになった。浅草公園では日清戦争の活人形、凌雲閣の日清戦争ジオラマが催された。神田三崎町原頭の日清戦争ジオラマは、横34間の縦2間で7場面で公開された。十月の浅草観音では、十夜会が催され参詣人で賑わった。また、歌舞伎浄瑠璃の元祖、和國太夫は睦太夫と改名、神田の小川亭で公演し、毎夜大入りを取った。十一月の酉の市では熊手が売り切れ、通常より2割高い芋もよく売れ、料理屋なども賑わい、迷子も出るような騒ぎ。日清戦争に便乗して戦争劇であてた川上音二郎は、十二月に泉鏡花の『滝の白糸』を初演した。
 十二月、靖国神社戦没者合祀の臨時大祭が行われた。当日の奉納として、境内の陸軍軍楽、能舞台舞楽、馬場の花火と母衣引きの馬術、牛ケ淵付属地で川上一座の『日清戦争』『楠公子訣れ』と銃剣、田安門外で里神楽などがあった。その他大通りの境内には見世物小屋や茶屋、さらに戦利品の陳列所、凱旋門などがあり、多くの参拝者を迎えた。天皇陛下御参拝の日には、市中諸官署、諸学校、諸会社、銀行等のほとんどが業務を休んで祝意を表したという記事が出ている。 
 当時の大衆娯楽を読売新聞の十月十三日の「今日のなぐさみ」の欄から紹介しよう。欄は、「志ばゐ」「らくご」「ぎだいふ」「みせもの」「てんらん」「つり」「をんせん」「はな」「えんにち」の九つに分かれている。芝居は明治座を皮切りに、9座を紹介。開場時間は現代と比べると早く、大半は九時であるが午前八時というのもある。落語は、活躍中の圓生、遊三、それにブラックの名前が目につく。義太夫は、娘義太夫の人気も手伝って、竹本綾乃助、京子らの名前がずらりと並び、全盛なことがわかる。見世物も健在で、西洋大手品、玉乗り、活人形やパノラマなど日清戦争を題材としたものが多い。展覧会は特別な催し物がなかったとみえて、教育博物館や遊就館などが記されているだけ。釣りは、フナ、ハゼ、セイゴ、コイ、メゴチ、キスなどの釣り場を紹介。温泉には、草津温泉伊香保温泉の名もあるが、所在地は、浅草田圃駒込追分などとなっている。花見として、向島百花園、浅草奥山、大久保花園など10ヶ所。当日の縁日は、開催地の11ヶ所を紹介。
 なお、同頁に団子坂の菊細工(菊人形)の開催日、出し物の紹介。植木屋「新籾」は、旅順口龍山砲台占領の場、土城子浅川騎兵大尉奮勇の場、それに弁天小僧菊五郎五条大橋牛若弁慶立回り、二人道成寺などを菊人形に仕立てたもの。「種半」は川上音二郎一座が公演した威海衛占領を、「植安」が台湾戦争、「植惣」が台湾征討、「植梅」が大舞台仙台萩、「植重」が国性爺紅流し、「燻風園」が日清戦争大箱庭数個、と趣向を凝らしている。                                          
─────────────────────────────────────────────╴                                                     明治二十八年(1895年)の主なレジャー関連の事象
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1月X浅草講演六区に西洋幽霊、元旦より開場
1月Y藪入り、明治座客止め、各座も大入/読売
1月Y亀戸の初卯参り、花柳界の人多く賑わう
1月X有栖川親王の御予定の御道筋、30万人余詰めかけるが雑踏もせず、ケガ人もなし
2月 新富座、古式の大入祝いを催す
2月Y慶応義塾の烟火行列に多数の見物人
2月U上野動物園に戦利品として、フタコブラダ来園する/上野動物園百年史
3月Y歌舞伎座団十郎と九蔵の顔合わせで初日大入
4月 隅田堤のサクラ、前年より花見客少なく茶店十八軒淋し
4月Y向島茶店は不景気、桜餅を食っての花見
4月M大久保のツツジ日清戦争の人形多し/都
5月Y好天に恵まれた靖国神社祭典など賑わう
5月E川上音二郎一座が歌舞伎座に進出し「威海衛陥落」を上演/日本演劇史年表
5月M日比谷神社の大祭、大仕掛けの細工灯籠や囃子屋台などを催す
5月Y還幸啓当日は50万人余で雑踏するが事故・混乱もなく
6月Y大相撲、寛政以来の不景気
6月Y歌舞伎大入りで講演期間延長
6月Y日枝神社日清戦争で延期
6月Y春木座大入りで日延べ
6月M回向院で日本三景のパノラマ
7月 奥田弁次郎が回向院で西洋軽業興行
7月H両国広小路の灯籠に、夕涼みへと黒山の人/報知
7月M浅草の四万六千、酸漿屋売れ行き7分、飲食店は客止め
7月M藪入り、上野・浅草公園など近年稀なほど、一銭蒸気が繁盛
7月 酩酒屋、麦湯店の許可が面倒なので、甘酒屋がふえる
8月H神田小川町体育養成館でローラースケートが行われる、一時間五銭、三十分三銭
8月Y回向院の松島全景パノラマ館、好評で九月まで延期
8月Y両国の川開き賑わうが前年より少ない、割烹や露店など不景気
8月 氷店急増、氷水1銭・アイスクリーム5銭
9月 浅草公園で西洋戻り曲芸、玉乗りなどの見世物あり
9月Y芝神明で大蛇や虎などの動物が見世物
9月M素人義太夫が盛んになる
9月Y神田三崎町の原頭に日清戦争ジオラマが公開される
10月 歌舞伎浄瑠璃の元祖、和國太夫が睦太夫と改名し、神田の小川亭に出席、毎夜大入り
10月G米国の磁石娘アボット神田錦町の錦輝館で、百人力の奇術を興行する/時事
10月Y浅草観音の十夜会、参詣人で賑わう
10月Y団子坂の菊細工、川上威海衛陥落など日清戦争もの多し
11月M深川八幡の祭礼、山車20余台繰りだす
11月M凌雲閣で澎湖島海戦等のジオラマ
11月M浅草田圃の酉の市、人出多く好景気
12月E新富座で「指物師名人長次」を上演、モーパッサンの「親殺し」の翻案
12月E川上一座が浅草座で泉鏡花の「滝の白糸」を初演/日本演劇史年表
12月M納の水天宮、未明より参詣人多く
12月Y靖国神社で臨時大祭、献納数々多数訪れる
12月Y靖国神社の祭典相撲、素人の飛び入り大受
12月M愛宕の市、出願者644人、上景気で身動きできぬ混雑
 

二十七年には娯楽にも戦時気分が

江戸・東京庶民の楽しみ 124
二十七年には娯楽にも戦時気分が

三月朝鮮で東学党の乱/七月条約改正なる/八月日清戦争勃発
・戦争に向かっても、市民レジャーは変わらず
 一月の新聞に、前年設立された日本輪友会が上野から王子方面に郊外サイクリングを実施したという記事がある。また、華山子爵の令息が京都に向けて東海道サイクリングに出発した。二月にも亀戸、向島などへ観梅サイクリングの記事がある。五月に深川警察は小僧や大憎が自転車を乗り回すのでこれを取り締まる。七月には宮田自転車が起業一周年の販売広告を出している。十二月には、自転車は馬より早いという記事。以上のようにこの年は、自転車の記事がやたらと目につくが、実祭には、まだ一部の人しか乗ることができなかった。当時の自転車は、庶民には手の届かない高級品であり、八年後の明治35年でも自家用自転車は、府下にわずか4571台しか普及していなかった。
 三月、松旭斎天一木挽町の厚生館で西洋奇術を興行し大入。四月には神田錦輝館での興行中に、大入祝を兼ねて一座が赤穂義士に扮し花見に出かけ、向島八州園に到着後演芸を披露している。松旭斎天一の人気は衰えず、六月になっても牛込改代町で昼夜大入を達成。七月には、ダーク一座が神田神保町の新声館であやつり人形を興行。八月にアメリカから曲馬や奇術のアデヤ一座が初来日、神田錦町の錦輝館にて興行。アデヤ一座の興行は、午後七時から始まり、最上等が一円、上等が50銭、並上が30銭、中等が20銭、大入場50人に限り10銭という料金であった。外国人の興行であったためか決して安くはない。日清戦争の最中にもかかわらず、九月にはアームストン一座が再び訪れ、回向院で曲馬興行し、翌月にも芝愛宕下町でも興行している。
 日清戦争が八月にはじまった。とはいっても、開戦によって市民のレジャーが減少するような気配はさらさらなく、夏休みということもあって、浅草の花屋敷は子供づれで賑わっていた。また、紫雲閣前の大盛館ではサイパン島の棒踊りが演じられ、なかなかの入りであった。パノラマ館も人気を回復しはじめていた。浅草座では、まだ戦争がはじまったばかりなのに、川上音二郎は「壮絶快絶日清戦争」を興行。連日の大入りによって座員の演技は、熱が入り負傷者がでたという記事がある。
・レジャーにも戦時色強まる
 九月になると、戦争の影響は、豆腐や沢庵などの値上げ、その上献金の要請、市民の生活にもハッキリと表れてくる。絵草子屋の店先から名所絵や役者の似顔絵が消え、戦争の錦絵が飛ぶように売れた。軍歌が流行し、町は戦時色に彩られていった。十月には、「日清戦闘自動パノラマ人形」といって、油絵の人馬を機械で動かす見世物が新声館で催された。浅草凌雲閣の修理が終わり、日清戦役の油絵が陳列された。靖国神社には、戦争の分捕り品が陳列され、それを見ようと地方からも大勢の人が参詣し、遊就館も賑やかであった。浅草花屋敷は、北京城外関門の場の川上音二郎新聞記者の似顔絵や渤海湾海上月などを模した菊細工を開園。団子坂の菊人形も、薫風園では一種変わった日清戦争陶器人形大箱庭がつくられ、さらに、九連城占領の実況を再現する菊人形かつくられた。十一月には、神田明神の射的場で、李鴻章や北京城などの的が設けられ、矢が命中すれば景品がもらえるという趣向が注目された。戦争が始まったころは、レジャーに戦時色を盛り込もうとしていたが、そのうちレジャーも戦争に関連したレジャーを行うようになっていった。
 芝居の内容も時流に乗り、九月に春木座で「日本大勝利」、新声館の人形芝居でも日清もの、十月に明治座で「日本誉朝鮮新話」、歌舞伎座も十一月「海陸連勝日章旗(アサヒノミハタ)」と題した六幕の新劇を上演、十二月にも市村座で「戦地見聞日記」と、いずれも流行に乗り遅れまいと、戦争劇を興行した。さらに、外国人のアームストン曲馬やダーク操り人形も演し物に日清戦争を取り入れるという状況だった。
・戦勝祝賀で市民はお祭気分
 神田錦町ジオラマ館では、陸海軍大勝の実況十余景が興行。不忍池では、祝賀大運動会が開催、池を黄海にみたてて海戦さながらに実況された余興が人気を集めた。旅順占領のニュースが入ると、総勢二千余名の慶応義塾学生が松明行列を行った。それまでにも、戦線での勝利が報じられると各戸が国旗を掲げ、大杯を傾け祝意を表していたが、十二月、上野公園不忍池畔で、市主催の第一回戦捷祝賀会が開催された。祝賀会には、職人たちはおおむね仕事を休み、問屋などの商家は丁稚、小僧に外出を許し、婦女、小児は神田や山王の祭に対するのと同じような期待を抱いて参加したという記事があった。東京では、戦争関連以外の娯楽はすっかり影をひそめ、その結果、市民は戦捷祝賀会に便乗して楽しむ他なかった。
 戦捷祝賀会は、後の日比谷公園になる日比谷原に標旗を押し立てて集まり、二発の号砲を合図に両陛下の御写真が奉置された式場のある上野公園不忍池畔へと大挙して向かった。その中には、張子の巨砲を挽き旅順港分捕りと記した小旗を立て、国旗と軍旗とを挟んだシルクハット模様の張子を帽子の上から冠むる出立ちがあり、趣向を凝らした人々が大勢いた。式が終わると、野試合演劇(川上音二郎一座)の余興があり、夕刻からは池の中央に清国軍艦の模型を浮かべ、あたかも戦いで炎上したかのように演出した。集まった人々は、その光景に歓声を上げ、拍手を送り、万歳の声を鳴り響びかせ、開場は興奮の坩堝と化していった。        
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明治二十七年(1894年)の主なレジャー関連の事象
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1月Y初卯が元旦、亀戸天神の商店は縁起物売り切れ/読売
1月Y初薬師は好天で、茅場町、本所弥勒町の薬師など賑わう
1月M藪入り、上野公園・芝公園や各所閻魔堂、人出多く賑やか/都
1月Y初大師、川崎大師参詣人多く、西新井大師も好景気
1月M神保町の新声館で娘義太夫の競艶会
1月G日本輪友会、郊外サイクリングを開催/時事新報
2月M節分会、浅草観音亀戸天神等で催される
2月M新声館の人形芝居、満場余地なき大入り
2月Y蒲田の梅林に遊客増える
3月H庚申、観梅がてらの人出多く、引船通りは混み合う
3月H上野公園で盆栽展覧会、二千余点あって盛況
3月Y明治座は満員、浅草座の川上一座が盛況
3月 天皇大婚25年記念祝典が行われる
4月H小雨の花見、上野は花吹雪、向島は摧残されし、人出午後から出るが夕方から雨
4月M両国永代の潮干舟を伝馬2~3円、荷足り1円20~30銭
4月M神田錦輝館で興行中の松旭斎天一、大入祝で赤穂義士に仮装し向島八州園へ
4月Y竹沢藤次一座が日本橋春風館で曲独楽を興行し、大入り
5月M水天宮の縁日、参詣者多く飲食店や露店もなかなの景気
5月M神田祭礼、三社祭靖国神社大祭、烏森神社大祭など
5月M深川浄心寺の開帳、奉納・金5千余円・米450石・杉苗200万本等
5月 慶応大学運動会、二人三脚やスプーン競争
6月M本所賞花園は相撲見立て、養花園は俳優見立ての花菖蒲を開園する
6月Yダーク一座、春風館の操り人形好評で新声館や芝公園弥生館でも興行
7月Y浅草・本所で昼夜掛け持ち相撲、素人飛入り自由、賞品付
7月M草市、非常な人出、その割には売れず
7月H賽日、飲食店・芝居・見世物など大当たり、川蒸気も、馬車鉄道51020人、1080円前年より202円増加7月Yこの年の川開きは盛り上がりを欠く
8月Yアメリカから曲馬や奇術のアデヤ一座が来日
8月F浅草公園のパノラマ館、戦争もので人気回復/国民
8月H築地海岸、涼を求め散策する者暮夜極めて多し
8月M川上一座が浅草座で「壮絶快絶日清戦争」を上演し大好評
9月H水天宮縁日、非常の賑わい、札渡場巡査も無視、年寄子供立戻り少なからず、商人近頃稀な繁盛
9月 曲馬師アームストン一座が回向院で興行する、翌月は芝愛宕下町にて興行
9月Y春木座「日本大勝利」上演
9月M新声館の人形芝居、日清もので大入り
10月M池上の会式、例年どおりの賑わい
10月 浅草凌雲閣修理落成、日清戦役の油絵を陳列
10月Hアームストン曲馬も日清事件を取り仕組みて大当たり、ダーク操り人形も仕組みて落ちを取る
10月F戦争の分捕り品展示、靖国神社へ参詣多く、遊就館も賑やか
11月Y酉の市、天長節と重なり晴天で浅草大鷲神社は好景気
11月H天長節、馬車鉄道の収入1,612円、乗客64,742人、最高を記録
11月 神田明神の射的場、李鴻章や北京城などに命中すれば景品進呈
11月H二の酉も馬車鉄道の収入1,421円、乗客59,892人、第二位を記録
11月G神田錦町ジオラマ館開館
12月G上野公園不忍池畔で、市主催第1回戦捷祝賀会が開催
12月M浅草観音五重の塔より三社のほとりにかけて蓑市開かれる
12月H深川の歳の市、商人は富岡門前中通両側から境内まで、午後からかなりの賑わう
12月H浅草歳の市、市商人500人余で前年より二割減、中々賑わうが実入り少なし

二十六年は娯楽のピークか

江戸・東京庶民の楽しみ 123
二十六年は娯楽のピークか

三月郡司大尉千島探検出発/六月福島中佐シベリア単騎横断より帰国
・インフレにも変わらぬ市民のレジャー
 一月の新聞に、「丁稚小僧の休日は一年に唯二回」と休日の増加を求める記事が出ている。今では大半の人が週休二日になっているのに比べて、当時の商店などで働く人々は休暇に恵まれていないことがわかる。その一方で、三カ月前に改正された内閣・官庁の執務時間に関する記事には、「流石(サスガ)はお勤め根性」と八時間労働にも文句をつけている様子が書かれている。当時の執務時間は、四月十日~七月十日が八時~十六時、七月十一日~九月十日が八時~十二時、九月十一日~四月九日が九時~十七時とある。それに、休日が日曜日と祝祭日、土曜日は半ドンである。冬期の夕方には四時ごろからストーブのまわりで退出時間を待ちかまえているというような例もあったとかで、丁稚小僧の労働条件に比べて大きな違いのあったことがわかる。
 この年、株と土地が異常に高騰した。正月早々に、市内の風呂屋が、大人1銭3厘、子供1銭に値上げしているが、庶民の生活にはまだ大きな影響は出ていない。上げるといえば、歌舞伎座の一月興行は、「奴凧」ということで、六日七日、愛宕山と浅草の紫雲閣及び江木写真館の塔の三カ所から、入場券を付けた奴凧を数百個放った。当時もうあまり見られなくなっていた奴凧を宣伝に使ったこともあって、これが評判を呼び興行も大当たりとなった。正月は、亀戸天神や富岡八幡などの恵方参りをはじめとして、初甲子の大黒天、伝通院の出店が参詣人で賑わい、また、初不動も深川では早朝から大勢の参詣人が訪れた。
 浅草六区の開運館は、元旦より開場したらしく、出し物「西南戦争の活人形展」の記事が前年の新聞に載っている。つまり、浅草は年中無休、市民の一大娯楽センターになっていたが、一方で東京府が管理経営するれっきとした公園でもあった。浅草公園は、現代の公園のイメージからはかなり離れている。むしろ、遊園地・テーマパークといった方が近いだろう。二月には、六区の四号地で二輪車の針金渡りが興行され、その曲芸は当時の観客を魅了した。三月、浅草公園にガス灯が新設され、夜間の遊び場としてもさらに充実していく。
 四月、神武天皇祭は晴天で東京中が賑わい、灌仏会では両国回向院が最も人出があった。また、団子坂で菊人形の季節までのつなぎに桜人形などを催すとある。サクラやツツジオミナエシナデシコなどの花を使って、東海道五十三次に見立てた見世物を出した。春の行楽シーズンには、大勢の人が繰りだすと予測したのだろう。向島の花見時には、言問い団子と桜餅の商いに関する記事があり、団子が一日3千食、餅が千食という見積もりをしている。運動会も活版所の職工が千余人も参加するなど、あちこちで開催された。このように東京市内及び周辺は、明治二十年代で最高の人出を記録したに違いない。
 五月には、玉乗りや曲馬、女水芸などの見世物で髪や衣装を着飾るなどの、やや演劇に類似する興行を禁止すると厳達された。見世物のなかでもサーカスなどがショー化して、魅力を増していることがわかる。そのためか、見世物の観客数は158万人と多かった。
・レジャーにも戦争の予感
 六月、シベリアを単独で横断した陸軍中佐福島安正の成功を祝い、官民大歓迎会が上野公園で催された。中佐が行く先々で、過酷な自然環境と戦う姿は、新聞でたびたび紹介されていたこともあって大歓迎を受けた。なお、冒険旅行とはいうものの本当の狙いは、ロシアの軍事調査であったことはいうまでもない。八月には浅草公園の大黒館で福島安正の活人形がかけられた。
 七月には、ホタルの名所として千駄ヶ谷が紹介されている。浅草奥山では、ヤマガラとカンガルーの見世物などが興行されていた。また、藪入りに合わせて、団十郎がはじめて歌舞伎座に出演するという記事がある。この記事は、逆にそれまでの歌舞伎が、使用人階級には無縁なものであったことを証明している。納涼の素人相撲は大盛況で、日本橋や本所をはじめ、浅草の施餓鬼相撲でも番外として3人や5人相手の飛びつき相撲なども催された。飛び入り自由を売り物にした小石川関口水道町の素人相撲では、近くに住む山県大将らからの金品の寄付もあって盛り上がった。なお、過熱したためか素人相撲に差止命令が出されたこともあったが、贔屓筋が本業の相撲取りを参加させて再興行を願い出た。また納涼花火も盛んで、盆の賽日に土曜日が重なって両国の川開きは相当な人出、八月に入っても花火大会は続いた。
・書生芝居に義太夫の流行
 八月、浅草福栄座で興行した書生芝居が流行し。庶民層もかなり芝居を見るようになったとみえて、九月の新聞には芝居案内なるものが出ている。春木座は午前九時から開場で、料金は、上等平土間1円20銭、同うづら2円20銭、木戸一人6銭、仕切場にては上等平土間菓弁酢付き一切一人金50銭とある。続いて、深野座、神盛座、常盤座、柳盛座、福栄座、三崎座、明治座の開場時間や役者の動向などが紹介されている。この年の劇場観客は、309万人を数えた。芝居客は多くはなってきたものの、風呂代と比べればまだ、誰もが気軽に払える額とはいえなかった。
  九月の庚申日と彼岸、十月の恵比寿講、十一月の初酉、十二月の歳の市まで、各地の行楽地はいずれも多くの人出で賑わった。天長節に日曜と重なり、天気も良かったことから浅草公園には、凌雲閣に1500人、ジオラマに1700人、花屋敷に3000人というように、劇場も飲食店も満員となった。また、団子坂の菊人形も7~8000人の人出があった。初酉も人出があり、凌雲閣に1300人、花屋敷3000人、福島中佐の活人形5000人、西郷人形750人、大蛇710人、青木の玉乗り1500人、江川の玉乗り8杯(8回興行)、ネズミ相撲7杯とある。
 これまで都新聞では、義太夫は寄席案内の一部であったが、この頃から全面的に取り上げられるようになった。五月からは、義太夫案内だけになり、落語などの紹介が非常に少なくなった。巷では、義太夫が全盛になっていたのだろう。十二月には、「義太夫素破抜評」という記事まで掲載されている。

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明治二十六年(1893年)の主なレジャー関連の事象
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1月Y恵方参り、初甲子、初不動、市内はいずれも参詣人で賑わう/読売
1月M浅草開運館で安本亀八西南戦争活人形展連日大入/都 
1月H奴凧を揚げての宣伝で歌舞伎座の興行(奴凧)は大評判/郵便報知
1月 日本橋に真砂座が開場
2月H川崎大師縁日、午前中の参詣人300余人
2月Y紀元節芝公園の大相撲、上野公園の早朝小学生の運動会
2月M堀之内妙法寺日蓮上人の開帳
2月Y帝国ホテルで米国ルチワルヂ夫妻の慈善大手品会
3月 松旭斎天一が殻町の友楽館で奇術を昼夜二回興行する
3月H池上祖師の通輿、芝より浅草までの道筋が群集し、出迎え一万余人
3月Y彼岸入り、六阿弥陀や亀戸近くの観梅に人出/読売
4月M浅草観音開帳、葦簾張りや天幕が禁止され大傘500が並ぶ、五月まで日延べ
4月Y神武天皇祭、灌仏会、花見と市内が賑わう
4月M団子坂で菊人形までのつなぎに桜人形などを催す
4月Y上野東照宮の祭礼、学生運動会などに多数の人出
4月M四谷須賀神社の臨時祭礼、軍楽隊や手踊り
5月Y演劇に似た見世物の興行禁止の通達
5月H歌舞伎座の洋風建築が落成、初日、団菊左三俳優の顔合わせで大入り
5月H新富座、初日無代、二日より大入場5銭
5月Y日本美術協会の展覧会入場者2月で1.8万人
6月H麻布古川筋、小石川江戸川筋にホタル、出かける者少なからず
6月M浅草公園に勧業館が開店
6月H浅草の吾妻座で新演劇の福井一座が旗揚げ興行
6月H団子坂の種半園、富士山などのジオラマ開場
6月H上野公園で、シベリア横断成功の陸軍中佐福島安正の官民大歓迎会
6月Y夏期大相撲、観客1万人弱、入場料962円
6月H深川不動縁日、通りに露店隙間なく、参詣人多し
7月Y隅田川を挟み、日本橋と本所で素人相撲が大繁盛
7月Y両国の川開き、盆と土曜日が重なり多数の人出
7月Y向島の菖蒲園、25日間の収入47~100円
7月 藪入りに合わせて、団十郎がはじめて歌舞伎座にでる
7月 千駄ヶ谷がホタルの名所と紹介される
7月T浅草奥山でヤマガラとカンガルーの珍芸でる⑳/東京日日
8月Y水天宮、戌の日にて炎天も意とせず、夜に入り一層の混雑
8月Y両国第二回の大花火
8月Y大川端の水泳場、俳優や芳町芸者らで賑わう
8月 浅草福栄座で興行した書生芝居が流行
8月 木挽町厚生館でシカゴ大博覧会の幻灯と余興に落語を催す
8月Y浅草大黒館で福島中佐の活人形を興行
9月H池之端芝公園・本所一つ目・深川冬木弁天など賑わう、参詣人婦人多し
9月 浅草の凌雲閣でシカゴ大博覧会の写真や幻灯・ジオラマ等を仕組み、大人10銭で見せる
9月Y庚申日と彼岸の入りで柴又帝釈天が大賑わい
10月M浅草公園大盛館でネズミと人間の相撲興行、大人気
10月 浅草六区で相馬事件の活人形を興行
10月M池上の会式、鉄道利用1.5万人
10月M雑司ヶ谷の会式に大師一代記の活人形
11月H鹿鳴館天長節夜会、舞踏は皆外国人
11月Y初酉、浅草田圃は未明から賑わい、かなりの景気
11月Y日本橋明治座開場大入り続く、定員1200余人、桟敷4円30銭~大入場20銭
12月Y不景気の浅草公園、休日でも閑古鳥
12月H団子坂の造り菊、開園一カ月で元を取り、近年にない人出、相応の利益あり
12月H浅草歳の市、深夜まで雑踏著しく、仲見世より出店までは混雑
12月M愛宕の歳の市、1021人の出店出願