楽しみは大正を引き継いで

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)189
楽しみは大正を引き継いで

凡例
新聞は発行日。日記は記載日・○( )の数字は日にち。
朝朝は東京朝日新聞朝刊・朝夕は夕刊
読朝は読売新聞朝刊・読夕は夕刊
日朝は東京日日新聞朝刊・日夕は夕刊
・新聞以外の資料として、次の作家の日記を引用した。
綺堂は岡本綺堂の日記  
高見は高見順の日記
荷風永井荷風の日記
古川は古川ロッパの日記

昭和二年(1927年)
 昭和時代は実質二年からはじまった。が、市民は、新しい時代に入ったとの実感は薄かった。それは、関東大震災による生活変化の方が大きかったからである。事実、市内はまだ震災からの復興事業が進められており、市民は生活の再建に追われていた。
 東京の復興は徐々に進み、表面的には首都機能が戻り、地下鉄が開通、新たな発展をしているように見えた。しかし、三月に、震災手形の処理問題から金融恐慌が発生。四月には、五十円や二百円紙幣を出すという急場凌ぎの政策、国内経済はさらに悪化、不景気による解雇で労働争議を多発させた。
 レジャー面から見ると、大正天皇の喪中ということで、政府は、市民の遊びに何かとブレーキをかけた。それでも、市民は、大正時代と同じように楽しもうとしていた。映画館の観客数は、自粛ムードとは裏腹に、前年より150万人以上も増えた。
 この年、話題を呼んだ事件は、七月の芥川龍之介の服毒自殺。流行歌は、『赤蜻蛉』『汽車ぽっぽ』『ちゃっきり節』などがある。また、三月に長谷川一夫大河内伝次郎、五月に片岡千恵蔵が映画デビューし、映画全盛時代の幕開けの年でもあった。

レジャー自粛で始まる昭和二年正月~三月
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昭和二年(1927年)一月、昭和になって初めての正月、諒闇ながら賑わう・・東西の相撲協会が合併し日本大角力協会結成⑤
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1月3日朝朝 「あたゝかいお正月に 諒闇ながら賑う市内」
  3日朝朝 成田詣の人出多く、賽銭二万八千余円、お札の売上げ八万円
  3日綺堂 歌舞伎座、補助席を出す盛況
  5日朝夕 「静かだった三ヶ日、芝居と活動だけ満員」
  8日朝夕 富士館等「修羅王」連日満員追加上映
  8日朝朝 浅草、七草で賑わう
  9日朝朝 興亜新春に輝く観兵式、二万精鋭と数万の民草
  14日朝朝 十五十六日は多摩川園の藪入りデー、面白き余興あり、午後8時まで開園
  15日朝夕 国技館の大相撲初日、珍しい大盛況
  27日朝夕 松屋の写真サロン、一日で二万人の大人気
  29日荷風 東久邇宮帰朝、市兵衛町表通自動車の往復常よりも繁く路傍には人多く佇立みたり
                                                 喪中ということで市内の年賀状は、自粛のため前年の92%減。元日は暖かく、派手な年賀は控えられたものの、初詣に出かけた人は多い。明治神宮は、参拝者が波打つほどの「四十万人」(原宿駅の昇降客は五万人を突破・読朝③)も訪れた。明治神宮の賽銭は、元日だけで二千余円。お守り札は1万5千枚、御神符も1万余出た。
 浅草も賑わっており、六区の劇場や映画館32館は入場料だけで10万円程の上がり、ホクホクであったとか。銀座も人出が多かったのだろう、永井荷風は「太牙楼に登り見るに酔客雑踏空席殆無し」と混雑ぶりを断腸亭日記に書いている。
 荷風は正月風景を、「石切橋の辺はむかしより小売店立続き山の手にて繁華の巷なり、今もむかしと変わる処なく彩旗掲げ燈松梅など賑かに見ゆ」。また、二日には、街中では凧揚げを見かけなくなったが、護国寺裏の空き地では子供達が盛んに「紙鳶」を飛ばしていたの見ている。
 三日、岡本綺堂歌舞伎座に出かけると、満員で補助席を出すほどの盛況ぶりだった。正月休みの賑わいは、震災後の最高であったらしく、成田詣など市外に足をのばす人も大勢いた。ちなみに、成田駅の乗降客は約2万8千人、賽銭は土間料を合わせると2万8千円、札の売行8万であった。
 レジャーは正月が明けても引き続き盛ん。藪入りに合わせて多摩川園だけでなく、「半年振りの藪入りにはなつかしい御両親やお弟妹と共に浅草の花屋敷で」などの広告・朝朝⑮、それらに誘われるように市内は賑わった。十四日は、大相撲の初日50銭デーで国技館は大盛況。当時の相撲はのんびりとしていたもので、打ち出しが午後八時三十五分。さすがに、「夜更かしの罪はテキ面」朝朝⑯と観客にあきれられ、翌二日目は、藪入りの小僧さんも相撲観戦に二の足を踏んだ。
 一月中頃から、流感「世界カゼ」が大流行、市内でも37万人の患者が発生、死者も十日間で690人に及んだ。綺堂も三十一日の日記に「いづこにも病人の多いことである」と書いている。翌月の大喪儀が近づくにつれて、市内にはレジャー自粛と、厳粛なムードが浸透した。

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昭和二年(1927年)二月、レジャーの自粛ムードが続く・・大正天皇大喪挙行⑦、青い目の人形到着⑮
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2月8日朝朝 大正天皇大喪儀の沿道に群衆百五十万、宮城前広場に大学専門学校をはじめ奉送団体十数万
  9日朝朝 「盛儀をしのんで群がりよる人々、二重橋から新宿御苑へ」
  9日朝朝 三日半の休暇が続いて、賑わった温泉宿
  9日朝朝 新橋演舞場「大原女」連日満員御礼
  12日朝朝 芝公園で民衆大会
  12日読朝 「梅を探ねて・・各地の梅信」
  14日朝朝 多摩御陵の一般参拝許され、晴れた浅川へ参拝者十万(浅川へ下車した参拝者三万人読朝 ⑭)
  22日読朝 「押すな押すなの電気工芸展」電気博物館入場料無料、会期2/20~3/19
  23日朝朝 多摩御陵参拝の期間が十日間延長され、三月二十四日まで
                                                
 二月に入ると、運動競技会や祝賀会など「派手な催しは四月三日まで遠慮」朝朝①と、レジャー自粛の声。節分が近づくと、成田山への臨時列車、豆まきの広告はあったが、どのくらいの人出かは不明。また、五日の初午についても広告はあるが、賑わいは記事になっていない。大喪儀のため、断腸亭日記の七日には「今明二日鳴物停止の令出づ」とある。
 八日の新聞は大喪儀一色。葬儀は新宿御苑で行われた。葬儀の沿道は、「百五十万の群衆」による大混雑。負傷者は各地に出て、その数は5百人に上り死者もでている。翌日も「盛儀をしのんで群がり寄る人々」が二重橋から新宿御苑へと大勢出た。
 なお、大喪儀は、三日半の休が続いたため、市内の人出は多く、銀座は人波ができるほどの賑わい。帝国劇場の女優劇や新橋演舞場『大原女』が連日満員御礼など、市内の興行は大盛況、さらに、温泉宿までが大賑わいであった。
 十三日には、一般参拝許された大正天皇多摩御陵へ、「十万参拝者」もの人々が訪れた。参拝者はその後も続き、多摩御陵参拝の期間は三月二十四日まで延長。しかし、レジャーは引続き自粛させようとするムードが漂っていた。二十日、神田で大火があり2千戸以上焼失。その後は天候も雨や雪が多く、市民の行楽に出かける気運はそがれた。

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昭和二年(1927年)三月、金融恐慌始まる⑭、暖かさとともに動きだす市民レジャー
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3月14日荷風 夜帝国劇場に伊太利亜歌劇を聴く
  19日読朝 国技館の日光博覧会、郷土土産が大人気で入場者一万三千人、大人50銭・小人30銭
  19日読朝 築地小劇場桜の園」日延べ連日満員
  22日読朝 二十日二十一日連休で各方面に人出
  22日読朝 多摩御陵の参詣者二万人
  22日読朝 新橋演舞場「東をどり」連日満員御礼
  25日朝朝 歌舞伎座「七騎落」大好評連日満員
  28日朝朝 「春になって最初の人出」
  28日朝朝 三田・稲門野球第一回戦三田勝つ
  29日荷風 夜銀座に赴く、散策の人織るが如し
                                                
 十三日、国会で大蔵大臣が「東京渡辺銀行の破綻を言明」朝朝⑭した。これに端を発し、銀行の取付騒ぎがはじまった。諸銀行は軒並み休業、金融恐慌へと進むことにる。また、市内は「始末の悪い大雪の後」と、明るい話題もなくレジャー気運は沈滞していた。
 彼岸も近づくと、月初めから開催していた国技館の日光博覧会に1万人を超える入場。日比谷公園には「春うららかに喜ぶ子供たち」朝朝が見られ、市民も戸外に出はじめた。二十日二十一日は連休、多摩御陵へ参詣者が「二万人」出かけた。市内も新橋演舞場の『東をどり』が連日満員、歌舞伎座も『伊太利大歌劇』朝朝が大好評、各方面に人出があった。
 その後も、歌舞伎座の公演は連日満員。二十七日の日曜は、それまでにない人出で賑わった。二十九日、銀座には夜まで大勢の人出があって、いよいよ春の行楽シーズンがはじまろうとしていた。ところが、「近ずくお花見にやかましい新法度 ことしは特に諒闇とあって、醜態一切を許さぬ」朝朝(30)と、またブレーキがかけられた。