新聞のレジャーへの対応が変り始める六年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)206
新聞のレジャーへの対応が変り始める六年春
 四月十三日の東京朝日新聞は、「風は風、花は花 この大人出 きのふがヤマの花見日曜日 相変わらぬ目茶騒ぎ」から始まり、「花より喧嘩」、「花見ぢやねエ 公徳運動だい」と続く。花見を牽制するような書き方、「アルコールにみち/\て ベロ/\醜態続出」、「本社の挙にルンペン活躍」との小見出し。行き過ぎた市民の騒ぎを是正しようとするものだが、はたしてそれだけであろうか。建前としては正論であるが、どうも、どこかの目を見ながら忖度しているようだ。その極みは、「本社の清掃体のルンペンがせつせと高ほうきで花見客の散らした紙片を掃いてゐる」とある。その一方で、かつては無礼講の許された花見は禁止され、花見に託つけたデモが検挙されている。記事を書く姿勢、論調を大正七年の新聞と比べたい。
https://b4ea36g1.hatenablog.com/entry/2021/02/15/103837?_ga=2.238897027.228896991.1656019692-643317677.1567037511
 大正七年四月「飛鳥山は恐ろしい人気・・・まるで変装博覧会」八日付讀賣
 新聞は恒例のサクラ便り、七日の飛鳥山はまだ五六分の開花、春雨が降りだすという天気でも花見に押し寄せる人あまた。花見酒に酔って、変装してしまえば治外法権の世界、高歌乱舞にケンカ、まるで変装博覧会のようであったと。翌日は、朝の内は晴天で絶好の花見日和であったが午後に入り花曇り、サクラもちょうど見頃で、上野はその年一番の騒がしさであった。なかでも、博物館の前では、ある会社がきれいに着飾った雛妓に縄跳びをさせていて、その周辺は子犬も通れないほどの混雑だったという。
 また、十四日の飛鳥山は、春雨続きのためサクラは色あせたが、思い思いの仮装を凝らした男女が電車を下りた時から、酔ったような様相で次から次へと山に流れて行った。山はそれまでの花見客による狼藉で戦場跡のような無残な光景を残しているが、その上でまた箍を外した花宴が開かれた。荒川の花見は次の日曜。小台の渡しでは船頭が向こう(東側)に渡ろうとする人々を「押すな」と制止、土手には大勢の人々。千鳥足の大名、雲助、按摩、狐の嫁入りの輿をコンチキチと担いで行ききする仮装のグループなど多種多様だった。

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昭和六年(1931年)四月、NHK東京放送開始⑥、浜口内閣総辞職⑬、花見は「相変わらぬ目茶騒ぎ」
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4月2日A 新宿駅、電化開通で朝からお祭騒ぎ
  5日A 浅草富士館、神田日活館の実演と映画「英雄時代」連日満員御礼
  9日Y シャム国皇帝皇后奉迎の花祭り日比谷公園に市民七万が集う
  12日a 武蔵野館「ケエラルフ・ハルピスツ」連日満員御礼
  13日A 飛鳥山も上野も最高の人出
  20日Y 今春人出の新記録「押し出した二百万」
  22日A 「花自動車大行進」日比谷から街頭へ 自動車92台 花車62台 1157人
  30日a 天長節催物中の呼び物、第二回広告祭大行進、花火と共に街頭へ

 四月に入り、行楽への人出は、日に日に追って増え、花見は十二日が最高。飛鳥山は、「朝っぱらからアルコール分を多分に発散させながらドンドン省線王子駅や市電で繰りこんでくる」。十二時頃には、もう山は一歩も踏みこめないという素晴らしい人出。十銭の莚は飛ぶように売れ、「酔いの回るに従ってかき鳴らす三味線の音や安来節で山は忽ち狂そう乱舞の舞台と化してべろべろに酔った大石蔵之助や赤垣源蔵が彼処ここのむしろの陣屋へ喧嘩の他流試合に出かける。山は文字通り酒と喧嘩で一日持ちきってしまった」。 
 花見は市内にとどまらず、郊外の千葉県の三里塚宮内省下総牧場にも「五万余人」、未曽有の賑わいと泥酔者が多かった。なお、喧嘩が十数件も発生し、「東京某省の雇」他と府下南葛飾郡砂町荷揚人夫」他との争い、東京から多くの市民が出かけていたことがわかる。また、江戸川堤では。花見を託つけたデモをして130人検挙された。
 さらに十九日は、午前中に新宿駅から19万人、東京駅12万、上野駅25万など、行楽地に向かった。二十二日、日比谷公園から花自動車大行進。また、二十九日も天長節の催物中の呼び物として、第二回広告祭の大行進が催された。行進は、花火と共に街頭へ向い、自動車92台と荷車62台などに1,157人、先頭から後尾まで約一里も続いた。

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昭和六年(1931年)五月、河原崎長十郎前進座結成(22)、話題は野球とハンガーストライキの煙突男
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5月2日A 物々しい警戒裏のメーデー、検挙六百余名
  3日a 電気館・武蔵野館・邦楽館「ランゴ」「ハルピスツ」連日満員御礼
  4日ka 水天宮社殿造営祝賀の祭礼にて芸者手古舞の催あり、雑遝甚し
  11日A 新装した神宮野球場で六大学リーグ戦開幕、七万人の大観衆
  15日a 大相撲夏場所、大衆デーの宣伝も効果なく、客足さびしい初日
  17日a 電気館等「嘆きの天使」満員御礼
  18日A 市電二十周年祝賀花火大会、月島に四万の観衆
  19日A 明大の応援団 大挙して大暴行
  22日A 帝都館・神田日活等「荒木又右衛門」続映
  25日Y 日比谷新音楽堂で家庭娯楽会に八千人
  25日A 大相撲夏場所千秋楽、三四階席は鈴なりの満員

 メーデーは、不景気を反映して「五万人」の大規模なデモと予想した。が、「物々しい警戒裏に メーデー大行進 一万五千の会衆に五千の警官」であった。これまで新聞は、どちらかといえば労働者側に立っていたが、この年から、「未曾有の大検束 八百五十名に上る」「象潟署長負傷す 石でなぐり付けられて」「松阪屋へ殺到 ガラス戸を破壊す」と書きはじめた。新聞は明らかに忖度をしている。
 十日、装いを新たにした神宮野球場(6万5千人収容)で、「七万の大観衆」を迎えて六大学リーグ戦が開幕。野球、特に六大学リーグは人気を増し、入場券を手に入れることが難しくなった。その影響で十四日からの大相撲夏場所は、50銭という格安料金の大衆デーの宣伝の効果もなく、「客足さびしい初日」。また、劇場や映画館の入りが悪くなったのも、不況に加えて「スポーツの民衆化」が大きく影響している。特に、「歓楽街の不況」A⑮で「浅草沈衰の悩み」と、浅草公園の「三十館何れも欠損続き」になっている。
 十五日から「市電の二十周年祝賀会」、月島での花火大会は「四万」の観衆を集めた。十八日の慶明戦二回戦でボークの判定を巡って一時試合中止、終了後負けた明大の応援団達が暴動。慶應の学生をはじめ負傷者が十数人に及び、明大は以後の試合を遠慮するよう勧告された。

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昭和六年(1931年)六月、日比谷公会堂を一般興行場に⑰、梅雨空を吹き払うような熱気の早慶戦人気
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6月2日A 玉川電車初電に一千人乗車「太公望連繰出して ほくほくものの郊外電車」
  14日A 第一回早慶戦に観衆五万人、売れたのは応援歌の扇子と弁当に冷しコーヒー
  19日T 「減俸の暗い影」遊覧客の激減の私鉄
  21日A 「笑いの中に涙 落語家も減俸 木戸銭引下げから」
  22日Y 上野美術館で「女性美展」
  24日A 日比谷公会堂で東洋拳闘選手権大会 場内あふれる盛況
  26日A 新歌舞伎座「暴風雨の薔薇」満員御礼堂々日延べ
  29日T 「夏!シーズンの第一日曜」海水浴場の出願は前年の半分

 六月に入ると、「太公望連繰出して」、小田急では終電車から1千人、玉川電車の初電に1千人、等々と鮎釣りの記事。また、休日に向けた「釣り便り」や電鉄の案内も、菖蒲園や遊園地などと共に多くなった。
 梅雨に入り、停滞しがちの市民レジャーを活気づけたのは、十三日からの早慶戦神宮球場、第一回戦の観衆は「五万」人、そのうち早大応援団が「一万二千人」を占める。第二回戦には徹夜で待つファンに四谷署が悲鳴をあげていた。球場で最も売れたものは、応援歌の書かれた20銭の扇子、それに弁当に冷しコーヒーとソーダー水であった。
 「首の廻らぬ浅草興行界」と、不況に取締りも厳しいらしい。寄席の木戸銭は、震災後の物価と共に上がり、映画の入場料が20~30銭なのに対し、「安いので五十銭、一寸幹部級を二三枚加えると六十銭、七十銭となり小物料をいれると一円」となる。不景気は興行界に深く浸透しているのに、寄席は「時代錯誤」で「木戸銭引下げから」と「笑いの中に涙 落語家も減俸」、七月から二割減俸となる。