二十九年の上流階層と庶民の遊び

江戸・東京庶民の楽しみ 126
二十九年の上流階層と庶民の遊び
三月進歩党結成/六月山県・ロバノフ協定調印、三陸地方に大津波
・「ある女の日記」に見るささやかな楽しみ
 明治二十九年頃、庶民がどのようなレジャー活動をしていたか、個人の日記『ある女の日記』(小泉八雲著 平井呈一訳)から紹介する。日記を書いた女性は、「大きな事務所の小使い」として働いている男の細君。男の仕事は夜勤がほとんどで、月給は十円。筆者は家計の助けに煙草の紙巻きの内職をしている。収入額からみると腕のよい職人よりは少ないが、その日暮らしの下層階級よりはかなり上で、平均的な庶民に位置づけられる。また、この夫婦は、子供のいない身軽な三十代、何か面白そうな催しがあれば、できるだけ出かけて見物しようという好奇心旺盛な庶民である。
 明治二十八年(1895)十一月八日、浅草寺へ参詣した後、お酉さまへまわる。十二月二十五日、大久保の天神さまに参り、境内の庭を歩く。
 明治二十九年正月十一日 岡田(知人)をたずねる。十二日 二人して後藤(妹の嫁ぎ先)をたずね、楽しく遊ぶ。二月九日、三崎座で『いもせやま』を見物。二十二日、天野で、ふたりの写真をうつす。三月二十五日 春木座で『蛍塚』を見物。この月、両親や親戚などとお花見に行く話もあったが、流れる。
  四月十日、二人して遊山にでかける。九段招魂社から上野公園、浅草観音を詣で、門跡様へもお参り。その後、曽我兄弟のお寺の開帳に行く。二十五日、録物(ロクモノ)の寄席へ行く。五月二日、大久保につつじ見物。六日、九段招魂社へ花火を見にいく。六月十八日、須賀神社がお祭礼なので父の家へ呼ばれ、親戚が集まる。
 七月五日、金沢亭で、播磨太夫の『三十三間堂』をきく。八月一日  浅草寺へ参詣し、吾妻橋で鰻を食べる。その後、浅草公園から鉄道馬車で神田へ。十五日、八幡さまのお祭に詣でる。九月、お彼岸の中日に寺参り。十月二十一日、柳盛座で『松岡美談貞忠鑑』を見物。
 以上のように、一月に一度くらいはレジャーを楽しむというのが、一般庶民の平均的生活であったのだろう。さらに、休みの一日の使い方をみると、たとえば四月十日の遊山では、午前9時に自宅を出て、最初に九段の招魂社へお参りし、上野公園まで歩き、そのあと浅草へまわって観音さまに詣で、門跡さまへもお参り。奥山へまわるつもりでいたが、昼時になったので料理屋へ上がっている。食事のさ中、奥山の見世物小屋から火事がでるという騒ぎが起き、「火の手が早くまわり、奥山の見世物小屋はあらかた焼けつくした」などという記述がある。公園内を見物して時間を過ごした後、さらに、吾妻橋を渡り、蒸気船で曽我兄弟のお寺の開帳に行き兄弟姉妹の息災を祈願して、晩の7時過ぎに帰宅。遊山と称して、目一杯遊んできたにしては、出発時間がゆっくりしている。帰宅時間にしても7時台には帰っており、現代の行楽事情とは違って時間に追われているという慌ただしさが感じられない。時間そのものががゆったりと流れているせいか、行楽の行程や内容にもゆとりが感じられる。
 この夫婦の行楽を見ていくと、浅草や上野、大久保といったような江戸時代から行楽の拠点として庶民に人気が高かった場所に、江戸時代と同じような、四季折々の風物を求めて出かけていることがわかる。また、レジャーにかけるお金は、芝居を見たり、たまに昼食を取るくらいで、まことに安上がりである。特に、徒歩が大半であるため、交通費がかからず、たまに蒸気船や鉄道馬車に乗ることもあるが、それはせいぜい一年に数回程度である。
・上流夫人はレジャーの日々
 では今度は、上流階級のレジャーについてベルギー公使婦人メアリー・ダヌタンの日記(『ベルギー公使夫人の明治日記』長岡祥三訳)から紹介しよう。明治二九年の彼女は三十八歳、日本に訪れて三年目に当たる。正月元旦、午後から皇居での謁見に出かけ、帰宅すると宮廷服を見せるために「客間のお茶会」を開く。六日に皇居での午餐会、十三日は三宮邸で晩餐会、十六日も公使館で晩餐会、二十二日の英国公使館晩餐会の後には演奏会、二十三日も公使館での晩餐会の後に音楽の夕べ、二十九日には伊藤侯爵邸の晩餐会、三十一日は友人宅で支那料理の晩餐会である。
 二月以降も皇居や赤坂離宮、各国の公使館、それに宮家、政治家等の自宅で、宮家、爵位を持つ人々、高名な政治家、各国の外交官などとともに晩餐会が続いている。その回数は明治二十九年(1896) には、日記に書かれている主なものだけで、33回もある。四月になると、芝離宮浜離宮での花見、上野公園にも花見、鎌倉に一週間の滞在、皇室の園遊会と行楽に出かけている。五月にも、亀戸にフジ、有栖川宮邸のボタン。六月に堀切の菖蒲園と足をのばし楽しんでいる。
  六月の末になると、梅雨を逃れて日光、中禅寺湖へリゾートに出かけ、九月の半ば、東京が涼しくなるまで過ごしている。公使夫人という地位にふさわしく、中禅寺湖でハイキングや湖での舟遊び、男体山登山、日光見物などと実に優雅な夏休みを送っている。避暑地には、皇太子をはじめアーネスト・サトウなどの上流階級の人々も訪れたというから、別世界であった。日光から戻ると、在京外国人による東京演劇音楽協会のメンバーとして活躍し、自らも出演するという忙しい生活に戻る。十月以降も、観劇、花見、旅行、晩餐会・・といった日々が日記に綴られている。
  以上が当時の上流階級に属する人々のレジャー生活であった。同じ東京に暮らしていても、前述の庶民のつつましい生活があると思えば、一方には公使夫人のように贅沢かつ優雅な生活を送る人もあった。

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明治二十九年(1896年)の主なレジャー関連の事象
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1月M正月の浅草は大盛況/都
1月 団十郎歌舞伎座京鹿子娘道成寺を踊り好評だが、ピアノ入りの音楽は不評
1月M初弁天、初水天宮も参詣人多し
1月 明治座は、菊五郎で連日大入り
2月Y初午祭と紀元節、強風で人出閑散
2月Y初卯、小雪で亀戸でも参詣人ちらほら
3月 川上一座の壮士役者が浅草座で時代物を興行する
3月Y大森八景園の梅園、日曜に賑わう/読売
3月Y浅草公園内、日清戦争パノラマ開業
3月J前年の青梅線日向和田駅の開通により、吉野梅林に観梅客が多数訪れる/日本
4月M向島、土手の歩行者10万人以上との記事
4月Y浅草活人形が様変わり、七情の動作や意匠より仕掛け物が人気
4月M義太夫は各席とも大入りであるが、一枚看板の綾之助、人気落ち目で大阪へ
4月○浅草六区で火事、見世物小屋等二百戸消失 
4月 西新井総持寺の厄除け弘法大師の開帳
5月Y靖国神社大祭、快晴で雑踏を極める
5月G浅草公園水晶館「ここまでおいでコーヒー進上」と開業/時事
5月 四月の火事で焼け出された英国大曲馬ヘンリーワース一座、神田三崎ケ原に移る
5月 八重洲河岸は蛍の名所にて、月末より飛び始めたが昨年より十日遅く形も小さい
5月M浅草三社祭、山車16両出る
5月 元祖軽業碇綱一座が芝愛宕下町で昼夜二回興行
5月Y一高野球部、横浜外人とチームに大勝、初の外国人との試合
6月G一高野球部、外人チームに連勝
6月Y赤坂の氷川神社の祭礼、大賑わいで一日延期する
6月Y中橋八坂神社祭礼賑わう
7月M川上音二郎の川上座が神田三崎町に開場、収容定員千余名
7月Y両国の川開き賑わい、割烹待合の観覧場も好景気/読売
7月M藪入りの小僧、目黒・王子・芝浦等に出る
7月M入谷の朝顔、各園とも賑わう
7月 東京で朝顔栽培が流行し、愛好者団体「一六会」が成立
7月 虫売、蛍2厘、鈴虫・松虫4銭、邯鄲・轡虫10銭
8月 浜町の水泳場が十周年を祝い、水泳競技を催す
8月Y深川八幡祭礼で獅子頭鰻屋へ、樽神輿が遊廓へ乱入
8月M市ヶ谷八幡の祭礼で二回もの神輿振りで店に乱入
9月Y二十六夜愛宕山上あふれるばかり
9月 上野で日本絵画協会第一回共進会が開催される
9月Y虎ノ門金比羅の中祭、人出多く賑わう
9月M芝浦の月待、船10銭、花火もあって賑わう
10月 石井ブラックが神田の新声館で奇術を昼夜二回興行、上等30銭、中等20銭、普通10銭
10月M池上の会式、大森駅から混雑し盛況
11月Y天長節、一番の人出は団子坂の菊人形
11月Y天長節夜会、帝国ホテルに内外2000人余を迎え、舞踏会など
11月M初酉、天気もよく身動き取れぬ人出、その割には景気上がらず
11月Y団子坂に大名行列の菊人形、見物で賑わう
11月F都座、八重垣姫で電気仕掛けの宙乗りもあって売り切れの景気/国民
12月 隅田川で海軍連合ボート競漕大会開催
12月Y愛宕神社の歳の市、羽子板や松飾りなど大繁盛
12月Y平河天の歳の市、好天に恵まれ中々の景気