家族連れの行楽が目に付く三年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)194
家族連れの行楽が目に付く三年春
昭和三年(1928年)
 四月、在留邦人保護の名目にして、ふたたび出兵(第二次山東出兵)、支那駐屯軍五千人の兵力で山東省の要地を占領した。戦争は刻々と近づいているが、東京市民の多くは無頓着といって良い状況。この判断は、後世になってからの我々ならできることである。そして、翌五月には済南事件、済南で市街戦を起した。東京市民の目をそらせるかのように、新聞は事の重大性を記すことなく、いや書けなかったのかもしれないが、家族連れの行楽を報道している。
 春の行楽は、前年にもまして盛大になっているよううだ。五月五日の新聞には、「遊覧と旅館」の広告が電鉄会社(京成電車東武鉄道電車、玉川電車、目黒蒲田東京横浜電車、王子電車)などによって並べられている。千葉方面の汐干狩、館林のつつじ、第一遊園地・玉川児童園・玉川プール、丸子多摩川多摩川園、尾久の温泉地・あら川遊園・飛鳥山鬼子母神江ノ島など、当時の状況がわかる。


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昭和三年(1928年)四月、第二次山東出兵⑲、春の人出は盛況、花見は「仮装乱舞の夜の飛鳥山
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4月2日Y 雨模様でお手近で御大礼博の入場「十万突破」
  4日a 神武天皇祭、市内は雨でも賑わう
  6日ki 往復とも汽車が大混雑
  8日ki 綺堂、庭の花壇に鶏頭、百日草、矢車草、鳳仙花、サルビア等の種を蒔く
  9日A 「潮の如く押し出した、お待兼ねの花見客」
  9日ki 上野駅は花見客で頗る混雑
  10日A 「仮装乱舞の夜の飛鳥山」人出で大賑わい
  16日A 「花の名残の日曜日、百五十万の人の波」この春の最高記録
  29日ki 靖国神社大祭、九段付近は夥しい混雑
  30日ka 招魂社昨日より祭礼にて人出おびたゝし
  30日y 代々木原頭の天長節観兵式、拝観者三十万
                                                
 春を待ちかねていたかのように、一日、三日の神武天皇祭も、雨が降っても市内は賑わった。八日の日曜は快晴、綺堂は午前中草花の種を蒔き、午後から散歩し「どこも定めし賑わったことであろう」と日記に書いてる。その通り、日比谷公園花まつりをはじめ、上野や飛鳥山は夜までもおびただしい花見客で埋まった。また、上野駅の乗降客20万人、新宿駅が18万人など近郊へも人出があり、「人出百万」y⑨市民の大行楽がスタートした。
 翌九日も、綺堂の日記には「上野駅は花見客で頗る混雑」とあり、飛鳥山では恒例の仮装比べの花見。その賑わいは、王子電車の乗客9万人余にのぼるとある。この春、最も人出があったのは十五日で、名残の花を求めて大勢の市民が行楽に出かけた。
 その後も、市民レジャーは活発である。二十九日からの靖国神社の祭礼、神田辺を散歩した岡本綺堂は、九段付近の夥しい混雑を見ている。三十日に靖国神社を訪れた荷風は、天幕を張った飲食店でサザエ焼を売る者が多く、その匂いが充満していたという。なお、見世物小屋の芸人が外に出て食事をしている様をみて、哀れに見えたりと日記に書いている。
 以上の他に目に付く記事は、日比谷公園の植樹祭、昭和と共に開催されたものである。都市美協会主催によるもので、八千人の参加が記されている。A④
 「お釈迦様に甘茶 盛な花祭り」が、和光会によって四月八日に催された。「花祭りをクリスマスのやうに一般家庭の年中行事にまで普遍化させたいと」ある。y⑨
        
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昭和三年(1928年)五月、鈴木内閣辞任③、潮干狩りが盛んになるなど市民の行楽気運は続く
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5月2日a 「強風、空に鳴って メーデーの意気」と芝公園に「一万五千余の大衆」が集会
  4日A 明治座「ムッソリニ」他、連日満員
  7日A 歌舞伎座平清盛」他、引続いて売切れ
  11日a 大相撲夏場所、初日は民衆デーで賑わう
  14日y 根岸競馬二日目、「二万の観衆」未曽有の盛況
  16日A 海軍連合軍音楽隊「勇ましい市内行進」
  19日Y 三社祭の神輿で13名負傷
  20日A 浅草富士館等「地球は廻る」連日満員
  23日Y 日比谷公園「動乱の濟南」他無料上映に二万の観衆
  27日a 大岡山へ移転後、名物の「蔵前気分」の祭賑わう
  28日Y 明治神宮競技場で第一回全日本学生陸上競技大会が開催され、早大が優勝する
  28日Y 大礼博閉会式最後の賑わい、65日間の入場者百七十四万人で、予定の二倍達成
                                                
 五日土曜日の新聞広告Aには、王子電車が尾久の温泉地・あら川遊園・飛鳥山鬼子母神、ピクニックの丸子玉川・多摩川園、玉川電車が第一遊園地・玉川児童園・玉川プール、東武鉄道が館林のツツジ茂林寺のぶんぶく茶釜、京成電車が谷津や稲毛などの潮干狩り、城東電車が浦安沖の潮干狩り、京浜電車が羽田・子安の潮干狩り、王子名主の滝(入場料大人20銭)が舟遊びや楽焼など、行楽情報が満載。大勢の家族連れが、出かけたものと思われる。
 五月は芝居や映画も盛ん、満員や売り切れの広告が並ぶ。ただ、大相撲夏場所は、入場料50銭の民衆デーの初日が賑わったものの、「情けない二日目不入り、正午近くになっても数えるほど」a⑫。その後も満員になることなく千秋楽を迎えた。相撲の不入りは、「野球や競馬の強い影響」a⑳と書かれている。他方、競馬は人気があったと見えて、十三日の根岸競馬二日目は午前中に満員、二十日の三日目は「三万人」Y⑳で売上げ73万円になる。
 二十日日曜、閉会の近づいた御大礼記念博覧会(東京博覧会)で「東京博福引百貨店でー」。福引の景品は、7百貨店が博覧会に出陳した好評の「鶯色地振袖模様着物及帯・色ミネラーゼ縮緬社交服及帯・紋金紗中越模様袷着物及帯など」。なお福引は、空籤なしで全員に景品が出された。また同日、日比谷公園音楽堂では、新交響楽団の「大衆音楽大演奏会」が入場料50銭で開かれた。

 

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昭和三年(1928年)六月、張作霖爆死事件④、田中義一首相襲撃される⑧、不安の兆しで市民のレジャー気運は衰退
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6月10日A 多摩川の二子渡し付近で“ほたる狩”
  12日A 「この夏は何所へ」房総地方は三百八十万人の避暑客を見込む
  14日ki 山王祭の宵宮で強飯
  17日A 混乱の街をゆう然と山王祭りの行列
  24日Y 水泳場、水上署への出願50
                                                
 六月になると、きな臭いニュースが紙面を占めはじめた。市民の行楽に関する新聞記事は少なくなり、鮎の解禁や“ほたる狩”などお決まりの風物詩的なものだけになった。
 「山王祭り」についても写真だけ。荷風の日記⑭には山王祭の様子が「祭礼の挑燈賑なり、見番の傍に踊屋台あり、土地の芸妓半玉出演する由にて群集雑踏せり」、また「山王権現の祭礼にて妓家茶亭一斉に紅燈を点ず」とある。また、綺堂も「山王祭の宵宮で強飯」を作り、「各町内でも小さい神輿を作って、若い者や子供達がかつぎ廻っていた。わたしの横町へも神輿の渡御があったので、賽銭を供える」と日記⑭に書いている。市内では、他でも祭が催され、花菖蒲や荷風の好む紫陽花などの名所で、市民はひっそりと季節の楽しみを味わっていた。

 

きな臭さを隠すような紙面、三年冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)193
きな臭さを隠すような紙面、三年冬
昭和三年(1928年)
 二月に初めての衆議院議員普通選挙が行われ、辛くも与党の政友会が第一党なった。この選挙で、無産政党の健闘が目立ち、政府はこれらの勢力の弾圧に乗り出した。特に共産党は三月に大量検挙された。六月には治安維持法の改悪によって、労働者の活動は弱体化をたどる。また、政府は、中国国内や欧米の対日環境の変化を無視して、第二次山東出兵を強行した。その上、張作霖の爆殺という軍部の暴走を許してしまった。
 東京市民は、新聞が書き立てているほどには、衆議院議員選挙に関心を示さなかった。市民は、三月から五月までの御大礼記念博覧会、十月末頃から十二月中頃まで大礼奉祝などに託つけて遊ぶことに熱心であった。この年、不況はさらに深刻な状況に進んでいたが、その間も、花見や花火、海水浴、オリンピック、お会式などを市民は楽しんでいた。
 市民の多くは、選挙でも政治は変わらないということを察していたのだろうか。流行した歌は感傷的な『出船』『波浮の港』『君恋し』などであった。また、説教強盗や偽札の横行も世間に話題を提供した。
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昭和三年(1928年)一月、衆議院解散(21)、諒闇明けで正月の市内は賑わう
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1月3日A 元朝明治神宮に参拝者六十万人
  3日Y 「押すな押すなの地下鉄」
  5日a 「春三日の興行界に 雨と降った百万円」
  11日A 虎ノ門、初金比羅の賑わい
  13日A 春場所大相撲、初日は午前中から大盛況
  16日A 大相撲、日曜日で正午ごろ満員
  17日A 大当たりの藪入り
  23日Y 中山競馬二日目、大穴に人気沸く
  24日A 晴れの無礼講、賑わう軍旗祭、近衛歩兵は底抜けの騒ぎ
 
 諒闇明けの正月とあって、明治神宮に大勢の市民が出かけた(元朝明治神宮に参拝者六十万人)。また、多摩御陵にも「未明から押出した 三万の参詣者」で、新宿からの電車は満員すし詰めの状況が続いた。「成田山の賑わい」は、「名物の栗ようかんは売切といふ有様であった、不動尊のさい銭高は昨年の一万三千余圓に比し本年の三十日から一日の三日では三万五千圓を下るまいと」A③。
 そんな中、市民の関心は、暮れの三十日に開業した東京初の地下鉄(上野~浅草間)。元日の乗客が「十万」人にも達し、二日には三十分待って五分しか乗れないと、文句を言う人もいた。なお、十銭玉を一つ入れるという自動改札口が採用されたが、なれないこともあって駅員が横について乗客を指導。地下の「穴からのお客に 浅草の賑い」と、浅草は仲店から観音様まで人がつながり、賽銭は雨のように降り、元日には数えなかったと(「東京中から集めた 十銭白銅十二万個」Y③)。
 正月の人出は、四日になっても衰えず「いもを洗う浅草映画街」a⑤の写真を掲載。三箇日は、市内すべての映画館や劇場は、近年にない景気で百万円程度のお金が落ちたと見積もられた。
 正月景気も、十日の虎ノ門の初金比羅くらいまでであった。十二日の大相撲春場所は、初日が50銭均一奉仕デーのため朝から客が詰めかけたが、「二日目は思い切ったさびしさ」a⑭と入りが落ちた。なお、十二日の初日から大相撲の実況放送が開始。相撲がただで聞けるということで、国技館の客が減るとの反対意見もあった。なお、この放送のため、放送時間内に勝負を納めようと幕内が十分、十両が七分の制限時間が設定され、また、土俵に仕切り線を設けられた。
 藪入りは市内に人が出てどこも賑わい、さすがに国技館も満員になった。一月の後半は天候に恵まれないこともあって、映画・演劇などの入りは前年より減少し、人出は落ちたようだ。

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昭和三年(1928年)二月、初の普通選挙による第十六回総選挙⑳、初めての普通選挙に市内騒然
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2月5日A 「もみくちゃの豆拾い」水天宮も金比羅不動尊も大変な人出
  11日Y 浅草劇場高木新平の「刃光」大入御礼
  12日A 建国祭の大行進、市内靖国神社など6カ所で盛大に行われる
  14日A 市村座「裏表忠臣蔵」人気沸騰好評日延べ
  15日A 街頭に、演説会に「満都を覆う普選色」
  29日ka 銀座に出づ、人通りいつもよりも賑やかにて辻々に巡査両三名づつ佇立みたる
 
 四日の節分は、「水天宮も金比羅不動尊も大変な人出」と、市内各地で豆まきが行われた。近郊、成田山の人出は物凄く、人で埋まり身動きできないほどであった。十一日の建国祭は、靖国神社など市内6カ所で盛大に催された。
 新聞は、初の普通選挙ということで連日書き立てている。街頭や演説会などの選挙運動で、市民はいやがおうでも選挙に関心を持たざるを得ない。ただ、選挙騒ぎも二十日の投票日までで、当選発表の二十一日は号外売りがうるさいだけで、銀座は「平日よりも静なり」と荷風は見ている。夜店も午後十時に片づける者もあるくらい。荷風の関心は、セキセイインコウの番い、七・八年前は7円から15・6円もしたのが1円30銭で売られ、値段の下落に驚いている。
 十四日付で市村座の『裏表忠臣蔵』が好評、人気沸騰で日延べ広告が出たように、二月の演劇は健闘。荷風も本郷座に予約を入れたら、十七日から二十五日まで売り切れであった。

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昭和三年(1928年)三月、共産党員大検挙⑮、博覧会にマネキンガール出現、市民の関心は御大礼記念博覧会にむけて
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3月5日y 晴れた日曜「押出す廿万人」観梅に又郊外散策に各駅を埋める春の人
  9日A 久宮薨去当日、市内の主な興行物は休業と開演が相半、陸軍記念日も延びる
  18日Y 帝国劇場新国劇「浪人の群」他大入続き
  19日A 彼岸入り「冬着を捨てて、日曜の人出」
  19日Y 陸軍記念日の軍楽行進、日比谷公園常陸丸勇士追悼会
  23日Y 観音劇場「忠臣蔵」大満員続き日延べ上映
  24日a 御大礼記念博覧会に「早くも殺到のお上り客」
  26日Y 御大礼記念博覧会、上野に雪崩れる日曜の人、「押寄せた十万の人波」
  30日c 歌舞伎座「モン・パリ」宝塚少女歌劇好評

 三月になり、暖かさに誘われて人が出かけはじめた矢先、八日に久宮薨去。当日、浅草では弔旗を掲げ興行を休業したが、市内には開演しているところも多く、その割合は半々であった。十三日の御葬儀は、市中鳴り物停止で興行物は休業となった。
 市民は、月末から開幕する御大礼記念博覧会に多くの関心を寄せており、彼岸入りの日曜は快晴とあって開会前の上野公園へどっと人出。上野駅の乗降客「十五万」、雪崩のように訪れた乗客の多さに面食らったとある。
 御大礼記念博覧会は、上野公園竹の台に機械工業・紡績工業・化学工業等の特産品、不忍池畔に動力機械を中心に朝鮮や樺太・台湾・満州の植民地館が配置された。各館をめぐり多数の売店や諸演芸場が賑やかな鳴り物入りで景気をつけた。ちなみに同会場は、14・5万人収容可能。開会日は、一般入場者は午後から見物ということもあって「約一万五千人」a(25)の入りであった。翌日の日曜は「十万の人波」が押し寄せた。
 レジャーではないが、「陸軍記念日の軍楽行進、日比谷公園常陸丸勇士追悼会」が写真入りで新聞紙面を大きく割いている。「銀座街頭を練り歩けば十重二十重に取巻いたモガモボ達は翻然了見を入れかへてミリタリズムに心酔しなければ義理が悪いやうに見られた。」Y⑲とある。
 

昭和のレジャー環境の一面・二年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)192
昭和のレジャー環境の一面・二年秋
 大正時代にも見られたが、昭和に入りさらに厳しい規制が増す。池上本門寺のお会式では、露店の衛生状況を改善しようとする取締は望ましい方向へが見られた。と同時に、別の点検、「棍棒ステッキ等の危険物」も行なわれ、206点押収された。本門寺のお会式は、日蓮聖人の入滅日、10月13日を中心に、宗祖を追慕する法会(ほうえ)である。現在の東京都大田区池上本門寺での御会式は特に盛大で、12日の逮夜(たいや)には、万灯が数多く集まり、それに伴って団扇太鼓が並走する。また、それを見ようとする人々が道筋に垣根のように群集する。調べを受けた人の大半は信者であり、社会科学講習会のような政治的な目的は少ないと思われるのだが。なお、社会科学講習会は、同日、神田美土代町で催され、監視、発言停止、さらに検束されている。
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昭和二年(1927年)十月、早稲田大学大講堂(大隅記念講堂)開館式、お会式は「今暁までの人出四十万」
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10月1日T 日本青年館の実演劇、空前の大盛況
  13日T お会式「今暁までの人出四十万」本門寺境内は身動きもならず
  17日T 国技館日本八景菊花大会、三万五千の大入
  17日T 連休で「秋を慕いて 各駅の繁盛」
  17日A 帝展が初日、一万五千人が入場
  24日A 神宮球場の慶明戦、3対3の引き分けで満員の盛況
  26日ka 荷風人形町の夜店を見歩く
  30日Y 上野池之端の新日本殖産博覧会、大人気
  30日ka 観艦式とやらにて市中賑なり
  30日Y 日本館「天界の魔王、十巻」モンロー・サルスベリー氏実演満員御礼
  31日Y 観艦式に三十万の人出、迷子36人スリ3件
 市民レジャーは、引続き活発である。池上本門寺のお会式は、蒲田駅下車の参詣者だけで午後八時までに「十二万二千人」、前年より大幅に増加。本門寺境内は、全く身動きできないくらいであった。門前には飲食店が並んでいたが、飲食物の検査結果で288件の不良あった。また、賽銭泥棒が前年より3名多い21名、酔っぱらい等は20名引致された。
 連休前の十五日、新宿駅上野駅からの夜行列車で大勢の行楽客が郊外へ出かけていった。十六日は冷たい秋雨にもかかわらず、恒例の国技館の「日本八景菊花大会」は、開館早々から大入り満員。呼び物は十二段返しの菊人形芝居、女優さんの名物八景踊りなど。花は、七分咲きの見頃ということで、市電は増発に増発、非番の巡査まで招集するという賑わいであった。
 また同日、帝展が初日で、余興も見れるということで1万5千人が入場。高島屋呉服店でも、趣味蒐集展が初日T⑰、錦絵などが展示されて改築以来の来場。連休は、テニスやラグビーなどの観戦、映画や演劇など、市内で楽しむ人であふれた。また、三十日は時々小雨が降るような天気であったが、断腸亭日記によれば「観艦式とやらにて市中賑なり」とある。なお、横浜の観艦式には「三十万の人出」があった。

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昭和二年(1927年)十一月、初の明治節③、人出は市内から郊外まで
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11月2日A 明治神宮大会第五日スタンドも芝生席も充満
  3日ka 三日を・・明治節と称し祭日となす由
  3日ki 電車はみな満員の大混雑
  4日a 「賑ったきょうの市内」、明治文化展覧会・帝展・動物園など満員
  4日Y 「十万の観衆を湧かせ」神宮大会閉幕、総入場者は六十万人
  4日T 明治節明治神宮参詣者、日中は「五十万人、夜は三十万人」
  5日A 「省電の収入三十万円」明治神宮を中心に「乗客総人員は九十七万七千人」
  6日A シネマパレス「ビック・パレード」満員御礼
  7日A 神宮野球場の早慶野球第一戦スタンド全部満員
  10日Y 「婦人と子供」展覧会、上野に開場
  13日ki 日曜の浅草酉の市、大混雑
  20日Y 目黒競馬第一日、売上高60万円を突破
  21日A 帝展終わる、35日間で二十四万八千人
  24日Y 神宮早慶ラクビー「一万人入ったらしい」
 スポーツの秋、六大学野球をはじめ明治神宮競技大会など十月から引続き盛んである。三日、初の明治節は天候に恵まれ、神宮競技は満員、代々木練兵場の航空ページェントには「無慮八万」a④、明治神宮の参詣者が日中「約五十万人」、夜も「約三十万人」あった。人出は、上野や浅草の市内はもちろん、箱根・鎌倉・妙義・日光・筑波などの郊外に出かける人も多かった。
 十月十五日に東京六大学野球のリーグ戦が初めて中継放送されたこともあって、野球人気はさらに高まった。七日の神宮野球場の早慶第一戦はスタンドが満員の盛況。続く試合も、慶應の連勝によってさらに盛り上がった。市民はスポーツだけでなく、十三日日曜の浅草酉の市が大混雑であった、また展覧会や菊人形など文化的なレジャーも盛況。二十一日に終了した帝展は、約25万人もの入場者を数えた。

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昭和二年(1927年)十二月、地下鉄浅草・上野間開業、景気は悪いが人出は盛ん
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12月2日Y 婦人と子供展覧会で大福引、大人10銭
  2日Y 新日本殖産博覧会、各府県総合残品整理5万円懸賞大福引、日延べ
  12日A 戸山学校馬場で馬術大会に三万の大観衆酔う
  12日A 豊島園で同情週間朝日デー、朝から人の波
  15日A 賑わうクリスマスの市、銀座通り
  27日ka 銀座、「年の市例年の如く雑踏甚し」
  27日Y 諒闇明けの第一夜、帝国ホテルでクリスマス祭
  30日Y 東京地下鉄道の浅草・上野間が開業
  30日ka 公園内の街路は商店夜市の繁栄今は到て雷門仲店を凌駕せんとする勢いなり
  31日A 「いもを洗うような銀座」一日3百万円の景気、すざまじい銀座のどよめき
 前年スキーに出かけた人が6千人、市内の運動具店でもスキーやスケート用品が売りはじめられた。「客筋は学生が筆頭で銀行員や会社員その他に役人たちの顔も見えるが家族挙って出かけるものもかなり多く 久邇宮朝融王、同妃殿下をはじめ細川護立候、桂公、土屋侍従高辻子爵の令息令嬢等は熱心な常連組と知られている。また東電、芝浦製作所・・・では重役以下同好の社員が毎月幾らかづつ積み立ててこの季節の軍資金に当て愉快に楽しもうと・・・」a⑪ということで、鉄道局は乗車客が倍以上に増える予想している。
 師走の東京は、不景気風が吹いていたが、銀座通りにはクリスマス市の賑わいが見られた。市内は、人出だけは多かったらしく、二十九日には警察官が1万2千人も出て大警戒。二十七日の銀座は、断腸亭日記によれば「年の市例年の如く雑踏甚し」。押し迫った三十日、浅草公園に出かけた荷風は、街路商店の夜市が雷門仲店を凌ぐくらい繁栄しているのを見ている。また、市内には困窮する市民がいる一方で、一日に3百万円も売上げる好景気の記事もある。


 

昭和のレジャースタイル始まる・二年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)191

昭和のレジャースタイル始まる・二年夏

 この年の夏は非常暑く、七月二十二日には95度(摂氏35度)になるという暑さ、33年ぶりだそうだ。夜になっても眠れずに、「家はカラッポで 橋の上満員」A(23)とある。冷房のない時代ならではの風景だろうが、なんとのんびりした生活なのだろうか。暑さを逃れるためであろうが、東京の町中を逃れて海や山へと人々は出かけた。この郊外へと足を向ける傾向は、秋になっても続き、スポーツの流行と共に昭和の新たなレジャースタイルになっていく。


凡例
新聞は発行日。日記は記載日・○の数字は日にち。
Aは東京朝日新聞朝刊・aは夕刊
Yは読売朝日新聞朝刊・yは夕刊
Hは東京日日新聞朝刊・hは夕刊
・新聞以外の資料として、次の作家の日記を引用した。
kiは岡本綺堂の日記  
taは高見順の日記
kaは永井荷風の日記
fuは古川ロッパの日記

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昭和二年(1927年)七月、やぶ入りにスポーツ流行・・新日本八景決まる③、芥川龍之介自殺(24)
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7月1日A 明治大正名作展、十七万八千人入場
  2日A 大磯町海水浴場、余興花火などを催し午前十時開場
  4日Y 上野不忍池畔で民衆納涼博覧会、「催物の記録を破った人出・・五万の盛況」会期7/1~8/31
  5日A 東京館「弥次喜多野球の巻」益々大好評満員御礼
  6日A 歌舞伎座「梅こよみ」連日満員
  12日ka 是夜銀座通草市にて雑遝す
  16日A 「浅草の悲哀 やぶ入りにスポーツ流行」
  17日A 「海と山とへ 一日百四十万 晴天続きの暑いお盆で」
  21日A 二十三日の川開きに、大警戒の陣立て 警察官二千九百名配置
  24日a のさばる暑熱「海も山も 避暑地は大賑わい」
  24日Y 両国の川開きの人出三十万人
  31日Y 明治神宮で「無慮二十万」神苑の虫を聞く
 
 七月に入り、レジャーは暑さとともに活気を増す。二日に大磯町海水浴場の開場広告、余興や花火を打ち上げるとか。東京館や歌舞伎座などの満員広告、映画や演劇も盛況が続いている。上野不忍池畔では民衆納涼博覧会(大人50銭小人30銭)が開催。大プールに滑り台、催物は盛り沢山で、花火・10万匹の螢狩り・盆踊り・鵜飼の実演などがある。
 藪入り、十五日午前五時両国発、房総方面行きは2千3百人の満員。前日の最終列車も山に向かう人で満員。十六日は、晴天続きで暑いお盆ということで郊外にどっと繰り出した。海には、鎌倉方面が1万3千人、千葉方面が7千7百人、小田原・熱海が5千百人など。山には、御殿場が3千3百、日光が2千百などが主なところである。昭和になって、かつての「縞模様の着物に鳥打帽子の小僧さん」が浅草公園を埋めつくすという光景は見られなくなった。
 二十三日の川開きは混雑が予想され、「大警戒の陣立て」と警察官を2千9百名も配置。水上には、汽船3隻・モーターボート8隻・ボート17隻・伝馬船が3隻・荷足り船136隻も用意した。しかし、人出は例年より少なかった。
 「七月の気温では三十三年ぶり」「家は空ッポで 橋の上満員」a(23)、夜も暑くて眠れない日が続き、避暑地へと出かける市民は例年より二三割増。また、明治神宮ではクツワムシ・スズムシ・キリギリス・マツムシなど「二万五千匹」が放たれ、大勢の市民が虫の音を求めて訪れた。

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昭和二年(1927年)八月、前年にも増す、市民の納涼・・甲子園の全国中等野球大会実況放送開始⑬
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8月3日A 銀座のカフェー・酒場などでモダンボーイを150名の大検挙
  6日A 玉川大花火
  8日A 日比谷公園、今夜「諸国盆踊りの夕べ」
  10日A あら川大花火八月十三日と十四日
  13日A 市電企画の日比谷納涼会、一日平均十一万人位の入場者、大半が省線利用
  15日Y 上野不忍池畔の民衆納涼博覧会、奇術や曲芸などの催物続き「連日数万」
  17日A いさみの娘連、深川八幡の夏祭
  22日ki 歌舞伎座は大入り
  24日ka 今年に至り遂に世間一般の人の如く避暑をなすに至りぬ(軽井沢へ)
  24日Y 帝国劇場の新国劇金色夜叉」他好評演続
  28日A 上野不忍池畔の民衆納涼博覧会、三日間福引で満員
                                                
 温泉や遊覧船など海や山に誘う新聞広告が毎日のように掲載されている。市内においても、日比谷公園や上野不忍池畔などの納涼企画が目白押し。「諸国盆踊りの夕べ」を催した日比谷公園は、納涼会の一日平均入場者が「十一万人位」あると。また、民衆納涼博覧会も、花火や盆踊り、ロシアの曲芸団などの催物で「連日数万」の入場者、月末三日間は福引で満員。さらに、深川八幡の夏祭などに加え、歌舞伎座や帝国劇場なども盛況、市内のレジャーは活況を呈した。
 夏の人出は山より海、土曜日曜は湘南・房総方面へ大挙して出かけた。鉄道省は、十三日「あすの日曜を絶頂」と、房総方面への日帰り客を「四十万人と見込んだ」a⑭。世間では、景気が良くないとのことから、客の金離れが悪いと言われているが、房総方面の滞在客は前年より1万人多く6万人に達した。湘南方面へ向かう列車は定員の250%乗車、帰りの混みようは「実に名状し難い程」であった。

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昭和二年(1927年)九月、清掃人のストで東京中塵に埋まる⑧、三越呉服店でファッションショー開催(28)、月末の連休は、今年初めての物凄い人出
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9月2日T 市内各所で関東大震災の追弔
  10日ka 神楽坂、夜涼の人織るが如し
  14日ka 四谷通の夜肆を看る
  15日ka 夜氷川神社祭礼を看る
  15日T 十四日の豪雨で2万7千戸浸水
  18日Y 神宮体育大会、水上競技大会が開かれる
  25日T ボート競技の墨堤に二万人集まる
  25日T 神宮球場六大学野球リーグ、法明戦大入り
  27日T 今年初めての 物凄い人出 休日二日に二百万人」
                                                
 一日は、日比谷公園をはじめとして、市内各所で関東大震災の追弔の集会が催された。松屋呉服店で震災前後の東京の写真展など、様々な催し物は、あちこち回る口実ができ、市民のレジャー気運は衰えなかった。十日、神楽坂を歩いた荷風は「夜涼の人織るが如し」と書いているように、土曜日ということで大勢の人出で賑わった。ただ、十四日は集中豪雨、市内各地で家屋の浸水が多発、レジャーどころではなくなった人も大勢いた。
 それでもお彼岸になると出歩く人が増えて、二十四日から連休は、「きょうの人出七十万」t(25)と予想された。二十四日は、浅草公園活動街にお昼までに「早くも十万人」、上野動物園にも午前中に5千人、十二大校第七回レガッタ選には墨堤に「二万人」、二十五日の神宮球場は法明戦は大入り、など市内の行楽地はどこも人でごった返していた。東鉄の調べでは、二日間で200万人を超える乗客があり、湘南方面が約3万2千人、日光が約7千人など「夏の避暑客の出より多く」、最高記録であった。
 

諒闇でも盛んな市民のレジャー熱

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)190
諒闇でも盛んな市民のレジャー熱・昭和二年四月~六月
 市民のレジャーが盛んなことはき確かだが、騒ぎを伝えることが強調されているようで、人々がいかに楽しんでいたかという様子がよく見えない。記事からは、おおらかな遊びの雰囲気を伝えようとする感じがない。特に花見の時期は、誰もが浮かれ楽しみ、それを盛り上げるような紙面構成が大正時代には感じられた。それが昭和に入ってからは、殺伐とした世相も記事にしている。四月十二日の東京朝日新聞朝刊で目についたのは、スリと自殺の記事である。スリの被害が17件も被害者氏名と被害金額が列挙されている。スリの被害者も加害者も下層階級であることはいうまでもない。また、自殺は、花見で幸福そうな家族を見て、自分の孤独を悲観し、ねこいらず(殺鼠剤)を飲んだ22才の女中で、その生い立ちなども記されている。このような記事は、大正時代の新聞にはなかったと思われ、下層階級の人々がこれからさらに厳しくなる雰囲気が漂いはじめている。
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昭和二年(1927年)四月、諒闇ではあるが市民の花見は盛り上がる・・若槻内閣総辞職
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4月3日読朝 「満員続きの日光博」
  4日読朝 「散策日和で、押した凄じい人波」
  9日朝夕 「花祭り 日比谷の賑わい」
  10日荷風 飛鳥山に花を見んとて行く人織るが如し
  11日朝朝 「花さいて始めて出た人の潮 ざっと百五十万!」鉄道乗客百一万人、収入40万円超える
  19日朝夕 「レコード破り 人出百三十万」新宿駅乗降客九万三千、東京駅四万四千、上野駅二万六千など
  20日朝朝 東京遊覧乗合自動車、案内付き大人3円50銭・子供2円50銭、毎朝八時と九時出発
  21日朝朝 新橋演舞場で天勝一座の大魔術
  24日朝朝 六大学リーグ戦、明治対立教で開幕
  25日朝朝 東京対抗陸上競技関東代表予選会、神宮競技場のメーンスタジアム満員(会員券50銭)
  26日荷風 帝国劇場に赴く、露西亜オペラ比夜より十日間興行する由
  30日朝朝 「三日続きのお休みに 押出したり新緑の郊外へ」
  30日朝朝 朝日新聞社講堂のベートーヴェン百年祭、前夜にまさる大盛況
 
 大正五年の調査(郵便報知四月十四日付)では、東京府内に7万本(市内に5万本)のサクラの木があった。それが約十年で五割以上増え、「東京にさく さくら十一万五千本」朝朝④となった。十日の日曜日は、開花を待ちわびた人出「ざっと百五十万!」人、諒闇とはいうものの市民の花見は止められない。
 花見鉄橋の開通した飛鳥山では、仮装御法度にもかかわらず、白粉に赤手拭いの出で立ち、中には威勢よく踊る人もいた。上野は家族連れが多く、「人出四五十万は下るまい」と。迷子は上野・飛鳥山で136人、喧嘩乱暴は19件と、警察が眼を光らせていたこともあって比較的少なかった。十一日も昭憲皇太后祭の明治神宮は賑わい、市民のレジャーは盛り上がりはじめた。
 そして十七日、春の行楽は本番に入って「レコード破りの人出」、新宿駅の乗降客9万3千人をはじめ、東鉄管内合わせて132万余人を記録。その後のレジャー関連の記事を示すと、東京遊覧乗合自動車の広告、新橋演舞場で天勝一座の大魔術。東京対抗陸上競技関東代表予選会は、好天に恵まれメインスタジアムは満員、等々。さらに、天長節靖国神社の大祭・日曜日の三連休に、「新緑の郊外へ」出かける市内の各駅は大混雑であった。

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昭和二年(1927年)五月、大相撲夏場所十一日間連続満員の盛況・・第一次山東出兵、東洋モスリン亀戸工場五千人スト
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5月2日読朝 目黒競馬第二日、観衆三万余人
  2日朝朝 神宮競技場で朝日新聞社主催の東西対抗陸上競技、観客は場内を埋め尽くす
  2日朝朝 メーデー、芝の有馬ケ原に26団体62組合労働者約二万人、「平穏に」検束144人
  4日荷風 銀座を歩む、路傍の夜市五月人形を陳列す是震災後に到って始めて見る所なり
  5日朝朝 歌舞伎座「春色男女道成寺」連日満員御礼
  9日読朝 慶明戦、春シーズン第一の人出で二万五千

  11日朝朝 日比谷音楽堂で「ベートーヴェン百年祭および記念音楽会」に一万人の観衆
  13日朝朝 国技館の大相撲、民衆デーに賑わう初日、二階三階は早朝から満員
  23日朝朝 日本大相撲協会、十一日間満員で御礼広告
  24日読朝 邦楽座「ブロードウェイフォーリス大歌劇団」連日満員御礼
  25日綺堂 平河天神の縁日、なかなか繁盛
  28日読朝 本郷座「新宿夜話」他連日大入り満員
  30日読朝 神宮球場、加州大対慶大、観衆二万五千人

  31日朝朝 堀切のショウブ、潮干狩りの谷津・稲毛、玉川プール等々の広告
                                                
 目黒競馬がはじまり、「目の色を変えるファン 観衆すこぶる多く」朝朝①と、前月に引続き市民レジャーは活発である。神宮競技場では、朝日新聞社主催東西対抗陸上競技で「場内うめつくす」混雑。神宮球技場の明法戦は「今春随一の盛況」朝朝②、延長戦となり7対7の熱戦で引き分け、観衆の興奮が納まらず「未曽有の熱狂」により第二回戦は当分延期となった。
 歌舞伎座が『春色男女道成寺』連日満員御礼の広告。十日の『ベートーヴェン百年祭および記念音楽会』は五日前に切符売り切れ。大相撲夏場所初日は、民衆デー50銭ということで、国技館の二階三階は早朝(相撲は朝六時に始めて夜九時に打ちだし)から満員。好取組みが続いたかと思えば、そうでもないらしく「やけ気味の大入、面白い相撲がないのに」朝朝⑳とある。それでも十一日間も満員が続き「十五万人」読朝もの観客。日本大相撲協会は御礼広告を出した。
 市民のレジャー気運は、盛り上がっていたのだろう。岡本綺堂は、二十五日に混雑した平河天神の縁日に出かけ、ハゲイトウの苗を買った。三十一日付の新聞朝朝 には、行楽へと誘う「堀切のショウブ」「潮干狩りの谷津・稲毛」「玉川プール」等々の広告が出されいた。

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昭和二年(1927年)六月、梅雨に入ってもなかなか盛んな市民レジャー・・立憲民政党結成大会①
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6月2日朝朝 「多摩川べりへ六千人の太公望」郊外電車満員
  6日朝朝 歌舞伎座「水野十郎左衛門」他、初日以来悉く売切御礼
  6日朝朝 本郷座「柴田勝家」他連日満員御礼
  11日読朝 新橋演舞場「妹背山」他満員御礼
  13日朝朝 上野の明治大正名作展「参観実に一万三千名人気高潮」
  13日読朝 「泳ぎ場」の許可願、水上署に殺到
  29日荷風 三十間堀地蔵尊の縁日を看
                                                
 六月に入り鮎の解禁、「多摩川べりへ六千人の太公望」と、郊外電車は満員であった。行楽だけでなく、綺堂の見た歌舞伎座や本郷座などの劇場も大入り。三日から始まった上野の明治大正名作展は、十二日に1万3千人の入場者があるなど、市民レジャーは六月に入っても落ち込みが少ないようだ。なお、明治大正名作展は30日間で17万8千人の入場があった。また、国技館でも「朝鮮博覧会」が七日から開催されている。
 

凡例
新聞は発行日。日記は記載日・○( )の数字は日にち。
朝朝は東京朝日新聞朝刊・朝夕は夕刊
読朝は読売新聞朝刊・読夕は夕刊
日朝は東京日日新聞朝刊・日夕は夕刊
・新聞以外の資料として、次の作家の日記を引用した。
綺堂は岡本綺堂の日記  
高見は高見順の日記
荷風永井荷風の日記
古川は古川ロッパの日記

楽しみは大正を引き継いで

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)189
楽しみは大正を引き継いで

凡例
新聞は発行日。日記は記載日・○( )の数字は日にち。
朝朝は東京朝日新聞朝刊・朝夕は夕刊
読朝は読売新聞朝刊・読夕は夕刊
日朝は東京日日新聞朝刊・日夕は夕刊
・新聞以外の資料として、次の作家の日記を引用した。
綺堂は岡本綺堂の日記  
高見は高見順の日記
荷風永井荷風の日記
古川は古川ロッパの日記

昭和二年(1927年)
 昭和時代は実質二年からはじまった。が、市民は、新しい時代に入ったとの実感は薄かった。それは、関東大震災による生活変化の方が大きかったからである。事実、市内はまだ震災からの復興事業が進められており、市民は生活の再建に追われていた。
 東京の復興は徐々に進み、表面的には首都機能が戻り、地下鉄が開通、新たな発展をしているように見えた。しかし、三月に、震災手形の処理問題から金融恐慌が発生。四月には、五十円や二百円紙幣を出すという急場凌ぎの政策、国内経済はさらに悪化、不景気による解雇で労働争議を多発させた。
 レジャー面から見ると、大正天皇の喪中ということで、政府は、市民の遊びに何かとブレーキをかけた。それでも、市民は、大正時代と同じように楽しもうとしていた。映画館の観客数は、自粛ムードとは裏腹に、前年より150万人以上も増えた。
 この年、話題を呼んだ事件は、七月の芥川龍之介の服毒自殺。流行歌は、『赤蜻蛉』『汽車ぽっぽ』『ちゃっきり節』などがある。また、三月に長谷川一夫大河内伝次郎、五月に片岡千恵蔵が映画デビューし、映画全盛時代の幕開けの年でもあった。

レジャー自粛で始まる昭和二年正月~三月
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昭和二年(1927年)一月、昭和になって初めての正月、諒闇ながら賑わう・・東西の相撲協会が合併し日本大角力協会結成⑤
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1月3日朝朝 「あたゝかいお正月に 諒闇ながら賑う市内」
  3日朝朝 成田詣の人出多く、賽銭二万八千余円、お札の売上げ八万円
  3日綺堂 歌舞伎座、補助席を出す盛況
  5日朝夕 「静かだった三ヶ日、芝居と活動だけ満員」
  8日朝夕 富士館等「修羅王」連日満員追加上映
  8日朝朝 浅草、七草で賑わう
  9日朝朝 興亜新春に輝く観兵式、二万精鋭と数万の民草
  14日朝朝 十五十六日は多摩川園の藪入りデー、面白き余興あり、午後8時まで開園
  15日朝夕 国技館の大相撲初日、珍しい大盛況
  27日朝夕 松屋の写真サロン、一日で二万人の大人気
  29日荷風 東久邇宮帰朝、市兵衛町表通自動車の往復常よりも繁く路傍には人多く佇立みたり
                                                 喪中ということで市内の年賀状は、自粛のため前年の92%減。元日は暖かく、派手な年賀は控えられたものの、初詣に出かけた人は多い。明治神宮は、参拝者が波打つほどの「四十万人」(原宿駅の昇降客は五万人を突破・読朝③)も訪れた。明治神宮の賽銭は、元日だけで二千余円。お守り札は1万5千枚、御神符も1万余出た。
 浅草も賑わっており、六区の劇場や映画館32館は入場料だけで10万円程の上がり、ホクホクであったとか。銀座も人出が多かったのだろう、永井荷風は「太牙楼に登り見るに酔客雑踏空席殆無し」と混雑ぶりを断腸亭日記に書いている。
 荷風は正月風景を、「石切橋の辺はむかしより小売店立続き山の手にて繁華の巷なり、今もむかしと変わる処なく彩旗掲げ燈松梅など賑かに見ゆ」。また、二日には、街中では凧揚げを見かけなくなったが、護国寺裏の空き地では子供達が盛んに「紙鳶」を飛ばしていたの見ている。
 三日、岡本綺堂歌舞伎座に出かけると、満員で補助席を出すほどの盛況ぶりだった。正月休みの賑わいは、震災後の最高であったらしく、成田詣など市外に足をのばす人も大勢いた。ちなみに、成田駅の乗降客は約2万8千人、賽銭は土間料を合わせると2万8千円、札の売行8万であった。
 レジャーは正月が明けても引き続き盛ん。藪入りに合わせて多摩川園だけでなく、「半年振りの藪入りにはなつかしい御両親やお弟妹と共に浅草の花屋敷で」などの広告・朝朝⑮、それらに誘われるように市内は賑わった。十四日は、大相撲の初日50銭デーで国技館は大盛況。当時の相撲はのんびりとしていたもので、打ち出しが午後八時三十五分。さすがに、「夜更かしの罪はテキ面」朝朝⑯と観客にあきれられ、翌二日目は、藪入りの小僧さんも相撲観戦に二の足を踏んだ。
 一月中頃から、流感「世界カゼ」が大流行、市内でも37万人の患者が発生、死者も十日間で690人に及んだ。綺堂も三十一日の日記に「いづこにも病人の多いことである」と書いている。翌月の大喪儀が近づくにつれて、市内にはレジャー自粛と、厳粛なムードが浸透した。

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昭和二年(1927年)二月、レジャーの自粛ムードが続く・・大正天皇大喪挙行⑦、青い目の人形到着⑮
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2月8日朝朝 大正天皇大喪儀の沿道に群衆百五十万、宮城前広場に大学専門学校をはじめ奉送団体十数万
  9日朝朝 「盛儀をしのんで群がりよる人々、二重橋から新宿御苑へ」
  9日朝朝 三日半の休暇が続いて、賑わった温泉宿
  9日朝朝 新橋演舞場「大原女」連日満員御礼
  12日朝朝 芝公園で民衆大会
  12日読朝 「梅を探ねて・・各地の梅信」
  14日朝朝 多摩御陵の一般参拝許され、晴れた浅川へ参拝者十万(浅川へ下車した参拝者三万人読朝 ⑭)
  22日読朝 「押すな押すなの電気工芸展」電気博物館入場料無料、会期2/20~3/19
  23日朝朝 多摩御陵参拝の期間が十日間延長され、三月二十四日まで
                                                
 二月に入ると、運動競技会や祝賀会など「派手な催しは四月三日まで遠慮」朝朝①と、レジャー自粛の声。節分が近づくと、成田山への臨時列車、豆まきの広告はあったが、どのくらいの人出かは不明。また、五日の初午についても広告はあるが、賑わいは記事になっていない。大喪儀のため、断腸亭日記の七日には「今明二日鳴物停止の令出づ」とある。
 八日の新聞は大喪儀一色。葬儀は新宿御苑で行われた。葬儀の沿道は、「百五十万の群衆」による大混雑。負傷者は各地に出て、その数は5百人に上り死者もでている。翌日も「盛儀をしのんで群がり寄る人々」が二重橋から新宿御苑へと大勢出た。
 なお、大喪儀は、三日半の休が続いたため、市内の人出は多く、銀座は人波ができるほどの賑わい。帝国劇場の女優劇や新橋演舞場『大原女』が連日満員御礼など、市内の興行は大盛況、さらに、温泉宿までが大賑わいであった。
 十三日には、一般参拝許された大正天皇多摩御陵へ、「十万参拝者」もの人々が訪れた。参拝者はその後も続き、多摩御陵参拝の期間は三月二十四日まで延長。しかし、レジャーは引続き自粛させようとするムードが漂っていた。二十日、神田で大火があり2千戸以上焼失。その後は天候も雨や雪が多く、市民の行楽に出かける気運はそがれた。

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昭和二年(1927年)三月、金融恐慌始まる⑭、暖かさとともに動きだす市民レジャー
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3月14日荷風 夜帝国劇場に伊太利亜歌劇を聴く
  19日読朝 国技館の日光博覧会、郷土土産が大人気で入場者一万三千人、大人50銭・小人30銭
  19日読朝 築地小劇場桜の園」日延べ連日満員
  22日読朝 二十日二十一日連休で各方面に人出
  22日読朝 多摩御陵の参詣者二万人
  22日読朝 新橋演舞場「東をどり」連日満員御礼
  25日朝朝 歌舞伎座「七騎落」大好評連日満員
  28日朝朝 「春になって最初の人出」
  28日朝朝 三田・稲門野球第一回戦三田勝つ
  29日荷風 夜銀座に赴く、散策の人織るが如し
                                                
 十三日、国会で大蔵大臣が「東京渡辺銀行の破綻を言明」朝朝⑭した。これに端を発し、銀行の取付騒ぎがはじまった。諸銀行は軒並み休業、金融恐慌へと進むことにる。また、市内は「始末の悪い大雪の後」と、明るい話題もなくレジャー気運は沈滞していた。
 彼岸も近づくと、月初めから開催していた国技館の日光博覧会に1万人を超える入場。日比谷公園には「春うららかに喜ぶ子供たち」朝朝が見られ、市民も戸外に出はじめた。二十日二十一日は連休、多摩御陵へ参詣者が「二万人」出かけた。市内も新橋演舞場の『東をどり』が連日満員、歌舞伎座も『伊太利大歌劇』朝朝が大好評、各方面に人出があった。
 その後も、歌舞伎座の公演は連日満員。二十七日の日曜は、それまでにない人出で賑わった。二十九日、銀座には夜まで大勢の人出があって、いよいよ春の行楽シーズンがはじまろうとしていた。ところが、「近ずくお花見にやかましい新法度 ことしは特に諒闇とあって、醜態一切を許さぬ」朝朝(30)と、またブレーキがかけられた。
 

大正から昭和へ

江戸・東京庶民の楽しみ 188

大正から昭和へ
・明治・大正・昭和での位置づけ

 1926年十二月二十五日に改元、昭和元年となった。東京市内は、ラジオの演芸放送が中止され、レジャーの自粛が促された。市民は、大正天皇崩御を厳粛に受け止めながら、歳末の慌ただしさに追われていた。二十六日に上野や銀座の歳末風景を見た永井荷風は、「諒闇の気味なし」と日記に書いている。
 翌二十七日、皇居前広場に集まった在郷軍人などを「夕もやに包まれて 宮城前の悲しき絵巻 二万の草民ただ聱を呑んで」と新聞は記している。荷風は、その様子を「丸内日比谷辺拝観者堵をなす」と、観察している。
 この情景、明治から大正になった時とは少し違う感じがする。それは、崩御の時期が7月であったから、夏のレジャーを楽しもうとする雰囲気が底流にあったためか、東京市民に暗さがあまり感じられない。たとえば、多くの市民が参加した大正時代の最初のビッグイベントは明治天皇の大喪であった。大喪はレジャーではなかったが、弁当や敷物持参で行列を待ち受け、その間に居眠りをしたりビールを飲んでる人がいた、と報じている。
 それから十五年後の大正天皇の大喪では、「宮城前大広場は各大学専門学校を始め団体奉送の大群十数万御道筋をはさんで遙に連なり・・・」「沿道百五十万の群衆」と、沿道には毅然としたムードが張りつめていた。その光景は、次の時代の到来を暗示させる雰囲気である。新聞の書き方もそうであるが、大正時代の終わりというより、昭和へのプロローグとして印象づけている。この時点では、後に戦争が始まることはわかってはいなかった。それなのに、あとの時代の人が見ると、世界大戦へと続くことが暗示されているように感じるのは、私だけであろうか。
 大正時代に遊んでいる東京市民を見ると、まだのんびりとした、ゆとりとまでは言えないが、この時代特有の雰囲気が漂っていた。そして、人々には、何かにつけて楽しもうとする気持ちがあって、自主的、積極的な面があった。たとえば、橋の開通を祝ってお祭騒ぎをしたり、神田駅や秋葉原駅などの連絡運転開始さえも自分達の息の掛かったものとして祝った。それが昭和に入ると一転して、橋の開通はもちろん、博覧会ですら一部の人しか関心を持たなくなる。
 大正時代の博覧会は、東京市民に非常に大きな影響を与えるものであった。それは、大正三年に開催された大正博覧会を初め、戦捷博覧会(四年)、海の博覧会と婦人子供博覧会(五年)、東京遷都奉祝博覧会(六年)、電気博覧会(七年)、平和記念家庭博覧会(八年)、南米博覧会(九年)、大正衛生博覧会(十年)、世界平和記念博覧会(十一年)、発明博覧会(十二年)、畜産工芸博覧会(十四年)、産業文化博覧会(十五年)など毎年のように催された。
 博覧会の効果は、以前より良くなるという暗示を市民に植えつけていたのだ。毎年、新しいものが誕生し、社会が豊かになるという気分を持続させた。博覧会に出品したものが、庶民の手に入り、便利になったりすることは、即座にはなかった。それでも、お祭気分に酔い、何か生活まで影響があるような気持ちを満たした。多数を占める庶民は、繰り返される博覧会に、全て見学でなきなくてもそれで満足したのであり、それが庶民の心情というものであろう。
 多くの市民が興味を持ち続けたのは、なんだったのだろうか。新しいものに憧れる東京市民に博覧会は、もってこいのイベントであった。実生活は、とても恵まれた時代であったとは言い難く、大正七年には米騒動が起き、庶民の懐具合は決して潤っていなかったと思う。毎年のように絶え間なく開催されることに加えて、自主的に参加できたことであろう。昭和になっても博覧会のようなものは、開催されるも、上からの動員が興味を減少させていった。さらに、何かにつけての規制、取締、市民の自主性や自由が締めつけられていく。
 明治・大正・昭和と続く中で、大正時代は、明治と昭和の間のごく短い期間であるせいか埋没してしまって注目されることは少ないようだ。しかし、庶民にとって、人々が輝きを持っていたという意味では、明治や昭和初期よりも格段と勝っていた時代である。それは、第一次世界大戦の特需による好景気で、一部の人々に偏っていたものの、ムードはまるで社会全体が享受していたように感じさせたからである。世間は、インフレの後押しもあって蓄財はさておき、好景気に酔って消費に走り、悲壮感が表面化しなかった。そして、大正時代は、近代文明の恩恵により便利で物質的に豊かな生活が少しずつ浸透していったことも事実である。
 特に東京は、富が集中し浪費に近いような消費が進み、外見的には近代的な都市となり、市民の多くが流行の先端を謳歌できるように感じさせた。それは、大正時代特有の都市文化といえるものが成立し始めた。大正時代を特徴づける“デモクラシー、ロマン、モダン”などといった言葉は、当時の東京から発信されたものである。
 さて、この大正から昭和へと移る様相、現代に類似して見える。緊迫した世界情勢、武力による戦争へとは展開しないと願いたいが、経済戦争としては悪化の事態が進みつつある。また、21世紀のデジタル化の進行による社会の急激な変化や富の偏在などから派生する現象も始まっている。ただ、それらは問題が表面化するまでに時間がかかることから、大局的にはメリットの方が取り上げられている。そのような中で、コロナ禍で始まった制約や規制、誰もがその中にいて、本当に有効なのか、判断できないということが先行きの不安を感じさせる。

・東京人の楽しみと苦悩
 大正時代は、明治から昭和への掛け橋の時代で、その境目が関東大震災といえる。また、大正時代は、明治時代を完成させた時代でもある。文明開化といえば明治時代を思い浮かべるが、一般市民に浸透したのは大正時代である。電気、電車、バスなどが珍しいものではなくなり、無ければ生活できないようになった。洋服、パンや牛乳などの生活様式が大きく変化し、自由や平等などの欧米思想が理解できるようになったのも大正時代の方が著しい。
 人々は、新しい文明の利器を積極的に取り入れ、利点だけに目を取られていた。確かに、便利なもや楽しいものが次から次に紹介され、生活が豊かになったと感じた。しかし、新しいものを得ることによって失うものもあるということに気づかなかった。
 汽車や電車ができた当時は、それに乗るだけで楽しいことであった。それが、出かけるには、電車に乗って遊びに行くことが当たり前になった。そして、発車時間に合わせて行動しなければならないことになり、遊びに制約が生じた。それでも、計画的に行動する時の緊張感は、人々の行楽での解放感を一層盛り立てるのに効果的であった。プラス面から考察することが、時代の主流になり、異論を発言するような人は変人扱いとなる。
 しかし、全行程を歩いていた時代の楽しみが無くなったことには思いも及ばない。「大名の『定年後』江戸の物見遊山」柳沢信鴻が江戸を歩き楽しんだような、自宅から全て徒歩で巡り回った、遊び心はそこにはない。歩いて出かけた時にあった、のんびりした気分が失われ、気持ちを伸びやかにすることを享受できないだろう。だんだん、気晴らしのレクリエーション、さらには「気損じ」「憂さ晴らし」をする人たちの増加を導くだろう。
 またその他にも、明治時代なら入場料だけで済んでいたものが、電車賃を払うことによってレジャー費用を圧迫していたことにも、気にならなくなっていた。逆に、出かけた場所などあちこちで、お金を使うことに快感を感じ、それが生活を豊かにするものと感じる人も多くなる。大正時代は、「消費の時代」の始まりである。ただ、人々の意識としては、遊びにも効率化、無駄のないようにする、浪費ではないと思っていただろう。さらに、「消費は美徳」というような感覚はなく、まだ堅実であったと弁解したい。