大正十四年前期 新たな風は娯楽にも

江戸・東京庶民の楽しみ 179

大正十四年前期 新たな風は娯楽にも
 大正十四年三月、普通選挙法案は、枢密院や貴族院での修正が加えられるなど難航したが、ようやく治安維持法とともに成立した。七月、加藤内閣は、閣議で税制などの意見が異なり総辞職。本来なら、あれほど熱望した普通選挙が可決されたのだから総選挙を行えばよいものを、議員は自分たちの権益を維持するために総選挙を回避した。そんな国会に対し、民衆からの反応というと不思議なことに選挙実施の要望は目につかない、感じるのは国政への関心のなさである。「世は不景気ながら天下は至極泰平」(三月二十三日付讀賣より)であるからかもしれないが。
 東京の町は復興から新たな都市へと大きく変化していた。市内の人口は約二百万人に回復し、周辺部の人口は震災前の倍近くに増えて市内の人口とほぼ同じくらいになった。鉄道網は、新宿・渋谷・池袋などをターミナルとする私鉄12路線によって張りめぐらされ、周辺部の住宅化が進められた。私鉄の乗客は一日34万人、十一月、上野・神田間が高架で結ばれたことによって山手線が環状運転を開始し、郊外から市内への交通はさらに改善された。レジャーも沿線で行われるようになり、谷津海浜遊園(京成電車)、多摩川園(目黒蒲田電車)が開園した。
 この年の流行は、三月に試験放送を開始したラジオで、年末には東京の聴取契約者が13万を超えた。また、ダンスホール東京府内に56ヶ所できるという流行。ビリヤードや麻雀などの愛好者も著しく増えている。流行歌は「磯原節」「酋長の娘」など。
・一月「ホクホクの芝居大国」二十四日付讀賣
 元日の市電乗車客は135万人、不景気とは言え、三箇日それぞれが前年より10万人ちかく増加している。人出は、数字の上では震災直後の正月より上回っているが、着飾った人が少ないこともあって賑やかさに欠けていたようだ。それでも明治神宮は、元日の午前中に約10万人の人出で賑わった。その他の場所は、不景気とあって例年のような賑わいは見られなかった。しかし、芝居や映画は、前年の暮れまでの不景気が嘘のようで、開ける芝居がすべて大入り、まるで角力場へ行ったようだと書かれている。正月興行からの芝居人気は、その後も続き、「ホクホクの芝居大国・・・歌舞伎も市川も帝劇も満員続き 不景気を知らぬ春の総勘定」(二十四日付讀賣)とある。最も入りの悪かった新派合同の本郷座でも六分の入り、浅草はどんなものを出しても入るといわれるほどであった。これに対し九日から初場所の大相撲は、前景気はよかったが蓋を開けるとかんばしくない。世間が不景気のため、もともと客の入りのすくない初日は淋しく、桟敷後の特等席は「根っからの不入り」であった。ようやく大入りをむかえたのは藪入りの七日目、三四階がザット一杯になったという。
・二月「第一日の申込 八百人に達す ラジオの受付開始」十七日付報知
 ラジオ放送受信の手続きが始まった。市民の関心は高く、どのような受信機が良いかという問い合わせや機械の購入を心配してくれなどという相談も多かった。まだラジオ聴取規則が知られていないこと、仮放送も始まっていないので、申込みが本格化するのは、三月一日からの放送(正午から約20分間歌澤「春賑」など)が始まってからでしょうと報じられた。
・三月「二日つづきの休みに 恵まれた 春の人」二十三日付讀賣
 十日、中央畜産会による畜産工芸博覧会が開催された。期間は70日で、五月十八日まで。十一日からは三越で、「ふしぎな庭園に 国々のおもちゃや 全国から珍品を集めた」児童用品展覧会が六日間開催。十六日からは、浅草公園で保健博覧会が三カ月間の会期で始まった。「珍品もある」との見出しで、子宮外妊娠の標本や「変態性欲者高橋おでんの標本」などの他、「衛生活動写真」を演芸館内で上映した。
 二十日付(讀賣)で「二ツの芝居小屋で 今月稼ぐ 六十四万両」。入場料は“ベラボー”に高くても歌舞伎座と邦楽座は盛況。歌舞伎座は、開場以来定員2千3百の座席がぎっしりの寿し詰めとなり、臨時の売切りで減額する代わりに、補助席で数を稼ぐ。邦楽座は、特等8円という高値で歌舞伎座以上の大入り。かなりの売上げになるが、支配人はこれだけ稼いでも儲け足らぬとのたまう。一方で、中流以下の人々はよほど不景気らしく、芝居を観る以外無駄な金を使わない。そのため、劇場の入りは確かに好成績であるが、場内の売店の売行きは悪いという。
 お彼岸のおかげで二日続きの休み、ポカポカと暖かくなってきたこともあって外出した人が百万人に届きそうだと。市電の乗降客は約130万人、浅草・上野・荒川土手方面の三ノ輪線が18万人と最も多かった。汽車で出かけた人も13~4万人、大半は遊山客、その多くは一夜泊まりであろう。このように人出があるのは、例によって「世は不景気ながら天下は至極泰平といったわけである」からか(二十三日付讀賣)。

・四月「東京が留守になるほど 出るも出たり二百万人」二十日付東朝
 四月に入り、「ことしの汐干狩りは アサリのよく取れる 場所は六郷、隅田、中川、江戸川尻」(二日付讀賣)と、お花見と汐干の船の相場が書かれている。船頭二人付の伝馬船が30円、船頭一人付の荷足船が15円、モーター付の小荷足船は13円。花見船は、昔を偲ぶ向島堤の花も失せ、屋根屋形船も時代遅れとなり、今はモーター荷足で隅田川の上流へと上る。乗り心地もよく五時間ほどのコースで、10人乗りで30円位。船宿も昔よりは少なくなったが、それでも神田川をはじめとして50軒ばかりある。
 「花よりお先に 気早な浮れ人」(四日付讀賣)と、花の咲くのを待ちきれない市民が、祭日にどっと出かけた。三月の下旬が寒かったことで開花が送れた。飛鳥山などは蕾でも2万人の花見客。上野はところどころ開花、訪れた人は開催中の家庭文化展覧会に吸い取られるように入り4万人。休日毎に市民の行楽熱は高まり、お花見最後の日曜、上野、飛鳥山、江戸川堤、小金井、荒川堤、多摩川は言うに及ばす、東京近在のレクリエーション地には、日和も良くものすごい人が出た。一日の市電の乗降客は2百万人と本年度の記録破りらしく、列車も電車もハチ切れそうな盛況で百万人以上ともいわれた。飛鳥山の王子電車が創業以来の20万人の乗降客、上野公園は15・6万人など。人出の割りには不景気なのか酔っぱらいは少なかったが、飛鳥山の迷子81人、喧嘩は多く101件で重傷者も出た。この年の春の行楽は、自然発生的な人出としては、これまでにないような規模であった。
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大正十四年(1925年)前期の主なレジャー関連事象・・・1月日ソ国交回復
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1月2読 元旦の参拝、明治神宮午前中約十万人お護り1万3千お札1万5千
  5読 正月の芝居・映画は近年にない景気
  6日 三箇日の市電乗車客、一日当たり130万人余、収入9万円余
  10読 築地小劇場ジュリアス・シーザー」他連日満員の盛況で日延べ
  10読 大相撲初日はかんばしくない
  16読 藪入り、大相撲七日目、初めての大入り
  20永 夜九時溜池演技座興行中失火       
  24読 ホクホクの芝居大国 歌舞伎も市川も帝劇も満員続き
2月1日 神田南明座「巴里の女性」満員御礼
  4朝 市内各神社追儺式催す、浅草観音虎の門金比羅・深川八幡などが賑わう
  4日 節分で成田行きは鈴なりの満員
  5読 築地小劇場桜の園」日々大入り
   9朝 新宿園でアサヒグラフデー 興奮と満足の3万人の入場者
  10日 神田シネマパレス「アルト・ハイデルベルヒ」満員御礼
  12朝 紀元節治安維持法反対の示威運動
  13永 荷風、赤坂豊川稲荷に賽す
  17報 ラジオ受付初日、800人に達す
  25朝 歌舞伎座「尼将軍」他連日売切れ
3月1朝 試験という名目で今日よりラジオ放送開始
  11読 畜産工芸博覧会開場式、五月までの七十日間                          11永 荷風、帝国劇場で歌劇「エルナニ」を聴く 
  14読 十六日から浅草公園で保健博覧会、三ヶ月間開館
  14読 三越で児童用品展覧会
  19日 日暮里大火、2千戸焼失 20読歌舞伎座と邦楽座、入場料高くても大入り
  23読 二日続きの休みに外に出た人が百万人にとどきそう
  25読 畜産博覧会で福引
  31永 荷風、自動車で荒川堤を巡り百花園に憩う  
4月2読 アサリのよく取れる六郷・隅田・中川・江戸川尻
  4読 上野の人出を吸い込む家庭文化展覧会、祭日に4万人
  5日 武蔵野館「乗合馬車」他満員御礼
  9読 絵巻を偲ぶ花祭り 春雨晴れ日比谷賑わう   
   16読 夜を徹して 帝国ホテル国際的ダンス会    
  18読 飛鳥山、落花をあびて大浮かれ        
  20朝 出るも出たり二百万、最後の花見日和
  28永 招魂社祭礼
  29永 荷風、夜重ねて歌舞伎座に音楽を聴く

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