二十七年には娯楽にも戦時気分が

江戸・東京庶民の楽しみ 124
二十七年には娯楽にも戦時気分が

三月朝鮮で東学党の乱/七月条約改正なる/八月日清戦争勃発
・戦争に向かっても、市民レジャーは変わらず
 一月の新聞に、前年設立された日本輪友会が上野から王子方面に郊外サイクリングを実施したという記事がある。また、華山子爵の令息が京都に向けて東海道サイクリングに出発した。二月にも亀戸、向島などへ観梅サイクリングの記事がある。五月に深川警察は小僧や大憎が自転車を乗り回すのでこれを取り締まる。七月には宮田自転車が起業一周年の販売広告を出している。十二月には、自転車は馬より早いという記事。以上のようにこの年は、自転車の記事がやたらと目につくが、実祭には、まだ一部の人しか乗ることができなかった。当時の自転車は、庶民には手の届かない高級品であり、八年後の明治35年でも自家用自転車は、府下にわずか4571台しか普及していなかった。
 三月、松旭斎天一木挽町の厚生館で西洋奇術を興行し大入。四月には神田錦輝館での興行中に、大入祝を兼ねて一座が赤穂義士に扮し花見に出かけ、向島八州園に到着後演芸を披露している。松旭斎天一の人気は衰えず、六月になっても牛込改代町で昼夜大入を達成。七月には、ダーク一座が神田神保町の新声館であやつり人形を興行。八月にアメリカから曲馬や奇術のアデヤ一座が初来日、神田錦町の錦輝館にて興行。アデヤ一座の興行は、午後七時から始まり、最上等が一円、上等が50銭、並上が30銭、中等が20銭、大入場50人に限り10銭という料金であった。外国人の興行であったためか決して安くはない。日清戦争の最中にもかかわらず、九月にはアームストン一座が再び訪れ、回向院で曲馬興行し、翌月にも芝愛宕下町でも興行している。
 日清戦争が八月にはじまった。とはいっても、開戦によって市民のレジャーが減少するような気配はさらさらなく、夏休みということもあって、浅草の花屋敷は子供づれで賑わっていた。また、紫雲閣前の大盛館ではサイパン島の棒踊りが演じられ、なかなかの入りであった。パノラマ館も人気を回復しはじめていた。浅草座では、まだ戦争がはじまったばかりなのに、川上音二郎は「壮絶快絶日清戦争」を興行。連日の大入りによって座員の演技は、熱が入り負傷者がでたという記事がある。
・レジャーにも戦時色強まる
 九月になると、戦争の影響は、豆腐や沢庵などの値上げ、その上献金の要請、市民の生活にもハッキリと表れてくる。絵草子屋の店先から名所絵や役者の似顔絵が消え、戦争の錦絵が飛ぶように売れた。軍歌が流行し、町は戦時色に彩られていった。十月には、「日清戦闘自動パノラマ人形」といって、油絵の人馬を機械で動かす見世物が新声館で催された。浅草凌雲閣の修理が終わり、日清戦役の油絵が陳列された。靖国神社には、戦争の分捕り品が陳列され、それを見ようと地方からも大勢の人が参詣し、遊就館も賑やかであった。浅草花屋敷は、北京城外関門の場の川上音二郎新聞記者の似顔絵や渤海湾海上月などを模した菊細工を開園。団子坂の菊人形も、薫風園では一種変わった日清戦争陶器人形大箱庭がつくられ、さらに、九連城占領の実況を再現する菊人形かつくられた。十一月には、神田明神の射的場で、李鴻章や北京城などの的が設けられ、矢が命中すれば景品がもらえるという趣向が注目された。戦争が始まったころは、レジャーに戦時色を盛り込もうとしていたが、そのうちレジャーも戦争に関連したレジャーを行うようになっていった。
 芝居の内容も時流に乗り、九月に春木座で「日本大勝利」、新声館の人形芝居でも日清もの、十月に明治座で「日本誉朝鮮新話」、歌舞伎座も十一月「海陸連勝日章旗(アサヒノミハタ)」と題した六幕の新劇を上演、十二月にも市村座で「戦地見聞日記」と、いずれも流行に乗り遅れまいと、戦争劇を興行した。さらに、外国人のアームストン曲馬やダーク操り人形も演し物に日清戦争を取り入れるという状況だった。
・戦勝祝賀で市民はお祭気分
 神田錦町ジオラマ館では、陸海軍大勝の実況十余景が興行。不忍池では、祝賀大運動会が開催、池を黄海にみたてて海戦さながらに実況された余興が人気を集めた。旅順占領のニュースが入ると、総勢二千余名の慶応義塾学生が松明行列を行った。それまでにも、戦線での勝利が報じられると各戸が国旗を掲げ、大杯を傾け祝意を表していたが、十二月、上野公園不忍池畔で、市主催の第一回戦捷祝賀会が開催された。祝賀会には、職人たちはおおむね仕事を休み、問屋などの商家は丁稚、小僧に外出を許し、婦女、小児は神田や山王の祭に対するのと同じような期待を抱いて参加したという記事があった。東京では、戦争関連以外の娯楽はすっかり影をひそめ、その結果、市民は戦捷祝賀会に便乗して楽しむ他なかった。
 戦捷祝賀会は、後の日比谷公園になる日比谷原に標旗を押し立てて集まり、二発の号砲を合図に両陛下の御写真が奉置された式場のある上野公園不忍池畔へと大挙して向かった。その中には、張子の巨砲を挽き旅順港分捕りと記した小旗を立て、国旗と軍旗とを挟んだシルクハット模様の張子を帽子の上から冠むる出立ちがあり、趣向を凝らした人々が大勢いた。式が終わると、野試合演劇(川上音二郎一座)の余興があり、夕刻からは池の中央に清国軍艦の模型を浮かべ、あたかも戦いで炎上したかのように演出した。集まった人々は、その光景に歓声を上げ、拍手を送り、万歳の声を鳴り響びかせ、開場は興奮の坩堝と化していった。        
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明治二十七年(1894年)の主なレジャー関連の事象
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1月Y初卯が元旦、亀戸天神の商店は縁起物売り切れ/読売
1月Y初薬師は好天で、茅場町、本所弥勒町の薬師など賑わう
1月M藪入り、上野公園・芝公園や各所閻魔堂、人出多く賑やか/都
1月Y初大師、川崎大師参詣人多く、西新井大師も好景気
1月M神保町の新声館で娘義太夫の競艶会
1月G日本輪友会、郊外サイクリングを開催/時事新報
2月M節分会、浅草観音亀戸天神等で催される
2月M新声館の人形芝居、満場余地なき大入り
2月Y蒲田の梅林に遊客増える
3月H庚申、観梅がてらの人出多く、引船通りは混み合う
3月H上野公園で盆栽展覧会、二千余点あって盛況
3月Y明治座は満員、浅草座の川上一座が盛況
3月 天皇大婚25年記念祝典が行われる
4月H小雨の花見、上野は花吹雪、向島は摧残されし、人出午後から出るが夕方から雨
4月M両国永代の潮干舟を伝馬2~3円、荷足り1円20~30銭
4月M神田錦輝館で興行中の松旭斎天一、大入祝で赤穂義士に仮装し向島八州園へ
4月Y竹沢藤次一座が日本橋春風館で曲独楽を興行し、大入り
5月M水天宮の縁日、参詣者多く飲食店や露店もなかなの景気
5月M神田祭礼、三社祭靖国神社大祭、烏森神社大祭など
5月M深川浄心寺の開帳、奉納・金5千余円・米450石・杉苗200万本等
5月 慶応大学運動会、二人三脚やスプーン競争
6月M本所賞花園は相撲見立て、養花園は俳優見立ての花菖蒲を開園する
6月Yダーク一座、春風館の操り人形好評で新声館や芝公園弥生館でも興行
7月Y浅草・本所で昼夜掛け持ち相撲、素人飛入り自由、賞品付
7月M草市、非常な人出、その割には売れず
7月H賽日、飲食店・芝居・見世物など大当たり、川蒸気も、馬車鉄道51020人、1080円前年より202円増加7月Yこの年の川開きは盛り上がりを欠く
8月Yアメリカから曲馬や奇術のアデヤ一座が来日
8月F浅草公園のパノラマ館、戦争もので人気回復/国民
8月H築地海岸、涼を求め散策する者暮夜極めて多し
8月M川上一座が浅草座で「壮絶快絶日清戦争」を上演し大好評
9月H水天宮縁日、非常の賑わい、札渡場巡査も無視、年寄子供立戻り少なからず、商人近頃稀な繁盛
9月 曲馬師アームストン一座が回向院で興行する、翌月は芝愛宕下町にて興行
9月Y春木座「日本大勝利」上演
9月M新声館の人形芝居、日清もので大入り
10月M池上の会式、例年どおりの賑わい
10月 浅草凌雲閣修理落成、日清戦役の油絵を陳列
10月Hアームストン曲馬も日清事件を取り仕組みて大当たり、ダーク操り人形も仕組みて落ちを取る
10月F戦争の分捕り品展示、靖国神社へ参詣多く、遊就館も賑やか
11月Y酉の市、天長節と重なり晴天で浅草大鷲神社は好景気
11月H天長節、馬車鉄道の収入1,612円、乗客64,742人、最高を記録
11月 神田明神の射的場、李鴻章や北京城などに命中すれば景品進呈
11月H二の酉も馬車鉄道の収入1,421円、乗客59,892人、第二位を記録
11月G神田錦町ジオラマ館開館
12月G上野公園不忍池畔で、市主催第1回戦捷祝賀会が開催
12月M浅草観音五重の塔より三社のほとりにかけて蓑市開かれる
12月H深川の歳の市、商人は富岡門前中通両側から境内まで、午後からかなりの賑わう
12月H浅草歳の市、市商人500人余で前年より二割減、中々賑わうが実入り少なし