戦争に便乗した二十八年の娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 125
戦争に便乗した二十八年の娯楽

四月日清講和条約調印、三国干渉/十月閔妃暗殺
・戦勝に浮かれるが市民の娯楽は尻すぼみ   
 日清戦争は、国民皆兵、国力のすべてをかけて戦う。したがって、傍観者的な行動は許されない。だが、外国との戦争というものを実感できない市民は、実際に戦場を目にしていないこともあって、まだ勝敗が決まったわけでもないのにお祭のような戦捷祝賀会を催した。東京では、戦争が始まった時点で、日本の勝利を暗示する芝居が上演され、日本にとって有利な情報だけが報道された。それで市民は、まるでオリンピックで日本選手が活躍しているのを応援するかのような感覚になっていった。
 戦争景気で潤った人は、ほんの一握り。多くの市民は、懐具合が厳しくなっていたはずだ。それでも、芝居はどこも盛況で、藪入りには、明治座が11時で客止め、ほかの各座も大入りであった。また、寄席案内の欄を見ると、出し物の入れ替えが多く、藪入りの人出に合わせていることがわかる。三月、向島白髭神社前で新発明の電気仕掛け煙火、「帝国戦勝祝賀大煙火」が催された。四月の隅田堤は、サクラが満開には、それなりの人出はあるものの、18軒もの茶店は閑散として淋しいかぎりであった。やはり戦争中のため酒宴を控え代わりに、言問の団子や長命寺の桜餅を食べながらの花見をしたらしく、こちらの方は例年より三割増の売り上げがあったという。
 戦線は山東半島に上陸から威海衛の占領、北洋艦隊の降伏と展開し、開戦から八カ月後、日清休戦条約が調印される。翌四月に日清講和条約が締結され、一旦、清国に対して有利な条件を獲得したが、ドイツ、ロシア、フランスの三国干渉によって妨害された。日清戦争終結は、日本がもうそれ以上戦うことができなくなっていたからで、国民が期待していたような文句なしの勝利にはほど遠かった。五月、日比谷に高さ約13m、幅約11m、長さ約100mの豪華な凱旋門が造られたが、勝利を祝う催しが盛大に行われたという記録は見当たらない。
 国民の大半は、なぜ日清戦争をしなければならなかったか、その理由を本当には知らなかった。また、勝ったことによって日本が世界の覇権争いに一歩を踏み出したなどとは思いもよらなかった。日本の国力を見抜いた欧米列強に屈辱的な譲歩をさせられた事実、朝鮮への内政干渉台湾出兵など隣国支配を企てる理由もむろんわからなかった。新聞には、臥薪嘗胆、富国強兵と、さらなる戦いに向けて心構えが必要なことを書き立てていた。六月の歌舞伎座や春木座は、大入りで日延べしている。それに対し大相撲は、寛政以来の不景気で、初日が347人、二日目が605人、三日が452人、四日目少し増えて856人になったが、五日目はまた減り716人と惨憺たる状況であった。そういえば、一月の回向院大相撲では、特別席が35銭を25銭、一等席25銭を20銭、二等15銭を15銭、三等7銭を3銭に引き下げたという記事があった。この年は冷夏だったと見えて、大磯の海水浴客が例年の十分の一、両国の川開きも人出はかなりあったが、割烹や露店は不景気という記事がある。両国広小路に灯籠が提げられると、庶民は夕涼みに出かけた。そこでは、急増した氷屋で一杯1銭から3銭のイチゴや汁粉味の氷水をすする庶民が目立った。
・レジャーは戦争便乗のなか義太夫が全盛を迎える
 九月頃、娘義太夫ブームを反映してか、素人義太夫が盛んになった。浅草公園では日清戦争の活人形、凌雲閣の日清戦争ジオラマが催された。神田三崎町原頭の日清戦争ジオラマは、横34間の縦2間で7場面で公開された。十月の浅草観音では、十夜会が催され参詣人で賑わった。また、歌舞伎浄瑠璃の元祖、和國太夫は睦太夫と改名、神田の小川亭で公演し、毎夜大入りを取った。十一月の酉の市では熊手が売り切れ、通常より2割高い芋もよく売れ、料理屋なども賑わい、迷子も出るような騒ぎ。日清戦争に便乗して戦争劇であてた川上音二郎は、十二月に泉鏡花の『滝の白糸』を初演した。
 十二月、靖国神社戦没者合祀の臨時大祭が行われた。当日の奉納として、境内の陸軍軍楽、能舞台舞楽、馬場の花火と母衣引きの馬術、牛ケ淵付属地で川上一座の『日清戦争』『楠公子訣れ』と銃剣、田安門外で里神楽などがあった。その他大通りの境内には見世物小屋や茶屋、さらに戦利品の陳列所、凱旋門などがあり、多くの参拝者を迎えた。天皇陛下御参拝の日には、市中諸官署、諸学校、諸会社、銀行等のほとんどが業務を休んで祝意を表したという記事が出ている。 
 当時の大衆娯楽を読売新聞の十月十三日の「今日のなぐさみ」の欄から紹介しよう。欄は、「志ばゐ」「らくご」「ぎだいふ」「みせもの」「てんらん」「つり」「をんせん」「はな」「えんにち」の九つに分かれている。芝居は明治座を皮切りに、9座を紹介。開場時間は現代と比べると早く、大半は九時であるが午前八時というのもある。落語は、活躍中の圓生、遊三、それにブラックの名前が目につく。義太夫は、娘義太夫の人気も手伝って、竹本綾乃助、京子らの名前がずらりと並び、全盛なことがわかる。見世物も健在で、西洋大手品、玉乗り、活人形やパノラマなど日清戦争を題材としたものが多い。展覧会は特別な催し物がなかったとみえて、教育博物館や遊就館などが記されているだけ。釣りは、フナ、ハゼ、セイゴ、コイ、メゴチ、キスなどの釣り場を紹介。温泉には、草津温泉伊香保温泉の名もあるが、所在地は、浅草田圃駒込追分などとなっている。花見として、向島百花園、浅草奥山、大久保花園など10ヶ所。当日の縁日は、開催地の11ヶ所を紹介。
 なお、同頁に団子坂の菊細工(菊人形)の開催日、出し物の紹介。植木屋「新籾」は、旅順口龍山砲台占領の場、土城子浅川騎兵大尉奮勇の場、それに弁天小僧菊五郎五条大橋牛若弁慶立回り、二人道成寺などを菊人形に仕立てたもの。「種半」は川上音二郎一座が公演した威海衛占領を、「植安」が台湾戦争、「植惣」が台湾征討、「植梅」が大舞台仙台萩、「植重」が国性爺紅流し、「燻風園」が日清戦争大箱庭数個、と趣向を凝らしている。                                          
─────────────────────────────────────────────╴                                                     明治二十八年(1895年)の主なレジャー関連の事象
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1月X浅草講演六区に西洋幽霊、元旦より開場
1月Y藪入り、明治座客止め、各座も大入/読売
1月Y亀戸の初卯参り、花柳界の人多く賑わう
1月X有栖川親王の御予定の御道筋、30万人余詰めかけるが雑踏もせず、ケガ人もなし
2月 新富座、古式の大入祝いを催す
2月Y慶応義塾の烟火行列に多数の見物人
2月U上野動物園に戦利品として、フタコブラダ来園する/上野動物園百年史
3月Y歌舞伎座団十郎と九蔵の顔合わせで初日大入
4月 隅田堤のサクラ、前年より花見客少なく茶店十八軒淋し
4月Y向島茶店は不景気、桜餅を食っての花見
4月M大久保のツツジ日清戦争の人形多し/都
5月Y好天に恵まれた靖国神社祭典など賑わう
5月E川上音二郎一座が歌舞伎座に進出し「威海衛陥落」を上演/日本演劇史年表
5月M日比谷神社の大祭、大仕掛けの細工灯籠や囃子屋台などを催す
5月Y還幸啓当日は50万人余で雑踏するが事故・混乱もなく
6月Y大相撲、寛政以来の不景気
6月Y歌舞伎大入りで講演期間延長
6月Y日枝神社日清戦争で延期
6月Y春木座大入りで日延べ
6月M回向院で日本三景のパノラマ
7月 奥田弁次郎が回向院で西洋軽業興行
7月H両国広小路の灯籠に、夕涼みへと黒山の人/報知
7月M浅草の四万六千、酸漿屋売れ行き7分、飲食店は客止め
7月M藪入り、上野・浅草公園など近年稀なほど、一銭蒸気が繁盛
7月 酩酒屋、麦湯店の許可が面倒なので、甘酒屋がふえる
8月H神田小川町体育養成館でローラースケートが行われる、一時間五銭、三十分三銭
8月Y回向院の松島全景パノラマ館、好評で九月まで延期
8月Y両国の川開き賑わうが前年より少ない、割烹や露店など不景気
8月 氷店急増、氷水1銭・アイスクリーム5銭
9月 浅草公園で西洋戻り曲芸、玉乗りなどの見世物あり
9月Y芝神明で大蛇や虎などの動物が見世物
9月M素人義太夫が盛んになる
9月Y神田三崎町の原頭に日清戦争ジオラマが公開される
10月 歌舞伎浄瑠璃の元祖、和國太夫が睦太夫と改名し、神田の小川亭に出席、毎夜大入り
10月G米国の磁石娘アボット神田錦町の錦輝館で、百人力の奇術を興行する/時事
10月Y浅草観音の十夜会、参詣人で賑わう
10月Y団子坂の菊細工、川上威海衛陥落など日清戦争もの多し
11月M深川八幡の祭礼、山車20余台繰りだす
11月M凌雲閣で澎湖島海戦等のジオラマ
11月M浅草田圃の酉の市、人出多く好景気
12月E新富座で「指物師名人長次」を上演、モーパッサンの「親殺し」の翻案
12月E川上一座が浅草座で泉鏡花の「滝の白糸」を初演/日本演劇史年表
12月M納の水天宮、未明より参詣人多く
12月Y靖国神社で臨時大祭、献納数々多数訪れる
12月Y靖国神社の祭典相撲、素人の飛び入り大受
12月M愛宕の市、出願者644人、上景気で身動きできぬ混雑