一転してレジャー?の人出が増える六年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)208
一転してレジャー?の人出が増える六年秋
 連日のように戦争関連の記事、勝利、爆撃など、国民を鼓舞するようである。そのため、戦争をじっくり考えたり、躊躇させるような記事は許されない、まして反対するような言動はタブーとなった。
 娯楽でも同様、闘争意志をもり立てるには、スポーツ観戦が最適である。勝ち負けに拘り、選手と一体となって応援する雰囲気、その興奮を伝える。スポーツならではの効果を、政府、軍は見逃すわけがない。野球くらいでは効果が薄いと思ったのか、神宮体育大会は、全国から一万人もの人々を集め、盛大になるように催している。
 街中は、活気までとは言えないが、ザワザワするような動きが起きている。早慶戦で死傷者が出たり、招魂社祭礼の活況、明治節の盛り上がり、出兵兵士の見送りなど、人の動きは活発に見える。しかし、全てが市民の自発的な活動ではないと思われるのに、新聞を読んでいると誰もが自発的に参加していると思わせる記事が多い。
 レジャーについて見ると、人出はそこそこあるものの、入場料の値下げなどが支えるものである。不景気だけてはなく、心から楽しもうとするマインドが低下し、市民の行動に影響している。表向き、不景気を隠そうとしているようだか、年末には株の大暴落、市民の娯楽もその影響を受けないわけがない。本当は、このようなときにこそ、市民が心から楽しめるようなイベントが必要なのである。人々が浮かれ楽しむと、戦争への関心が薄くなり、引き締めなければならないと、以後はさらなる制約が進むことになる。はたして、本当はどうであろうか、アメリカの戦時状況下のレジャーと比べてみる必要がある。

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昭和六年(1931年)十月、関東軍、錦州を爆撃⑧、歌舞伎の衰退するなか、スポーツは盛況
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10月3日A 「拳闘選手はスポーツマンか遊芸人か?」課税に迷う
  10日ka 夜日比谷辺にて花火を打揚る響頻なり
  13日A 池上お会式に人出五十万人、在郷軍人など250人出動、賽銭泥棒60名
  16日A 松竹「社運を賭した十月興行も不入り」
  17日a 「早慶戦切符騒ぎで 死傷者四名を出す」前夜から三千人詰めかける
  17日a 帝展 賑わう 招待日
  18日a 雨のため、ベッタラ市延期
  19日M 「秋は山だと、押しかけた遊覧客」新宿駅から十八万人、東京駅十万五千、上野駅十万二千
  22日a 「沸き立つ早慶勝戦
  24日ka 招魂社祭礼最終日・・参詣の人群をなし、見世物の鳴物さわがしく、花火の響頻なり
  26日ka 銀座、夜となりて、散歩の男女織るが如く
  28日a 立教リーグ優勝「池袋の街ではお祭騒ぎ」
  28日a 第六回神宮体育大会開幕、参加選手全国一万人                       
 池上本門寺お会式の十二日は電車が終日運転され、「人出五十万」と大賑わいであった。警備には、在郷軍人青年団など250人も出動した。ただ、本門寺ならではの威勢のよい「纏い」を禁止したためか、喧嘩はなく、迷子十数人、「エロ挙動不審」40人、不景気を反映してか賽銭泥棒60名であった。
 松竹が社運を賭けた十月興行、中日を過ぎても不入りが続くなか、六大学野球は盛況。早慶戦は、前夜から「三千人」詰めかけ、「早慶戦切符騒ぎで 死傷者四名を出す」ほど、試合前から興奮している。二十一日の決勝戦は、ウイークデーであるのに「切符売出し改札の時は二万人もいた」。なお、この秋の優勝校は立教、二十七日の「池袋の街ではお祭騒ぎ」であった。

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昭和六年(1931年)十一月、浅草に松屋オープン①、天津で日中軍衝突⑧、再衝突(28)市民の関心はレジャーよりも満州事変
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11月4日a 「賑う明治節」、正午までに二十万人を超える参拝者
  8日A 米大リーグ来日、日米野球初日の神宮スタンドは数時間前から満員
  11日a 「憂国の発露 明治神宮に渦巻く祈願者 日毎に増えて行く」
  21日a ダンス教習所11ヶ所に閉鎖命令、ダンスホール同様の営業と認められ
  21日A 帝展終了、入場数二十一万人、有料は半数
  27日ka 白木屋店頭に群集雑遝す
  29日a 「浅草十銭合戦」入場料を10銭に値下げする競争がはじまる
  29日A ラジオの新規加入が満州事変後二ヶ月で五万件(全国で)を超える(全国で九十二万となる)

 明治節、正午までに「二十万」人を超える参拝者。人目を引く派手な服装はなく、カーキ色の在郷軍人青年団などが目立った。市内では、日比谷公会堂で奉祝講演、代々木練兵場で学生神宮奉拝式、陸軍戸山学校在郷軍人会の創立記念祭、上野公演美術館側広場で全国体操連盟主催の体操祭などが催された。明治神宮には、その後も日を追う毎に祈願者が増えていった。
 米大リーグが来日、七日に日米野球の初戦、神宮スタンドは数時間前から満員となった。スポーツは盛んで、日比谷市政講堂でアマチュア拳闘大会、早慶蹴球戦、早慶新人野球などが続いている。それに対し、文化活動代表する帝展は、入場者数こそ前年より5千人ほど多い21万5千人を超えたが、50銭の入場料を実際に払った人は半数。結局、前年より約8千人も減少し、そのため6万2千円と4千円もの減収。
 満州事変、再衝突の前日、荷風白木屋の前に人だかりができていたので近づくと、「満州出征軍人野営の状を活人形につくり」展示していた。「時に号外売声をからして街上を疾走す」、と日記に書いている。
 浅草公園では、万成座が入場料を10銭に値下げして客足を吸収したことから、演芸物上演の江戸館と橘館、映画の遊楽館と大東京が追随。そのため、六区の興行界では、入場料を10銭に値下げする競争がはじまった。

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昭和六年(1931年)十二月、犬養内閣成立⑬、浅草オペラ館開場⑯、株式大暴落⑱、新宿にムーラン・ルージュ開場(31)、満都は到るところ事変気分
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12月1日M 「満都至るところ事変気分」銀座に鉄砲遊戯
  5日a 歌舞伎座義経腰越状」他、連日満員
  6日M 納の水天宮
  17日A 「不景気去った? 歳末この繁昌」「百貨店に赤字消滅」
  21日M 「巷に人出の大氾濫、浅草の観音さんめっきり減ったお賽銭、五人に一人が二十人に一人に減少」
  21日A 日比谷公会堂で、市主催クリスマス会開催
  23日A 「国旗と軍歌の洪水 東京部隊出発す」品川駅は大混雑
  25日A 「Xマス・イヴを踊り抜く」帝国ホテル
  26日A 「新雪に勢込んでスキーヤーくりだす」150人と指で数えるほど
 
 「暮せまる寒空に 三千人の欠食児童」A(23)と、市民の生活は改善していない。ところが、「不景気去った? 歳末この繁昌」「百貨店に赤字消滅」。これは、犬養内閣の積極政策を期待し、貴金属が値上がりしているからで、百貨店など一部には景気のよいところがある。が、「大部分が見渡すところ依然として懐勘定はさびしい」a(27)と。なお、東京市の調査によると、百貨店の正月用品は「暴利過ぎる」と報告されている。
 その他の人出は、二十二日の品川駅が、満州出兵を見送る人々でホームに溢れるばかりの混雑があった程度。日比谷公会堂で市主催のクリスマス会、帝国ホテルの「Xマス・イヴ」、「新雪に勢込んでスキーヤー」などのレジャー関連の記事はあるが、せいぜい話題を提供するものでしかなかった。  

不景気と満州事変でレジャー気運が陰る六年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)207
不景気と満州事変でレジャー気運が陰る六年夏
 不景気に戦争、それに加えて天候不順は、市民のレジャー活動を抑止させる。例年より行楽の人出が少なく、イベントも少ないような気がする。大きな事件はないものの、国民に事実をあまり知らせない万宝山事件が起きていた。満州侵略気運の醸成にもなる万宝山事件、着々と戦争への歩みが進められていた。それでも、天候に恵まれれば、海や山への人出はそれなりにあり、賑わいを呈していた。市民は停滞した気運を晴らそうと、レジャーに向かうが、満州事変勃発でその気運も押さえ込もうとする報道が多くなる。
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昭和六年(1931年)七月、万宝山事件発生②、長雨で市民レジャーは沈滞
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7月5日ka 水天宮の賽日にて賑なり
  10日A 大納涼国技館「山陽遊覧」五日より
  16日a 「雨、浅草を賑わす」藪入りの人出
  16日a 鉄道は泣面わす 冷涼で臨時列車中止
  17日A 浜町公園で盆踊り、一万人の人出
  18日M 「久しぶりの晴れで 銀座の賑わい」
  18日ka 掘割の橋の上に人多く立ちて花火を見る
  19日A 川開き、数十万位の人出、酔っ払い4件、迷子5件、スリ被害3件
  20日A 「プールへ海へ 蒸がまの底にうめく 都会人は押出す」
  23日A 「雨空を眺め 避暑地泣き出す 貸家貸間ガラ空き」
  26日A 「陽光朗らかに輝くプール・・・芝公園の婦人プール開き」
  26日A 市の納涼大会、隅田公園で花火で幕開け、毎夜八月末日まで

 市民の不景気感はさらに浸透。中元が近づくと、米や砂糖の目方をごまかすなどの不正な商人が摘発された。この年の藪入りは雨、おかげで浅草は「各映画館、レビュー館あらゆる興行は平日より一回増して午前九時から四回の盆興行」。入場人員を監視する警察官は、いつもの三倍に増員して満員の館内を巡った。公園内の飲食店も相応の景気、一杯5銭のアイスクリームが売れていた。それに対し、鉄道は日光や熱海などに向かう臨時列車を運転中止にするという状態。遠出が減ったのは、天候だけのせいではなく、不景気が大きく影響している。
 市民レジャーは、浜町公園の盆踊りに「一万人の人出」、川開きには「数十万位の人出」と、あまりお金をかけずに行っている。芝浦埋立地を歩いた荷風は、「掘割の橋の上に人多く立ちて花火を見る」と、十八日の日記に書いている。当日の事故は、酔っ払い4件、迷子5件、スリ被害3件、遊覧船衝突による死傷者5名と、人出の割には少なかった。
 十九日、やっと夏らしくなった。日曜ということで市内30余のプールは、どこも大変な賑わい。また、海へも、鎌倉3万5千人、逗子2万人など人出があった。しかし、臨時列車は満員どころか半分程度しか座席が埋まらなかった。二十三日付で、「雨空を眺め 避暑地泣き出す 貸家貸間ガラ空き」と、長雨によってレジャー気運は湿っている。

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昭和六年(1931年)八月、羽田空港飛行機の発着開始(25)、一日から夏のレジャーが本格化
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8月3日A 「ごった返した きのうの日曜日」「はじめての暑さに各駅押すな押すな」
  7日A 「明日は市川の大花火」
  8日A 神宮プールで日米水上競技開催、三日間
  10日m 湘南方面は今夏第一の人出、逗子海岸は午前中に四万余人の賑わい、市内プールは芋を洗うよう
  12日A 「深夜の愛宕山、眠られぬ人々で一ぱい」この年第二の暑さ
  17日m 月島海水浴、賑う子供天国
  17日M 不忍池で流灯会
  17日A 前日の房総の人出、最高を記録、京成電車三十五万人の乗降客
  27日A リンドバーグを迎え、上野駅から歌舞伎座までの沿道は身動きのできぬ混雑
  30日A 日比谷で故濱口雄幸民政党葬に十五万人参列
  31日A リンドバーグ夫妻歓迎会、三万収容の日比谷新音楽堂が立錐の余地なき

 それでも八月に入ると、二日は「初めての暑さに各駅押すな押すな」の混雑、やっと夏らしい海や山の賑わいが伝えられた。以後、「深夜の愛宕山、眠られぬ人々で一ぱい」と、暑さは本格化。
 七日から、初めての日米水上競技大会が開催された。
 この夏の人出が本格化し、九日は湘南方面が賑わい、十六日は、特に房総方面が多く、京成電車は乗客が35万人に達し、この年の海へは最高の人出。十五日を過ぎても暑く二十三日まで雨が降らなかった。
 リンドバーグ大佐は、北太平洋横断飛行に成功、根室に二十四日到着。二十六日の上野駅は、英雄を一目見ようとする市民が、到着の一時間前以上から群集し、会見会場の歌舞伎座までの沿道は身動きのできぬ混雑。さらに、三十日のリンドバーグ夫妻の市民歓迎会は、3万人収容の日比谷新音楽堂が定刻前から、立錐の余地もないほどとなった。なおその前日、日比谷公園では故濱口雄幸民政党葬が催され、市民「十五万人」が参列、賽銭は150円を超えると伝えられた。

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昭和六年(1931年)九月、地下鉄2キロまで5銭に値下げ⑮、満州事変勃発⑱と不景気で市民レジャーの影は薄くなる
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9月2日a 関東大震災8周年、本所の震災記念堂へ供養に十五万人参拝
  13日A 六大学リーグ戦開幕、正午過ぎてスタンド満員
  13日A 中等校陸上大会 百六十余校が参加 神宮競技場
  25日a 均一品で 秋の売出し戦 デパート戦術 大衆消費者相手に方針変へ
  25日a 「きょうの郊外の人出」満州事変と不景気で遠出は振るわず
  26日A ルンペン運動会、賞金目当ての滅茶苦茶競争
  28日T 法立戦中止でファン騒ぎ、観客一万数千の内千数百名スタンドへ

 十二日に六大学リーグ戦が開幕、第一回戦の明法戦は正午過ぎてスタンドが満員となる盛況。スポーツ観戦は、野球だけでなくボクシングも人気が出はじめた。二十四日から六大学拳闘リーグがはじまり、入場料は一円と50銭とある。チケットは、市内のスポーツ店と大学の拳闘部で発売。満州事変を前にして、人々をスポーツで盛り上げようとする中等校陸上大会、どこまで自発的であったか。動員するように開催されている。
 満州事変の報道に紙面が割かれ、「きょうの郊外の人出」との見出しで行楽状況を紹介するが、その取り扱いは小さい。彼岸の中日は、「満州事変と不景気がたたって遠出の方はあまり振わず」とあるが、市内および周辺の人出はそれなりにあった。以後も市民の行楽は続いたが、新聞は満州事変の前線状況を優先して伝えるようになる。  

新聞のレジャーへの対応が変り始める六年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)206
新聞のレジャーへの対応が変り始める六年春
 四月十三日の東京朝日新聞は、「風は風、花は花 この大人出 きのふがヤマの花見日曜日 相変わらぬ目茶騒ぎ」から始まり、「花より喧嘩」、「花見ぢやねエ 公徳運動だい」と続く。花見を牽制するような書き方、「アルコールにみち/\て ベロ/\醜態続出」、「本社の挙にルンペン活躍」との小見出し。行き過ぎた市民の騒ぎを是正しようとするものだが、はたしてそれだけであろうか。建前としては正論であるが、どうも、どこかの目を見ながら忖度しているようだ。その極みは、「本社の清掃体のルンペンがせつせと高ほうきで花見客の散らした紙片を掃いてゐる」とある。その一方で、かつては無礼講の許された花見は禁止され、花見に託つけたデモが検挙されている。記事を書く姿勢、論調を大正七年の新聞と比べたい。
https://b4ea36g1.hatenablog.com/entry/2021/02/15/103837?_ga=2.238897027.228896991.1656019692-643317677.1567037511
 大正七年四月「飛鳥山は恐ろしい人気・・・まるで変装博覧会」八日付讀賣
 新聞は恒例のサクラ便り、七日の飛鳥山はまだ五六分の開花、春雨が降りだすという天気でも花見に押し寄せる人あまた。花見酒に酔って、変装してしまえば治外法権の世界、高歌乱舞にケンカ、まるで変装博覧会のようであったと。翌日は、朝の内は晴天で絶好の花見日和であったが午後に入り花曇り、サクラもちょうど見頃で、上野はその年一番の騒がしさであった。なかでも、博物館の前では、ある会社がきれいに着飾った雛妓に縄跳びをさせていて、その周辺は子犬も通れないほどの混雑だったという。
 また、十四日の飛鳥山は、春雨続きのためサクラは色あせたが、思い思いの仮装を凝らした男女が電車を下りた時から、酔ったような様相で次から次へと山に流れて行った。山はそれまでの花見客による狼藉で戦場跡のような無残な光景を残しているが、その上でまた箍を外した花宴が開かれた。荒川の花見は次の日曜。小台の渡しでは船頭が向こう(東側)に渡ろうとする人々を「押すな」と制止、土手には大勢の人々。千鳥足の大名、雲助、按摩、狐の嫁入りの輿をコンチキチと担いで行ききする仮装のグループなど多種多様だった。

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昭和六年(1931年)四月、NHK東京放送開始⑥、浜口内閣総辞職⑬、花見は「相変わらぬ目茶騒ぎ」
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4月2日A 新宿駅、電化開通で朝からお祭騒ぎ
  5日A 浅草富士館、神田日活館の実演と映画「英雄時代」連日満員御礼
  9日Y シャム国皇帝皇后奉迎の花祭り日比谷公園に市民七万が集う
  12日a 武蔵野館「ケエラルフ・ハルピスツ」連日満員御礼
  13日A 飛鳥山も上野も最高の人出
  20日Y 今春人出の新記録「押し出した二百万」
  22日A 「花自動車大行進」日比谷から街頭へ 自動車92台 花車62台 1157人
  30日a 天長節催物中の呼び物、第二回広告祭大行進、花火と共に街頭へ

 四月に入り、行楽への人出は、日に日に追って増え、花見は十二日が最高。飛鳥山は、「朝っぱらからアルコール分を多分に発散させながらドンドン省線王子駅や市電で繰りこんでくる」。十二時頃には、もう山は一歩も踏みこめないという素晴らしい人出。十銭の莚は飛ぶように売れ、「酔いの回るに従ってかき鳴らす三味線の音や安来節で山は忽ち狂そう乱舞の舞台と化してべろべろに酔った大石蔵之助や赤垣源蔵が彼処ここのむしろの陣屋へ喧嘩の他流試合に出かける。山は文字通り酒と喧嘩で一日持ちきってしまった」。 
 花見は市内にとどまらず、郊外の千葉県の三里塚宮内省下総牧場にも「五万余人」、未曽有の賑わいと泥酔者が多かった。なお、喧嘩が十数件も発生し、「東京某省の雇」他と府下南葛飾郡砂町荷揚人夫」他との争い、東京から多くの市民が出かけていたことがわかる。また、江戸川堤では。花見を託つけたデモをして130人検挙された。
 さらに十九日は、午前中に新宿駅から19万人、東京駅12万、上野駅25万など、行楽地に向かった。二十二日、日比谷公園から花自動車大行進。また、二十九日も天長節の催物中の呼び物として、第二回広告祭の大行進が催された。行進は、花火と共に街頭へ向い、自動車92台と荷車62台などに1,157人、先頭から後尾まで約一里も続いた。

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昭和六年(1931年)五月、河原崎長十郎前進座結成(22)、話題は野球とハンガーストライキの煙突男
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5月2日A 物々しい警戒裏のメーデー、検挙六百余名
  3日a 電気館・武蔵野館・邦楽館「ランゴ」「ハルピスツ」連日満員御礼
  4日ka 水天宮社殿造営祝賀の祭礼にて芸者手古舞の催あり、雑遝甚し
  11日A 新装した神宮野球場で六大学リーグ戦開幕、七万人の大観衆
  15日a 大相撲夏場所、大衆デーの宣伝も効果なく、客足さびしい初日
  17日a 電気館等「嘆きの天使」満員御礼
  18日A 市電二十周年祝賀花火大会、月島に四万の観衆
  19日A 明大の応援団 大挙して大暴行
  22日A 帝都館・神田日活等「荒木又右衛門」続映
  25日Y 日比谷新音楽堂で家庭娯楽会に八千人
  25日A 大相撲夏場所千秋楽、三四階席は鈴なりの満員

 メーデーは、不景気を反映して「五万人」の大規模なデモと予想した。が、「物々しい警戒裏に メーデー大行進 一万五千の会衆に五千の警官」であった。これまで新聞は、どちらかといえば労働者側に立っていたが、この年から、「未曾有の大検束 八百五十名に上る」「象潟署長負傷す 石でなぐり付けられて」「松阪屋へ殺到 ガラス戸を破壊す」と書きはじめた。新聞は明らかに忖度をしている。
 十日、装いを新たにした神宮野球場(6万5千人収容)で、「七万の大観衆」を迎えて六大学リーグ戦が開幕。野球、特に六大学リーグは人気を増し、入場券を手に入れることが難しくなった。その影響で十四日からの大相撲夏場所は、50銭という格安料金の大衆デーの宣伝の効果もなく、「客足さびしい初日」。また、劇場や映画館の入りが悪くなったのも、不況に加えて「スポーツの民衆化」が大きく影響している。特に、「歓楽街の不況」A⑮で「浅草沈衰の悩み」と、浅草公園の「三十館何れも欠損続き」になっている。
 十五日から「市電の二十周年祝賀会」、月島での花火大会は「四万」の観衆を集めた。十八日の慶明戦二回戦でボークの判定を巡って一時試合中止、終了後負けた明大の応援団達が暴動。慶應の学生をはじめ負傷者が十数人に及び、明大は以後の試合を遠慮するよう勧告された。

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昭和六年(1931年)六月、日比谷公会堂を一般興行場に⑰、梅雨空を吹き払うような熱気の早慶戦人気
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6月2日A 玉川電車初電に一千人乗車「太公望連繰出して ほくほくものの郊外電車」
  14日A 第一回早慶戦に観衆五万人、売れたのは応援歌の扇子と弁当に冷しコーヒー
  19日T 「減俸の暗い影」遊覧客の激減の私鉄
  21日A 「笑いの中に涙 落語家も減俸 木戸銭引下げから」
  22日Y 上野美術館で「女性美展」
  24日A 日比谷公会堂で東洋拳闘選手権大会 場内あふれる盛況
  26日A 新歌舞伎座「暴風雨の薔薇」満員御礼堂々日延べ
  29日T 「夏!シーズンの第一日曜」海水浴場の出願は前年の半分

 六月に入ると、「太公望連繰出して」、小田急では終電車から1千人、玉川電車の初電に1千人、等々と鮎釣りの記事。また、休日に向けた「釣り便り」や電鉄の案内も、菖蒲園や遊園地などと共に多くなった。
 梅雨に入り、停滞しがちの市民レジャーを活気づけたのは、十三日からの早慶戦神宮球場、第一回戦の観衆は「五万」人、そのうち早大応援団が「一万二千人」を占める。第二回戦には徹夜で待つファンに四谷署が悲鳴をあげていた。球場で最も売れたものは、応援歌の書かれた20銭の扇子、それに弁当に冷しコーヒーとソーダー水であった。
 「首の廻らぬ浅草興行界」と、不況に取締りも厳しいらしい。寄席の木戸銭は、震災後の物価と共に上がり、映画の入場料が20~30銭なのに対し、「安いので五十銭、一寸幹部級を二三枚加えると六十銭、七十銭となり小物料をいれると一円」となる。不景気は興行界に深く浸透しているのに、寄席は「時代錯誤」で「木戸銭引下げから」と「笑いの中に涙 落語家も減俸」、七月から二割減俸となる。                 
 

不景気に萎縮するレジャーの六年冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)205
不景気に萎縮するレジャーの六年冬
昭和6年(1931年)のレジャー関連事象 
 国内の景気は一向に変わらず、公務員等の減俸実施など、民政党内閣への不満が高まっていった。クーデター未遂三月事件、陸軍の軍縮政策に対する民政党若槻内閣批判、政府は軍部を抑えることができなくなっていた。満州での権益を守ろうとする動きに、政府は反論できず、軍部の武力行使を黙認し満州事変へ進んだ。
 若槻内閣は、軍部と与する勢力によって総辞職に追い込まれ、犬飼内閣が成立した。まず行ったのが、金輸出の再禁止、これによって国内の経済は混乱を増した。この年、東北・北海道は冷害、農村の疲弊は最悪の状況を呈しており、米の買い占めなど投機的になりやすくなっていた。そして、東京市内の不況は、労働運動の活発化、労働争議の激化、失業者が溢れ、欠食児童が問題となった。
 市民レジャーは、不景気に加えて、満州事変勃発、大きなイベントがなかったことから低調であった。それでも、学生スポーツは盛んで、野球に加えてレスリングやボクシングなどの格闘技も人気を増した。
 この年の話題は、羽田飛行場開場のほか、森永製菓が発売した「パナマウント・チョコレート」と「チューインガム」が流行。また、チンドン屋が出現、これはトーキーの普及によって失業した楽士の活路でもあった。流行歌は、『酒は涙かため息か』『丘を越えて』『侍ニッポン』など。

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昭和六年(1931年)一月、「不景気を吹っ飛ばす=春芝居」、市民の正月レジャーは気運盛り上がる
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1月3日T 元日の人出・浅草第一、十万
  4日A 「不景気何のその 浅草大当り」
  4日A 動物園は雪で三千五百人、前年の半数程度
  6日A 不景気を吹っ飛ばす春芝居
  6日a 初水天宮の大賑わい、帝釈天も人出
  6日A 「吉例の消防出初式 きょう二重橋前の盛観」約三万の観衆
  9日a 「さすが春場所 民衆デーの賑わい」
  10日ka 夜虎の門金比羅の縁日を看る
  16日a 「やぶ入 きょう浅草賑わう」
  18日A 大相撲十日目大盛況
  21日t 大相撲の観客は商人が最も多く25%、女性は6%(四百五十人)
  24日A 都下の感冒患者 四八万人上る
  30日a 警視庁、映画館の男女別席撤廃を決める

 この年は、元日二日が雪、三日は好天気に誘われて市民は街に「ドッと出た」。映画館や劇場はどこも満員、「遊楽館などは元旦以来毎日一万五千人から呼んでいる」、歌舞伎座「定員二千七百としても無理につめたら五千近く入る」というような盛況ぶり。「不景気何のその 浅草大当り」で、公園内は興行だけではなく「呼売りの店」までも繁昌し、「冷やしコーヒー、氷づけのサイダー、アイスクリーム」が飛ぶように売れた。なお、恒例の「うで玉子」は不人気であった。また、初水天宮は大賑わい、消防出初式帝釈天も人出が続いた。そして、十五日の藪入りも浅草に大勢の人が訪れるという状況が続いた。なお、二日に雪が降ったということもあるが、上野動物園の入場者が前年の半数に減った。新聞には、「だんだん動物園を相手にしなくなった」とも書いてある。
 八日初日の大相撲は民衆デーで賑わう。十七日の十日目は、大入りの大盛況。二十日、観客の調査が行われ、回答者7515人のうち最も多いのが商人で25%、女性客は四百五十人で6%を占める程であった。まだ相撲を積極的に見る女性は、非常に少なかった。たぶん、旦那方に連れられて来場したものであろう。家族連れで訪れることもなかったのではなかろうか。そのため、升席は男女を分けて座らせることもなかったようだ。
 ところで、この当時は、映画を観賞するとき、男女は別々の席に座ることになっていた。それが、この時期におよんでやっと、警視庁は「活動写真常設館の男女別席撤廃」を決めた。つまり、家族連れで映画館に行くということはなかったのだ。

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昭和六年(1931年)二月、国会は失言から乱闘騒ぎ③、市民は正月の夢からさめてまた不景気
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2月3日A エア・ガールの志願に どっと押しかけた女性
  5日A 細雨にもめげず豆まき、川崎大師の人出は十三万人
  7日a 東京劇場「改訂金色夜叉」他連日満員御礼
  7日a 歌舞伎座義経千本桜」他、連日満員御礼
  12日A 「どの列車にもスキーヤー満載」十日の夜だけで千五六百名
  12日A 「壮観!七万の長列 雪を蹴って大行進 年毎に盛んな建国祭」
  22日A 「八流の奥義をこらし 生花の大展覧会」上野府立美術館で開催
  22日A 「あてに成らぬ あすの梅日和 スキー列車もでない」

 節分は、細雨が降るという中、「豆まき列車繁昌」t⑤と、川崎大師に「十三万人」も出かけた。東京劇場の「改訂金色夜叉」が「初日以来連日満員御礼」、歌舞伎座も「義経千本桜」が「連日満員御礼」の広告が出されているが、市民レジャーが盛況なのはその頃まで。
 十一日の建国祭、「壮観!七万の長列 雪を蹴って大行進」とあるが、その多くは動員されたもの。年々盛んになるとあるが、実態は盛んにしているのであって、イベントの少ない時期にすることで関心を向けようとしていることがわかる。
 新聞は、三日の幣原首相代理の失言から起きた国会の混乱を連日掲載。チャンバラ剣劇時代を再興した混乱、乱闘とまでいわれた。あきれた議会の情勢より、市民が心配していたのは流感であった。それが、「流感七十万人 峠はもう越したが」A⑭、と多少安心できるようになったものの、その後もたびたび雪が降り、市民のレジャー気運は落ち込んでいた。

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昭和六年(1931年)三月、隅田公園開園(24)、二日続きの休み「お客は増えたが鉄道は銭足らず」
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3月9日A 「陸軍飛行演習の珍事」観衆数百名火傷す、観衆実に二十万
  11日A 国技館で「大ばけ大会」曲芸レビュー他余興数々、大人40銭小人20銭
  15日A 「いよいよ映画館 取締りに着手す 回転回数の制限決す」
  16日A 「うだる人波 申し分ない春日和の日曜」郊外電車だけでも乗客約五十万人
  21日A 「化学工業華かに幕開き」
  21日a 「動物祭の賑い」上野動物園開園五十周年記念祭が開催される
  21日a 帝国館・南座「壊けゆく珠」好評満員広告
  22日a 「春行楽幕開き 郊外へ海岸へ各電車満員」
  24日A 連休で、鉄道のお客は増えたが「銭足らず」
  25日A 帝劇「有憂華」初日以来連日満員御礼
  26日A 「劇場前で警官が定員調べ 浅草興行界大弱り」
  27日A 「最初の復活祭」日比谷音楽堂で盛大な記念音楽祭
  31日y 快晴に浮かれた人出、東鉄管内で五・六十万人輸送

 八日、代々木練兵場には陸軍記念飛行演習を見ようと、「実に二十万」人も訪れていた。当日呼び物の「煙幕」を展帳した際、煙幕剤が気化せずに観衆に降り注ぎ、数百名の火傷者が出るというアクシデントがあった。
 十五日は、「申し分ない春日和の日曜」、上野動物園は「動物撮影週間」ということもあって3万人余の入場者(迷子32件)。市内の日比谷公園、銀座などはもちろん、郊外へも多くの市民が出かけた。京成電車や目蒲電車などの郊外電車だけでも乗客が「約五十万人」、市内の行楽を合わせれば「百万の人出」となる。
 次の日曜は連休で好天気。この春一番の人出、それも家族連れの行楽が目についた。不景気とされる中で、一方では一家で円タクに乗って遊びに出かける人が増えているそうだ。二十一日、五十周年記念祭の上野動物園は、午後三時には3万人を超える入園者、この年最初の記録。裏の谷中にも彼岸ということで普段にない人出、被服厰跡の震災記念堂や浅草寺にも大勢の人が訪れた。また、郊外に向かう電車は、「朝から 満員また満員」。東京駅・両国駅上野駅新宿駅等の乗降客は、市電を含めると「百万を突破する見込み」である。確かに人出は多いが、市内および周辺にまでしか足が伸びず、収入を期待した鉄道は裏切られた。
 

世知辛い遊び方が増えた五年秋

 江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)204
世知辛い遊び方が増えた五年秋
 娯楽を求める人々の数はあまり減らないものの、世知辛い遊び方をする人たちが目に付く。十一月の初め頃までは、遊びの賑わいは前年と同じようであったが、浜口首相が東京駅で右翼に狙撃されると、一気に萎れてしまった。菓子やタクシー料金などの値下げが顕著になり、前年にも増してデフレムードが漂った。また、賭博や「エロ・グロ・ナンセンス」が流行するなど、社会の暗さが目に付く。その一方で、歳末の商売では高級品の売れ行きが増したとか。貧富の差が広がって行くようで、社会の不満は、以後も少しずつ増大して行く。不景気を反映してのことであろうが、社会のゆとりが無くなっていく。
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昭和五年(1930年)十月、第三回国勢調査①、不景気を反映するレジャー風景
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10月2日Y 国技館の「日露戦役二十五周年記念」菊大会、開館
  13日Y お会式の人出 三十五万人、賽銭泥棒3百余人
  17日A 「帝展不景気混雑記」1枚の招待券で六十人入場など午前中に六千人突破
  17日A 「近郊各地の紅葉便り 臨時列車が増発」
  19日A 「早慶戦始まる」粉擾の解決未だし
  20日y 中山競馬三日目天気に恵まれ大入り
  23日ki 靖国神社大祭へ・・すこぶる賑わっていた
  30日A 明治神宮鎮座祭体育大会始まる
  31日A 明治神宮賑わう
                                                
 市民レジャーも不景気を反映する記事が多い。十二日の池上のお会式は、「三十五万人」の人出。迷子は三十五人、スリは1人と少なかったが、賽銭泥棒が三百人以上も検挙された。「帝展不景気混雑記」では、初日の入場者が午前中に6千人を突破するが、1枚の招待券で60人が入場する世知辛い人々による賑わい。十八日から早慶戦が始まる。入場券の分配数について早大生が騒いでいる。これも転売して利益を得ようとする者がいるためである。
 靖国神社の大祭、綺堂は、二十二日に花火の音を聞き翌日の午後に足を運んだ。天気もよく、神社内外ともたくさんの人出。荷風も番町まで出かけた際に、周辺の賑わっているのを見ている。二十九日から明治神宮鎮座祭体育大会が始まり、以後も神宮周辺の混雑は続く。

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昭和五年(1930年)十一月、浜口首相が東京駅で狙撃される⑭、明治神宮鎮座十年祭で湧き返る
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11月2日A 明治神宮鎮座十年祭「花電車に賑わう夜」
  2日ki 明治座は初日満員。第一「義士忠録」他
  4日a 参拝者百万 明治神宮空前の人出
  8日A 「お天気に賑わう浅草の酉の市」
  9日A 東京劇場「富士に題す」連日満員御礼
  10日y 根岸競馬最終日 入場者二万人
  11日A 銀座の新露店街開店「発明品市場」
  19日A 「ふえる一方の競馬賭博」
  21日A 歌舞伎座仮名手本忠臣蔵」初日以来完全に売り切れ
  23日A 上野動物園「動物祭」

 明治神宮鎮座十年祭は、花電車が出て前夜からごった返した。三日は、未明から参拝者が訪れ「明治神宮空前の人出 参拝者百万」の勢い。市中は銀座や新宿を中心に活気を呈し、浅草なども素晴らしい人出で、各館とも早々と「大入御礼」の看板を出していた。祭三日間の人出は、市電乗車客が452万人、バス59万人、省電乗車客125万人であった。なお、新聞は、夕刊一面の大半を割く記事としている。
 お祭騒ぎの人出は、七日の浅草酉の市まで続いた。十四日に浜口首相が東京駅で狙撃されると、レジャームードは一転。不景気を反映するような記事、「ふえる一方の競馬賭博」などに市民の関心が移っった。荷風の九日の日記に、「市中一般餅菓子も一銭値下げせし由、自動車は是まで市内一円の定めなりしがこの春五十銭となり今は三十銭となる」とある。
 一日、浅草玉木座で清水金太郎・榎本健一淡谷のり子らが「プペ・ダンサント」を旗揚げする。翌月『西遊記』で大当たり。五日付aで、「際限なきエロ的所作の発散に 警視庁もあきれて」ということで「レビュー団に警告」が出された。その内容は、
一、舞踏、手踊等にして腰部を前後左右に振る運勣を主とするものは禁止すること
二、舞踏、手踊等にしてまた観客の方に向け継続的に露出するものは禁止すること
三、ズロース(猿又)はまた下二寸位のものを使用せしむるを、ズロースは肉色(桃色)を禁ず
四、背部は上体の半分以上を露出せしめざると
五、前身は乳房以下を露出せしめざると
六、肉じゅばんを着し服物と称し曲線部を表すものは腰部を必ず覆はしむると
七、照明にして着衣、服装を肉色に表すものは禁止す
八、日本服の踊は膝より上のズロースを用ふること
とある。
 劇場の入りが悪くなりそうになると、上演すれば必ず当たる『忠臣蔵』を出したが、どうも関係なさそうであった。翌月からの出し物も、入りはかなり良さそうである。
   
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昭和五年(1930年)十二月、上野帝室博物館再現⑯、銀座通りに「押し出た人波 すごい売行」
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12月12日A 東京劇場「松竹レビュー第二回公演」満員御礼
  21日A 銀座の発明露店「士族の商法大当たり」
  22日Y 歌舞伎座「荒木又右衛門」他大入御礼
  25日A スキー列車初運転
  26日A 「越年の頭痛も けし飛ぶ勢い」「出て来た客脚 浅草興行街」
  27日ki 銀座の大通りは賑わっていたが、商人達は一向に不景気

 「松竹レビュー第二回公演」の満員御礼の広告がある。警視庁が取締りを強化したことによって、レビューは逆に市民の関心を高めている。事実、「エロ・グロ・ナンセンス」が流行語になり、さらにエスカレートしていくことになる。
 不景気は、綺堂の日記にも度々でてきて、十九日に「多摩川園も今年は非常に不成績であった」、二十五日散歩に出て「靖国神社付近の大通りもあまり賑わっていない」、二十七日には「銀座の大通りは賑わっていたが、商人達は一向に不景気であると呟いていた」と記している。その一方で新聞Aは「三越談 二十五日の来客はザット十五万人です昨年に比し三割方多い、商品の売上高も一割位の増加」と。「予想が外れ高級品が飛ぶ如く」のように、金持ちの懐は持ち直し、増えてきたのではなかろうか。

 新聞は、「景気は街頭から?」と題して、「押し出た人波 すごい売行」、「夜間営業を延長」、「大物がどしどしはける」羽子板の景気、などと景気を煽るように見える。

涼を求める行楽が増えた五年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)203
涼を求める行楽が増えた五年夏
 小僧さんたちの労働環境が変化しているのか。浅草を始めとする街頭からやぶ入りを楽しむ小僧さんたちが減少しているらしい。七月十六日付の東京朝日新聞に「時代の歩みに押し消されて」とあり、「この頃の小僧さんは月に一、二度の休みが多いので、やぶ入の日に出歩くのは小僧臭く見えるから気取って外出しないものもおおいさうだ」との記事がある。
 では何処へ出かけたか、涼を求めてプールや海水浴へと向かった。この年の夏も暑く、大勢の人々が郊外へと繰り出した。東京府では、許可した水泳場以外では一切水泳を禁止し、違反者には過料が課せられることになっていた。しかし、勝手次第に泳ぐ人がいて、七月の溺死者は40人に上り、注意喚起した。
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昭和五年(1930年)七月、麻雀屋の新設禁止⑩、市内の細民4万1千世帯18万6千人Y(29)、街頭からやぶ入り風景が消えた
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7月2日Y 国技館富士登山大納涼開場
  11日A 神宮プール賑やかに開かれる
  11日A 警視庁、麻雀屋新設を禁止、市内937店
  12日ki 姉やおえいは麹町通りへ出て、盂蘭盆の供え物を買って来た
  14日y 「海へ山へ三十万」逗子の「海の家」は午前中に満員
  14日A 「プール大人気は神宮外苑」2時間20銭
  16日ki 表には、「お精霊様のお迎ひお迎ひ」の声がしきりに聞こえる
  16日a 「街頭から消えたやぶ入り風景」小僧さん達は郊外へ海へ、午前中に五十万人
  16日A 「浜町公園の盆おどり」
  21日A 「雨の川開き でも人出三十五万人」陸上二十万、大川十五万
  28日A 「暑熱を越えて」野球に汗
  27日A 芝浦埋立地で、失業者の宝探し大繁盛、5・6円のものが出ると
 
 月半ばから暑くなり、十三日の日曜は、房総方面に両国から3万人、京成電車は5万人などの乗客があり、「海や山の初混雑」A⑭となった。藪入りには「小僧さん達は 郊外へ海へ」と、「午前中に五十万人」が市内から出かけた。そのため、「さびしい藪入りの浅草」と街頭から藪入りの風景が消えてしまった。
 だんだん旧習が廃れるなか、綺堂は、草市が麹町の表通りに出ていたことを十二日に、十五日には「お精霊様のお迎いお迎い」との声がしきりに聞こえると日記に記している。また、浜町公園ではかなり盛大に盆おどりが行われた。
 二十日、綺堂の日記によると四時頃には雨がやんだが、六時半過ぎにはまた雨が降り始めた。そのような天気のなか行われた川開き、「人出三十五万人」もの人出があった。
 芝浦の埋立地に70余のバックネット、代々木原にも20余、「暑熱を越えて」野球に汗を流している様子が二十八日付の新聞に紹介されている。暑さを反映して、高島屋が「アッパッパ? 婦人用50銭より子供用30銭より」と、新聞広告Aを出した。

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昭和五年(1930年)八月、「露店時代」の出現、早くも八十七箇所Y(21)、水泳、野球、相撲と、不況や暑さに負けぬ市民
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8月4日A 「久し振りの快晴で押し出した人波 五、六十万人に上る」
  4日A 神宮プール、芝プールでは人が「黒くひしめき合って」
  8日A 「公園の野球 ついに禁止さる」野球時代の大痛事
  8日A 明治座「国産愛用」大笑会、連日満員御礼
  16日ki 平河天神の裏門外で素人相撲 近所の子供や若い者が集まって取り組む 見物人は群集してゐた
 18日y「今夏のレコード きょうの人出海へ山へ七十万人」、正午までに逗子鎌倉に東京から一万五千等

 三日は快晴、市内から海に出かけた人波「五、六十万に上る」。市内でも、神宮プールや芝プールをはじめとしてプールは大勢の人で混み合った。豊島園は、ウオーターシュート目当ての家族連れ3千人で賑わった。次の日曜も、湯河原にいた綺堂は、「町は相応に賑わっていた」書いているので、十日も海はかなりの人出があったものと思われる。十七日はこの夏最大の人出「七十万人」、市民のレジャー気運は不景気に負けていない。
 「公園の野球 ついに禁止さる」と、学生以外の若者にも野球が流行ってきたがそのため場所がない。公園はもってこいの場所であるが、広い面積を占拠し、他の利用者に危険である。そのため、日比谷公園では、十年前(大正十年)に野球が禁止された。それが、他の公園まで広がったことになる。当時の市民スポーツと言えば、素人相撲ぐらいしかなかった。素人相撲は、あちこちで行われていたようで、綺堂も七時ころ入浴してから知人と、平河天神の裏門外で素人相撲があるというので見に出かけた。自主的な行事なのか、近所の子供や若い者が集まって取組むもので、見物人は群集していた。
 小僧さんの休日が月に二日以下の時代、夕方から素人相撲が催され、またそれを見物する人々がいた。なんとのんびりした社会なのだろうか。市内に居住している人の大半(自区内就業率80%以上)は、通勤時間がほとんどなく、仕事が終われば、すぐ帰宅。汗だくで帰れば、銭湯に入り、夕食となる。その後の時間は、ラジオ放送とでも考えられるが、当時のラジオ視聴者は12万人(世帯とする)程、まだ全世帯の半分どころか3割にも満たない。下層であればあるほど暇となり、近隣での楽しみを求める。
 週休二日が当たり前の現代、休日は何倍増えたであろうか。夕方の楽しみも、帰宅にかかる時間を考慮すると、その気持ちのゆとりは昭和五年当時に優るであろうか。時代の違いと言ってしまえば、それまでのことであるが、同じようなゆとりを持つことができないのであろうか。昔が良くて、現代が悪いなどと決められるものではないが、当時の大衆の楽しみを理解する上で、是非とも熟考すべきであろう。

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昭和五年(1930年)九月、米価暴落⑩、東洋モスリン閉鎖でストライキ(26)、失業者を救う宝探しに臨時露店
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9月2日a 被服厰跡に震災記念堂落成式「朝来の参拝者幾十万」
  9日A 品川から大森にかけて、失業者が海老取り賑わい「海の幸」と喜ぶ
  11日A 東京劇場「怪異談牡丹燈籠」大好評連日満員御礼
  12日A 八重洲口から日本橋までの素人夜店、大持てで「夢ならさめるな」
  21日A 「絶好の秋空 水陸に勇む若人」全学生水上競技、六大学リーグ戦、競漕大会
  21日A 「来たり行楽の秋 近郊と一泊地案内」
  29日y 早立二回戦喪、観衆殺到し、入場券忽ち売切三万余
                                                
 この年は関東大震災からの復興祭が催され、一日に被服厰跡で震災記念堂落成式もあって、追悼に訪れる人は「朝来の参拝者幾十万」と市民の関心は高かった。
 品川から大森の海岸へかけて、海老取りの賑わいが紹介されている。七月にも、芝浦埋立地で失業者が5・6円もする宝物(震災時の遺物)を掘り起こしている記事があった。不景気の暗い記事が多いなか、「失業者を喜ばす『海の幸』」と。夢があることから「海老取り」の記事は、かなりとオーバーに書かれているような気もする。
 また、「夢ならさめるな 大持ての素人夜店」の記事も同様。八重洲口から日本橋までの通りに、フリーマーケットが許され、そこそこ繁盛しているらしい。さらに十一月にも、銀座に新しい露店街が開店し、発明夜店などと呼ばれ、おもしろそうなものが出品され人気を博した。市民の自主的な活動が制約されるなか、不景気を乗り越えようとする市民の行動は、切羽詰まっていてもどことなく楽しさを感じさせる。

遊びにも不景気浸透か五年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)202
遊びにも不景気浸透か五年春
 東京市統計書にスポーツ関連の資料がある。昭和五年の「スポーツ観衆人員職業別」を見ると、当時の動向が数値でわかる。陸上競技(日独対抗)の観衆は8,639人、最も多いのもは学生で44%、次いで銀行会社員19%である。ラクビー蹴玉(京大対明大)の観衆は4,577人、最も多いのは学生で51%、次いで銀行会社員15%である。大相撲春場所の観衆は7,515人、最も多いのは商人で25%、次いで学生で15%、銀行会社員13%である。これらが一般的な傾向と断言できないものの、大きく異なるものではないだろう。
 これらの数値から想定すると、新聞に取り上げられているスポーツ関連の記事表現とかなりの差異を感じる。スポーツが盛況になっていることは確かであろうが、職工労働者や店員などへの浸透は控えめに判断しなければならないだろう。なお、この職業分類に、軍人の項目があるものの、その割合は低い。
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昭和五年(1930年)四月、ロンドン条約締結⑳、市電ストライキ⑳、復興祭を上回る花見の人出
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4月7日A 「きのうの花見 人出二百五十万」
  7日ki 新宿の電車終点まで散歩。ここらは夜店が出て非常に賑わっていた
  9日A 花祭行列、浅草公園から賑わう日比谷へ
  12日a 神宮外苑の体育運動大会に「花と入り乱れた 三万の女子 春のスポーツを飾る」
  12日a 演劇・映画「暗い世相と反対に 独占的の繁昌振り」
  14日A 六大学野球「春のリーグ戦 きのう序幕」満員で入場できない人夥し
  20日y 今春人出の新記録「押し出した二百万」
  20日A 絶好の運動日和に陸上庭球水泳の人気素晴らしく、野球は満員の盛況
  21日A 「市電一万の従業員 整然たる総罷業」
  28日Y 上野の名宝展、雪舟デー入場者一万五千人」
                                                
 四月に入って花冷え、神武天皇祭の日は雨。市民も一息ついたのか六日の日曜には「人出二百五十万」と、ドッと外に出た。上野駅の乗降客は30万人、新宿駅が22万人など、復興祭を凌ぐ人出となった。ことに、「上野の山は五十万」人、飛鳥山は「三十五万人(迷子129人)」の人出は過大と思われるが、動物園の入場者3万7千人、海と空の博覧会に4万人、豊島園2万人など、行楽の人出はこの年の最高となった。その翌日も人出があり、綺堂は、新宿の夜店が非常に賑わっていたと日記に書いている。
 十二日の東京朝日新聞に、長谷川如是閑(大正デモクラシー期の代表的論客)は、演劇・映画「暗い世相と反対に 独占的の繁昌振り」に「不思議ではない理由」を次にように述べている。
「暗い世相に反比例して劇場が異常な繁盛繁昌ぶりをみせてゐるのは決して不思議でない、今日の如き社会状態は一種の過渡期であって、この過渡期において民衆は過去の手工業時代の娯楽を失ひつゝある、場所とか根気とか長い時問を必要とする娯楽たとへば謡曲とかびわとかさうしたものの次第に隔絶して自ら大衆的な娯楽に走る結果となる、自然劇場が非常な勢ひをもって人々を集めてくるのだ、近頃の劇場狂景気時代の根源は大きくいへばそこにあると思ふ、それと同時に近年の失業地獄が劇場を賑かにしてゐることをいはなくてはならない、最近家には一人や二人の失業者を抱へてゐない家はないといっていゝ、然るに我國の社会状態はいまだに家族制度を保有してゐる、だから失業者は親とか兄弟とか親類といふやうなものから多少に拘らす補助を受けてゐる、早くいへば小遣銭がある、いくら就職運動に忙がしいといったところが、やはり暇があって身をもてあし、気分がいらいらして家にに落ついてゐることもできないからまづ活動でも見よう、といふことになるのだらう、この点家族制度の無い欧米諸国では失業即ちあすの寝床にも困る、いふわけだから、同じ失業でもその深酷さが違ふ、先年日露戦當時の好況に続く不景気から非常に失業者が殖えた、その際は書物が非常に売れたさうだ、失業状態が今日ほどではなかったので家にこもって本でも読んでゐればその中にはどうにかなっていったものらしい、要するに家族制度といふ崩れかゝった支柱が僅かに極端なる失業地獄の現出を食いとめてゐる、その結果が劇場の狂景気となって現れたのであると私は説明する」とある。
 春の人出は続き、映画館だけでなく、六大学野球「春のリーグ戦」も満員で入場できないほどであった。二十日は、市電のストライキにもかかわらず、市内は賑わいを失わず、「絶好の運動日和に陸上庭球水泳の人気素晴らしく、野球は満員の盛況」であった。
 永井荷風の二十八日の日記に「四時頃となれば毎日のように紙芝居というもの門外の小径に来り拍子木鳴して近隣の子供をあつめて飴を売る」と。自転車の上に大きな菓子箱を乗せ、それを「芝居の舞台のように見せ」「人物立木など描きし」紙を使って「台詞を述るなり」。前年あたりから来るようになったと書いている。この頃、最初の平絵式紙芝居が作成され、年末には『黄金バット』が登場し、大人気となる

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昭和五年(1930年)五月、映画演劇の客は減ったが、スポーツ観戦は盛況
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5月2日a メーデーの大示威 一万五千の労働者
  14日a 「人気遂に沸騰した きょうの慶明決勝戦 十一時早くもすし詰めの入場者」
  15日Y 上野の名宝展、美術館最高記録の入場者
  16日a 相撲夏場所初日、朝から満員の民衆デー
  18日a 早慶戦火ぶたを切る、ギッシリ満員の神宮球場
  19日T 日本橋街頭でボール投げの百二十人引致
  23日A 「驚くべき鉄道の減収、昨年に較べて一日十一万円減、生々しい不況反映」
  25日A 極東選手権大会開催
  25日A 大相撲十日目、朝来大入り
  27日A 極東選手権大会二日目、日華野球試合はスタンド満員の盛況
  28日a 大海戦二十五周年、陸上軍艦などが昭和通り行進
  29日A 極東選手権大会五日目、神宮プールは開会前に 一万人のスタンド満員
  31日A 神田日活等「嘘から嘘」他満員御礼

 四月までは市民の行楽気運は高く出歩いていたが、五月は映画の入りも捗々しくない。活気のあるのは、新聞紙上を賑わす学生野球などのスポーツくらい。スポーツへの市民の関心が高まった理由は、入場料金が安いことにありそうだ。二十五日からの極東選手権大会は、六日間にわたって行われ、野球試合や神宮プールは満員になるなどの盛況。大会の総観客数は「五十万人」で、12万円の収入があった。これから一人当たりの入場料を単純に計算すると24銭、大相撲初日の民衆デーより安い。
 「驚くべき鉄道の減収、昨年に較べて一日十一万円減、生々しい不況反映」と、市内で過ごす人が多く、郊外へ出かける人が減少した。大相撲夏場所では初日の民衆デーを楽しむように、市民はなるべくお金を使わないように遊んでいる。

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昭和五年(1930年)六月、若槻全権入京に東京駅周辺歓迎の人々群衆⑱、「すごい野球狂時代」の到来
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6月1日A 極東選手権大会終わる、観衆五十万人、入場料十二万円
  7日A 「空き地という空き地へ 真夜中から争奪戦」すごい野球狂時代
  13日ka 山王の祭礼にてあたり賑なり
  15日ki 若い衆や子供が神輿をかつぎ廻っていた
  16日A 「山王さまのお祭り始まる」
  18日ki 麹町五丁目の稲荷の縁日で賑わっていた
  26日A 帝国劇場「曽我廼家五郎」日延べ、連日引続き売切れの大好評
                                                
 これまで野球は見るだけの人が圧倒的に多かったが、学生以外にも行う人が出てきた。ただ、市内に野球のできる場所が少ないこともあって、先月、日本橋の路上でキャッチボールをしていた店員が120名も引致され、内80人に2円もの罰金が課せられた。そのためか、場所探しが大変で、空き地を求めて、真夜中から激しい争奪戦が繰りひろげた。なお、野球とは言っても、「印半纏の連中がコンクリートの上でキャッチボール」という野球のまねごと、草野球であることは言うまでもない。
 「山王さまのお祭り始まる」。綺堂は、十八日、麹町五丁目の稲荷で草花一鉢を買い、賑わっていた由。十九日も往来がいつもより賑わっていたのを、四谷を散歩しながら見ている。
不景気は興行にも及んできたらしく「盆興行には各座とも値下げ」Y(24)、これは大正六年 以来のこと。「吹きすさぶ不況の大嵐」Y(25)との見出し、牛乳屋さんの廃業が日に5・6軒、牛肉も売れずなど、連日のように不景気の記事がある。