明治の遊びが始まる中期

江戸・東京庶民の楽しみ 127
明治の遊びが始まる中期

 明治中期に生きている人の多くは、江戸時代に生まれた人たち。政治を担っているのは全て江戸時代に教育を受けた人たち。江戸時代との決別を目指しているわけだが、人はそんなに容易に変われるものではない。確かに、自由民権運動など新しい動きはあるものの、そのにはどこか江戸時代を残しているようだ。明治十八年に内閣制度ができ、二十二年に大日本帝国憲法の発布され、二十三年に第一回衆議院議員総選挙帝国議会が開かれた。そして、二十七年には日清戦争をするにまで至った。
 一方経済は、第二期は、国立銀行条例改正(明治九年)によって、当時6行であった国立銀行が、十年27行、十一年95行、十二年153行と増加し、紆余曲折はあったものの、着実に商業資本が形成されていった。また、明治十三年からの工場払い下げによって東京の工場はマニュファクチャアから工場制工業への移行に拍車がかけられ、殖産振興の基盤が整いはじめた。経済・産業界は、新しい明治への衣替えの準備が着々と進んでいた。
 東京市部の人口は、明治十年(1877)に73万人、十五年が85万人と順次増加し、明治二十年(1887)には急増して123万人となる。東京の街並みは、江戸時代と変わらぬ頻度で発生する大火事によって、建てかえられる度に西欧風建築が増加した。鉄道は、新橋・横浜間を皮切りに、上野・高崎間、品川・新宿・赤羽間と続々開通し、馬車鉄道の新橋・上野・浅草館の開業な どによって、東京の街は次第に明治の顔を見せはじめる。市民の遊びも、浅草、上野など江戸時代からの場所が引き継がれ、公園と名を変え、文明開化を印象づけるような再整備が進められた。
 東京は、著しい人口流入によって、江戸時代から住んでいる人々より外来者の人口の方が圧倒的に多くなった。東京市民の間では、官公庁や学校の土曜半ドン、日曜休日が定着し、新しい生活スタイルの人々が増えていった。が、官吏は職業別人口の5%程度であった。工場ができて労働者の増加は著しかったが、それでもまだ、江戸時代色彩が強い商人や手工業・個人経営の職人なども多かった。
 農村から来た人々は、特別な技術や技能を持っている人は少なく、本籍を田舎に残したままで東京に住む“寄留者”が少なくなかった。また、このような人々は、定職を得ることが難しく、最下層の生活状態に甘んじなければならなかった。そのため、東京の人口は、上流者が1割、中流者が3割、下層者(下層上4+最下層2)が6割と、下層の人々が増加したものと考えられる。
 下層の東京市民は、江戸時代の貧民よりも遊ぶゆとりがなかったようだ。農村から流入してきた低所得者層は、食べるのがやっとという生活を余儀なくされていたので、遊ぶどころではなかったのだろう。また、住み着いた街でも、彼らは自分たちの生活スタイルを容易に変えなかった。つまり、積極的に遊ぶというような習慣はなく、少しでも長く働いてその分稼ぎたいという気持ちが強かった。
 したがって、いわゆる江戸っ子と流入した田舎の人々とは相いれず、江戸時代から綿々と続いた地域社会もこの年代で大半が姿を消してしまう。農村から来た新住民は、江戸時代から続く産土神の祭は見物する程度で、そのためなら仕事を投げ捨ててもというような積極的な参加をしなかった。出稼ぎ農民のレジャーは、東京見物的な行楽や単なる気晴らしであった。その一方、少数ではあるが上中流の人々による新しいレジャーも始まった。特に学生たちは、野球やボートレース、運動会といった文明開化にふさわしい西洋風の活動を楽しんだ。
 明治中期になっても、東京市民の見世物好きは、江戸時代から変わっていない。変わったのは、見世物を興行す場所で、従来の浅草奥山・両国広小路・上野広小路などから浅草公園靖国神社などへと移った。出し物も、猥雑なもの、醜悪なものなどは影をひそめ、政府の進める見世物の健全化によって、外国人の曲馬・軽業などが浸透した。しかし、見世物に反時代的なものをもとめる庶民の心は変わらなかった。
 特に見世物が多かった年は、曲馬のチャリネや奇術の松旭斎天一などが活躍した二十二年(1887)頃である。その年は、延べ17,538日、平均すれば毎日48ヶ所で見世物が興行された。明治後期の例から算出すると、観客数は490万人、どんなに少なく見積もっても350万人ほどの市民が見ていたと思われる。当然のことながら、市民の半数以上が見世物小屋などを覗いており、見世物全盛の時代であった。興行日数の多いのは、道化踊り、手品、活人形、軽業、造り菊の順である。興行内容と日数を見る限り、明治中期になっても手品、活人形など、市民の嗜好は江戸時代と大きな違いがないように思える。
 また、見世物は、機械人形・蒸気船・電信器械・理化学器械などが登場したことからもわかるように、時代を先取りする場でもあった。当時の見世物は、「観物」と呼ばれ、上流階級からは卑しいものと思われていたが、庶民の意識は博覧会となんら変わるものではなかった。そのためか、明治二十三年に開催された上野公園で第三回内国勧業博覧会は、四カ月間に入場者数102万人と前回を上回り、大部分の市民が訪れた。
 明治二十二年、観客2千人以上収容する歌舞伎座が新築された。さらに、翌年の劇場取締り規則の改正で、大劇場10箇所、小劇場12箇所に定められ、芝居に女優が出演できるようになった。これによって、多くの市民が足を運ぶようになり、大劇場だけでなく小劇場にも観客が増え共存共栄の道を開いた。この年の演劇観客数は、約200万人となり、市民の半数近くが芝居を見たことになるだろう。
 明治中期の演劇は、急速な欧米化を目指す新政府の意向を受け、演劇改良の動きが盛んになり、欧米の芝居や新派などの新しい演劇が上演されるようになった。話題を呼んだ演し物は、大衆人気を反映した川上音二郎一座の『経国美談』『板垣君遭難実記』で、特に劇中で唄われる「オッペケペイ節」は大流行した。また、三遊亭円朝の人情噺を元にした『塩原多助一代記』も、五代目菊五郎が演ずる多助と馬の別れが涙を誘い好評を博した。
 寄席は明治中期に入ると増加し、二十二年(1889)には255軒を記録する。観客数は示されていないが、明治二十六・七年の観客数から想定して400万人を超える年があり、それまでの最高になったと推測される。したがって、市民の半数以上の人々が寄席に通っていたに違いない。寄席で人気を得ていたのは落語で、講談には陰りが出ていた。また、落語も芸風が変化しはじめた。
 明治十四年頃から、大衆の求める芸に大きな転機が訪れた。三遊亭円朝に次ぐ落語界の大御所、初代柳家燕枝は、一興行十五日間連続の続き噺しをかけていたが、「また次の楽しみ」といった旧時代的なスタイルの話に観客がついてこなくなった。また、江戸の庶民生活に根ざした噺や音曲などをわからない人が多くなった。そのため寄席は、時代の変化に対応し新しい感覚の演し物や外国人の雑芸を導入した。その主役は、「寄席四天王」と呼ばれはじめた落語家たちであった。
 初めて高座で立ち上がって派手な踊りを見せたのがステテコ踊りの三遊亭円遊。小咄を演じた後、赤手拭いでほおかぶりし、赤地の扇子を持って「へらへらへったら、へらへらへ・・・」と唄い踊ったへらへらの三遊亭万橘。中国の孝子伝に出てくる郭巨の釜掘りの故事を「テケレッツのパァ」と滑稽に踊って見せた立川談志。そして、音曲噺の中で、乗合馬車のラッパを吹き、唄の合間に突然納豆売りの売り声をやったり、御者のまねをして「おばあさん、あぶないっ!」とどなったりという奇想天外なスタイルで人気を得たラッパの円太郎らであった。この四人は、それまで人情噺が多かった寄席に意味をもたないナンセンスな笑いを巻き起こした。そしてそれはまぎれもなく、新時代の要請であった。
 明治中期の市民レジャーは、江戸時代からの初詣や祭礼のような地域に密着したものが衰退し、博覧会や憲法発布式などといった、首都東京のスケールを感じさせるもの、官主導色が強いものが顕著になった。また、江戸時代から続く寄席や見世物、花見(菊人形等を含む)などは新しい趣向が加わり、大がかりにになった。特に、上野公園や浅草公園は、旧来の庶民娯楽の充実と平行して、動物園や十二階の凌雲閣などの整備にも着手、明治時代を代表するレジャーセンターになった。そして、レジャー産業が萌芽した。

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明治二十九年までの主な事象
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明治十六年  1883年 四月新聞紙条例改正/七月教科書採択の認可制度実施/十一月鹿鳴館会館会館
明治十七年  1884年 七月華族令公布/十月秩父事件/十二月朝鮮で甲申事変
明治十八年  1885年 四月天津条約調印/十二月伊藤博文初代内閣総理大臣就任
明治十九年  1886年 三月帝国大学設立/八月清国水兵暴れた長崎事件/ノルトマン号事件
明治二十年  1887年 六月憲法草案執筆開始/十二月保安条例施行、尾崎行雄ら追放
明治二十一年 1888年 四月市制・町村制公布/十一月メキシコとの通商条約調印(初の対等条約)
明治二十二年 1889年 二月大日本帝国憲法発布・森文相暗殺/十月大隅外相暗殺未遂
明治二十三年 1890年 七月第一回総選挙/十月教育勅語発布/十一月第一回通常議会開催
明治二十四年 1891年 一月帝国議会記事堂消失/五月大津事件/十月濃尾大地震
明治二十五年 1892年 二月第二回総選挙で選挙干渉/十一月北里柴三郎伝染病研究所を設立
明治二十六年 1893年 三月郡司大尉千島探検出発/六月福島中佐シベリア単騎横断より帰国
明治二十七年 1894年 三月朝鮮で東学党の乱/七月条約改正なる/八月日清戦争勃発
明治二十八年 1895年 四月日清講和条約調印、三国干渉/十月閔妃暗殺
明治二十九年 1896年 三月進歩党結成/六月山県・ロバノフ協定調印、三陸地方に大津波