大正から昭和へ

江戸・東京庶民の楽しみ 188

大正から昭和へ
・明治・大正・昭和での位置づけ

 1926年十二月二十五日に改元、昭和元年となった。東京市内は、ラジオの演芸放送が中止され、レジャーの自粛が促された。市民は、大正天皇崩御を厳粛に受け止めながら、歳末の慌ただしさに追われていた。二十六日に上野や銀座の歳末風景を見た永井荷風は、「諒闇の気味なし」と日記に書いている。
 翌二十七日、皇居前広場に集まった在郷軍人などを「夕もやに包まれて 宮城前の悲しき絵巻 二万の草民ただ聱を呑んで」と新聞は記している。荷風は、その様子を「丸内日比谷辺拝観者堵をなす」と、観察している。
 この情景、明治から大正になった時とは少し違う感じがする。それは、崩御の時期が7月であったから、夏のレジャーを楽しもうとする雰囲気が底流にあったためか、東京市民に暗さがあまり感じられない。たとえば、多くの市民が参加した大正時代の最初のビッグイベントは明治天皇の大喪であった。大喪はレジャーではなかったが、弁当や敷物持参で行列を待ち受け、その間に居眠りをしたりビールを飲んでる人がいた、と報じている。
 それから十五年後の大正天皇の大喪では、「宮城前大広場は各大学専門学校を始め団体奉送の大群十数万御道筋をはさんで遙に連なり・・・」「沿道百五十万の群衆」と、沿道には毅然としたムードが張りつめていた。その光景は、次の時代の到来を暗示させる雰囲気である。新聞の書き方もそうであるが、大正時代の終わりというより、昭和へのプロローグとして印象づけている。この時点では、後に戦争が始まることはわかってはいなかった。それなのに、あとの時代の人が見ると、世界大戦へと続くことが暗示されているように感じるのは、私だけであろうか。
 大正時代に遊んでいる東京市民を見ると、まだのんびりとした、ゆとりとまでは言えないが、この時代特有の雰囲気が漂っていた。そして、人々には、何かにつけて楽しもうとする気持ちがあって、自主的、積極的な面があった。たとえば、橋の開通を祝ってお祭騒ぎをしたり、神田駅や秋葉原駅などの連絡運転開始さえも自分達の息の掛かったものとして祝った。それが昭和に入ると一転して、橋の開通はもちろん、博覧会ですら一部の人しか関心を持たなくなる。
 大正時代の博覧会は、東京市民に非常に大きな影響を与えるものであった。それは、大正三年に開催された大正博覧会を初め、戦捷博覧会(四年)、海の博覧会と婦人子供博覧会(五年)、東京遷都奉祝博覧会(六年)、電気博覧会(七年)、平和記念家庭博覧会(八年)、南米博覧会(九年)、大正衛生博覧会(十年)、世界平和記念博覧会(十一年)、発明博覧会(十二年)、畜産工芸博覧会(十四年)、産業文化博覧会(十五年)など毎年のように催された。
 博覧会の効果は、以前より良くなるという暗示を市民に植えつけていたのだ。毎年、新しいものが誕生し、社会が豊かになるという気分を持続させた。博覧会に出品したものが、庶民の手に入り、便利になったりすることは、即座にはなかった。それでも、お祭気分に酔い、何か生活まで影響があるような気持ちを満たした。多数を占める庶民は、繰り返される博覧会に、全て見学でなきなくてもそれで満足したのであり、それが庶民の心情というものであろう。
 多くの市民が興味を持ち続けたのは、なんだったのだろうか。新しいものに憧れる東京市民に博覧会は、もってこいのイベントであった。実生活は、とても恵まれた時代であったとは言い難く、大正七年には米騒動が起き、庶民の懐具合は決して潤っていなかったと思う。毎年のように絶え間なく開催されることに加えて、自主的に参加できたことであろう。昭和になっても博覧会のようなものは、開催されるも、上からの動員が興味を減少させていった。さらに、何かにつけての規制、取締、市民の自主性や自由が締めつけられていく。
 明治・大正・昭和と続く中で、大正時代は、明治と昭和の間のごく短い期間であるせいか埋没してしまって注目されることは少ないようだ。しかし、庶民にとって、人々が輝きを持っていたという意味では、明治や昭和初期よりも格段と勝っていた時代である。それは、第一次世界大戦の特需による好景気で、一部の人々に偏っていたものの、ムードはまるで社会全体が享受していたように感じさせたからである。世間は、インフレの後押しもあって蓄財はさておき、好景気に酔って消費に走り、悲壮感が表面化しなかった。そして、大正時代は、近代文明の恩恵により便利で物質的に豊かな生活が少しずつ浸透していったことも事実である。
 特に東京は、富が集中し浪費に近いような消費が進み、外見的には近代的な都市となり、市民の多くが流行の先端を謳歌できるように感じさせた。それは、大正時代特有の都市文化といえるものが成立し始めた。大正時代を特徴づける“デモクラシー、ロマン、モダン”などといった言葉は、当時の東京から発信されたものである。
 さて、この大正から昭和へと移る様相、現代に類似して見える。緊迫した世界情勢、武力による戦争へとは展開しないと願いたいが、経済戦争としては悪化の事態が進みつつある。また、21世紀のデジタル化の進行による社会の急激な変化や富の偏在などから派生する現象も始まっている。ただ、それらは問題が表面化するまでに時間がかかることから、大局的にはメリットの方が取り上げられている。そのような中で、コロナ禍で始まった制約や規制、誰もがその中にいて、本当に有効なのか、判断できないということが先行きの不安を感じさせる。

・東京人の楽しみと苦悩
 大正時代は、明治から昭和への掛け橋の時代で、その境目が関東大震災といえる。また、大正時代は、明治時代を完成させた時代でもある。文明開化といえば明治時代を思い浮かべるが、一般市民に浸透したのは大正時代である。電気、電車、バスなどが珍しいものではなくなり、無ければ生活できないようになった。洋服、パンや牛乳などの生活様式が大きく変化し、自由や平等などの欧米思想が理解できるようになったのも大正時代の方が著しい。
 人々は、新しい文明の利器を積極的に取り入れ、利点だけに目を取られていた。確かに、便利なもや楽しいものが次から次に紹介され、生活が豊かになったと感じた。しかし、新しいものを得ることによって失うものもあるということに気づかなかった。
 汽車や電車ができた当時は、それに乗るだけで楽しいことであった。それが、出かけるには、電車に乗って遊びに行くことが当たり前になった。そして、発車時間に合わせて行動しなければならないことになり、遊びに制約が生じた。それでも、計画的に行動する時の緊張感は、人々の行楽での解放感を一層盛り立てるのに効果的であった。プラス面から考察することが、時代の主流になり、異論を発言するような人は変人扱いとなる。
 しかし、全行程を歩いていた時代の楽しみが無くなったことには思いも及ばない。「大名の『定年後』江戸の物見遊山」柳沢信鴻が江戸を歩き楽しんだような、自宅から全て徒歩で巡り回った、遊び心はそこにはない。歩いて出かけた時にあった、のんびりした気分が失われ、気持ちを伸びやかにすることを享受できないだろう。だんだん、気晴らしのレクリエーション、さらには「気損じ」「憂さ晴らし」をする人たちの増加を導くだろう。
 またその他にも、明治時代なら入場料だけで済んでいたものが、電車賃を払うことによってレジャー費用を圧迫していたことにも、気にならなくなっていた。逆に、出かけた場所などあちこちで、お金を使うことに快感を感じ、それが生活を豊かにするものと感じる人も多くなる。大正時代は、「消費の時代」の始まりである。ただ、人々の意識としては、遊びにも効率化、無駄のないようにする、浪費ではないと思っていただろう。さらに、「消費は美徳」というような感覚はなく、まだ堅実であったと弁解したい。