イベントに盛り上がる大正五年前半

江戸・東京庶民の楽しみ 154

イベントに盛り上がる大正五年前半
 大正五年、この頃から中国、満州の権益を独占し、国内政治の混迷をよそに日本企業に好景気をもたらした。それによって潤ったのは、軍需や紡績など一部の人たちであった。軍事産業の好況につられて物価が高騰し、好景気の恩恵を受けない人々の生活は決して楽にはなっていない。
 市民レジャーは、花見をはじめ戦争景気に踊らされるように活気をおびてきた。映画や演劇などの観客は著しく増加し、特にチャップリンの映画が人気を呼んだ。その他の流行としては、安来節、飛行ショーなどがあり、歌は「新磯節」「電車」など。豆腐1丁3銭、ダイコン1本1銭、ビール1本25銭、鶏卵1個2銭5厘。藪入りの浅草公園では、アイスクリームが一杯1銭。
・一月「恵方詣 穴守と大師」「小学校 年賀の喜び 御菓子の袋」二日付讀賣
 当時の子供たちは元日も小学校へ行っていた。といっても勉強があるわけではなく、お正月という伝統行事をみんなで祝うためである。市内各小学校は早朝より門を開いており、晴れ着を着て六時半頃から運動場をキャッキャと走り回る子供もいた。八時頃にはみなそろって“おめでとう”のごあいさつ。九時から式が始まり、国歌斉唱、校長による勅語、奉答歌、宮中新年御儀式の御模様・・・と続き、“年のはじめ”を歌って、各々の教室へ。すると生徒の机には「奉祝」「新年」の文字が書かれた紅白菓子、友達からの年賀状が置かれていた。十一時頃には列をなして、ニコニコ顔で帰る。
 初日は拝めなかったものの、上野や愛宕山などにはそこそこの人出がみられた。終夜運転の市電も初日の出を拝む人や恵方参りの人などで一時は混雑したが、八時頃には一段落した。翌日(二日)はまたも雨、というわけで正月の人出は多くなかった。
 六日には、上野不忍池畔で出初式。新しい半纏を身につけた2千4百人に来賓千6百人が揃い、23基の見事なはしご乗りが披露された。この時、沿道には人垣ができるほどであった。七日の初卯、亀戸天神は参詣人がすこぶる多く、電車や汽車は満員、飲食店など何れも相当に繁盛していた。とくに名物の葛餅の売行きが良く、繭玉の値段は大70銭・中50銭・小30銭程度。境内は雑踏を極め、小松川署では非番の巡査も総出で警戒に当たった。
 一月の人出は、藪入りが最も多かったのではないか。茅場町、蔵前、芝、下谷広小路等をはじめ、各所の閻魔堂付近は露店がおびただしく出て賑わう。特に、内藤新宿太宗寺の境内には見世物十数軒、電車通りには6百余の露店が並び非常な賑わいを見せた。
・二月「活動覗記(のぞき) 浅草遊楽館の新旧両派の二大連鎖劇」二十七日付讀賣
 二月節分、両国・上野発の成田行きの列車は満員、成田の町は身動きできぬほど。興行物や露店のギッシリと並んだ境内、十時一番鐘を合図に年男が本堂へと、そして式が進み、三番鐘の午前二時頃に本尊不動明王前に年男が揃い豆撒きが始まる。式が終わるのは未明の四時頃。川崎大師では午後七時に第一鐘、十二時前に豆撒きが始まる。浅草観音では午後二時頃から式が始まり、豆撒きは五時頃からと。場所によって追儺式は違っていた。
 この頃の新聞には浅草遊楽館の名前がよく見うけられる。遊楽館の外観はローマの城廓を思わせる建物で、浅草の中でも最も人気のある映画館(活動写真館)であった。遊楽館は外見だけでなく内部も充実し、女給が親切なのはもとより、便所、水飲所の設備に至るまでよく管理されていて老若男女誰もが気軽に楽しむことができた。また、上映する作品も、観客の心を捕らえる新派連鎖劇や“目玉”で知られる尾上松之助出演の痛快時代劇など、毎回良いものがかけられていた。そのため、毎日数千人もの客が入場し、「公演の人気は当分遊楽館の独占であろう」とまで書かれている。
 そういえばこの年、市内の活動写真入場人員が初めて統計資料にとりあげられた。前年までは活動写真だけの数字ではなく、観物場の中に含まれていた。つまり、見世物と合算されていた。東京市統計書によれば、年間1227万人(53館、延べ20749日開場)もの入場者があったという。したがって当時の市民は、平均すると年に約6回も見ていることになる。
・三月「開かれた 海の秘密 大仕掛け、大人気」二十一日付讀賣
 二十日から、上野で「海の博覧会」開催。船橋に型どった正門を潜ると、青く塗られた会場の腰板が広々とした大海の気分を誘う。会場の人気は、大仕掛けものでさざ波が鏡を刻んだように光っているモーターボートの池、他に14インチ砲、地獄の底へでも連れていかれるかのような海底トンネル、水上飛行機館、南洋館などがあった。初日は午後1時から4時ということもあって8,690人の入場。二日目は22,345人。開催期間は、五月二十六日までの68日間。
・四月「花に飛行機に帝都の賑ひ」十日付報知
 三日の神武天皇祭、サクラはまだ満開でもないのに上野・浅草などは大変な賑わい。海の博覧会には、日本が占領した南洋諸島の活動写真等を見ようと3万5千人が入場。その様子について、四日付の讀賣新聞に「浅草の雑踏は格別で新派悲劇の絵看板もここの人々にはゴッホ、ゴーガンの傑作よりも尊かるべく、そこには曽我廼家五九郎の滑稽に顎を外し、ここには娘義太夫延玉の糸に眼を溶かす」と、いうような時代がかった筆致で紹介されている。
 八日・九日と青山練兵場で二日連続で行なわれた米人飛行家・スミスの飛行ショーについて、その時に乗った愛機の写真入りで紹介している。二日目の曲乗りショーは実に5万人以上の入場者を集めて催された。最初の日、夏目漱石は二時頃家を出て、七軒寺町の大通りでこの曲乗りを見ている。スミスの曲乗りのことはすっかり忘れていたが、往来がいつになく賑やかでまるで縁日のようだったこと、皆が南の空に注意を注いでいたことから「その日」であることを思い出した。電柱の上を見ると、気持ちよさそうに搖曳していた飛行機が大きな輪を描いて廻転していた。最後には真逆さまになって流星のような勢いで家の後ろに墜落した。漱石は、スミスのその後が気になったらしく、「最後まで見届けない時は心掛かりなものである」と日記に書いている。一方、有島武郎は前日から予定を立てて、昼食の後、二人の息子とショー見物に出かけている。「若いスミスは元気よく席に飛び乗り、急角度で空に昇って行った。・・・彼は上手に何回も宙返りをした。人々はただただ感心していた。」とショーの様子を記し、さらに「羽を持った生き物もこれ以上はできないと思われるような超人的な美技」とスミスの技を称賛している。
 さて、一方花見は、十日の時点では蕾が多かったが、上野にはすでに仮装した観桜客の団体や、毛布を敷いて踊ったり謡ったりする陽気な人々が出現ていた。飛鳥山や江戸川畔は、一週間後が見頃で、飛鳥山や上野へ品川と池袋から臨時列車が出るという。また、江戸川では、付近の住民が両岸に数万の花見灯籠を点じるので、夜桜がいっそう美しくなるという予測記事(十日付報知)を載せ、花見気分をもり上げている。十三日付(以下東朝)で、上野山内が仮装や唄、踊りなどを披露する人々で賑わっている様子を「治外法権の娯楽場」と。さらに十七日付は、飛鳥山に前日10万人の人出があって、酔い倒れが71人、迷子が53人もでたことも報告している。十六日の花見が近年最高の人出を記録し、上野の人出が30万人、上野駅の乗降客は11万人以上に達したことを掲載。なお、花見の記事ではないが、十二日の新聞(報知)に、市内に約5万本のサクラの木が存在すること、府下全体では約7万本に達すると十二日付の新聞(報知)にある。
・五月「一高 又勝つ」十四日付讀賣
   「五六連勝中の横綱太刀山が敗れ満場数万熱狂」二十六日付讀賣
 行楽シーズンに入り、大勢の市民がフジやボタンを求めて亀戸天神日比谷公園、その他色々な行楽地に出かけている。この頃、行楽地や劇場等がしかけたサービスに「ホーカーデー」というのがあった。ホーカー液というのは、肌荒れ・日焼けを防ぐ化粧品。ホーカースイートというのは滋養菓子の一種である。他にも「レートデー」や「ゲンソー液デー」などがあり、その日に行くと入口などで配られたようだ。けっこう反響を呼んだらしいが、対象が女性だけなのか、子供にも渡すかは書かれていない。
 一方でスポーツもなかなか盛んである。羽田グランドでは全国自転車大競争会他、テニス、野球、相撲等。野球では何といっても一高対慶応戦が話題をよんだ。慶応側は、前の年に、十二年ぶりに一高負けたことから2千人もの応援団を引き連れて乗りんだ。対する一校側も千5百人を動員。試合開始の二時間も前から外野席は見物客や野次馬で一杯。勝負は三対二の接戦で一高の勝利、番狂わせだけに観衆は沸いた。観客はおよそ3万人と新聞には出たが、弥生ヶ丘の一高グランドは狭くて実際にはそんなに入らない。
 相撲は五月場所。横綱太刀山が小結栃木山に敗れた八日目の一番。七日目まで56連勝中であった太刀山に土がついたのだから大入り満員の国技館は騒然となった。約2万人ともいわれた観客が熱狂した。勝った栃木山には5千円の祝儀が振る舞われたとか。なお、負けた太刀山の年齢は40才というからから、現代の関取に比べるとかなり高齢である。
 三月に開催された海の博覧会は26日に終了。大正博覧会に比べて規模が小さいだけでなく、展示も子供だましのようなものが多くて、好評とは言いがたかった。なお、大正博覧会、家庭博覧会も見ている博覧会好きな森鴎外は、終了二週間前の五月十二日にこの催しに顔を出している。
 新聞(讀賣)には、初夏の行楽としてショウブ、ボタン、シャクヤク、ユリ、サツキなどの名所を紹介。花菖蒲の堀切「観花園」、三河島「喜楽園」、「吉野園」「四ツ木園」、向島「百花園」、本所四ツ目「植文」、蒲田、鶴見「花月園」、市内では、日比谷公園、玉翠園・玉花園、目黒植物園など。森鴎外は、十四日に妻、茉莉、杏奴、類の五人で小石川植物園に出かけた。ちなみに鴎外はこの植物園を散策するのが好きだったらしく、この年は五回も出かけている。
・六月、スミスの飛行「満都の人点を仰いで歓呼す」六日付東朝
 六月に入って、米人スミスが再度飛行ショーを開催。六月五日、この呼び声高き宙返り飛行を一目見ようと、市内各地に人の山ができた。スミスは、青山練兵場を飛び立ち日比谷公園の上空、新月の中、三個の火光は流星のように尾を引き旋回すること三回、そして千メートル以上の高度にまで達すると連続十一回の回転を見せた。この日、あいにく空には所々に雲がかかっていて、洲崎海岸からは最後まで見えたが、浅草十二階では中頃までしか見えず、上野ではまったく見えなかったとのこと。この日、最も人が集まったのは日比谷公園の音楽堂前で、離陸一時間前の午後七時にはすでに身動きできぬほどの混雑。周辺には数万の観衆と書かれており、これに市内各地で見た人を加えると、川開きの花火を軽く凌ぐ人々が見物したと思われる。
 スミスの宙返り飛行に大いに関心を持っていたと見られる漱石は、この日の夜間飛行のこと、さらにその十日後の飛行でスミスが墜落した件についても日記に書いている。また、十二月にはスチィンソン嬢が東京上空夜間飛行を試み、「美しく大胆な飛行ぶり」「万歳々々で観衆が胴上げ」(十二月十六日付東朝)と紹介された。彼女はさらに青山練兵場でも飛行大会を催し、自動車との競争や宙返り逆転・波状飛行などを見せている。この時の会費は、名誉会費5円・特別会費50銭・普通会費20銭。空席が無いくらい盛況だったらしいが、飛んでいるのを見るだけなら空を見れば、誰でも見えたのではなかろうか。
 六月は祭が多い月である。官幣大社に昇格した赤坂の日枝神社では、例年以上に賑やかな夏祭が催された。四谷の須賀神社でも天王祭が行われ、各種見世物が所狭しと並び、神楽殿では奉納神楽が催された。
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大正五年(1916年)のレジャー関連事象・・・1月大隅首相暗殺未遂
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1月2読 恵方は巳午、穴守稲荷と川崎大師に人は向かうが小雨
  3森 鴎外、神保町を歩く
  7読 上野不忍池畔で出初式
  7読 富士館、楽燕の浪曲が盛況
  8森 鴎外、観兵式に参列す
  8読 初卯の亀戸雑踏を極め、小松川署は非番も総出で警戒
  15読 富士館、天華嬢の大魔術大入り
  17読 閻魔様大当たり、藪入りの第二日
  24朝 「十日間全部快晴と満員」「目出度千秋楽」
  26読 初天神の鷽替え
  30読 オペラ館新派大悲劇「洋妾(ラシャメン)の娘」他 大好評
2月5読 豆撒き、成田山の賑わい犇めく大群集、川崎大師も
  9読 新富座の追善劇、大勉強の大車輪
  10都 娘手踊り流行
  11読 本郷座「番町皿屋敷」初演
  12読 紀元節、日和良く街に春の人
  17読 浅草遊楽館・清遊館好評
  22読 欧州実践活動写真、帝国劇場で披露映写
  27読 浅草公園の人気、遊楽館が独占
  29読 大勝館「怪勇忍術太郎」好況
3月4読 富士館「大山道節」大入り満員
  17永 慶応義塾運動場にてオートポロ競技興行
  18読 本郷座「虎公」劇、大景気
  18万 富士館「アントニークレオパトラ」連日 満員
  21読 遊楽館実演連鎖「潮田又之亟」他連日満員 
  21読 海の博覧会、大仕掛けで大人気、初日8690人
  22読 海の博覧会二日22345人
  25読 ルナパーク刷新、本日開園式
  27朝 賑わう上野、海博と動物園、織成す人の綾
  28読 海博、毎土曜日に軍楽の吹奏、27日24,537人入場
  28読 オペラ館「うき世」劇、連日満員で日延べ 
4月2読 大勝館「須磨の仇波」好評連日満員
  4読 帝国劇場「先代萩」他売切れ満員
  6読 潮干船、河岸は景気付く           
  10報 青山練兵場で曲乗り飛行、5万人以上入場  
  10読 日比谷公園花祭りに1万人の仏教少年少女
  10読 有楽座の下山京子満員御礼
  10読 常盤座の芸術座劇二日目須磨子好評満員
  14森 鴎外、杏奴と類を伴い上野へ
  17朝 飛鳥山に10万人の人出、酔倒れ71人・迷子53人
  19森 鴎外、浜離宮の観桜会
  21森 鴎外、妻・類と小石川植物園に往く
  24読 早大シェークスピア祭2千余の観覧
  24読 神田劇場「鬼の悔悟」他上演大入り
  28森 鴎外、夜銀座に往き露市に閲す
  29読 靖国神社大祭、旧馬場に観覧物・露店数百、3万人の参拝

5月1読 目黒競馬                     
  6読 オペラ館天覧「小騎手」他上映大盛況
  9読 警視庁、私娼取締規則を改正強化
  11森 鴎外、妻・茉莉・類を伴い井之頭に往く
  12森 鴎外、海の博覧会に往く
  14森 鴎外、妻・子供達と小石川植物園に往く
  14読 一高、慶応にまた勝つ、応援団合わせて3千5百人、観衆3万人
  25読 富士館の天中軒雲月山鹿素行・天野屋利兵」大入り日延べ
  26読 海の博覧会閉会
  26読 八日目大入り、56連勝中の横綱太刀山が敗れ満場数万熱狂
6月3読 初夏の行楽、堀切の花菖蒲・三河島の喜楽園・吉野園・四ツ木園・本所四ツ目の牡丹・蒲田の菖蒲・鶴見の花月園・目黒植物園
  6朝 スミスの飛行、満都の人、天を仰いで歓呼す
  9読 有楽館の連鎖又新派、好評
  6朝 スミスの飛行、満都の人、天を仰いで歓呼す 
  15読 日枝神社官幣大社昇格で夏祭り賑やか   
  18読 有楽座無名会の「マクベス」上演      
  19読 四谷の天王祭、各種見世物や神楽        
  19読 帝国劇場「夜討曾我」他連日大盛況       
  19読 新富座の山長連鎖劇大当たり          
  20森 鴎外、類と本郷を歩す            
  21読 有楽館の新派悲劇「うき雲」好評        
  26森 鴎外、杏奴・類と小石川植物園に往く、傘を開いて草に座す
  30読 大森海水浴場、花火・馬鹿囃子で海水浴開き
 

天皇即位に盛り上がる大正四年後半

江戸・東京庶民の楽しみ 153

天皇即位に盛り上がる大正四年後半
 この年は、明治から大正へとの区切りとなる。                       
・七月「避暑地としての湘南半島 消夏の人を待つ」十六日付讀賣
 市民は、積極的に避暑・納涼活動をはじめた。新聞を見ても、海水浴場開き関連の記事が滅法多い。藪入りの日も従来なら上野・浅草がお約束だが、この年かなりの人々が月島から品川・大森・新子安あたりの海水浴場へ出かけていった。またおもしろいことに、大川端(隅田川)にも50軒を超える水泳場が存在。涼を求めて飛び込む若者が多く、盛況な様子が書かれている。
 なお、この年の川開きは、人出こそ前年におよばないものの、花火の多様さにおいては例年以上であった。午後七時十五分に浅草橋浜町亀沢町で市電が止まるほど、人出による混雑は「数千の巡査が死物狂ひの制止」という具合で、これが十時頃まで続いた。その間に、花火400本、仕掛花火26種が打ち上げられた。なお、当日の迷子の数は3名ほど。
・八月「秋色漂う 都の内外 日曜休日を幸ひに上野向島人出多し」十六日付讀賣
 この年、スイカが豊作で目黒あたりでは出荷できず、目黒花壇に訪れた人は1銭で大切りが食べられた。ちなみに目黒花壇の入園料は5銭、目黒から上野までの電車賃が11銭だから破格に安い。
 劇場や映画館といえば、毎年この時期“夏枯れ”に悩むものだが、この年は少々違う。それは、前月十九日頃が最も暑かったので、八月に入り凌ぎやすく感じたためか、市内で過ごす人が多かったらしい。そのためかなりの人出があったようで、帝国劇場など日延べ広告を出すありさま。また、月末の天長節祝日は、日比谷・浅草・上野などどこも相当な客が入ったようだ。
・九月「秋の郊外と草花」「今日は何処へ 遊びに行こうか」(九月十二日付讀賣
 秋の行楽シーズン、花見は春だけではなく秋も盛んに行われている。有名な向島百花園や目黒花壇を筆頭に羽田稲荷・川崎大師・大崎妙華園・柏木花州園・亀戸萩寺などが人気のスポット。そして、当時の市民の好みを見ると、向島百花園のような昔からの行楽地に加えて、テニスコートや運動設備も備えた大崎の妙華園、秋の七草やダリアが有名な柏木の花州園。さらに、花壇に加えて横浜港から先の大師沖の海が見えるという抜群の展望、スケートや木馬・金棒、大滝、飲食施設まで何でも揃っている鶴見の花月園なども人気があった。
 新しい行楽地に関心を寄せる一方で、上野の東照宮三百年祭にも多くの市民が訪れた。また、上野不忍池畔の江戸記念博覧会にも見物客が押し寄せ、特に総額3千円も投じたという豪勢な「大宝撒き」は、押すな押すなの大盛況だった。その他に最も注目すべきイベントは、来日したシカゴ大学野球チームと早大をはじめとする日本学生チームとの対戦試合だろう。第一戦は、早大運動場で行われ、観覧席の料金は特等が1円・一等60銭・二等40銭・三等20銭であった。この日の観客数は1万5千人、応援や野次が禁じられていたため普段の試合より静かたったという。映画では、生前の実写「乃木大将一代記」(浅草三友館)の広告が数多く掲載されていたが、観客の入り具合は不明。
・十月「自動車大競走 日本で最初の試み」十七日付報知、「『鳩の家』満員」三十日付讀賣
 十月もひき続き市民のレジャーは盛況。文展初日は前年より千8百人も多い6千6百人余で、15点が売約済となる。六月に好評だった「鳩の家」が東京座で再び上演、日一日と観客が増え大入満員で開場時刻を繰り上げるほど。映画では電気館の「続編マスターキー」が満員。浅草観音では菊供養が催され、これは十五年来続いているとのこと。中でも一番の話題は、目黒競馬場で行われた自動車大競走で、我が国初のレース。これに十一時開催の二時間も前から見物客が詰めかけ「無慮五千」、婦人の入場者も目立ち、柵外の野原からも見物しているという盛況。レースは、爆音と砂塵の中を疾走する車に観衆が狂喜し、場内が湧き返ったとある。
・十一月「花の如き芸妓行列 黒山のような沿道の群衆」十七日付万朝
 十日、天皇京都御所紫宸殿で即位、御大典の祝事がはじまった。当日は、宮城前から東京駅や日比谷公園一帯は大賑わいであった。十四日は、京都で大嘗祭が行われるということで、日比谷交差点から桜田門にかけて街路樹の下では水菓子屋・パン屋・キャラメル屋などが軒を連ね、浅草仲見世以上の景気を見せた。楽隊を先頭にした旗行列が宮城前広場に差しかかると、数千の群集は万歳を連呼しこれを迎えた。
 十六日、馬場先門へ参集する新橋の御所車仕丁姿の一団は、午前九時、「萌黄の旗が振られて、金棒がチャリンと響き渡ると先頭の縮緬の大旗が動き出す、素足に緋の蹴出しも艶な仕丁が動き出す」と目にも鮮やかな行列。さらに、着飾った十人の牛童(少女)とその女将連、続いて御所車を54人の半玉が曳いていく。また、その後を仕丁隊、幇間10人、箱丁20人、以上合わせて450人。その他にも、芝区西応寺町山車一台52人、神田区鈴木町一台230人、日本橋区柳橋の山車一台肌抜姿の芸妓273人に監督50人とあるから盛大である。十時、麻布区三軒屋町神輿一台20人、日本橋山車一台173人、日本橋葭町山車一台乙女姿の芸妓246人に監督80人、芝芸妓待合料理店組合山車一台130人、浪花町山車一台仕丁姿318人とある。特に芸妓の行列は話題を集め、見物客が宮城前から馬場先門にかけてどっと押し寄せた。夜に入ると七時から中央商業700人、本所区300余人、高等工学校等2,600人、府立工芸学校250人、合わせて3千8百人もの人が万歳門から二重橋まで提灯行列を行い、九時頃まで見物人で溢れた。
 十七日、大饗の第二日目。二重橋前周辺は朝から非常な人出のなか青山師範付属小学校の生徒600人が日の丸を手に手に行列、他にも芝麹町区等の3・4の小学校生徒の旗行列、日比谷公園では数千の群衆の心をとりこにする三越少年音楽隊の演奏が行われた。新橋などの芸妓の行列ができたのに、宮城前へでのパレードが許されなかった吉原の芸者は、前日の混雑を考えて一時は浅草三社様までも中止と発表された。しかし、その後ルートを変更して当日の午後解除され、粋姿な手古舞姿の行列は、今戸八幡まで黒山の人のなかを練り進んだ。
・十二月、奉祝の続くなか「餅搗き芝居はズラリと美事に失敗」十三日付中央
 天皇即位にまつわる奉祝は十二月も続き、九日に上野公園で東京市民の大礼祝賀が行われた。新たにつくられた有楽町の奉祝門をくぐると、桜田本郷町から新橋までの道筋右側に一般参拝者、左に芝区の小学生徒が手に手に国旗を振りかざして並んでいた。新橋~京橋間の大通りには、京橋区の小学生たち、また京橋から先は、俄づくりの桟敷に町内会らしき人々がぎっしりと立っていた。須田町付近にくると、左右の人道を埋める人の波は物凄く。上野広小路付近は式場に近いだけに両側の奉拝者は立錐の余地もない程。一方、首相官邸でも来賓3千余人が集う豪華な大夜会が催されるなど、「奉祝」は大半の東京市民を巻き込んで一月以上も続いた。
 前月の芝居の入りが悪かったにもかかわらず、奉祝行事のため地方から上京してくる人をあてこんで、市内の劇場はズラリと芝居を開場。しかし、逆に金を使い果たしてしまったのか、連鎖劇が以外は演劇も映画も軒並み不振。国技館で催された羅馬式演武のトーナメントも、勇壮で評判はよかったが、興行成績は今一つであった。このように、十一月から始まった様々な奉祝行事は、市民を高揚させ、景気づかせたかのように思わせたが、実際の商売には結びつかなかったようだ。
 もっとも、「騰る一方の大景気・・・大成金は是から」(五日付讀賣)と株の暴騰が始まった。十九日付の新聞に(時事)、「職工の懐には春が来た・・・各工場の大景気、来春は一層好況か」。軍需品の需要から「露西亜の軍服と支那の軍服」の羅紗の注文など「有り余る仕事」が予想された。二十三日付(東朝)には「露軍 勃国進撃開始」「日本より供給せる大砲を以て武装」。大戦景気が動きだす気配がしていた。二十八日の納の不動は、非常な賑わいだった。
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大正四年(1915年)のレジャー関連事象 12月東京株式市場暴騰、大戦景気始まる
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7月4読 演技座の近代劇協会の一番目「金色夜叉」 上演
  4読 帝国館の「白鬼面」大入御礼
  4読 有楽座で東西洋舞踏音楽大会
  10読 逗子で海水浴開き、銷夏の人を待つ
  10読 本郷座の盆興行「荒木又右衛門」他大入り
  13読 草市、前年より二割高、一般に不景気
  16読 藪入り、歓楽の王国は浅草
  22森 妻、茉莉、杏奴、類鵠沼に往く・25日帰る
  25朝「川開きの盛況」人出は前年より少ない
  26読 向島言問の水泳場、危険続出
  27読 品海の海水浴場、月島から品川・大森・新子安
  27読 金竜館の五九郎一座「男一匹」他好評
8月5読 墨田の川施餓鬼、百数十艘で盛況      
  8読 百花園の虫放ち、数千匹          
  12読 遊楽館「真田幸村」他を上映し盛況     
  16読 休日と日曜が重なり上野・向島など人出多し
  17朝 帝国劇場「競伊勢物語」日延べ
  21読 体育会水上大会、芝浦埋立地賑わう     
  23朝 中央劇場連鎖劇「飛行機」他相変わらず満員
  29森 鴎外、杏奴と類を伴い小石川植物園
9月1読 天長節祝日、日比谷・浅草・上野等は人出にて賑わいを呈す
  12読 秋の郊外、向島百花園・大崎妙華園・柏木花洲園など
  17読 上野東照宮三百年祭、春に劣らぬ賑わい   
  19読 上野不忍池畔の江戸記念博覧会、大宝撒きに盛況を極める
  19読 みくに座の井上正夫一座、連日満員       
  19森 根津神社の祭日               
  24読 三友館実写「乃木大将一代記」上映       
  25報 シカゴ大学野球チーム来日し早大等と対戦   
10月3森 鴎外、妻子と柏木へ、花洲園址に憩う   
  13読 池上お会式、雨で飲食店まばら       
  17報 目黒競馬場で自動車大競争、場内湧き返る 
  17国 文展、初日6千6百人余         
  17読 電気館「続編マスターキー」上映      
  17読 有楽座、子供日で活動曲芸お伽芝居       
  17読 羽田穴守稲荷大祭               
  18読 浅草観音の菊供養、中々の人出、キク一把1銭  
  30読 東京座の「鳩の家」日一日好況大入り満員     
  30読 オペラ館「娘一代記」大入り        
11月3朝 外れた御酉様 雨に怯んだ参詣人
  7朝 中央劇場、連鎖「潮」相変わらず満員
  15日 御大典、宮城前は大賑わい
  15読 二の酉、近年にない賑わい
  16読 義士行列、日本橋から二重橋
  16読 海軍造兵廠の提灯行列、日比谷も菊の賑わい 
  22読 獅子行列と旗行列、奉祝の催し尽きず    
  22読 みやこ館「ヂューブ大探偵」上映      
  28朝 目黒競馬初日、景品券で大賑わい        
  28読 遊楽館「赤垣源蔵」他の連鎖、大好評    
12月10朝 上野公園で東京市民の大礼祝賀頗る面白く勇壮
  12読 首相官邸で3千人の華やかな大夜会
  13中 両国国技館で羅馬式演武のトーナメント
  13中 餅搗き芝居はズラリと見事に失敗
  21森 鴎外、銀座に物買いに往く
  25読 帝国劇場で25日からクリスマス娯楽会
  25読 両国国技館で忘年大演芸会、35銭均一
  29読 納の不動、境内付近は非常な賑わい

レジャー気運が高まる大正四年前半

江戸・東京庶民の楽しみ 152

レジャー気運が高まる大正四年前半
 大正四年、不安定な政府ではあったが中国に経済的権益を求める「二十一カ条」を要求。世界大戦よってヨーロッパ諸国のアジア進出が弱まり、アジア市場を日本が制し、国内の経済が動きだことになる。十一月に天皇即位の御大典(ごたいてん)に沸きたつ中、戦争景気が始まった。
 景気がまだよくなっていないにもかかわらず気分的に浮かれはじめたようで、市民のレジャー気運は月を追うに従って高まった。特に即位の奉祝は、一月以上も市民を浮かれさせた。この年、連鎖劇が流行し、歌は「恋はやさし延べの花よ」「ゴンドラの唄」などが流行った。草市の相場、真菰磨き六尺もの10銭~40銭、苧殻は3本2銭、籬垣1枚5~7銭、蓮の葉1枚1~3銭、味噌萩一束1銭、牛馬一組5銭位。
・一月「初荷の賑ひ 今年は控目」三日付東朝
 とはいえ、元日の晩から二日目にかけての上野、汐留、両国へと向かう初荷の量は、相当なもの。魚河岸ではお正月向けタイ、マグロ、カジキなどがほぼ昼までに片づいた。また、神田市場のミカンは不作で出荷が少ないため、高値であったが、それでも昼までに大半のミカンが売れたとか。このように上野や浅草などでは、元旦ムードに浸りながらも商売は商売でしっかり始まっていた。五日の水天宮は、午前四時半の開門と同時に参詣者がどっとなだれ込んだ。またたくまに、2万をこえるお守札が売れ、安産祈願の鈴の尾も残り少なくなった。ちなみに、お守り札は午後二時までに5万枚、夕方までに7万枚が出ている。もっとも不景気の風は神様にも吹くのか、人出は前年と比べると七割程度といわれた。
・二月「初午の賑わい」九日付讀賣、「本郷座の連鎖劇」十八日付讀賣
 青空の下、太鼓の音に春めき、正一位稲荷の旗が翻る中、市中の人々はいそいそと初午に向かった。赤坂の豊川様では、通りの片側がギッシリと露店で埋まり、門をくぐると奉納手拭いと長提灯で飾りたてられたお茶屋が大繁盛。そして、参拝の後は皆、縁起物の火打ち石を先を競って買っていた。他にも、羽田の穴守稲荷では、赤い鳥居のトンネルを潜って境内に入ると、この日のためにつくられた立派なアーチ。また、囃子屋台も設置され、そこで披露された二十五座の滑稽は人々を浮かれさせた。本殿前の賽銭箱にはひっきりなしに銅銭の投げ込まれる音が響き、ズラリと並んだ露店が客を呼びこみ、油揚げのお供えがやたらに目につくという光景。「お砂頂き」の際には狭い穴の前で破れ返るような大騒ぎが見られた。こちらはお参り後に、少々早いが蒲田梅屋敷の様子をのぞきに、さらに川崎大師へと洒落込む者が多かった。
 この年、連鎖劇というものが流行り出した。これには、演劇が主体で舞台で演ずることのできない部分を映画で見せるものと、もう一つ、映画の途中で演劇や踊り等をはさむものとがある。本郷座では演劇が中心で、筋書きを読まなくても見ていてわかるために、誠に重宝な手法であるとの評がある。浅草三友館では映画を主とし、「忠臣蔵」では、映画の合間に尾上松之助一派女優団が実演するという連鎖劇になっている。
・三月「随所春の人」二十二日付讀賣
 三月、花見関連の記事のなかに花見茶屋と花見船の相場が紹介されている。花見茶屋は、言問付近が最も高く一等場所間口一間奥行き一間で30円・白鬚橋から鐘紡の近所までが15円・綾瀬付近になると5円と安い。花見船も潮干船も同じ値段で、屋形20円・屋根15円・五大力12円・大伝馬8円・中伝馬5円・小荷足2円・高瀬10円位と例年と変わりない相場。前年から続く諒闇明けも間近いことから、商売人は大きな期待を抱いていると書かれている。
 衆議院選挙の投票を三日前にして大騒ぎの彼岸の日曜、池之端の戦捷博覧会を筆頭に、新来のカットベアー(レッサーパンダ)が呼び物の上野動物園は4千5百人を超える入場者があった。また、本願寺境内は蒸れ返るような人出。浅草は相も変わらぬ雑踏とある。また、浅草寺四月一日から開帳、英文の案内も用意され、境内には三百余の絹灯籠の照明が設置、五月末日まで催されるとのこと。開帳初日は、仲見世は押す押すなの人の波、本堂正面の賽銭箱にはまるで賽銭の雨が降るようであった。
・四月「花は先ず上野から」二日付東朝、「昔を今の大名行列」十七日付讀賣
 四月に入ると、新聞は毎日のように花見に関連したことを報告。新名所になった柴又帝釈天、さらに大正博後の整備として上野公園にサクラが植えられたことなど。また、花見の賑わいだけでなく、「風致の問題衛生の問題」(四日付報知)と環境問題として取り上げている。東京のサクラが河川改修のために失われ、また多年の煙害によって樹木が抵抗力を失い、野鳥も減少したために貝殻虫などがつき、その上根元を踏まれて枯れはじめている。これは、観桜という風致の問題にすぎないが、よく考えれば市民の衛生にまで及ぶと結んでいる。
 十日付(讀賣)で、上野や飛鳥山の花見の賑わいに加え、その他東京の花見の名所、江戸川や九段(坂上、坂下)、牛ケ淵などを紹介。その中で、江戸川での花見について、石切橋より大曲りにいたる間のことを「三分咲きの花のトンネル、水面の花影を砕いて」と、船で花見を楽しんでいる様子を伝えている。さらに、軽船の借り賃が一時間4銭~6銭とであるとも。ちなみに江戸川は、今では高架の首都高速道の高架下になってしまっている。その上、両岸はコンクリートで固められたカミソリ護岸、ドブ川と化し、残念ながら当時の面影はない。もし少しでも昔の面影をたどりたいと思えば、石切橋の先の関口から上流を歩かなければならなくなっている。
 十六日からは芝増上寺の東照公三百年祭。呼び物は、何といっても両国回向院から増上寺まで続く大名行列。回向院には未明から人々が集まり、八時頃には境内はもちろん両国橋・浅草橋まで人の山ができた。十万石大名の行列ともなると、露払いを先頭にめ組の火消し頭、金棒、先箱、大三間槍、等々と続き、御駕籠には等身大の人形が、そして駕籠脇の小姓は俳優の市川小太郎と関谷元吉が演じ、茶坊主には市川介造、その後にも馬に乗った家老たちや長持ちなどが延々と続いた。この行列は群集を縫うように進み、十時半頃三越で休憩、十二時頃増上寺に入った。両国界隈の沿道は、二階さらに屋根の上から、電柱によじ登って行列を待つ人であふれ、料理屋は10~20銭の観覧料を取り一儲け。増上寺境内は午後九時まで一般参詣者を受け入れ、付近は未曽有の混雑であったという。
 春の行楽は盛んで、潮干狩りはどこも近年にない人出、品川は前年の二倍以上であった。諒闇が明けた招魂祭の人出も多く、第三日目は近年にない盛況と。日比谷公園では基督教会の日曜学校生徒大会に少年少女1万人が集まった。
・五月「早軍大に振う」十七日付讀賣
 五月に入ると、目黒花壇のフジとボタン、堀切のショウブ、亀戸のフジなど各地の花の名所に大勢の人が訪れている。さらに劇場や映画館なども盛況で、大入満員や好評につき日延べが決まった、などという記事や広告が出されている。
 五月十六日に早稲田対一高の野球試合が行われた。早稲田には5千の応援団、一校には1千5百、観衆は3万5千人も繰り出したと。夏目漱石も知人に誘われてこの試合を見に出かけている。日記によると、場内は人で埋まり、どこが入り口かもわからないほどの混雑であった。漱石らは一高側スタンドで観戦したものの10対5で敗れた。応援席の人々はよほど熱くなっていたようで、勝敗が決まった時などは「急に大風の後のように静まった。千人の人(一高側応援席)が一人も口を開かなかった」とある。漱石の観察が正しければ、新聞の応援数は水増しされており、となると観客数も5割り程度多くなっているのでは。
・六月「山王祭の賑い 諒闇明氏子の大元気」十五日付讀賣
 六月、梅雨が訪れても、相変わらず大相撲の入りはよかった。日枝神社山王祭は、山車飾り13ヶ所、神酒所60余所、余興舞台で各種の演し物と賑やかに催された。演劇では、浅草オペラ館の「鳩の家」連日満員の盛況。また映画では、富士館の教育写真「曾我兄弟」が連日満員で日延べしている。その他にも帝国劇場での東京フィルハーモニー会の管弦楽、有楽座の東西洋舞踏音楽大会など、市民レジャー全般に活気が見える。
 銀座四丁目の角にキリン納涼園が開業。ここでは、キリンビールをはじめアイスクリームやソーダー水に料理が提供されるとあってすこぶる繁盛している。もっとも、世間全般では、当時の氷菓子はかなりいい加減なものを使っていたらしく、藪入りの浅草で一杯1銭のアイスクリーム屋2~30名を検挙して調べるという騒ぎがあった。映画館街の方ではそのアイスクリームと一本1銭のラムネが大繁盛。浅草公園内には、氷屋だけでも百軒からあり、中には草花を入れた大きな氷柱を飾り立てて居る洒落たラムネ屋などもあったという。                                           ────────────────────────────────────────────
大正四年(1915年)レジャー関連事象・・・1月対華二十一ヶ条要求 
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1月3朝 正月の上野・浅草、大儲けは活動ばかり
  6読 初水天宮賑わうが前年七分の人出
  10読 浅草に猛獣使い人気を博す
  10読 三友館の春興行、すこぶる好評
  10読 卯年の卯、亀戸は人の波
  17読 藪入りで大相撲、九分の入り
  21読 戦捷博覧会開催
  29読 深川の初不動、見世物8軒、繭玉屋30軒、いずれも相当の売行き
  29読 初庚申、柴又帝釈天
2月5読 成田の節分、二万が泥の中で豆拾い
  9読 初午の賑わい、美形の多い豊川様・賽銭の雨降る穴守
  9読 本郷座の国民党演説会は大入り満場熱狂
  12読 芝増上寺で商工業労働者の慰安会
  15読 うららかな日曜、日比谷・上野・浅草などなかなかの人出
  18読 戦捷博覧会、日々盛況にて発会式を催す
  20読 みくに座の連鎖劇、毎日大入り満員
  21時 興行物は何処も大入り満員
3月5読 大森海岸で海草取り
  6読 水天宮、人形町通りは電車乗客で混雑
  7朝 浅草帝国館「吶喊」連日満員早い者勝ち
  8万 金杉で闘犬大会、見物人二百余名
  18読 浅草代地河岸で長唄勝産会の演奏会
  18読 上野みやこ座で「サタン劇」上演
  21読 三越で児童博覧会
  22読 池之端の戦捷博覧会や本願寺、上野、浅草は春の人出
4月2読 浅草寺開帳、人波に外国人も交じる賑やかさ
  2読 みくに座「恋ごろも」連鎖劇すこぶる好評 
  7朝 花見の上野は大変な人出
  9森 鴎外、妻子と小石川植物園へ往く
  11読 壮観極むる帝大競漕、墨堤春の賑わい
  15読 三友館の連鎖劇実録「忠臣蔵」日延べ
  17読 芝増上寺の東照公三百年祭、大名行列は群集を縫って
  17読 上巳の潮干狩り、どこも人出おびただし
  26読 第一高等二十五年記念祭
  26読 日比谷公園で日曜学校生徒大会、少年少女1万人が集まる
  28読 帝劇の芸術座劇「その前夜」「サロメ」他満員
  28読 常盤座水野劇「役者の妻」連日大入
  28森 鴎外、靖国神社の祭典に列す
  28読 諒闇明け招魂祭、馬場内十数軒の興行、午後から人出
5月2読 目黒春季競馬、120余頭の駿馬出場
  2万 家庭博覧会、お伽園開会式などで賑わう
  8万 富士館、小天勝の大魔術昼夜満員
  15読 金竜館の五九郎一座「サロメ」を出し評判 
  15読 力士紛争、大相撲無期延期
  16夏 漱石早大対一高の野球を観戦
  17読 大勝館上映の「柳生旅日記・天馬続編」初日来連日満員 
  17読 戸塚運動場で早大対一高、3万5千人の観客
  23読 浅草帝国館上映「三碼」大入り満員
  28森 鴎外、家族らと家庭博覧会へ
6月9読 大相撲5日目、好取組みで又も盛況      
  5読 浅草電気館「大探偵ヂューブ」続編        
  9読 浅草オペラ館「鳩の家」連日満員の盛況      
  9読 十二階の演芸、盛況  
  15読 山王祭、山車飾り13ヶ所、神酒所60余所他に演し物多し
  15読 遊楽館新狂言「蜘蛛の名人」他好評
  15読 富士館の教育写真「曾我兄弟」大入り日延べ
  15読 三友館「盲芸者・快男子」好評上映
  15読 オペラ館「小ゆき」初日来大入り満員
  28読 キリン納涼園、開業以来すこぶる繁盛

 

松井須磨子で盛り上がる大正三年後半

江戸・東京庶民の楽しみ 151

松井須磨子で盛り上がる大正三年後半

 人気女優・松井須磨子の演劇は一世を風靡し、劇中歌「カチューシャの唄」が大流行。その他の流行として、「マックロ節」、大正琴などがある。十二月に東京駅の開業、参戦した日本軍の青島陥落など、市民に活気をつける出来事が続いた。当時のもり・かけ蕎麦の値段1銭5厘。あんパン2銭。
・七月「大正博は二十万円足らぬ」十日付讀賣、「この頃の水泳・自慢のお若い姐さん」二十四日付讀賣
 七月に入って、入場者の少ないことが明らかにされた。対応策として、藪入りの日に入場料を10銭に下げたり、福引きを付けたりしている。福引きは、新聞(二十六日付讀賣)に「十万の福引きに釣られ 大正博の賑わい入場者二十六万」と書かれたように大きな効果を上げた。期間中の総入場者は746万人。七年前の東京勧業博覧会より66万人多かったが、東京の人口が増加したわりには入場者数の伸びは少なかった。それでも大正博覧会は、それまでの長い不景気や大喪などで停滞していたレジャーに対する自粛ムードを取り払う、という点で大きな意義があった。それが証拠に、東京市民はそれまでと比べて積極的に遊ぶようになっている。
 この年は、例年に比べてかなり暑かったと見えて、六月末頃から大川筋(隅田川下流)の水泳場が開き、七月に入って羽田・子安の京浜海水浴場、月島の水泳場、新子安・羽田の海水浴と海水浴関連の記事がかなり目立つ。一般市民は、隅田川から月島、芝浦、大森、羽田、新子安など近場に出かけた。また、もう少し離れた上総の稲毛・勝浦、湘南の片瀬・鵠沼江ノ島などへも、一泊または日帰りで出かける人もでてきた。それまで避暑といえば上流階級に限られていたが、この頃から中流以下にまで広がってきた。ちなみに、二十六日の日曜日の新橋駅や両国駅の乗車客数は、鎌倉629人・藤沢387人・逗子362人・平塚297人・勝浦235人など合わせると3千人を超える。とはいえ、この人たちがすべて海水浴に行ったわけではなく、上総や湘南での海水浴客は3千人より少なかったはずだ。海水浴は市民レジャーとして定着しつつあったが、鉄道を利用したのはまだ中流以上の人でしかなかった。
・八月「命懸の川開き」二日付東朝、「両岸三十万の見物」二日付讀賣
 川開きの人出は十数万人とこれまで最高の数字を記録。一説には30万人とも言われ、とにかく周辺は大混雑の態。浜町の河岸は様々な露天で埋め尽くされ、と同時にいつもは1銭のアイスクリームが、3銭にはね上がる光景があちこちに見られた。花火の見物は、わざわざ出かけず近在で見た人を含めて、市民の一割になったことは確かであろう。なお、この日動員された警察官は600名程度で、人出がおおかった割には混乱が少なかったようだ。
 川開きの翌日あたりから、露国の宣戦布告や戦乱の影響で株式界が大混乱に陥ったことなど、欧州の戦乱について続々と報じられているが、市民のレジャーにはさしたる影響はない。玉川の大花火に「全欧動乱の大海戦」と銘打った仕掛け花火が登場するという程度の関心しか示さなかった。月末には、日本とドイツは交戦状態となり、号外に“忽(たちま)ち群がる人の山”というような光景も見られたが、ふだんの市民生活は平穏そのもの。市民レジャーにとっては、それよりも、二十九・三十日の大雨による出水の影響の方が大きかった。
・九月「満都の男女熱狂し 雪崩を打って東京座へ 須磨子妙絶頂に達す」二十日付讀賣
 活動写真全盛の中にあって、苦戦を強いられていた演劇界の模索は三月、帝国劇場で初演されたトルストイの「復活」でようやく実を結んだ。芸術性にうまく大衆性を加味した興行として成功。劇中で松井須磨子扮するヒロインが歌う「カチューシャの唄」は大流行し、劇中歌・主題歌の先駆となった。九月の東京座公演には、開幕五時間前からすでに観客が大勢詰めかけ、その列は東京駅前から神保町までつづいたという。連日の大入満員、日延べした八日目も立錐の余地がないどの大盛況であった。そして、芝居の最中でも「カチューシャ可愛や」と須磨子が歌うえば、感極まった観衆が思わず一緒に歌いだすほどの熱狂ぶりであった。須磨子人気は、十月の本郷座「光の巷」でもいかんなく発揮され、時雨降る日にも満員の盛況。ちなみにこの時の入場料金は、特等(桟敷)1円65銭・一等(高土間)1円45銭・二等(平土間)1円15銭であった。
・十月「行楽日和 祭日の市中 止めは文展と浅草」十八日付讀賣
 季節は行楽シーズンに入り、恒例の国技館の菊人形、池上等の御会式・・・と続く。国技館の菊人形は、おりからの時局をテーマにした「膠州湾の突撃」、歴史物の「頼光の大江山入り」、「日蓮上人佐渡の御難場」など。例年より大規模、大仕掛けで18場面、人形総数180余体が館内いっぱいに飾られていた。その他、幾百種の菊花陳列、一本で千輪咲きなどの名花があった。
 文展や浅草界隈も大勢の人で賑わったが、ただ、靖国神社については諒闇中のため、招魂祭は淋しい佇まいだったとある。鍛冶橋の開橋式は、獅子頭の渡橋が話題を呼んだこともあり、まるでお祭のような騒ぎであった。また、休日には菊花を求める人が多く、千人程度の人が秋の草木をめあてに小石川植物園に訪れた。
・十一月「紅葉を求め、滝野川へ」九日付讀賣
 紅葉の美しい飛鳥山には大菊の花壇が十余設けられ、紅葉狩りに一段の興を添えていた。七月末に始まった第一次世界大戦には日本も連合軍として参戦し、十一月に入って青島を攻略。そのため十一日に日比谷公園で祝賀会が催され、花電車が走り、宮城前・英国大使館等各地で提灯行列が催された。また、「新」新橋駅の完成を祝い、盛大な開通式が挙行された。十九日の二の酉は、格好の日和とあって、浅草田圃大鷲神社は例年にない賑わい。午前十一時頃にはすでに開運袋が1万、お守り札が1万5千出たというまたとない好景気。この年は三の酉がないこともあって、夜になると一層混み合い、身動きもできぬほど。このため、市電は運転時間を三十分延長して参詣者の便宜を図った。
・十二月「歳の市露店取締」三日付讀賣、「東京駅の第一日」二十一日付東朝
 十二月、師走に入ると歳の市の露店取締り通達が出されたが、それをよそに納の水天宮、納の金比羅、神田の歳の市はいずれも混雑を極めた。神田明神は、二十日・二十一日の両日、露店や見世物で境内が埋めつくされた。案外、羽子板を売る店は少なく、多いのは荒物金物の店、実に320軒もあった。朝から群集が押し寄せ、午後から夜と徐々に人の群れは増し、商人も神主も、繁盛で大喜びとある。
 十八日、青島を陥落させた神尾将軍(有島武郎の義父)の凱旋と東京駅開通式が重なり、周辺は大変な賑わいであった。なお、東京駅の開業は二十日。東京駅の営業第一日は、乗降客より見物人の方が多く、精養軒の食堂が開店すると見物人はそちらへ詰めかけ大入り満員の盛況であった。

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大正三年(1914年)後半・・・8月ドイツに宣戦布告、第一次世界大戦参戦
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7月5万 帝国館「リスク」大好評         
  8読 向島の都鳥流し、25年ぶりに復活    
  16読 浅草藪入り、十二階エレベーター3銭・遠眼鏡2銭・アイスクリーム1銭
  16読 博覧会も藪入りデー、福引きに釣られて雑踏
  17万 帝国館「天馬」満員に付早朝来館を    
  20万 大正博の演技座「復活」連日満員     
  24読 大川端の水泳場、至る所満員大繁盛     
  26森 鴎外、子供達三人と小石川植物園
  29読 避暑地のお客、例年より大繁盛       
  31時 大正博覧会30日、最大22万人が入場する
8月2朝 「命懸の川開き」と川開きの人出が十数万人 
  2読 浅草三友館の実録劇「女装探偵・電五郎」連日の満員  
  3日 第一次世界大戦勃発、株価暴落        
  5万 王子の滝、午前中に満員、入場料5銭、5~600人
  8森 妻、茉莉、杏奴旅行す(逗子?)     
  10万 羽田穴守の海、休憩所は2千5百余人と毎日満員、入場料3銭・着物預2銭・貴重品3銭
  12万 玉川の大花火(15日)、全欧動乱の大海戦の仕掛け花火
  13万 日本館「カチューシャの唄」満員日延べ   
  24朝 活気立つ夜の市中、観音堂は祈願の人で混雑 
  31朝 二六社、提灯行列
9月4読 月食の月見、日比谷・上野・芝の浜など涼む人々で満たされる
  9森 妻と茉莉、帝国劇場へ往く
  20読 浅草電気館の活動「軍吏と曹長
  20読 オペラ館、「女の一生」大好評
  20読 松井須磨子の「復活」劇、連日の大入り満員
  21朝 早大沙軍に大勝、観衆2千
  25朝 彼岸のハゼ釣り、乗合船30銭・荷足船1円
  30読 国技館の菊人形、18場面、人形180余にて開園
  30読 浅草仲見世にスケートハウス、各種飲食店・余興演芸等
10月13読 池上お会式、雑踏を極めし  
   16万 大勝館「狸退治」大入り好評                                  
  17森 鴎外、妻、茉莉、杏奴、類を展覧会に伴う
  18読 行楽日和、祭日の文展と浅草は入止め    
  24万 招魂祭、遊就館は1万人余、露店も大繁盛 
  26読 お祭りのような鍛冶橋の開橋式      
  26読 時雨降る日も満員、松井須磨子の本郷座  
  28万 有楽座の演芸大会大入り日延べ      
  29読 小石川植物園、菊花を求め毎日千人内外  
11月9読 青島陥落祝捷第二日、提灯行列等で歓楽の帝都
  9読 金竜館の曽我廼家五九郎おもしろく盛況
  9読 飛鳥山、大菊花壇10余、紅葉に興を
  11森 日比谷公園に市の祝捷会あり
  13読 「新」新橋駅、盛大な開通式
  14読 祝賀の提灯行列、宮城前・英国大使館等各地で
  15読 「カチューシャ」三友館・葵館・第三福賓館で連日満員
  15読 日活の戦況映画、遊楽館・三友館・オペラ館・常盤座・富士館・千代田館等で一斉封切満員
  17時 人出の無かった今年の文展、入場者13万人
  20読 遊楽座、「天中軒雲月」上演        
  20読 日本晴れの二の酉、浅草田圃は近来珍しい賑わい
  21読 浅草みくに座の活動「大決戦」       
  29読 湯屋の混戦、浅草区内は1銭           
12月3読 歳の市露店取締り            
  6万 帝国館「海の彼方」連日満員大好評
  6読 納の水天宮、三時頃から押しかけ、四時には門前に群集
  7読 遊楽館「越後騒動」好評          
  11読 納の虎ノ門金比羅、雑踏を極める      
  17万 有楽座のレート演芸会、入場料程のお土産で初晩から好景気
  19万 神尾将軍の凱旋と東京駅開通式が重なり周辺は賑わう 
  21万 東京駅が開業
  21読 神田の歳の市、暖かく好天で320軒の露店と見世物が出る
  23森 茉莉の師に基督降誕祭の贈を遣る

東京大正博覧会で賑わいを取り戻す大正三年前半

江戸・東京庶民の楽しみ 150

東京大正博覧会で賑わいを取り戻す大正三年前半
大正三年、シーメンス収賄事件の暴露から、政局は混迷を深めるばかり。八月に第一次世界大戦が始まる。日本経済は、一時的にせよパニック状況におかれた。
 不況の中、三月には東京大正博覧会が開催され、市民に明るい話題と楽しみを提供した。市民レジャーは、博覧会に刺激されたのかその後も活発で、川開きやお会式、文展などの賑わいが続いた。
・一月「護摩の煙絶ず」「外人も交じる参詣者」二日付東朝
 新聞を見ると、元日から人々が活発に動いている様子がわかる。一番人気はやはり初詣で、川崎大師などでは午前七時の段階で、すでに数千もの人がごった返していた。また、七福神から観音様へと、向島や浅草、上野などを巡り歩く人々も紹介されている。このように初詣に出かけた人は非常に多く、東京の人口の半数以上の人が出かけたものと思われる。
 市内でもっとも賑わったのは浅草観音仲見世通りは人で身動きができないほどの混雑ぶり。その後の人の流れは、六区や花屋敷の方面に向かう。小屋掛けの猿芝居や玉乗り、大晦日から休みなしで営業している映画館など、お正月を意識した華やかな看板に誘われてか、どこも満員だった由。
 二日になると、初売りがはじまる。街中はまだお正月で、不景気といわれてはいるものの、人出は前年より多そうだ。元日の市電東京駅の乗降客は、7千7百余人と前年より千人以上増加。結局もっとも人気があったのは映画で、「大儲けは活動ばかり」とは新聞の見出し。
 正月気分が、三箇日以後も続いていたと見えて、十日の虎ノ門の初金比羅も参詣人が多く大混雑を極めた。歌舞伎座(「冥途の飛脚」)も本郷座も大入り。その後の藪入りは、浅草六区の映画館や上野の動物園も大入り、各閻魔堂も早朝から賑わった。さらに、亀戸天神の鷽替も盛況が続いた。
・二月、映画をのぞきレジャーは低調
 成田山の豆撒きは、この日だけで8万人もの人出。川崎大師や市内各所の社寺へも大勢出かけている。この人出は、町内の誰かが出かけている程度、東京の人口の一割近くになる。
 六日には、国技館で憲政擁護会が1万5千人の集会を催している。九日は蓬萊座の演説会。十日、日比谷公園松本楼で国民大会。十四日にも第二回国民大会。このように二月に入ると政治活動が活発化し、議会包囲や軍隊出動の記事が新聞を埋め、レジャー気運を冷まさせた。
・三月、大正博覧会一色「長軀のミイラ禅師の遺物」「子供も大人も驚く魔術」三日付讀賣
 三月に入ると、新聞記事から博覧会熱が高まってきたことがわかる。前売り券の売行きも好調で、開会前日までに50万枚売る目標が、実際は60万枚と10万枚も多く売れた。
 料金は、七年前の東京勧業博覧会より五銭値上げされ、日曜・祭日用が二十銭、平日が十五銭。またこれとは別に、一日・十五日は日曜の半額と思い切って割引をおこなった。これは職人の休みを考えてのことであり、一人でも多くの人に見てもらおうという施策でもあった。しかし、実際には、入場料金が半額になってもなお、博覧会に行けない貧しい人々が多かったことも確かで、結果を見ても、半額デーの一日と十五日の入場者が他の日より特に多いという事態にはならなかった。
 二十日には、まだ未完成の建物もあったが、一万人近い招待客を呼び、博覧会の開会式は賑々しく催された。一般の入場者に対して、数百人の警官が誘導・制止にあたり、午後二時頃からようやく入場が許された。開場三十分で1万人近い人がなだれ込むという大変な混雑ぶり、5万人入ったという記事もあった。が、実際には1万4千人程度であったようだ。さらに、二十八、二十九日には約12万人が入場し、以後、続々と市民が見物に訪れた。
 なお、人々が注目したのは、博覧会の展示物よりケーブルカー(料金15銭)やエスカレーター(当初10銭が人気で15銭に)などであった。
・四月「咲いた咲いたと」「大正博花の美観」一日付東朝
 この年のお花見については、大正博覧会が開催された関係から、大正博覧会の記事とセットで紹介されている。例えば一日付の新聞(東朝)では、上野公園の桜の写真とともに、大正博覧会の催し。三日の日にも「花曇りの大正博」という写真と、前日の大正博覧会の入場者数が日中6万4千人、夜間2千9百人であったこととともに、向島や荒川のサクラの紹介をしている。その後も、五日には靖国神社境内の写真、六日も大正博第一会場のサクラの写真。ところでこの年は、花見に関連する記事や写真は例年より多いものの、馬鹿騒ぎをしている記事は少ない。これは、大正博覧会に紙面を奪われたというだけではなく、皇太后の病状が悪化していたために、大衆が花見に浮かれている様子をそのまま書くことにためらいがあったためと思われる。
 博覧会に関するおもしろい記事(讀賣)がある。博覧会が始まって以来、落とし物の数が三割増加とか。もっとも増えたのはやはり金銭で、二月平均が一日13円24銭5厘であったのが、三月には45円23銭3厘とほぼ三倍になっている。
 品物で言うと、風呂敷包みの弁当箱(まだ食べていないものがほとんど)、それから地方から出てきた人が落とすのはお土産の絵はがきや地図、傘も多い。一日当たりの遺失品は、70~80点にものぼり、金額にして百円位になる。意外と多いのは博覧会の福引券で、5円や10円の当選番号もあるという。土産は東京土産が多く、魚や果物などの腐りやすいものは、売ってお金にして保管されているという。さらに記事によると金銭を落とした場合、半分は落とした人の手に戻るが、品物の場合は、上等な物でない限り戻ることはあまりないとのこと。
・五月、大正博の「美人島に閉場を命ぜよ」七日付讀賣、「皇太后宮大喪儀」二十五日付万朝
 五月に入り、例年なら行楽シーズンたけなわのはずが、なぜか市民のレジャーはあまり盛り上がっていない。靖国神社大祭も、元帥や大将等お歴々が参拝しているにもかかわらず、訪れる人が少なく淋しい限りと書かれている。さては、市民は皆博覧会に出かけたのかと思いきや、博覧会の入りもさほど多くなかった。
 ちょうどその頃、神田須田町のもっとも目立つ場所に「美人島旅行館」なる毒々しい広告が立った。これが実は大正博覧会の目玉イベントの一つでもあった。いかなるものかと覗いてみると、これがなんと俗悪極まりない見世物だったらしい。ちなみに、プログラムには「火焰の美人、蛇体の美人、無頭の美人、一千年の怪美人など」とある。
 だが実際には極めて幼稚な、くだらないもので、例えば美人島専属女優と銘打ったヤンキーダンスは「お転婆女の跳ねっかえり」、さらにモスコー女優のサロメダンスは芸術の名を借りた挑発的で醜態なものと新聞は切って捨てている。また、場内は薄暗く、空気も悪い有害な環境であると批難し、事務局は勇断をもって閉場を命じるべき、と断じている。
 新聞(讀賣)は、連日、博覧会関連の記事で持ちきり。七日の日だけでも上記の他に、競馬大会、自転車・自動車等の各種競技会、不忍池にモーターボートを浮かべたこと、牛込芸妓踊り、山形の竜神舞い、さらには演芸場での賭博事件、火事騒ぎ、とてんこ盛り。もっとも記事になるわりには、博覧会の入りはあまりよくなかった。おそらく皇太后が亡くなり、市中の商店や浅草六区の映画館などが休業したことも影響したのであろう。
 五月の末には、大正博覧会では景気挽回策として「豆蔵・曲独楽・阿呆陀羅経・新内流し・綱渡・女太夫・影芝居等」の八つの演し物を無料で見せ、入場者の増加につとめている。
 ・六月、博覧会の入りはよくないが市民レジャーは活発に
 六月、梅雨に入り外出がおっくうになりがちだが、相撲や開帳などに人出がある。新聞では博覧会の盛況を伝えるが、市民の博覧会熱はとうに冷めていた。博覧会へ誘うイベントは、蛍狩りなど連日のように新聞に載せられている。しかし、入場者数は天候に左右され、晴れないとなかなか出かける気にはならない。
 そんな中、森鴎外は、二十日小雨の中、娘の茉莉を連れて博覧会に出かけ精養軒で食事をした。 

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 大正三年(1914年)・・・1月シーメンス事件問題化

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1月2朝 川崎大師の初詣で、満員の京浜電車が人を送り込む
  2朝 浅草観音、電車から吐き出された人で仲見世は身動きとれず
  5読 大相撲、諸物価の高値で木戸代値上げ     
  5読 本郷座・明治座等売切れ満員           
  5読 浅草公園みくに座、発声活動写真に楽燕の 連夜大入り満員
  11読 初金比羅、参詣者夥しく大混雑を極める   
  17読 藪入り、浅草六区の映画館はどこも大入り満員
  17読 大相撲春場所七日目、午前中に木戸止め   
  17森 鴎外、奉告祭に参列のため賢所へ       
  26読 亀戸天神、鷽替で賑わう            
  27読 大正博に際し交通整理で浅草露店の160軒が半分になる大恐慌 
2月5朝 成田山の豆撒き、八万人もの人出      
  7万 国技館で憲政擁護会、1万5千人集会
  4万 大勝館「クイン」上映大好評
  8読 都座、露国女優ダンス又々日延べ
  8読 浅草朝日館「空中の秘密」他連日満員
  10万 第一福賓館「天馬」大入りにつき日延べ
  15万 帝国館「軍神」満員盛況三日間日延べ
  16読 観梅臨時列車運転
3月2読 好天気で浅草に人出
  2読 百花園に五色の梅植え、清興
  2万 市村座憲兵の娘」青年新派好評大入り
  8森 鴎外、終日異様に暖かなり、園を治す
  10森 鴎外、靖国祭のため正午退衛す
  15朝 新富座「渦巻」毎日売切れ
  15読 六阿弥陀
  15万 キリン館「新四谷怪談」大好評
  21日 上野公園で東京大正博覧会が開催される
  28万 トルストイの「復活」帝国劇場初演、30万満員御礼
  31読 大正博覧会の入場者、雨でも見物8万4千余
  31朝 電気館「アントニークレオパトラ」他日延べ
4月2読 夜の博覧会初日、1万1千余人入場、入場料5銭
  2読 松阪屋が記念売出し
  2読 歌舞伎座、連日売切れ
  4読 早稲田大学運動会、午後に場内埋る
  4読 神武天皇祭の博覧会、朝から雑踏、二会場は淋しい
  7読 今年限りの荒川堤の花
  9読 灌仏会、雨天にもかかわらず浅草など皆混雑
  9読 隅田川のボートレース明大活躍
  17読 大正博覧会、大評判の薩摩踊りの行列
  21芥 龍之介「人形の家」他を見る
5月1読 靖国神社大祭、元帥大将等参拝するが大変淋しい
  3朝 戸塚球場で早大対明大、観衆5千人
  6読 水天宮正五九の縁日
  7読 遊楽館の活動「冒険談猿が島」好評
  7読 大正博、卑猥風俗と美人島に閉場を命ぜよ
  11朝 青山と芝浦からの飛行、大正博訪問は中止だが群衆5万と3万
  16読 大正博、前日の入場者数2万4千余人
   万 「クレオパトラ」上映続く、4日葵館・10日第五福賓館・17日第三福賓館・30日明治座
  25万 皇太后宮大喪儀、浅草写真館など休業
  31読 大正博の景気挽回策に豆蔵・曲独楽・綱渡り等の八景展示
6月1読 花月園、新装披露
  8読 大相撲夏場所九日目は随一の大入り
  10朝 深川不動開帳七日間日延べ・23読180発花火揚げ盛ん
  13朝 常陸山引退相撲、正午満員
  14森 鴎外は類と神田川へ、妻と茉莉は帝国劇場 
  15読 大正博で蛍狩り
  20万 キリン館史劇「全勝」新派悲劇「女伯爵」盛況
  20森 鴎外、茉莉と大正博覧会へ
  23読 国技館の大花園、ショウブ・ダリアなど百種を飾る
  24読 大川筋、水泳場開き
  29読 東京競馬二日目、日曜なので甚だ賑わう

 

大正二年後半、景気は下降で娯楽も停滞

江戸・東京庶民の楽しみ 149

大正二年後半、景気は下降で娯楽も停滞
・七月「有栖川宮斂葬日」「謹んで休業 淋しい浅草」十八日付東朝
 七月、藪入りの日は暑い一日。一本4銭の扇を手にした小僧さんたちが大勢、上野や浅草へ繰り出した。上野三橋のお閻魔様の片側一帯に店が立ち並び、小僧さんたちは閻魔堂から公園内の明治記念博覧会のジオラマや動物園へと流れて行った。動物園の入場者は昼までに5千人は固いとある。公園前から出る浅草行きの市電は雷門で空になり、小僧たちは四発1銭の射的場をのぞき、一杯1銭の五色の水を手に、木馬館や十二階、水族館などに向かった。藪入りの翌日は「有栖川宮斂葬日」のため、浅草をはじめ映画館や劇場等は、こぞって休業、見出し通り“淋しい浅草”となった。
 二十一日付の新聞(讀賣)には、珍しく開帳の記事。「出開帳の粉擾歛(ヲサマ)る」と回向院の開帳にトラブルがあったことで取り上げられている。開帳は、明治の中頃から徐々にレジャーの色合いは薄くなっていたが、大正期にはさらにその傾向が強まり、開帳本来の宗教色の濃いものになっている。
・八月「花火の両国 相変らずの大雑踏」三日付讀賣
 雨が心配されたが、二年ぶりということもあって多くの人出が予想された。露店の数は吉川町から旧広小路にかけて80余軒、横綱から国技館にかけて150軒あまり、揃って客を待ち受けていた。両国橋では午後六時に路面電車を止め、両国橋東詰めでは相撲茶屋が桟敷を拵えて客を呼び込む。中には笛やお囃子で景気をつけるところも。桟敷の料金は、一等50銭、二等30銭、三等20銭。まだ日の暮れていない四時頃に、すでに桟敷の三分が埋まるという盛況ぶり。観客席は桟敷だけでは足りないとみえ、渡しの発着所に伝馬船を並べ、こちらは10銭・20銭という安さを売り物にした。夜になると、陸と海の双方に提灯の光が揺れ、万燈の影が動き始める。七時二十分頃、川中が一瞬明るくなり、待ちに待った花火がようやく始まった。十時頃まで続いたこの年の一番の見物は、紫宸殿右近の桜左近の橘、約十間の破風造りの大御殿であった。
 五日付新聞(讀賣)には、大川名物の夕涼みの記事がある。両国では、一時、屋形船が姿を消し、芸妓を呼んで舟遊びをするという、粋な夏の風物もすたれてしまった。それが数年前に復活し、今度は逆に数がふえて大伝馬船が14・5艘以上も見られるようになった。ただ、柳橋が全盛だった頃の両国夕涼みの面影はなく、むしろそれは隅田川向島に移ってしまったとある。また、両国の花火を真似て行われるようになった玉川の大花火は、数十軒の料理店や数百の灯籠流しなど、年々盛んになっている。さらに、品川でも花火があり、鴎外の妻と娘が泊まり掛けで見に行っている。
 お盆の深川八幡祭は、八幡の門まで露店がぎっしり並び、神輿が置かれている露店の合間には、夕涼みがてらスイカをかじる女性や子供の姿があった。広い境内がただ人で埋まり、隅には素人芝居の小屋と剣舞が7・8軒並んでいた。この深川八幡からは洲崎遊廓に流れる人も多く、八幡様の御利益で大繁盛と書かれている。
・九月「秋楽しお中日、何処も一杯の人出」二十五日付東朝
 夏からの巡回活動写真は九月になっても引き続き盛況らしい。特に、映画館の少ない郊外の農村で、趣味と実益をあわせもつ教訓的な映画を興行し、人気を博した。例えば、三鷹村の東西小学校では2千余人もの観客があり、すこぶる好評であった。
 彼岸の中日は晴れ上がり、朝早くから市電は満員、特に青山や谷中の墓地は人で埋まった。六阿弥陀詣では八十八ヶ所の大師参りも相応の賑わい。御詠歌や鉦の音、読経の声が秋の空気に響いて集まった人々の心をなごませた。「動物園、浅草の活動街、日比谷、芝新公園何処へ行っても人と人の鼻突合をしないのが不思議な位であった」というから、多少の誇張があるとしても、かなりの混雑だったのだろう。目黒の栗飯、雑司ヶ谷の焼きとりなどの名物を目当てに出かける人も少なくなかった。向島百花園の萩は盛りで、亀戸天神愛宕神社も秋祭りとあって、樽神輿を担いだ子供たちが駆けまわっていた。
・十月「市内と近郊の菊 何も見事の出来栄」二十九日付東朝
 十月はキクの季節。「早い菊晩い菊」と国技館恒例の菊人形を紹介。桃太郎・二見浦・雪月花の五段返しの豪華な人形に活動写真でおなじみの「新馬鹿大将」も加わって、入場料20銭は高くないとの評判。菊見のイベントは、向島百花園日比谷公園のほか、玉川遊園地などでも催され、玉川電車は日曜日の乗客に入場券を配るサービスをしている。
 また、浅草、常盤座で演じられた我廼家五九郎一座の喜劇は初日から満員の客止め。日本最初の活動写真館である電気館では十周年を迎え記念企画を開催。さらに、三カ月前から期待されていた公衆劇団の第一回上演が帝国劇場で開催。「マクベスの稽古」「茶をつくる家」など識者の間で前評判の高かった「エレクトラ」も上演にこぎつけている。十七日に芝居を見た芥川龍之介は、その時の感想を「とにかくエレクトラはよかった」と興奮さめやらぬ筆致で書き記している。
 「休日に関する件改正公布」で、政府はなぜか十月三十一日を天長節祝日(大正天皇は明治十二年八月三十一日誕生)と定めた。一回目の天長節祝日には、新聞に「大提灯行列」Aと紹介されているように、「実業団体四万人」に加えて市内の小学生が旗行列を披露、その数18万本、また錦にような華やかな花電車も繰りだされ、盛大な行事となった。この日は上野や浅草などで遊ぶ人が多く、混雑による事故は、迷子23人、スリ5人などと上野署から報告された。
・十一月「一の酉の美観大雑沓」十三日付讀賣
 十二日は「酉の市」。人の大勢出るところにはトラブルはつきもののようで、酔っぱらい2名、迷子5名、喧嘩1件という記事が出ている。明治時代の浅草に比べると、それでも混乱は少なくなった方だとか。二の酉も盛況だった。月末には、東京座や浅草国技館で拳闘対柔術の試合が行われた。拳闘は離れて、一方、柔術は組んで戦うもので言ってみれば異種格闘技の元祖。これがなかなか人気があったとみえて、翌月も興行されている。柳盛座での試合は、特等50銭から四等の15銭までと比較的安い。
・十二月「深川の歳の市 品物一向に売れず」十五日付讀賣
 師走恒例の「歳の市」は、深川八幡を皮切りに、浅草観音神田明神などと続き、どこもそこそこ賑っている様子。もっとも、出かける人は明治期よりも減少し、どこの家庭でも出かけるという行事ではなくなった。都新聞の連載「暮の貧民窟」には、不景気で最下層の人々の生活が一層厳しくなった様子が書かれている。二十八日から三十日まで入場料5銭と値下げした浅草の常盤座や吾妻倶楽部なども“手引女”が入口に立ちつくすようなありさまで、年の暮れというのに、市民レジャーは冷えきっていることがわかる。

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 大正二年(1913年)・・・9月阿部外務省政務局長暗殺

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7月4読 大森の大煙火
  10読 浅草四万六千日雑踏を極める、1株3~10銭、1鉢3~4銭
  12朝 有栖川宮薨去浅草公園興行は御停止
  15朝 富士館「新馬鹿大将ボビー」他大入り日延べ
  17読 日盛りの藪入り、上野・浅草など賑わう
  18朝 有栖川宮御斂葬日、浅草など謹んで休業
  20読 避暑地便り、非常なる景気
  21読 回向院で紀伊那智補陀洛山寺の開帳
  25森 妻、茉莉、杏奴、鵠沼より還り
  31朝 御一年祭の市中 青山の人出数万
8月1読 品川お台場に無料納涼地開く、飲食店・余興あり
  3読 両国川開き、相変わらずの大雑踏
  10万 玉川の花火、電車で4千人余、スリ等6件、拾得物1件
  10森 妻と子供が泊り掛けで品川へ花火見物
  16万 電気館「何が故」連日満員
  16読 深川八幡祭は、夕涼みがてらの人々で一杯
  21読 大正婦人博覧会、向島華壇にて開催
  21読 西新井大師、川崎大師へ臨時増発
9月2読 巡回活動写真の盛況
  6読 水天宮、露店数百軒出店し雑踏する
  8万 日比谷公園で対支那問題国民大会、2万人警備の警官3千人
  18読 浅草三社祭
  19万 歌舞伎座で浪界五傑大決戦
  22読 24・25日、亀戸天神・成子神社・とげぬき地蔵など大祭
  23万 有楽座「内部」芸術座の初日満員
  25朝 秋楽しお中日、何処も一杯の人出、朝から電車は満員
  26万 電気館「宇良表」大好評
  30万 帝劇「マクベス」空前の盛観
  30万 渋谷金王氷川神社大祭、素人大相撲
10月4読 常盤座の曽我廼家五九郎一座の喜劇が盛況 
  7読 両国国技館の菊、毎日5~7千人の見物  
  7万 露店に電灯が許可             
  13朝 参詣の人幾十万人 池上本門寺会式は大混乱 
  17芥 龍之介、帝国劇場でエレクトラを見る    
   18読 早稲田大学三十年記念、大提灯行列、沿道の歓迎
  19森 鴎外、帝国劇場に往き、女がたを看る   
  19万 キリン館、天然色活動写真、連日満員   
  20読 ベッタラ市非常なる雑踏         
  20朝 日曜日の文展、入場者1万2千人      
   21万 みくに座、小奈良、大入り満員       
  22万 招魂祭、花火・里神楽能楽・相撲等あるがその割に人出少なし 
  23森 鴎外、家族と展覧会を看る
  30朝 天長節祝日には大提灯行列、錦にような花電車もでる
11月2森 鴎外、妻と子供三人を連れて小石川植物園
  3朝 靖国神社で東西対抗学生相撲大会、観衆5万
  5万 帝劇「千本桜」他森律子で初日大入り
  9都 宮戸座「鎌倉山桜御所染」「神道水滸伝」好評大入り
  13朝 浅草一の酉の美観大雑沓、酩酊者2名・迷子5名・喧嘩1件
  16万 帝国館「白と黒」昼夜満員
  25朝 徳川慶喜薨去東京市の申合せ歌舞音曲の遠慮
  25読 押し潰されそうな景気、夜の浅草二の酉   
  27万 東京座で拳闘対柔術試合、浅草国技館等でも興行  
12月3万 米大リーグ初来日、模範試合が行われる
  5芥 龍之介、帝国劇場でバッハなどを聴く
  7万 新富座の越後一座の語り物大入
  12万 有楽座で初の発声活動写真、好評
  13万 柳盛座で拳闘対柔術試合、特等50銭・一等40銭~三等20銭・四等15銭
  15読 歳の市、深川八幡相応に賑わうが品物一向に売れず
  18読 浅草観音歳の市、雪の影響でも相応に賑わう
  22朝 神田の歳の市、見張りの巡査は200人
  25森 鴎外、樅の木に燭火を點し、クリスマスの 真似をする
  27万 メキシコ特使の歓迎会、提灯行列など出て 2万人

 

大正二年は不景気、でも娯楽はそれなりに

江戸・東京庶民の楽しみ 148

大正二年は不景気でも娯楽はそれなりに
 大正二年の事件としては、二月に護憲派の民衆が議会を取り巻き、桂首相は内閣を総辞職する。この総辞職は「大正の政変」とされ、藩閥政治がおわり、あらたな政治の始まりを期待させた。しかし、政局は不安定で、政費削減が進められたものの、景気は改善しなかった。
 東京では、二月に神田で大火があり3千8百戸が焼失。不況が続くことから、明治天皇崩御の暗さを引きずったままで、市民のレジャーも停滞していた。この年流行したのは、ローラースケート、女優まげ(前髪を七三に分ける)などがある。人気スターは松井須磨子、歌は「早春賦」「鯉のぼり」などが流行した。上野動物園の入場料、大人5銭、小人3銭。入園者数68万人。
・一月「待ち兼ねた藪入」「大繁盛の浅草公園」十六日付東朝
 元日といっても喪中という意識があるせいか、人出はどこも多くなかった。新聞にも正月気分を感じさせる記事は少なく、せいぜいかるた会が盛んに行われているという話題くらい。それでも、上野動物園には元日に、3千人を超える入場者があった。また、市内の市電の乗降客数は、三箇日ともほぼ同じくらいで約64万人である。前年に路線が増加していることを考えれば、この数字は多くない。新橋駅の元日の乗客数は、理由はよく分からないが、前年と比べ三分の一近くも減少している。
 十日は亀戸天神の初卯に当たり、早朝から大勢の参拝客が詰めかけた。大相撲も初日から、正午までに桟敷や土間なども埋まるほどの盛況で、その後も大入りが続いたもよう。
 十五日の藪入は、「新しい鳥打ち帽に双子の筒袖」という御定まりの格好をした小僧さんや絹のハンカチを首に巻いた女中さんたちが、浅草に向かう市電に大勢乗り込んだ。ただし、芝公園や赤羽橋の様子を見る限りでは、露店が50軒余、見世物が4軒と以前ほどの賑わいはなかったようだ。
・二月「成田山の大雑沓  参詣人二万以上」「川崎大師の大混乱」四日付東朝
 二月に入り節分、浅草観音亀戸天神下谷鷲神社の豆撒きでは、子供が気絶したという記事が見られる。もっとも、喪に服していたためか、追儺式はいたって控えめであった。東京は、レジャー活動より政治活動の方が活発で、一月に新富座で憲政擁護連合大演説会が開催されていた。十日には護憲派の民衆デモが議会を取巻いて、政府系新聞社や警察を襲撃、派出所や市電も襲い、とうとう軍隊まで出動した。そしてそれ以後も、集会やデモは市内を騒がせた。また、二十日には神田で大火があり3千8百戸も焼失、市民のレジャー機運はさらに沈滞した。
・三月、芸能はいずれも好況(十五日付東朝)他
 蒲田の梅屋敷の入園料が5銭だとか、越谷にすばらしい樹があるとか、ウメの便りが頻繁になっている。彼岸には六阿弥陀詣でにぎわう亀戸が紹介される中、二十日付で、百花園が売却されるという記事がある。百花園は明治年間に洪水のために何度も復旧工事を余儀なくされたが、そのために莫大な借金が残ってしまった。江戸時代からの茶代や今土焼などの販売だけでの経営では行き詰まった。それで、年頭から大人5銭・小人3銭の入園料を徴収するようになったが、それでも効果がなく、このような話がささやかれるようになった。
 芸能では、有楽座は豊竹呂昇の義太夫、浅草国技館で奇術や喜劇、富士館の映画「三日月」など、いずれも好況。中でも、森鴎外が初日の二十七日、長女の茉莉を連れて出かけた、帝国劇場の「ファウスト」公演は特筆もの。これは翻訳劇としては、異例の初日から大入りを記録している。
・四月「お花見大雑閙(ザットウ)」、「飲めや唄への上野」四日付東朝
 四月と言えば何をおいても花見。当然のように連日、花見関連の記事が写真入りで掲載されている。六日付の新聞(東朝)は、墨田堤で見事に咲いた桜の写真が三面トップの三段抜きで、花見の俗化などを書いている。墨田堤の土手に乞食の一団がたむろし、それでも堤の花の下には大勢の人が集い、そこを自動車で走ろうとする輩が花見客に怒鳴られたりしている。土手下の午の御前境内では、放下師(大道芸人)や猿廻し一団と口笛の芸当が行われていた。
 また、江戸川(この江戸川は、東京都と千葉県の境を流れる江戸川ではなく、玉川上水から続く飯田橋近くの外堀に流れ、墨田川に合流する川である)に目を移すと、船上や川岸からサクラを眺めようという風流な一群がいた。路面電車の音さえ気にしなければ、かなりオツな気分の水上花見。もっとも、一時間5銭の乗合船でそこいらを乗り回るような連中は、棹をぶつけ合い、泥酔した挙げく川に落ち、またそれを橋上の上から面白がって見て万歳と叫んで大騒ぎするなど、花見そっちのけで大騒ぎに興じる様子が描かれている。
 翌日の新聞(東朝)では「花の日曜日」「人の山人の海」「無礼講飛鳥山」と五日の花見の喧噪を載せている。特に飛鳥山では、「・・・義太夫を唸る、鬼ごっこをはじめる、綱引きをやる等上野の紳士的なるに引きかえて大の無礼講狂宴乱舞が打ち続く、通りがかりの女の袖いて其女やらぬと芝居がかるもあれば、方々でケンカが持ち上るやら・・・打倒れて前後も知らず寝て居る者は数えるにいとまもないほど・・・」という有り様。このように花見が盛んになる一方で、荒川・向島のサクラは古木になり枯れはじめていた。二十五日付(讀賣)で「花見は尽きない」との見出しで、亀戸の町は四方を工場に囲まれ、空は真っ黒に濁っている。名所も終には破壊されるのか、と危惧している。
・五月「行楽今や酣(たけなわ)」五日付讀賣
 四日は行楽シーズン中の日曜日とあって、東京の名所はどこも大賑わい。各々催事にも工夫を凝らしていたようで、例えば、日比谷公園では、ツツジ園に雪洞がつくられ、グランドでは錦城中学と星電気の野球試合、芝生では幼稚園や小学校の機械体操が行われ、この日一日だけで1万人を超える人出。
 また、十五日付新聞(讀賣)によると、小石川植物園では温室の脇に、ボルネオからやってきたオラウータンが置かれ、それを目当てに平日で5~6百人、休日には2千人もの来園があったとか。森鴎外も六月に入って、娘たち(杏奴と類)といっしょに出かけている。鴎外の関心はオラウータンより植物の方にあっただろう。同年の彼の日記を読むと、「福寿草開く」「芍薬の芽出ず」などの記述とともに、「園を治す」つまり庭をいじるという記述も数回登場する。作業内容など詳しいことはわからないが、なかには「終日園を治す」という日もあり、鴎外のガーデニングはなかなか気合が入っていたと思われる。
・六月「国技館の花菖蒲」二日付讀賣
 六月三日付の新聞(東朝)に「蒲田の菖蒲」の写真。花菖蒲の見ごろを迎え、あちこちの菖蒲園がオープン、なかでも両国国技館の花菖蒲は10万本と壮観で、おまけに菖蒲人形も展示されている。入場料は、大人が15銭、小人が10銭でちょっと高め。玉川の菖蒲も真っ盛り、こちらは無料。
 芝居は、帝国劇場に注目が集まった。「トスカ」「シーザー」と話題を提供。
 前月からの続き物としてスケート巡り(2)の記事(讀賣)がある、麻布・古川に臨んだスケート場が紹介されている。広さは休憩所を除いて36坪(約120㎡)。料金はスケートの善し悪しで、一時間20銭・15銭・10銭と掲示されているが、当分の間半額となっていた。涼みがてら訪れる人が多く、利用者は学生と商人・職人が半分づつ。慶応・麻布・芝中などの学生よりも職人たちの方が上手だったらしい。またこの年、ローラースケートが流行したとみえて、十二月にも盛況ぶりが記事となっている。
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  大正二年(1913年)・・・2月大正の政変
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1月2読 七福神参り・恵方参り、参詣者少なし
  5万 演技座、三箇日は40銭均一で一杯
  6読 かるた会、盛んなる
  8森 鴎外、残雪、銀座を散歩す
  11朝 亀戸天神初卯、朝より参詣者夥しく電車満員  
  11朝 大相撲初日、正午には桟敷・土間も埋まり盛況 
  16朝 待ち兼ねた藪入り、大繁盛の浅草公園
  16朝 大相撲、藪入り連大入りで正午頃に満員
  17読 芝公園と赤羽橋の閻魔、露店50余見世物4 軒で非常に賑わう
  17読 大川、吾妻橋で寒中水泳、見物人堵をなす
  20読 大相撲、千秋楽も満員
  22都 川崎大師の初大師、近年にない賑わい    
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2月2万 オペラ館「絶壁の秘密」好評
  4朝 追儺式、成田山・川崎大師・浅草観音などで催され混雑
  10万 両国国技館で連合大演説会観衆2万5千
  11万 憲政擁護騒擾事件、交番76・市電26両等が襲われる
  13読 深川八幡祈年祭
  14読 国技館で闘牛、大入り満員
  23朝 東西合併大相撲、二・三・四・七日目大入り満員
  21万 富士館「佐倉義民伝」上映、大好評
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3月10読 麗らかな春の光、蒲田の梅屋敷、5銭
  15万 浅草国技館新馬鹿」奇術・奇劇・音楽で満員 
  15朝 呂昇の初日、有楽座の場内を真黒に埋める
  21万 富士館「三日月」連日大入り
  23森 妻、茉莉、杏奴の三人で有楽座に往く
  25読 潮干狩り、大伝馬3円50銭・小荷足1円50銭
  26読 不忍池で自転車大競争会
  27森 鴎外、茉莉を伴い帝国劇場に往く
  28朝 帝劇「ファウスト」初日、新芝居にしては珍しい程の入り
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4月3読 浅草ルナパーク、木馬・汽車活動など一新し盛況
  3森 鴎外、終日園を治す
  6読 上野精養軒でニャーニャー展覧会
  6読 芝の苔香園で小品盆栽
  7読 花の日曜日、電車は花見で満員     
  15読 三越で児童博覧会
  16朝 本郷座の曽我廼家、初日から大入り
  18読 行く春の花、大久保躑躅園・四つ目牡丹・亀戸藤
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5月1読 靖国神社例祭、雑踏を極めたる九段、遊就館に未曽有の大入り
  1読 有楽座でイプセンの「鴨」上演
  3朝 歌舞伎座、雲右衛門の浪花節大入り
  5読 晴れた日曜日、各所の行楽今や酣(タケナワ)    
   12読 太刀山鳳主催の力士運動会
   15読 小石川植物園に猩々(オランウータン)来る
  16朝 宮松亭の落語研究会、相変わらずの一杯
  16朝 全比対明大野球第一戦、入場者2千人
  18森 鴎外、茉莉らを伴い回向院の相撲を見る
  19朝 大相撲三日目、日曜日で昼前満員売切れ
  27読 渋谷に宮益スケート場、すこぶる繁盛
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6月1森 鴎外、園を治す。妻と子供は三越に往く
  2読 国技館の菖蒲、10万本、大人15銭     
  2朝 帝劇「トスカ」初日、梅幸幸四郎で大入り
  2朝 日米野球戦、慶応猛打で再びス軍を破る、観客5千人
  7都 大勝館「銚子の五郎蔵」他大入り御礼
  8森 鴎外、杏奴と類を連れて植物園に往く
  9朝 「これも御時節」講談の席28軒130人に減少
  19都 真砂座「弘法大治郎」大入り日延べ
  23読 古川のスケート場、涼みがてらの利用
  25朝 明治記念博覧会、上野不忍池畔で開館、大人平日10銭休日20銭
  27朝 帝劇「シーザー」初日から大入り
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