江戸・東京庶民の楽しみ 182
大正十五年中期 夏のレジャーに変化
 東京の人口が増加するに従って、市民の行動範囲が拡散され、行楽地も広がった。また、新たな娯楽も増え、娯楽の多様化は、夏のレジャーにも顕れた。上流階級の避暑は明治から行なわれていたが、庶民については大正時代の後半、関東大震災以後であろう。女性の水泳が話題になったのが大正8年である。それから10年も経たないうちに、庶民も東京から脱出して海や山へ出かけるようになった。
 ラジオの普及は、音楽番組の人気で隆盛である。とはいっても邦楽、いわゆる流行歌ではない。その演目は、新しい曲を求めるのではなく、郷愁を誘うような曲と感じがする。
・五月「不景気挽回策として『電気の市』大活況」八日付讀賣
 行楽シーズンの五月ではあるが、市民のレジャー活動はあまり活発ではない。メーデーも前年より参加人員が少なく、盛り上がりに欠けたようだ。「(聖徳)太子展」は、一日に開会して一週間たつが、まだ物珍しい期間のはずなのにそれにしては入場者が少ない。売上げはそこそこあるらしいが、一日に千人程の入場者しか訪れず、不人気なのは隠すべくもない。また同じ頃、不景気を吹き飛ばそうと、ラジオや電熱器など家庭電化用品の宣伝普及を兼ねた「電気の市」が開催された。期間は十五日より一月間で、展示や実演、格安で販売などのほか余興もあった。入場無料に加えて福引までついたので、毎日1万人程度の客が訪れ、こちらはまずまずの盛況。
 一日から始まった目黒競馬、初日から一等席は閑散としていたが、二等席は大人気。九日の馬券は250万円を突破しそうな勢い。競馬景気は良いようだが、安い入場券を払って馬券に夢中になっている光景は、世間の不景気を証明しているようなものだ。大相撲夏場所は、三日目が土曜日であったにもかかわらず淋しい入り。「野球に奪われたか」(十六日付讀賣)とあるが、同じ日に慶明戦が駒沢球場で行われたが満員との記事はない。大相撲は、人気力士の出羽ヶ嶽が途中休場し、客の入りだけでなく相撲内容も盛り上がりに欠けた。
・六月「電気の市展覧会・・・入場延べ人員三十七万人」十五日付讀賣
 六月に入り、銀座でホタルが売られ、日枝神社の祭、愛宕社の四万六千日など旧来の行事は、忘れられずに行われている。映画や芝居なども特別話題をさらうような作品はないものの、前年よりは盛況。新聞紙上を賑わしているビリヤードは、流行に火がついたような勢いで愛好者を増やしている。電気の市展覧会は、目立ったイベントのない時期だったこともあり、37万人の入場者を迎えて終了した。その他、注目されたのは、戸塚球場で行われた早大スタンフォード大の試合、スタンドは一杯の客で埋めつくされ、歓声のなか早大の勝利で幕を閉じた。
・七月「大氷原に汗を収めて歓楽に酔う人群れ たちまち大評判の樺太展」三日付讀賣
 一日から国技館で大納涼樺太展覧会が始まった。例年、八月の末まで行われている納涼園が、この年は樺太をテーマにして行われた。展示内容は樺太を紹介する映画や物産などで、呼び物は「大氷原スケート場」。その他余興場では曲芸や手踊りなどが演じられた。アイススケート場は、当時の人にとってプールよりはるかに涼しく感じられたと見えて評判を呼んだ。
 ついでに冷房について言えば、帝国劇場も冷房が入っていたことが永井荷風の十七日の日記からわかる。観覧席の床下から「化学作用にて冷風を吹上げ、場内の空気を転替せしむる仕掛をなす」と説明。荷風は、初めは心地良いが、長く座っているとひやひやして「気味悪しくなるなり」と書いている。ちなみに、この冷房この時、市内ではまだ帝国劇場以外に設置されていなかった。
 ラジオの普及に伴って、ラジオ番組への関心も高まっていた。その中でも人気は音楽、といっても当時の音楽といえば邦楽、「長唄」や「うた沢」などであった。そこで読売新聞社は、ラジオ出演者の人気投票を行った。ラジオへの関心が高い時代だけに、百万票を超える投票を得て、人々の嗜好が明らかになった。この投票で喜んだのは、出演者を選ぶのに苦労していたラジオプロデユーサーと高い投票を獲得した芸人たち。投票数の順に示すと第一位は、長唄の吉村考花35万票。二位うた沢の鈴木芝湘29万票、三位うた沢の山田梅吉26万票、四位長唄の岡安喜三郎25万票、五位義太夫の竹本越喜美16万票と続く。また、部門別では、長唄、うた沢、義太夫、琵琶、浪花節、小唄、常磐津、清元の順。なお、二十三年前、都新聞が行った演芸投票で一位であった浪花節の鼈甲斎虎丸は約7万票と順位をだいぶ落とした。
 この年まで、藪入りといえば浅草であったが、それが異変が招じた。浅草の人出は前年の半分、芝居はもちろん、映画も満員客止めが一つもなかった。小僧さんたちがどこへ行ったかというと、十五・十六日、暑さを逃れて海へ山へと出かけた。東京鉄道局管内の乗降客は前年より9万5千人も増加、主な行き先は鎌倉へ1万4千人、小田原へ7千8百人、日光へ4千5百人、大月へ3千8百人、などとなっている。そのため、閻魔参りで境内が賑わうという風景も見ることができなくなってしまった。十八日の日曜も海や山へ出かける市民が多く、50万人の鉄道利用者があった。
 二十二日付(読売)「お茶や大当たり 名物の川開きいよいよ今夜」という予想に反して、雨であっけなく中止。翌日の花火には、船四千艘に10万人、陸上に30万人、計40万人。混雑によるケガ人30人と、順延で気勢をそがれた割りには盛大な花火となった。ただし、水上の観客数10万人というのは疑わしい。陸上の数字は訪れた人に加えて周辺に住んでいて花火を見ることのできた人も見物人としてカウントしているのであろう。
・八月「吐き出された百万の市民 朝からの土用照りに海へ!山へ!の大群」二日付讀賣
 八月に入るや否や朝からジリジリ土用の太陽が照りつけ、バラックの暑さに耐えかねて海や山へ出かけた市民は百万人に達したと。土曜から出かける人は多く、一日の日曜、東京駅から10万人、上野駅からも10万人、新宿駅から16万人、両国駅も6万人の人出。近郊へ向かう私鉄も満員で、玉川河畔に1万人、千葉谷津稲毛が4万人、市内の芝公園プールや月島海水浴場も賑わい、国技館の納涼園は午前中に1万人を突破したという。
 この年は、七月の中旬から雨らしい雨が降らず、例年よりかなり暑かった。そのためか、日比谷公園などで催された納涼イベントは、映画や拳闘などいずれも盛況。そのほか芝浦の花火や近隣地域の納涼行事も賑わったものと思われる。盂蘭盆と日曜の重なる十五日は、省線列車だけでも40万人、納涼の日帰り客で駅は大混雑となった。なお、それまでは二泊三泊で滞在する避暑客がかなりいたが、近年は日帰り客が多くなったとのこと。
────────────────────────────────────────────
大正十五年(1926年)中期の主なレジャー関連事象・・・5月東京府「遊園地取締規則」公布
────────────────────────────────────────────
5月2読 目黒競馬、一等席は閑散だが二等は大雑踏
  2朝 景気よくメーデー、有馬ヶ原に1万人
  2永 銀座通散歩の男女絡繹たり
  8読 上野の太子展入場者一日千人
  8読 遊園地取締り新規則、六月から施行
  10読 大盛況の目黒競馬、馬券250万円を突破か
  15読 電気の市展覧会初日、1万有余の入場
  16読 慶・明野球に奪われたか淋しい大相撲夏場所三日目
  17読 大相撲夏場所四日目日曜日は大入
  21読 市村座「半七捕物帳」他満員御礼
  28永 荷風、百花園に憩う
6月7永 市議会議員選挙の後にて、市中雑踏す
  10読 ホタルの相場、銀座で一匹2銭位
  15読 日枝祭り
  16読 電気の市展覧会の総入場者37万人
  24読 愛宕社四万六千日
  26読 月島水泳場開き7月1日
  28読 戸塚球場で早大スタンフォード大、スタンド埋まり早大勝ち大盛況
7月2読 国技館樺太展開催、スケート場で立食饗宴
  10読 夏の行楽に人気を呼ぶ二つの遊園地(鶴見花月園船橋谷津遊園)
  12読 大森八幡浜に千人風呂・運動場・余興場付の海水浴場店開き
  13読 日比谷公園芝公園納涼会十五日から開催
  18朝 お盆の二日間に動いた人二百万人
  19読 海へ山へ50万人の客、お盆に続く満員にホクホクの鉄道省
  20読 ラジオ演芸出演者の人気投票総数百万を突破、一位は長唄、二位歌澤
  26読 川開きのケガ人30名、人出は40万人
8月2読 朝からの土用照りに海へ山への大群、吐き出された百万の市民
  5永 荷風、銀座を歩む、若き女の支那服を著るもの折々見かけたり
  7読 日比谷公園で映画と実演の夕、賑わう
  11読 歌舞伎座「大盃七人猩々」初日満員御礼
  13読 芝浦の花火十四・十五日
  15読 日比谷新音楽堂で十七日拳闘大会、入場料30銭
  15読 帝国劇場「月形半平太」他満員を続ける
  30読 樺太展、金時計や箪笥などの当たる福引を催し盛況

遊舎主人さんの写真 - 写真共有サイト「フォト蔵

 

大正十五年前期 娯楽の多様化が進む

 江戸・東京庶民の楽しみ 182

大正十五年前期 娯楽の多様化が進む
 大正十五年、この年は、東京が大都市としてスタートした年と見ることができそうだ。世情は徐々に新しい風が吹きはじめ、女性の「断髪」やハンドバックの流行など、女性の進出が目につくようになってきた。またレジャー関連では、ラジオが下層階級にも普及し、市民に欠くことのできない娯楽になった。ラジオが大勢の人々に聞かれるようになっても、だからといって映画や観劇の観客が減少することはなかった。この年のレジャーは、前年にも増して海水浴へ出かける市民が増加した。
 一方、政治は何ら変わることなく、遊廓移転に絡む収賄、機密費の横領などでまたも混乱、与野党とも国民の信頼を失うような醜態を見せた。さらに、この年も国会解散のチャンスはありながら、議員の身分を維持したいがために衆議院を改選せず、また民衆の側からも普通選挙の要求運動は起きなかった。そして、労働運動は盛んであったが、無産政党も内部分裂を繰り返し、アナーキストの出現などで民衆からは遊離していった。
・一月「電車客はさびしい  十二月の平均数より少ない 元旦のお客さん」二日付讀賣
 元日の市電乗車客数は、大晦日から終夜運転した分の乗客数が除かれたため、十二月の平均数より少なかった。東京駅も前年と比べて減収。この年の元旦は、よく晴れて申し分のない天気であったが、市内の賑わいはさほどでもなかったようだ。ただ、湯治避寒に出かけた金持ちは、伊豆箱根方面に2万4千人と温泉場の宿屋は大繁盛だった。主な行き先は箱根1万人、熱海7千人などで、宿屋に落ちた金額は19万円程度だろうと鉄道局は試算した。
 正月の映画や芝居などはまずまずの入りであったが、大相撲は藪入りの日でも六分の入りと悪かった。それは、藪入りや閻魔参りが以前ほど盛んでなくなったことが少なからず影響しているようだ。それでも十日目は、土曜日で学生たちが大勢見に行ったため三四階が大入り、最高だったらしい。
 その他で市民が注目したものは、十三日から上野公園で開会した「こども博覧会」(二月十四日まで)。これを目当てに子供連れで遊びにでかける人も多く、上野動物園は二十四日に2万6千人もの人が訪れた。好天気で動物写真撮影会などのイベントも開かれたため、早朝から入園者が詰めかけ、「園内は人波どよめく」という混雑ぶりだった。
・二月「東京に女師匠が二千二百」十三日付讀賣、「東京に撞球場七百五軒」二十五日付讀賣
 二月に入り吉例の節分会、市内各社寺などの賑わいは格別だった。市内の白木屋では年男に出羽ケ嶽関が豆を撒いた。当時、最も人気を集めたのは成田山の節分会。そのため、日中、両国駅から臨時列車が12本・3千名、上野駅から同6本・2千人もの乗客。夕刻にかけては何万の人出で駅が大混雑になるだろうと予測されている。また、池上の本門寺も相当の参詣人で京浜省線は混雑するという記事を出している。
 「悪法を呪う労働者、長蛇のごとくに」(八日付讀賣)と、七日、芝公園労働組合法反対の集会が開かれた。解散後は、数千名が示威行列し、警官隊の誘導で上野公園に向かった。関所関所では名物のひっこぬき検束もあったが、上野の山に近づく頃には十数万人の人出となった。また、十一日に各地で一斉に建国祭が催され、東京では赤尾敏らが芝公園で演説を行った。
 十三日付の新聞(讀賣)には、「いま東京に 女師匠が二千二百」との記事がある。当時、遊芸人として生計をたてていた人は、東京市統計表によると5千5百人、その数は男女ほぼ同数であった。女師匠で最も多いのが長唄の師匠で540人、次いで生花、清元、琴、雑曲、舞踏、義太夫、琵琶、茶道などとなっている。これらの師匠の住まいというと、長唄と清元は神田・京橋・日本橋・芝・本所・深川に多い。生花と茶道は麻布・赤坂・四谷・牛込に多く、雑曲と常磐津は、芸者や半玉の多い京橋・芝等の下町から江東方面となっている。この地域による違いは、「下層階級の所謂娘を犠牲にして、左団扇で暮らす人なぞが此の師匠の所在にと密接な関係を持って居る」ということらしい。この記事から、趣味やレジャーの世界には、女師匠がかなり存在したことと、また彼女らが花街の一角を支えていたことがわかる。
 関東大震災後、遊技場が急激に増えた、中でも球戯(撞球、ビリヤード)の増加は著しい。東京府下には705軒の撞球場があって、308軒は女性経営者である。そこで働く人は1434人もいる。撞球場数が多く分布している地域は、市内では浅草区京橋区神田区・芝区・本郷区、郡部で荏原方面の大森・大崎など勤め人の多い新開地。撞球場が密集しているのは学生町で、3千人のファンもいる大学もあるという話。撞球場の増加から推測して、ビリヤード愛好者は前年からの爆発的な流行に乗って二倍程度も増えたようだ。
・三月「きょう開会の化学工業博覧会 不忍池畔」十九日付讀賣
 芝居は、本郷座や市村座など新春から客の入りがよく満員御礼の広告が出ている。二月は本郷座が大入り祝いをかね賑やかに稲荷祭を行っており、永井荷風は十九日の日記によれば、新橋演舞場でも大入り稲荷祭を行ったと書いている。また、洋楽演奏会もベートーベン百年祭音楽会などが催され、かなり浸透してきたと思われた。しかし、帝国劇場の歌劇「アイダ」は、「聴衆多からず。場内寂寞たり」と永井荷風の十二日の日記にある。それに加えて、大正八九年頃の好況は見るかげもなく、日本人のオペラ鑑賞は一時の流行だと延べている。
 十九日、化学工業博覧会開会、正門に高さ50尺・直径10尺の高い塔、万里の長城をかたどった土塀、中世風の余興場など、地味な博覧会。「春の上野の人気を集めて」などと書き立てているが、主な観客の対象は専門家や学生などで市民への認知度は今一つ。それでも、月末の日曜日には1万8千人の入場者を迎えた。
・四月「花に群がり酒に酔う きょう百二十万人の人波」十二日付讀賣
 三日の神武天皇祭は雨、臨時列車を用意して三十万円の収入を期待した鉄道省は大当外れ。四日の日曜、「素晴らしい日曜の人出 春光に誘はれて行楽の人の波」(五日付東朝)、上野駅の30万人を筆頭にどこもかしこも大賑わいであった。一日から上野公園では飲食料品の取締りをはじめ、八日からは飛鳥山、荒川、小金井などの順に警視庁が検査をした。そんな警視庁の配慮をよそに、十二日にはサクラも八分咲きの上野に家族連れが殺到してごった返し、飛鳥山ではまだ五分というのに乱痴気騒ぎ、玉川方面へは会社の団体が繰り出し、京王電車や京成電車の沿線にも花見客があふれた。あまりにも多くの人出で輸送機関の限界に達したと見えて、「鉄道省を驚かした日曜のお客百卅万人 レコード破りのこの人出に喜びの裏に大頭痛」(十三日付東朝)と。東京市の人口は大正九年には200万人を超えており、市内の行楽地だけでは足りず、近郊にもドンドン出ている。また、東京府の人口も十四年に400万人を超え、それまで市民の行楽地であった場所が開発され、さらに離れた行楽地へと足を伸ばしている。
 ラジオ聴取者が二十万人を突破したという記事(二十七日付讀賣)がある。この機会に聴取料金が値下げされれば、ファンの幸せとあるが、ちなみに料金は一ヶ月1円である。放送時間は、午前九時四十分から始まって約十二時間。この日の午後七時十分以降の番組は、ニュースの後、通俗化学講座(結核関連)、管弦楽カルメン他)、歌沢(宇治茶他)、山田流三曲(桜狩)、放送舞台劇(那須野與市館の場)となっている。
────────────────────────────────────────────
大正十五年(1926年)前期の主なレジャー関連事象・・・2月松島遊廓疑獄事件
────────────────────────────────────────────
1月2読 元日の電車客は、十二月の平均より少ない
  3朝 割れ返る浅草公園 近来珍しい景気の興行
  4読 正月休みに伊豆・箱根の温泉に出かけた人 2万4千人
  10永 金比羅社新春初めての賽日にあたり賑なり 
  12読 芝居、寄席の福引御法度(十一日付で)
  13読 上野公園で「こども博覧会」開催
  15朝 日比谷に訪欧飛行の四勇士に捧ぐる大歓呼1万人  
  16読 大相撲春場所二日目、藪入りに六分の入り    
  25国 記録破りの人出に動物園の門限を延ばす   
  25読 神田花月入場料1円、小さん等有名人会連日満員御礼
2月4朝 怪物出羽の豆撒き、節分の賑わい
  8読 労働組合法反対、大示威行列は上野山に向けて十数万人

  11読 各地一斉に催される今日の建国祭            
  12読 本郷座「松竹梅湯島掛額」他連日売切れ御 礼   
  13読 本郷座、大入り祝いをかね十五・十六日に賑やかな稲荷祭り 
  13読 いま東京に長唄・生花・清元・琴などの女 師匠2千2百人
  25読 東京に撞球場(ビリヤード)705軒、従業員1,400人
  27読 人気を呼んでいる温泉遊園地、多摩川園    
3月6朝 大東京「修羅八荒」満員御礼             
  8読 市村座「大山と家光」他満員御礼          
   9読 花見の取締り今年は厳重           
  10朝 春心地もなく寂れた浅草、正月以来客は減る一方  
  12永 荷風、帝国劇場で「アイダ」を聴く、聴衆 多からず
  19読 不忍池畔で今日から化学工業博覧会開会    
  19永 新橋演舞場大入稲荷祭り           
  28読 三越で万国時計展、時節柄注目をひく         
  29朝 春風に誘われて郊外へ、上野は化学工業博覧会に1万8千人入場
4月5読 どこもここも日曜日行楽で大賑わい
  8読 日本橋劇場で第一回撞球全日本選手権大会                       
  8読 お花見商売取締り、飲み物を検査      
  8読 きょうの花祭り花神輿、浅草公園から日比谷公園へ、飛行機も飛ぶ
  12永 荷風、草花の種を蒔く         
   12朝 代々木原頭で航空ページェント観衆数万   
  19読 名残りの花に乱舞する人々、小金井に三十万、荒川堤に五十万と
  19朝 神宮外苑競技場で東西対抗陸上競技大会に無慮五万、入場料無料
  22読 新宿御苑で観桜御会、きょう文武高官名士 六千名御召し
  27読 ラジオ聴取者、二十万を突破 
  27永 荷風、夜肆を見歩き赤城神社の境内に憩う

園遊舎主人さんの写真 - 写真共有サイト「フォト蔵」

大正十四年後期 商業娯楽が浸透し始める

江戸・東京庶民の楽しみ 181

大正十四年後期 商業娯楽が浸透し始める
 時代の変化を感じさせる大正14年の後期、東京の人口は増加し、都市構造についても変化していた。市内は、山手線の環状運転が始まり、新宿・渋谷・池袋などから郊外から通勤する人々が増加した。市民の遊び場も、市内から溢れるように郊外へと足を伸ばす人たちが増えて行った。それを見込んで、新たな谷津海浜遊園や多摩川園が開園した。
 江戸時代から続く、自然発生的な遊びに加えて、商売として娯楽を提供することが盛んになり、娯楽の商業化が進んだ。遊びの有料化、お金のかかる娯楽が当たり前になり、市民の格差も目に付くようになった。また、三月に放送が開始されたラジオ、年末には東京の聴取契約者が13万を超えたように、マスメディアが大きく影響することになる。
・九月「大曼陀羅を先頭に・・・日蓮信者の示威」二十五日付讀賣
 九月に入ってコレラが発生。そのため魚市場は閉鎖され、市民レジャーも低調となった。二十三日付(讀賣)には「儲け仕事の野球から 興行税を取る相談」とある。記事によると、スポーツ競技は年々盛んになり、野球をはじめ運動競技に入場料を取ることは珍しくなくなった。ただ、競技を行っているは大半が学生で、体育の奨励という観点からそれまで興行税の対象にはなっていなかった。しかし、学生生徒の運動競技はともかく、野球は専門チームもでき有料試合をしているのだから、他の興行物となんら変わるところがない。例えば、早大のシカゴチーム招聘試合は、高い入場料を取り、その利益がスタンド建設費に使われたというような事例もある。すでに京都府では野球試合に興行税を課した例がある。また、このままスポーツ競技をすべて無税とするなら、相撲も免税にしなければならないとも書いている
 「大曼陀羅を先頭に・・・日蓮信者の示威」(二十五日付讀賣)と、浅草本覚寺の開帳が始まった。この開帳は、正法護国会が読売新聞社の後援を得て催したもの。初日は、信者3万人が二重橋で平癒祈願をし、市中を練り廻り祖師堂まで行列した。市中行列は、開帳の宣伝活動の一環になることは確かで、イベントの少ない時期ということもあって効果的であった。開帳のような宗教活動も盛大に行うためには、新聞社と組み、紙面に会期等の告示をしなければならなくなってきた。
・十月「野も山も行楽気分」五日付東日
 一日は、東京市自治制が布かれて二十七年、日比谷公園で市長などの講演が行われた。講演後は、音楽堂で呼び物「幕末秘史、江戸城明渡し、勝と西郷の談判など・・・興味ある場面」(二日付讀賣)を見せて、満員の観客は大喝采。また、広場でも自治記念日の実況その他映画を放映した。
 四日の日曜日は、秋晴れに誘われて郊外に出かける人が多かった。上野から初石・筑波・妙義・長瀞・大宮方面に8万人、新宿から高尾・井の頭公園・東村山方面に6万人、両国から成田・市川・中山・舟橋方面に1万人など。翌五日は月曜にもかかわらず、水天宮は大賑わいであった。十二日の池上本門寺のお会式は、市電の幹線は終夜運転され、大警戒のなか行われ、30万人の人出。万灯の数は不景気を反映して少なかったが、電気万灯がこの年初めて登場した。十四日付の新聞(讀賣)に「国技館の大菊花 都人士の人気 菊人形に集る」との広告がある。
 市民の行楽は盛んと見えて、十七日の帝展初日は5千5百人の入場者、その翌日は雨天にもかかわらず休日とあって1万人以上が訪れた。市村座で公演されている宝塚少女歌劇も人気を呼び、大入り満員。順延の続いた早慶戦は十九日、正午までに6千7百枚もの切符が売切れ、満員の戸塚球場で催され、結果は早稲田の大勝。観衆は2万人ともあるが、そのほとんどは学生。翌日も大勢の観衆のなか慶応の惨敗。
・十一月、市民は神宮競技大会より映画に芝居
 前月の二十八日から催された神宮競技大会は、新聞紙上を連日賑わした。競技参加者は前年より増えているように書かれ、増えたのは学生や生徒であった。それは、「文部内務両省が馬力をかけて奨励するためもあるが近頃運動体育熱が滅切り盛になり殊に一時『中止』された大学や専門学校の対抗試合迄復活して素晴らしい勢いで進んでいる」(二日付讀賣)ためであろう。神宮競技大会第五日目(一日)は、「決勝戦に人気立ち 意気揚る 選手 各宮殿下の御臨場もあって 雨中の競技白熱す」(二日付讀賣)と伝えている。この年の観客数は不明だが、二十一日付の新聞(東日)によると、入場料の売上げは、外苑競技場が27,595円、野球が6,914円、庭球が981円、水上が1,178円であった。前年の収入額より低いことから見て、観客数も減少したものと思われる。
 また、一日は上野から神田までの鉄道が開通し、省線開通式。「物見高いお江戸に 人波溢れた各駅」(讀賣)と、雨天のなか上野駅に8万人が集まり、御徒町秋葉原・神田の各駅に1万人以上の人出。なお、化粧された駅構内は傘のしずくや足駄の泥で汚れ、試乗に訪れた女子供は混雑する人波に揉まれて“べそ”をかいていたという。
 十一月の新聞(東日)に、富士館で上映されている「荒木又右衛門」の満員御礼広告が何回も出ている。月末まで満員御礼が続き、十二月はさすが満員にはならなかったようだが、上映広告は出ていた。他にも三友館などの満員御礼広告が出ていることでもわかるように、映画観客数は確実に増えている。前年、市内の映画館は増えて90軒になり過剰気味との記事もあったが、各館とも着実に入場者を増やしている。市全体では観客が前年に比べて258万人も増加、大正十四年の映画観客数は1421万人になった。これは、市民(国勢調査から199万人)が一年間に年7回も映画を見たことになる数値である。
 芝居も全般的に入りがよく、この年の観客数は、前年より178万人増加して512万人となった。永井荷風の十一日の日記には、歌舞伎座で上演している「乃木大将」の狂言は大当たりと書かれている。また、この日は東郷大将が観劇に訪れ、その話が楽屋中の噂となった。二十一日も荷風歌舞伎座に出かけ、劇場内の中華料理屋で食事をして帰った。その夜は二の酉であったが、電車は混まず、熊手を携えている人もなし、と書いている。確かに、酉の市に関する記事は皆無で、旧来の行事はすたれてきているようだ。
 三十日付(讀賣)「馬券復活以来の凄じい上景気」。目黒競馬場の入場料は、一等5円、二等2円と安くない。不景気にもかかわらず、二十二日の初日は日曜ということもあって大入り。人気は最終日まで続き、馬券売上高は約270万円、馬券復活以来の最高額を記録。政府が一割天引き、払戻金や賞金などを差し引いても30万円近くの純益が出たという。入場者数は不明だが、一人当たり50円注ぎ込んでとしても、二十九日までに5万人以上が詰めかけたものと思われる。もっとも観客の多くは、馬の走る姿よりも馬券の行方に関心があったことはいうまでもない。
・十二月「夜の日比谷に勇ましい點火踊、皇孫御七夜の奉祝」十三日付東朝
 生活苦による自殺が連日のように掲載されている。納の水天宮などの行事は例年通り行われているが、盛り上がりはあまりなさそう。そのような中、皇孫(摂政殿下の子)誕生が話題となり、同じ日に生まれた子供には金一封が出るような話まであった。誕生を喜ぶ市民の写真や提灯行列の記事など、盛んに紹介しているが参加者はそんなに多くないもよう。新聞は不景気で落ち込んだ民衆の気持ちを少しでも明るくしようと、ことさらにこうした記事を書き立てているように感じられる。
 朝日新聞社は、「同情週間」活動の一環として、貧しい人々を国技館の澤正一座公演「国定忠治」に無料招待した。入場券は、本所キリスト教青年会を通じて木賃宿や細民街などへ9650枚配布。入場者が殺到して混乱しないように、開演四時間半前の正午から開場して人々を待ち受けた。来た人には、お土産に弁当がわりのパンを渡した、これには最後まで席を立たないようにするという意味合いもあった。同情週間中は前年と同じように、おもちゃや餅などが貧しい人々に配布された。
 押し迫った三十日には、暮れから避寒やスキー・スケートに出かける人についての記事がある。この年に出かける人は前年より多いとは言うものの、二十九日のスキー関連は千人に満たない、また箱根・伊豆方面にしても千人余であった。正月に入って客はグッと増加する見込みとは書いてあるが、裕福なごく一部の市民の話であることは言うまでもない。
─────────────────────────────────────────────

大正十四年(1925年)後期の主なレジャー関連事象・・・
─────────────────────────────────────────────
9月13永 氷川神社例祭・・夜谷町通り人出盛なり

  15読 お祭り若衆大暴れ 神輿を家へかつぎ込む  
  17読 神輿から血祭り 担げない若衆達が神酒所に暴れ込む
  18日 三友館「母校の為に」大入り御礼料金値下げ    
  22朝 大久保キネマ「犠牲」他満員御礼        
  23読 新橋演舞場伊井蓉峰一座満員御礼
  23朝 富士館「鞍馬天狗」他大好評日延べ上映   
  24朝 遠征のシカゴ大早大に勝つ、戸塚球場を2万が埋めつくす新記録  
  25読 大曼陀羅を先頭に・・・日蓮信者の示威
  27永 百花園に遊ぶ、墨陀の堤上ボートレースを見るもの群集
   29朝 帝国劇場「オペラの怪人」連日満員御礼   
  29朝 日比谷公園で「話と野外劇の夕べ」7千人の大喝采
10月2読 自治制二十七年 日比谷の賑わい    
  4読 浅草本願寺で植木見本市
  5日 野も山も行楽気分、上野から8万人新宿から6万人出る
  10日 上野不忍池畔で電気文化展開会、30日間 
  12永 夕暮より町々到るところ万灯の光太鼓の響盛なり
  12読 帝国劇場「日蓮上人」他熱狂的大盛況       
  13日 お会式、祖師も知らぬ電気万灯があって人出30万人
  18読 帝展初日5千5百人、13点売約
  19日 市村座で宝塚少女歌劇公演大入満員御礼
  20日 早慶戦正午までに6千7百枚売切れ満員
  29日 明治神宮競技大会開催 
  30永 昼の中より花火の響、天長節祝日なり
11月2読 上野・神田間の省線開通式、試乗多数来訪
  3日 三友館「覇者の心」満員御礼
  8日 富士館「荒木又右衛門」連日連夜大満員
  10永 荷風、夜、虎の門金比羅の縁日を歩む
  15日 国技館の菊人形大好評大人60銭小人40銭
  17日 キネマ倶楽部「禁断の楽園」他満員御礼    
  23日 ポカポカ陽気で浅草仲見世初めての日曜でものすごい雑踏
  24日 ラジオ視聴者、東京府9万8千、市内5万6千
  25日 大東京、阪妻の「雄呂血」大満員          
  25永 木挽町芝居近年になき大当たりにて、昨日千秋楽となれり
  30読 馬券復活以来の凄まじい上景気、目黒競馬の馬券総売上げ260万円
12月2朝 三友館「人間」たちまち満員
  6朝 納の水天宮 きょうの賑わい 
  12読 人形の展覧会     
  13朝 夜の日比谷に勇ましい點火踊り、皇孫御七夜の奉祝
  14日 一高球場で早大対帝大ラグビー満員の盛況
  28朝 同情週間の無料芝居、国技館は正午開場
  30読 暮れから繰り出す避寒客
  31永 銀座街上の雑踏例年の如し。松屋呉服店 店飾りの活人形を観る者堵の如し

 

園遊舎主人さんの写真 - 写真共有サイト「フォト蔵」

大正十四年中期 引締めを感じてか盛んな娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 180

大正十四年中期 引締めを感じてか盛んな娯楽
 4月に治安維持法、5月に普通選挙法と、重大な法律が公布された。普通選挙法は、成人男性の普通選挙実施による政治運動を進めることになり、それに対し、過度の政治運動を抑制するための治安維持と、この二つは「飴と鞭」とも評された。また、治安維持法は、1月の日ソ基本条約が締結されソビエト連邦との国交樹立が、共産主義革命運動の激化の懸念を念頭にしていたとされている。
 大衆は、そのどちらにも大きな関心を持っていたとは感じられない。新聞には、以下のような記事が掲載されているが、遊ぶことの方が優先されていた。それでも、政府の引締めを感覚的にわかっていたような気もする。
 この年を通じて感じるのは、懐古的なムード、江戸を懐かしむ雰囲気が残っていること。翌年から新たな動きに向かうことを予感したのであろうか。
・五月「二重橋の人波と 万民歓呼の声」十一日付讀賣
 メーデーについては、「賑うた『おれ達の日』 五月晴れに威声を轟かせながら 二万余名の人たちが練り廻った 無産階級の大示威」(二日付讀賣)という報道。芝有馬ケ原に36団体が参集。メーデー始まって以来の大入りで、3千名の警官に見守られて行われた。会場に入るまでの坂道で巡査が検査しており、うさん臭い者は遠慮なく検束され、竿や旗などは没収された。宣言の朗読が中止されるなどのことはあったが、会自体は盛り上がった。終了後は会場から大行列が上野へと向かった。途中、巡査が言いがかりをつけて小競り合いが起き、20余名検束などのトラブルもあったが、「四時上野でめでたく打出し」となる。なお、検束者は160名。労働者同士の内紛や警察の過酷な取締、様々な問題を抱えるメーデーに、勤めて間もないはずの赤襟嬢(女性バス車掌)も参加していた。
 九日の夕方から、陛下銀婚式の奉祝は賑やかに開催。翌十日は、朝から日比谷公園から馬場先門にかけて人の波が続き、宮城前の奉祝門のなかは数十万の人で埋められた。公園内では、奉祝相撲、陸海軍軍楽隊の管弦楽、市民の合唱などが催され、身動きのとれない人出。午後になると銀座方面へも人が多数流れ、飲食店はどこも満員、七台の花電車が行き交う通りは車道まで人が溢れた。この日の人出は50万人と報じられ、迷子も95名もあった。
・六月「不景気のお蔭で ダンスが又はやる」六日付讀賣
 市内のダンスホールが増え、十を数えるほどになり、社交ダンスが流行しはじめた。ダンスホールの会費は月10円程、専属の女性が控えているのだから、毎日のように通えばカフェへ行くより格安というのが流行の理由とか。警察の監視が厳しく、この時点では風紀上の問題はないとしている。
 六月も末になると暑くなり、芝公園プールは前年より半月も早くオープン。入場料は大人一時間5銭と、アイスクリームより経済的な消夏法であると推奨。連日込み合い、二十七日の土曜は1,304人、日曜日は1,660人、月曜日でも1,558人もの人が泳いでいる。十五・六才までは無料、午後になると誘い合ってやって来るので実際は2千人以上になる。営業時間は午前八時半より午後五時まで、もう少し暑くなると八時半まで開くそうだ。
・七月「景気直しの川開きが 今迄にない不景気さ」二十六日付報知
 「商人は上がったり 当外れのやぶ入り」(十六日付報知)と。浅草は書き入れ時とばかり、小僧さんたちを待ち受けていたが、十一時頃になっても人が来ない。平日と変わりないほどの人出しかなく、混雑したのは映画館だけだがこれも例年の半分程度の入り。ただ、おみくじだけはよく売れ、不景気を反映したものと書いている。また、小僧さん達は浅草や上野辺では満足せず、山や海へと出かけるようになり、この期間に品川から3万5~6千人、東京駅から1万5~6千人、等々との乗客があった。
 また、同じ十五日に、日比谷公園では納涼会が催された。素人相撲や映画などを楽しむ人が公園内を埋めつくし、人出20万人の賑わいと。翌日はそれ以上の35万人と見込まれ、人出でが多く迷子が4名(前日は十数人)、卒倒1名、負傷者14名も発生した。なお、婦人にけしからぬ振舞いをする者が多く、その中でも悪質な者を15名も検挙、また不良少年少女の団長を6名検挙。この納涼会は、市電の乗客増加を狙って五日間にわたって行われたが、人が集まったのは最初の二日間だけだった。残りの三日間は激減。市の社会教育課の選定した映画が人気がなかったのが原因をなどと責任のなすり合いをしたが、官製の納涼会企画は見事に失敗した。
 二十五日の川開きは、今迄にない不景気であったらしい。混雑していたのは両国橋付近だけとあるが、混雑の取締りに3千人以上の警官が配置され、2百艘の船で警戒したところを見ると人出は多かったものと思われる。他紙(讀賣)は「大景気の川開き 人出四十万」、呼び物の銀婚式の仕掛け花火が揚がるころには身動きのできぬほどの混雑ぶりとある。迷子や救護所の状況は、迷子18人、10カ所の救護所は脳貧血や負傷者で満員だったという。たぶん、人出はあったものの料亭をはじめとする屋台商人たちの実入りが悪かったのであろう。
・八月「盛り返した暑熱に海水浴場大繁盛」二十一日付讀賣
 「景気を煽る 夏祭り」(十三日付讀賣)。震災で神輿が焼けたり、氏子が亡くなり祭の復活は遅れていたが、深川八幡の夏祭は復活した。「焼けた神輿数百台を復活し軒提灯美しく復興の意気を見せ」と、手古舞や茶坊主の余興など趣向を凝らしている。洲崎では新たな氏子5百戸を加え、毎夜素人相撲で景気添えるとか。
 この夏、八月の半ばを過ぎても、海水浴場はどこも賑わっているらしい。七月の末十日間の鎌倉や磯子など神奈川県内の海水浴場の利用状況が示された。海水浴客は18万人。事故は溺死1名、盗難13件、負傷50件と比較的少なかった思われる。なお、「男女混合して叱り飛ばされたのは」103件あったというから、神奈川県内の海水浴場では男女は分かれて泳いだのだろう。
 三十一日付(讀賣)「増える一方の娯楽場、この不景気を控えて 震災後四二ヶ所の増加」。劇場や映画館、寄席などの娯楽場はいずれも経営難に陥っている。それがわかっていながら、後から後からできるのはどうしてか、と疑問を投げかけている。こうとた娯楽場の数は確かに増えており、大正十一年十二月に比べると、映画館27、寄席15、劇場3ヶ所も多くなっている。また、遊技場の数も著しく増加して、震災前(493)の倍以上(1022)になっている。特に増えたのが球戯(ビリヤード)で約二倍(504)、碁会所(麻雀を含)は約五倍(273)になった。

─────────────────────────────────────────────

大正十四年(1925年)中期の主なレジャー関連事象・・・4月治安維持法公布/5月普通選挙法公布─────────────────────────────────────────────
5月2読 メーデー2万余名の人たちが練りまわる
  3読 熱海温泉の不評判で週末列車ガラ空き
  10読 大婚二十五年奉祝、提灯行列や篝火会
  11読 奉祝、丸ノ内馬場先門内外に50万人の人出  
  11読 目黒競馬第二日目 大変な人出と物言い    
  11読 本郷座「堀川」他各等全部売切れ
  23読 堀切のむさし遊園地 花々しく開園
  27永 荷風、百花園に往く。園中人なく      
6月2日 鮎漁、今年は近来まれな7寸の大出来     
  6読 不景気のお蔭でダンスが又はやる          
  6読 避暑地人気投票、一位赤倉温泉二位大洗
  6日 警視庁がダンスの取締り、東京府内のダンスホール56ヶ所
  17朝 江戸らしい香い 山王祭りのお神輿が通る
  22朝 明治神宮外苑で早慶対抗競技 満都の人気を集めた
  27日 堀切菖蒲、満開見頃
  28読 子供の遊戯「隠れんぼ」や「鬼ごっこ」廃れ、大人の遊戯を真似る
  28朝 芝公園のプール開き、収容人員350人、大人5銭                    7月2読 へちまの風呂と新装の丸子園
  5読 森ヶ崎海水浴場開き
  6読 芝プールに一日千6百人押し寄せる
  7読 東京付近で許可された水泳場、約80ヶ所
  16読 多摩川丸子大花火十九日開催
  16読 日比谷公園納涼会第一日、人出20万人の賑わい
  16報 商人上がったりの 当て外れの藪入り
  21読 大磯・葉山の避暑、前年より千人増加
  24読 国技館の納涼園大人気
  26報 景気直しの川開きが今までにない不景気さ
  30読 明治神宮、夜も参拝・祭礼に許される                          8月2日 浅草松竹座、柔道拳闘大試合
  6読 歌舞伎座の「新版歌祭文」文楽座の人形芝居毎日大入り
  13読 深川八幡大祭、神輿数百で復興
  14読 洲崎神社祭礼、毎夜素人相撲で景気添え
  21読 盛り返した暑熱に海水浴場大繁盛
  24日 国技館の納涼園、三日間大福引デー
  31読 増える一方の娯楽場、震災後42ヶ所増加
  31永 八月中は人皆避暑に赴きし後にて来訪者少なく、閒居には最好き時節なり


  園遊舎主人さんの写真 - 写真共有サイト「フォト蔵」  

大正十四年前期 新たな風は娯楽にも

江戸・東京庶民の楽しみ 179

大正十四年前期 新たな風は娯楽にも
 大正十四年三月、普通選挙法案は、枢密院や貴族院での修正が加えられるなど難航したが、ようやく治安維持法とともに成立した。七月、加藤内閣は、閣議で税制などの意見が異なり総辞職。本来なら、あれほど熱望した普通選挙が可決されたのだから総選挙を行えばよいものを、議員は自分たちの権益を維持するために総選挙を回避した。そんな国会に対し、民衆からの反応というと不思議なことに選挙実施の要望は目につかない、感じるのは国政への関心のなさである。「世は不景気ながら天下は至極泰平」(三月二十三日付讀賣より)であるからかもしれないが。
 東京の町は復興から新たな都市へと大きく変化していた。市内の人口は約二百万人に回復し、周辺部の人口は震災前の倍近くに増えて市内の人口とほぼ同じくらいになった。鉄道網は、新宿・渋谷・池袋などをターミナルとする私鉄12路線によって張りめぐらされ、周辺部の住宅化が進められた。私鉄の乗客は一日34万人、十一月、上野・神田間が高架で結ばれたことによって山手線が環状運転を開始し、郊外から市内への交通はさらに改善された。レジャーも沿線で行われるようになり、谷津海浜遊園(京成電車)、多摩川園(目黒蒲田電車)が開園した。
 この年の流行は、三月に試験放送を開始したラジオで、年末には東京の聴取契約者が13万を超えた。また、ダンスホール東京府内に56ヶ所できるという流行。ビリヤードや麻雀などの愛好者も著しく増えている。流行歌は「磯原節」「酋長の娘」など。
・一月「ホクホクの芝居大国」二十四日付讀賣
 元日の市電乗車客は135万人、不景気とは言え、三箇日それぞれが前年より10万人ちかく増加している。人出は、数字の上では震災直後の正月より上回っているが、着飾った人が少ないこともあって賑やかさに欠けていたようだ。それでも明治神宮は、元日の午前中に約10万人の人出で賑わった。その他の場所は、不景気とあって例年のような賑わいは見られなかった。しかし、芝居や映画は、前年の暮れまでの不景気が嘘のようで、開ける芝居がすべて大入り、まるで角力場へ行ったようだと書かれている。正月興行からの芝居人気は、その後も続き、「ホクホクの芝居大国・・・歌舞伎も市川も帝劇も満員続き 不景気を知らぬ春の総勘定」(二十四日付讀賣)とある。最も入りの悪かった新派合同の本郷座でも六分の入り、浅草はどんなものを出しても入るといわれるほどであった。これに対し九日から初場所の大相撲は、前景気はよかったが蓋を開けるとかんばしくない。世間が不景気のため、もともと客の入りのすくない初日は淋しく、桟敷後の特等席は「根っからの不入り」であった。ようやく大入りをむかえたのは藪入りの七日目、三四階がザット一杯になったという。
・二月「第一日の申込 八百人に達す ラジオの受付開始」十七日付報知
 ラジオ放送受信の手続きが始まった。市民の関心は高く、どのような受信機が良いかという問い合わせや機械の購入を心配してくれなどという相談も多かった。まだラジオ聴取規則が知られていないこと、仮放送も始まっていないので、申込みが本格化するのは、三月一日からの放送(正午から約20分間歌澤「春賑」など)が始まってからでしょうと報じられた。
・三月「二日つづきの休みに 恵まれた 春の人」二十三日付讀賣
 十日、中央畜産会による畜産工芸博覧会が開催された。期間は70日で、五月十八日まで。十一日からは三越で、「ふしぎな庭園に 国々のおもちゃや 全国から珍品を集めた」児童用品展覧会が六日間開催。十六日からは、浅草公園で保健博覧会が三カ月間の会期で始まった。「珍品もある」との見出しで、子宮外妊娠の標本や「変態性欲者高橋おでんの標本」などの他、「衛生活動写真」を演芸館内で上映した。
 二十日付(讀賣)で「二ツの芝居小屋で 今月稼ぐ 六十四万両」。入場料は“ベラボー”に高くても歌舞伎座と邦楽座は盛況。歌舞伎座は、開場以来定員2千3百の座席がぎっしりの寿し詰めとなり、臨時の売切りで減額する代わりに、補助席で数を稼ぐ。邦楽座は、特等8円という高値で歌舞伎座以上の大入り。かなりの売上げになるが、支配人はこれだけ稼いでも儲け足らぬとのたまう。一方で、中流以下の人々はよほど不景気らしく、芝居を観る以外無駄な金を使わない。そのため、劇場の入りは確かに好成績であるが、場内の売店の売行きは悪いという。
 お彼岸のおかげで二日続きの休み、ポカポカと暖かくなってきたこともあって外出した人が百万人に届きそうだと。市電の乗降客は約130万人、浅草・上野・荒川土手方面の三ノ輪線が18万人と最も多かった。汽車で出かけた人も13~4万人、大半は遊山客、その多くは一夜泊まりであろう。このように人出があるのは、例によって「世は不景気ながら天下は至極泰平といったわけである」からか(二十三日付讀賣)。

・四月「東京が留守になるほど 出るも出たり二百万人」二十日付東朝
 四月に入り、「ことしの汐干狩りは アサリのよく取れる 場所は六郷、隅田、中川、江戸川尻」(二日付讀賣)と、お花見と汐干の船の相場が書かれている。船頭二人付の伝馬船が30円、船頭一人付の荷足船が15円、モーター付の小荷足船は13円。花見船は、昔を偲ぶ向島堤の花も失せ、屋根屋形船も時代遅れとなり、今はモーター荷足で隅田川の上流へと上る。乗り心地もよく五時間ほどのコースで、10人乗りで30円位。船宿も昔よりは少なくなったが、それでも神田川をはじめとして50軒ばかりある。
 「花よりお先に 気早な浮れ人」(四日付讀賣)と、花の咲くのを待ちきれない市民が、祭日にどっと出かけた。三月の下旬が寒かったことで開花が送れた。飛鳥山などは蕾でも2万人の花見客。上野はところどころ開花、訪れた人は開催中の家庭文化展覧会に吸い取られるように入り4万人。休日毎に市民の行楽熱は高まり、お花見最後の日曜、上野、飛鳥山、江戸川堤、小金井、荒川堤、多摩川は言うに及ばす、東京近在のレクリエーション地には、日和も良くものすごい人が出た。一日の市電の乗降客は2百万人と本年度の記録破りらしく、列車も電車もハチ切れそうな盛況で百万人以上ともいわれた。飛鳥山の王子電車が創業以来の20万人の乗降客、上野公園は15・6万人など。人出の割りには不景気なのか酔っぱらいは少なかったが、飛鳥山の迷子81人、喧嘩は多く101件で重傷者も出た。この年の春の行楽は、自然発生的な人出としては、これまでにないような規模であった。
─────────────────────────────────────────────

大正十四年(1925年)前期の主なレジャー関連事象・・・1月日ソ国交回復
─────────────────────────────────────────────
1月2読 元旦の参拝、明治神宮午前中約十万人お護り1万3千お札1万5千
  5読 正月の芝居・映画は近年にない景気
  6日 三箇日の市電乗車客、一日当たり130万人余、収入9万円余
  10読 築地小劇場ジュリアス・シーザー」他連日満員の盛況で日延べ
  10読 大相撲初日はかんばしくない
  16読 藪入り、大相撲七日目、初めての大入り
  20永 夜九時溜池演技座興行中失火       
  24読 ホクホクの芝居大国 歌舞伎も市川も帝劇も満員続き
2月1日 神田南明座「巴里の女性」満員御礼
  4朝 市内各神社追儺式催す、浅草観音虎の門金比羅・深川八幡などが賑わう
  4日 節分で成田行きは鈴なりの満員
  5読 築地小劇場桜の園」日々大入り
   9朝 新宿園でアサヒグラフデー 興奮と満足の3万人の入場者
  10日 神田シネマパレス「アルト・ハイデルベルヒ」満員御礼
  12朝 紀元節治安維持法反対の示威運動
  13永 荷風、赤坂豊川稲荷に賽す
  17報 ラジオ受付初日、800人に達す
  25朝 歌舞伎座「尼将軍」他連日売切れ
3月1朝 試験という名目で今日よりラジオ放送開始
  11読 畜産工芸博覧会開場式、五月までの七十日間                          11永 荷風、帝国劇場で歌劇「エルナニ」を聴く 
  14読 十六日から浅草公園で保健博覧会、三ヶ月間開館
  14読 三越で児童用品展覧会
  19日 日暮里大火、2千戸焼失 20読歌舞伎座と邦楽座、入場料高くても大入り
  23読 二日続きの休みに外に出た人が百万人にとどきそう
  25読 畜産博覧会で福引
  31永 荷風、自動車で荒川堤を巡り百花園に憩う  
4月2読 アサリのよく取れる六郷・隅田・中川・江戸川尻
  4読 上野の人出を吸い込む家庭文化展覧会、祭日に4万人
  5日 武蔵野館「乗合馬車」他満員御礼
  9読 絵巻を偲ぶ花祭り 春雨晴れ日比谷賑わう   
   16読 夜を徹して 帝国ホテル国際的ダンス会    
  18読 飛鳥山、落花をあびて大浮かれ        
  20朝 出るも出たり二百万、最後の花見日和
  28永 招魂社祭礼
  29永 荷風、夜重ねて歌舞伎座に音楽を聴く

園遊舎主人さんの写真 - 写真共有サイト「フォト蔵

大正十三年後期 復興を感じさせるのは娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 178

大正十三年後期 復興を感じさせるのは娯楽
 震災から一年、市民の遊びを見ていると、それなりに復興していたものと感じられる。その娯楽・行楽活動から、東京には様々な人々が生活をしていて、それぞれの階級ごとに楽しんでいたことが見えてくる。
・九月「お中日、被服廠跡は雨のようなお賽銭、上野の各展覧会や動物園も大入り」二十四日付東朝
 一日には、東京府・市は、震災一周年を記念する様々な行事を企画した。府市連合の尊難死者弔祭式をはじめ、震災展覧会、丸ノ内と上野で記念講演、上野・芝公園などで活動写真会、防災宣伝行列など。また、地域や民間でも、鮮人追悼会、川施餓鬼、惨死娼妓の追悼会、震災追悼会、観音堂の追悼会などいくつもの追悼供養が催された。八月の末にはこれらの会に参列するため、上野・東京・新宿などのターミナル駅に、毎日3万人前後の避暑客が戻ってきた。
 震災関連の行事が一段落すると、秋の行楽が盛んになっていった。秋晴れであった二十八日、上野は、動物園、展覧会、図書館などどこも混雑した。動物園の入場者は1万2百人、動物園の門前には自家用車が常時12~3台待機するなど上流階級の家族連れも少なからずいたようだ。展覧会は、美術協会展が2千人、二科展が2千5百人、美術院が3千5百人。図書館も満員、帝室博物館は2千人以上。広場では野球の試合が行われ、露店がならびまるでお祭のようであった。上野山内を散策する人たちを目当てに、救世軍は日の暮れるまで熱心に「ドンドンブカブカ」とやっていた。
 震災後、郊外の宅地開発が進み、レジャー施設整備も進んだ。二十五日、調布グランドで慶応対明治の野球試合が始めて行われた。東京の屈指のグランドで、風光明媚な田園都市に造られたもので、8千人収容できた。また、十月にも、大泉学園で沢村宗十郎水谷八重子などを招いて、大泉学園都市林間舞踏大会が催された。渋谷等のターミナル駅周辺が歓楽街化するとともに、郊外にもレジャー施設がつくられはじめた。
・十月「お会式の人出四十万 震災後二年振の賑かさ」十三日付讀賣
 十二日の池上本門寺のお会式は、震災後二年ぶりということで朝から練り込む人で混雑し、警視庁の調べで午後八時迄に38万人の人出。大森駅から本門寺までの道は、歩くというより押されて進んでいるという感じであった。深夜になって小雨が降りだしたがものともせず、道路は人の波に埋まり、近来にない大混雑であった。警察は500名体制で警戒、それに青年団在郷軍人等の強力をあおぎ、賽銭泥棒9人、スリ1人を検挙した。
 「きのう帝展の入場九千人 モデルの芳子来る」(十八日付讀賣)。帝展内部にゴタゴタがあっても、秋晴れには人の足は上野に向かった。伊東深水のモデル芳子嬢が訪れて、絵の前に立つと黒山の人だかり、芳子が動くとそれにつれて見物客も波のように進んだ。入場者は記録破りといわれたが売約は至って少なく、彫刻は一点も売れなかった。行楽の人出も多く、各電車は増発満員、十七日は新嘗祭ということもあって、芋堀や釣りなどに郊外へ人が流れ出た。「終日よいお天気に何れも鱈腹郊外の秋を味わい午後三時頃から手土産提げてバラックの街へ帰った」と。
・十一月「観衆六万華やぐ応援に 雪脛飛ぶ女子競技・・・神宮競技の第四日」三日付讀賣
 前月の三十日に、完成した明治神宮外苑競技場で明治神宮競技大会の開会式が行われた。観衆の数は不明だが、選手は約4千人。読売新聞の片隅に、「下駄では入場できぬ」と枠で囲まれていた。競技は五日間にわたって催され、二日の日曜日は陸上競技、「観衆六万華やぐ応援に 雪脛飛ぶ女子競技・・・神宮競技の第四日」と、いささか大げさな見出しである。選手や役員など無料の人々は約1万人、残り5万人が有料でその収入は2万3千8百円余。ざっと計算すると入場料金は一人当たり50銭になる。最終日までの入場料の合計が約4万円であったことから、延べ8万人程度の観客があったものと思われる。なお、競技大会運営には、5万円以上かかったと見られる。
 四日には、パリ・オリンピック大会の外国優秀選手4名と国内選手約百名による国際競技会が明治神宮競技場で開催した。主催は東京朝日新聞社、大会の様子は本社飛行機を飛ばして撮影するなど、大々的に報じられた。第一日の開会式には、観衆が3万人(五日付朝刊)とも2万(五日付夕刊)ともあるが、大スタンドははち切れんばかりの満員の写真がある。ただ、観衆のほとんどは、「高師、一高、第一高女、近衛四連隊の団体など」と思われる。一般市民は、平日でもあることからあまり多くはなかっただろう。ただ、明治神宮競技大会に続いて開催され、連日のようにスポーツ報道が新聞に載ったことから、市民のスポーツに対する関心は以前にも増して高まった。
 「豪州馬も出る目黒競馬」(十五日付讀賣)と、競馬熱も盛んである。二十三日の最終日は盛況で、かなりの人が出かけたようだ。観客数は示されずに、馬券の売れ高だけ書かれ、二十九日の新聞には何と1千万円を超えたという。不景気といわれる中で、競馬場は異常なほど景気がよかったが、一攫千金を夢見る人たちでわき上がっていたのだろう。それまでの競馬もギャンブル性はあったが、これほどは加熱していなかった。この時はまだ荒んだ光景は記事に出て来ないが、連日競馬場に通い、大損をしたような人がすでに出ていたものと思われる。
 この年は三の酉まであったからか、例年よりも新聞で多く取り上げられている。二十六日の浅草大鷲神社には、鳥居をくぐる人が一分間に千人、それが午後七時から九時まで続いたとある。また、吉原裏門の出入者が3百人。これらの数値から計算すると、少なくとも6万人もの人が来たことになり、かなりの混雑であった。事故は、迷子が8件、スリ被害7件、検挙5件、卒倒負傷9件、賽銭拾いが32件など。前年までの警察の取締状況をみてきたが、賽銭拾いが独立して分類されたのは初めてである。かなり大々的に拾い集めていたものと思われる。
 二十四日付(東朝)で女工さん達の学芸慰安会が紹介されている。その内容は「一日二十四時間、夜となく昼となく不断に廻転する工場の機(はた)の前に殆ど立ちづめに働く幼年の男女工を初め年頃の娘が働く、他には何の楽しみもない工場生活の単調さと遠くは北海道、青森から長野、新潟あたりの山奥から出て来た郷愁を慰めるため、亀戸の東洋モスリン工場寄宿舎では二十三日夜こうした世界には珍しい学芸慰安会を催した演ずるものは少年少女工が毎日本の少しばかりの時間を割いてはいろいろの学科を学ぶ合間に稽古した歌劇や対話十七八種類」というもの。会場の寄宿舎は男女工員で満員、歌劇は金切り声の子守歌やお国なまり丸出しの台詞。ささやかなレジャーではあるが、それだけに彼や彼女たちにとってどれほど楽しい一時であったか。
・十二月「賑かなは戸外ばかり 財布はカラの大晦日」三十一日付東朝
 「心は心を動かす・・・白熱化せる同情週間」(十八日付東朝)。東京朝日新聞社は、困窮者に対し「同情週間」企画、慰問袋の寄付や同情金の募金などをもとに、バラック街を慰問した。曽我廼家五九郎、十郎一座、左団次一座などは、同情劇公演を行い売上げの一部を寄付している。同情劇公演は、いずれも有名俳優たちの出演、「忠臣蔵」など人気興行のため多くのお金が集まった。
 困っている人がいる中で、「一万円のクリスマス」(二十六日付東朝)。二十五日、帝国ホテルでは一人前5円の会費でクリスマスパーティーを開催。オーケストラの演奏するクリスマス・キャロル、サンタクロースが大きな袋から裕福な家庭の子供たちにプレゼント、演芸場では映画やお囃子・舞踏など、大変な賑わいだった。当夜の来客は、2千人を下らず深夜まで賑わった。
 「賑かなは戸外ばかり 財布はカラの大晦日 公設市場さえ淋しい客足に 商人の泣言くらべ」という見出し。銀座通り日本橋などは賑やかな暮れの気分が漂っているが、一寸横町へ入ると公設市場も閑散。例年なら、晦日の夜といえば黒山の客であったが、この年はいつもの半分から三分の一の売上げだという。不景気は、歳末の景気を占う歳の市からわかっていた。十七日の浅草観音様の歳の市は、朝から大変な人出で、人の波が織るように続いたが、羽子板など肝心の商いは不景気だった。
─────────────────────────────────────────────

大正十三年(1924年)後期の主なレジャー関連事象 
─────────────────────────────────────────────

9月3朝 本所被服廠跡へ一日の参拝60万人、賽銭4千円
  4読 向島百花園の虫放し会と余興、会費50銭
  8朝 映画演劇展、晴れの日曜日大入り6万人
  14読 乃木神社大祭、6・7千人参拝
  24朝 お中日、被服廠跡は雨のようなお賽銭、上野の各展覧会や動物園も大入り
  26読 演技座「五九郎劇」連日満員
  26読 調布グラウンドの初試合、慶応対明治
  27読 季節物の茸狩、東京近郊では初茸り
10月10読 大泉学園都市林間舞踏大会、沢村宗十郎水谷八重子など
  13読 お会式の人出四十万
  13読 靖国神社秋季大祭二十二日から三日間
  18読 帝展の入場者9千人
  18読 行楽の秋、郊外に流れ出た人波
  18読 ベッタラ市の再興
  25読 日比谷公園の菊の大会復活
  31読 明治神宮競技大会開会式、選手4千人
11月3読 明治神宮競技大会四日目、観衆6万人
  3読 一の酉は日曜、盛んな前景気
  3読 帝国劇場で梅蘭芳こんども大入り
  5朝 四大選手国際競技会が明治神宮競技場で開催、観衆3万人
  6永 荷風道玄坂・・帰途百軒店と称する新開 地を歩む。博覧会場内の売店を見るが如し
  7朝 千代田館「ユイタバ・ラ」他連日連夜満員
  10読 帝国劇場「伽羅先代萩」他連日満員
   23朝 鶴見飛行場で自動車大競走会
  24読 目黒競馬、最終日も賑やか
  25朝 国技館大菊花園満員御礼真珠デー
  27朝 三の酉、夥しい人出
12月13朝 演技座大阪文楽座引越興行、連日満員
   14読 本郷座「忠臣蔵」連日満員御礼
  18朝 同情週間に曽我廼家五九郎、十郎一座、左団次一座なども同情劇、売上げを寄付
  18朝 浅草歳の市、大変な人出であるが不景気
  25朝 浅草遊園第二館石井春波一門説明者競演大会連日満員
  31朝 銀座の歳の市昨日の賑わい

 

園遊舎主人さんの写真 - 写真共有サイト「フォト蔵」

大正十三年中期 徐々に復興 市内の娯楽も

江戸・東京庶民の楽しみ 177

大正十三年中期 徐々に復興 市内の娯楽も
 九月で関東大震災から一年となる。関東大震災からの復興は徐々に進みつつあり、娯楽も少しずつ賑わいを取り戻しつつあった。人心の混乱を発生させないように、メーデーを包囲するように制御し騒ぎにならないよう抑えた。その一方で、落ち込んだ人々の気持ちを盛り上げるため、御成婚奉祝会を東京市は大々的に催した。市民30万人もを動員するイベントとし、奉祝気分を盛りあげ、人々の落ち込んでいる気持ちに潤いを挿した。
 このような手法によって、市民を誘導することができることを確信した為政者(曖昧な表現?)、次の段階へと進むことになる。
・五月「大相撲初日、大入り場さえ四分のさびしさ」十七日付讀賣
 メーデーも参加人員が少なかっただけでなく、二日付(讀賣)の見出しでもわかるように「検束者もあったが 無事に解散した メーデーの行列」と至極穏かだった。それもそのはず、赤坂山王台では2千余名の警官が、3千余名の労働者たちを人垣で囲み手も足も出ないようにしていた。また、前日の夜に、リーダー格の人物は検束した上、会場の入口で問題人物を拘束するなど万全の体制を取った。演説が終わって行進が始まり、途中多少小競り合いはあったが、警官に見守られながら上野両大師前へ集結した。こうして2万人の労働者を集めた第五回メーデーは、事故がなく警視庁は大喜びであったと。
 五月は本来なら行楽シーズンのはずであるが、市民に際立った活動はみられない。一日、大伝馬船7艘に僧侶が20数名分乗した柳橋の川施餓鬼。三日四日と目黒競馬が賑わい、46万円もの馬券の売上げがあったとあるが入場者は6千人余。スポーツも四月からテニスや野球など盛んに行われてはいるが、注目された拳闘選手権試合の観衆が数千足らず。十六日から始まった大相撲、しかも震災後はじめての東京での相撲、国技館は三十万円もかけて改装され、木の香りも香ばしく、復興気分を大いに盛り上げると期待されていた。ところが、初日は、大入り場でさえ四分の入りという淋しさ。もっとも日がたつに連れて徐々に客が入るようになり、十日目は大入りとなった。なお、映画はどこも盛況だったみえて、帝国館が上映した「大乱舞劇舞姫悲し」などは満員御礼の広告が出されていた。
・六月、御成婚の奉祝「夜の浅草の雑踏 芝居も活動も皆客止め」四日付讀賣
 御成婚の宮中饗宴は四日間にわたり、六月四日に終了した。東京市の奉祝は、四日の午前十時半から二重橋前広場で公民3万人、朝野の名士3千人を招じて挙行された。御成婚奉祝会場に3万3千人、この他丸ノ内一帯から日比谷にかけて30万人を超える人出。式後は3千人の立食、日比谷音楽堂で大音楽、花電車、提灯行列と、日比谷を中心に夜まで賑わった。明けて五日は、御成婚奉祝日。午後になって人出はますます増し、夕方からの小雨で花電車は中止となったものの、奉祝気分は盛りあがった。上野付近では、市主催の奉祝実況の活動写真、山下交番前の広場では下谷芸者連の余興、不忍池畔では花火、広小路付近には露店が並び、その人込みを押し分けるように提灯行列が幾組も通った。花電車はなくても、日本橋と京橋には余興場、また銀座まで続く露店は押すな押すなの大盛況。五日の人出はどこもかつてないほどもので、特に浅草は朝から夥しい人で埋まった。芝居も活動も皆客止めになるという大入り、夜になるといよいよ身動きもならないほどの賑わいとなった。
 「この七月で円太郎お廃止 お次に現われるのは 高級円太郎君」(五日付讀賣)との記事がある。円太郎とは市営バスで、この年の一月から震災後の交通を補うため運転されていた。が、電車が復旧するにつれて、当初800台で一日12~3万人乗車を見込んでいたのが5~6万人にまで落ち込んだ。そこで十六人乗り・二十五人乗りの高級車を運行することとなった。ちなみに、円太郎バスはその後十月に料金を市電なみの7銭に値下げ、十二月には「赤エリ嬢」と呼ばれる女性車掌が乗務するようになり、再び市民の人気者となる。以後このバスは、市民の足として親しまれ、レジャーにも欠かせぬものとなった。
・七月「めっきりふえた 婦人の水泳ぎ」二十六日付讀賣
 七月に入り、国技館の納涼園がはじまった。第一日目に早や1万3千人が入園、はじめての日曜日には3万人を超えた。三保の松原より富士の遠望をきかせた大パノラマ、500坪のプール、大小三つの余興舞台などで構成されていた。入園料は大人50銭・小児30銭。この時期、大きなイベントのない東京では、讀賣新聞社の主催、東京大角力協会の後援ということで、大々的に宣伝もされたらしく八月の末までにかなりの客を集めた。
 暑くなるに従って、海や山へ出かける人が増え、「休み続きで汽車は満員」(十三日付讀賣)とあるが、乗客の多くは学生で占められていた。二十一日付では避暑客が前日の日曜でも例年と比べると遥かに少ないと、震災が影を落としている。両国の花火も「ゆうべの川開き 賑ひの客に漂ふ哀愁」「水の上も三百余艘の乗合船で一杯だ」(二十日付東朝)と、新聞の見出だけでは、人が多いのか少ないのかよく分からない。全体的に人出は前年の三分の一も減少したようだ。水上署の発表では乗合船だけで5万人が乗船したが、陸上の人出が例年より少なかったのだろう。ただ、讀賣新聞では、花火見物の賑わいを伝えるとともに、自社の主催しているせいか、納涼園がことのほか繁盛していると書き立てていた。
 この頃、女性の水泳者が増えたことを報じている(二十六日付讀賣)。月島東南の岸壁には20余の水泳場があり、二十日は約2万人が泳いだという。女性が最も多いのは龍田会水泳場で「男千人に対し女三百人の割合」と。前年は多い時でも53人であったというから、この年急激にふえたことがわかる。二十七日は、大勢の人が泳ぎに出かけ、海水の濁っている月島三号地の16ヶ所の水泳場には、下町方面から午前中に6千人、午後二時頃には1万人がやってきて、海面はまるで芋の子を洗うよう。水泳場は、王子・小松川・品川・大井・子安・千住・多摩川など58ヶ所あって何れも賑わった。また、羽田や大森には山の手方面の家族連れが訪れ、3万人を超えた。この年は、近場の海辺や川筋に出かける人が多く、全体では前年の三割以上も増加したという。
 水泳が盛んになると、海水着の流行も気になる。六月二十二日付の新聞(時事)によると、この年の水着はだんだら模様がすたれたとある。当時、女性の水着は国産で1円80銭から7円、舶来品で10円前後。男性は、国産で80銭~3円、舶来品は婦人物とほぼ同じということであった。
・八月「涼を追うて海へ山へ 流れ出た二十万人」十一日付報知
  八月に入り、徐々に海や山へ出かける人が多くなった。十日の日曜、上野・東京・両国等の駅は、日帰り避暑客であふれた。行き先は湘南地方が減って、震災の影響の少なかった東北線信越線沿線が増加した。房総方面も遠い所は賑わいを失い、近場の稲毛や千葉海岸などが人気で、家族連れが3万5千人も出かけた。また、京浜方面の新子安や穴守などの海水浴にも子供連れが5~6千人出かけるなど近在の海水浴場はどこも人気があった。避暑はかなり市民に浸透しているようだが、震災の影響や不景気もあってか、下町の人より山の手の勤め人が多く、全体としては避暑客は少なかった。なお、同日の讀賣新聞に、海上納涼東京湾遊覧船の記事がある。午前十時に出て四時半に帰るコースで、会費は4円50銭であった。
 「泡を食った 房州の避暑客」(十七日付讀賣)との見出しで、十五日の早朝、地震が発生、震源九十九里方面という噂が立つと、大勢の人が早々に引き上げた。例年なら二十五日頃から帰り始めるというのに、地震のせいで8万人程いた避暑客が十五日1万1千人余、十六日に約1万人と、ぞくぞくと東京へ戻っていった。おかげで、駅員は手荷物の激増にてんてこ舞いであったとか。
 「人と思えぬ 空の放れ業」(二十五日付讀賣)が、会費10銭で鶴見汐田海岸で行われた。それは国民飛行協会主催・讀賣新聞社後援による「民間飛行殉難者弔意大会」で、冒険飛行家の日野敏雄が、空中での縄梯子の昇降やパラシュート降下などを披露した。このイベントを見ようという人々の行列は、鶴見駅から海岸広場まで続き、3万人を超える盛況であった。
────────────────────────────────────────────
大正十三年(1924年)中期の主なレジャー関連事象・・・5月アメリカで排日移民法成立/6月護憲三派内閣成立
────────────────────────────────────────────
5月4読 競馬三日目、雨でも大盛況
  4読 柳橋の川施餓鬼
  5読 競馬五日目、いずれも大入り満員6千4百人余馬券46万9千円余
  6日 帝国館「大乱舞劇舞姫悲し」他満員御礼
  8読 海へ海へ、この春の修学旅行の傾向
  8読 新富座「正チャンの冒険」他満員御礼
  11日 遊楽館「乃木将軍」大好評連日満員御礼
  17読 大相撲初日、大入り場さえ四分のさびしさ
  26読 大相撲十日目、さすが日曜日これまでにない大入り
  31永 この夜銀座通雑踏甚しく、日比谷霞関の辺巡査憲兵手に手に提灯を携え路を警しむ
6月5読 御成婚奉祝会、日比谷を中心に人の波、灯の海
  6読 御成婚の奉祝、上野から銀座に人出、浅草は芝居も映画も皆客止め
  9日 米国映画を上映せずと映画会社が決議
  10読 早大球場で稲門、三田を破って優勝、観衆約2万人
  12朝 米国より独・伊の映画がおもしろい
  13読 市内ダンス場撲滅運動、帝国ホテル舞踏場を閉鎖させる
  13時 築地小劇場白鳥の歌」などオープン公演
  30日 米国映画ボイコットの足並みくずれる
7月2読 国技館の納涼園第一日、早や1万3千人
  7読 納涼園、3万人一寸出る
  13読 12日の松方元首相国葬、休み続きで汽車は満員
  20朝 川開き、乗合船は五万人、人出三分の一も減り漂う哀愁
  21読 避暑客、前日の日曜でも例年より遥かに少数
  21読 玉川の納涼花火二十三日
  26読 めっきり増えた婦人の水泳、男子の三割に
  27読 大江戸名残り隅田川の灯籠流し
  27読 池之端実玖稲荷の臨時大祭でガス中毒
  28朝 きのう夥しい 海への人出
8月11報 涼を追うて海へ山へ、流れ出た二十万人
  11読 海上納涼東京湾遊覧船、会費4円50銭
  12読 本郷座で柔道拳闘懸賞試合、特等2円一等1円50銭二等1円三等50銭
  17読 地震で房総方面から避暑客逃げ帰る
  21読 運だめしに納涼園の賑わい
  23永 日中金星顯るるとて人々騒ぎあえり
  25読 鶴見汐田海岸で冒険飛行、3万人の人出
  25読 常盤座、沢村源之助等の「女団七」他連日満員御礼
  31読 避暑客の引揚げで忙しい各駅
  31読 浅草松竹座新声劇「血染の瀑布」好評満員

 

園遊舎主人さんの写真 - 写真共有サイト「フォト蔵」