昭和のレジャースタイル始まる・二年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)191

昭和のレジャースタイル始まる・二年夏

 この年の夏は非常暑く、七月二十二日には95度(摂氏35度)になるという暑さ、33年ぶりだそうだ。夜になっても眠れずに、「家はカラッポで 橋の上満員」A(23)とある。冷房のない時代ならではの風景だろうが、なんとのんびりした生活なのだろうか。暑さを逃れるためであろうが、東京の町中を逃れて海や山へと人々は出かけた。この郊外へと足を向ける傾向は、秋になっても続き、スポーツの流行と共に昭和の新たなレジャースタイルになっていく。


凡例
新聞は発行日。日記は記載日・○の数字は日にち。
Aは東京朝日新聞朝刊・aは夕刊
Yは読売朝日新聞朝刊・yは夕刊
Hは東京日日新聞朝刊・hは夕刊
・新聞以外の資料として、次の作家の日記を引用した。
kiは岡本綺堂の日記  
taは高見順の日記
kaは永井荷風の日記
fuは古川ロッパの日記

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昭和二年(1927年)七月、やぶ入りにスポーツ流行・・新日本八景決まる③、芥川龍之介自殺(24)
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7月1日A 明治大正名作展、十七万八千人入場
  2日A 大磯町海水浴場、余興花火などを催し午前十時開場
  4日Y 上野不忍池畔で民衆納涼博覧会、「催物の記録を破った人出・・五万の盛況」会期7/1~8/31
  5日A 東京館「弥次喜多野球の巻」益々大好評満員御礼
  6日A 歌舞伎座「梅こよみ」連日満員
  12日ka 是夜銀座通草市にて雑遝す
  16日A 「浅草の悲哀 やぶ入りにスポーツ流行」
  17日A 「海と山とへ 一日百四十万 晴天続きの暑いお盆で」
  21日A 二十三日の川開きに、大警戒の陣立て 警察官二千九百名配置
  24日a のさばる暑熱「海も山も 避暑地は大賑わい」
  24日Y 両国の川開きの人出三十万人
  31日Y 明治神宮で「無慮二十万」神苑の虫を聞く
 
 七月に入り、レジャーは暑さとともに活気を増す。二日に大磯町海水浴場の開場広告、余興や花火を打ち上げるとか。東京館や歌舞伎座などの満員広告、映画や演劇も盛況が続いている。上野不忍池畔では民衆納涼博覧会(大人50銭小人30銭)が開催。大プールに滑り台、催物は盛り沢山で、花火・10万匹の螢狩り・盆踊り・鵜飼の実演などがある。
 藪入り、十五日午前五時両国発、房総方面行きは2千3百人の満員。前日の最終列車も山に向かう人で満員。十六日は、晴天続きで暑いお盆ということで郊外にどっと繰り出した。海には、鎌倉方面が1万3千人、千葉方面が7千7百人、小田原・熱海が5千百人など。山には、御殿場が3千3百、日光が2千百などが主なところである。昭和になって、かつての「縞模様の着物に鳥打帽子の小僧さん」が浅草公園を埋めつくすという光景は見られなくなった。
 二十三日の川開きは混雑が予想され、「大警戒の陣立て」と警察官を2千9百名も配置。水上には、汽船3隻・モーターボート8隻・ボート17隻・伝馬船が3隻・荷足り船136隻も用意した。しかし、人出は例年より少なかった。
 「七月の気温では三十三年ぶり」「家は空ッポで 橋の上満員」a(23)、夜も暑くて眠れない日が続き、避暑地へと出かける市民は例年より二三割増。また、明治神宮ではクツワムシ・スズムシ・キリギリス・マツムシなど「二万五千匹」が放たれ、大勢の市民が虫の音を求めて訪れた。

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昭和二年(1927年)八月、前年にも増す、市民の納涼・・甲子園の全国中等野球大会実況放送開始⑬
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8月3日A 銀座のカフェー・酒場などでモダンボーイを150名の大検挙
  6日A 玉川大花火
  8日A 日比谷公園、今夜「諸国盆踊りの夕べ」
  10日A あら川大花火八月十三日と十四日
  13日A 市電企画の日比谷納涼会、一日平均十一万人位の入場者、大半が省線利用
  15日Y 上野不忍池畔の民衆納涼博覧会、奇術や曲芸などの催物続き「連日数万」
  17日A いさみの娘連、深川八幡の夏祭
  22日ki 歌舞伎座は大入り
  24日ka 今年に至り遂に世間一般の人の如く避暑をなすに至りぬ(軽井沢へ)
  24日Y 帝国劇場の新国劇金色夜叉」他好評演続
  28日A 上野不忍池畔の民衆納涼博覧会、三日間福引で満員
                                                
 温泉や遊覧船など海や山に誘う新聞広告が毎日のように掲載されている。市内においても、日比谷公園や上野不忍池畔などの納涼企画が目白押し。「諸国盆踊りの夕べ」を催した日比谷公園は、納涼会の一日平均入場者が「十一万人位」あると。また、民衆納涼博覧会も、花火や盆踊り、ロシアの曲芸団などの催物で「連日数万」の入場者、月末三日間は福引で満員。さらに、深川八幡の夏祭などに加え、歌舞伎座や帝国劇場なども盛況、市内のレジャーは活況を呈した。
 夏の人出は山より海、土曜日曜は湘南・房総方面へ大挙して出かけた。鉄道省は、十三日「あすの日曜を絶頂」と、房総方面への日帰り客を「四十万人と見込んだ」a⑭。世間では、景気が良くないとのことから、客の金離れが悪いと言われているが、房総方面の滞在客は前年より1万人多く6万人に達した。湘南方面へ向かう列車は定員の250%乗車、帰りの混みようは「実に名状し難い程」であった。

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昭和二年(1927年)九月、清掃人のストで東京中塵に埋まる⑧、三越呉服店でファッションショー開催(28)、月末の連休は、今年初めての物凄い人出
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9月2日T 市内各所で関東大震災の追弔
  10日ka 神楽坂、夜涼の人織るが如し
  14日ka 四谷通の夜肆を看る
  15日ka 夜氷川神社祭礼を看る
  15日T 十四日の豪雨で2万7千戸浸水
  18日Y 神宮体育大会、水上競技大会が開かれる
  25日T ボート競技の墨堤に二万人集まる
  25日T 神宮球場六大学野球リーグ、法明戦大入り
  27日T 今年初めての 物凄い人出 休日二日に二百万人」
                                                
 一日は、日比谷公園をはじめとして、市内各所で関東大震災の追弔の集会が催された。松屋呉服店で震災前後の東京の写真展など、様々な催し物は、あちこち回る口実ができ、市民のレジャー気運は衰えなかった。十日、神楽坂を歩いた荷風は「夜涼の人織るが如し」と書いているように、土曜日ということで大勢の人出で賑わった。ただ、十四日は集中豪雨、市内各地で家屋の浸水が多発、レジャーどころではなくなった人も大勢いた。
 それでもお彼岸になると出歩く人が増えて、二十四日から連休は、「きょうの人出七十万」t(25)と予想された。二十四日は、浅草公園活動街にお昼までに「早くも十万人」、上野動物園にも午前中に5千人、十二大校第七回レガッタ選には墨堤に「二万人」、二十五日の神宮球場は法明戦は大入り、など市内の行楽地はどこも人でごった返していた。東鉄の調べでは、二日間で200万人を超える乗客があり、湘南方面が約3万2千人、日光が約7千人など「夏の避暑客の出より多く」、最高記録であった。